第4話
やると決めたからには、とりあえずやらなければならない。次の日、水下愛は約束した時間に遅刻することもなく、会社の無重力訓練室にやってきた。
長い髪をポニーテールにまとめた水下愛は幼く見えた。こんな子どもが本当に宇宙でダンスをするのだろうかと不安になる。けれど約束したことなので、私は無重力のスイッチを入れる前に彼女に確認した。
「船外活動免許があるってことは、無重力には慣れてるんでしょ?」
「ええ、まあ」
左右の両手両足に小型推進装置を付けた水下愛は、歯切れ悪く頷いた。
ドーム状の訓練室はボタンひとつで重力をコントロールできる。広さは日本の中学校の体育館ほどで、天井も広さと同じくらい高い。無重力でも天井まで行って帰ってくるのは骨が折れる。
「じゃ、まずはお手並み拝見させてもらうね」
無重力のスイッチを入れれば、途端に身体が浮き始める。スイッチの横にあった手摺に掴まりながら、水下愛を振り返った。彼女は浮かんでいく身体のバランスを取ろうとして、手足をバタバタさせていた。
「わっ、わっ」
「それじゃあ、とりあえず室内を軽く二周して」
「わかっ、わかりました」
水下愛は、右腕を前に出して、力強く掌を握る。彼女の腕から推進剤が噴射され、動き出した――上下にくるくると。
「うわわわ!」
面白いくらいに回り続ける彼女は慌てたのか、体勢を立て直そうとさらに推進剤を噴射しているが、返って回転の勢いは増していくばかりだ。あまりの大回転ぶりに見てるこっちが酔いそうだ。
「あああああ、ちょ、っと、止まって……!」
「…………」
これは酷い。呆れて顔を抑えた。社長、運動神経がいいって言ってたのに全くの嘘じゃないか。
しばらく見ていようかと思ったが、結局推進剤の無駄撃ちをやめさせるために跳んだ。彼女の真下について回転の軌道を確認する。
彼女の足が私の上に来た瞬間に、それをガシッと掴み、勢いに持って行かれないよう、私も推進剤を噴射した。そのまま壁際の手摺に連れて行ってやる。
ようやく止まって安心したのか、彼女は肩で息をしている。
「船外活動免許、あるんじゃなかったの」
「Dライセンスは船外とはいえ、船上での活動だったので……それに、スペースダンスの大会に出るのはDライセンスで充分でしたし」
つまり、常に足場のある所に立っていたわけか。スペースダンスはそうはいかない。漂いながら自分の身体を使って表現するのだ。
「無重力に慣れてるって言ってたよね」
「宇宙酔いはしません」
「ただでさえ時間がないのに、ここまで素人とは思わなかった。推進装置は初めて使うの?」
「はぁ」
言いにくそうに頷いた水下愛。これで三ヶ月後に大会に出ようと言うのだから、驚きだった。本当になんでそんなことしようと思い立ったのか。
それでも気を取り直して、私は自分の腕の小型推進装置を見せた。
「いい? 推進剤を噴射する時、身体の重心を射抜いていないの。だから変なところに力がかかって回るんだよ」
もちろんわざと重心をずらす技もあるけれど、基本は自分の真ん中を意識しないといけない。
「重心……」
「何かスポーツはやってた?」
答えるまでに数秒の間があった。それでも彼女は頷いた。
「ええ、はい」
「なら自分の重心を見つけるくらい簡単だと思うよ。重心を見つけて、推進剤を噴射する。真っ直ぐに進むように。ほら、行って」
簡単に説明してやり、水下愛の背中を押して、前に出した。スーッと真っ直ぐ進んだかと思うと、すぐにグッと彼女の右手が握られ、力強く推進剤が装置から吐き出される。
「……強く握りすぎ」
握力の感圧センサーで推進剤の噴射量が決まるというのに、彼女ときたら全くそんなことわかっていないようだった。強力な噴射により、またくるくる回り出した彼女を見て、私はさっそくこの生徒を投げ出したくなっていた。
***
まるで破壊したいかのように、勢い良く壁にタックルしようとした水下愛の身体を受け止める。これで何度目なんだろうか。宇宙酔いしないだけマシなんだろうが、これだけグルグル回り続けて、逆によく酔わないなと呆れながらも感心してしまう。
訓練は三日目に入っていたが、水下愛はまだ回り続けていた。まともに前へ進むこともできず、ダンスの練習どころじゃない。
「なんでこんなに難しいの」
悔しげに呟かれた言葉。明らかに焦っているのを感じ、私は練習方法を変えたほうがいいかもしれないと思い始めていた。彼女がうまくいかない原因はいくつかあるが、根本的に無重力の中、自分でなんとかしようと力んでいるせいだろう。
「あのさ、スポーツやってたって言ったよね。なにやってたの?」
水下愛は返事を渋っているように唇をすぼめた。私が根気よく待っていると、ぽそりと言った。
「水泳です」
「ああ、なるほど。だからだね。あのさ、浮いているとき、あなた手足でバランス取ろうとしているでしょ」
「……?」
言っている意味が理解できないのか、首を傾げながら彼女は自分の両手を見つめている。
私も両手を動かしながら、説明を続けた。
「宇宙って、水の中で泳ぐのと似ているように見えるかもしれないけど、全然違うから。宇宙ではなにもしなくてもいいの。体の重心だけを意識して、後は身を任せるだけ」
宇宙飛行士という職業があった頃は、水中で訓練していたと聞いたことがある。まだ人が宇宙に飛び立つために何年もの準備が必要だった頃の話で、私はその話を学校の座学で眠りながら聞いていた。
おかげで記憶は曖昧だけど、たとえ水深二十メートルほど潜ったところで、はたして訓練になったのだろうかと不思議に思う。水の中の安心感を、昔の人達はわからなかったのだろうか。宇宙での、あの無力さを、恐怖を、宇宙飛行士達は誰も伝えなかったのだろうか。
水はあんなにも包み込んでくれるのに、宇宙はひたすらに放り出す。
だからこそ、下手に力を入れてしまえば重心を見失って、くるくる回る羽目になるのだ。
「身を任せる……」
水下愛が私の言葉を復唱する。
「宇宙に逆らったって、人間はなにもできないんだから、自分の重心だけ意識すればいいんだよ」
「なるほど」
水下愛は素直に頷いて、再び無重力の空間へと向かう。今度は頼りなげだが、それでも真っ直ぐに進んでいき、柔らかく右手を握って、推進剤が発射された。そのままうまく後ろに進んだかと思ったが、どこかで力んだのか、すぐにバランスが崩れた。それを迎えに行きながら、先ほどより幾分マシになったと感心する。あんな抽象的な説明を聞いて、なんとなく理解してしまったらしい。
もはや本日何度目か。手摺に彼女を連れて行き、その顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
回転するのに慣れてきたのか、思ったより元気な声が聞こえてきた。とはいえ、もう一時間もやっているのでここいらで休憩したほうが良さそうだ。
「休憩しよっか。少しはマシになったし」
「いえ、まだやれます」
「体調管理も必要なんだけど」
「でも、そんな時間ないんです」
確かに、ここまで時間をロスするとは思わなかった。基礎練以前の問題だし、本当に大会に出るのならここで手間取っているのは痛い。
けれどダメならやめればいいのだ。間に合わなければ次の大会にすればいい。もっと気楽に考えていいはずなのに、なんでそんなに切羽詰まっているのか。
それに彼女はどこまで本気なんだろう。そして私はどこまで本気で彼女に教えようとしているのだろう。
「もう一回行きます」
「そんなに必死になんなくていいと思うんだけど。というか、言いにくいんだけどさ、水下さん、才能ないと思う」
手摺から離れようとした水下愛に、私は声をかける。彼女を止めるための言葉だったのか、自分が確認するための言葉だったのかは分からない。
「だったら、なんです」
手摺から離れる寸前だった彼女は振り向いた。睨まれているが気にしない。だって、推進装置の扱い方はなってない、バランスもいまだに取れない。いくらなんでも一日三時間、三日かけてこのザマであれば明らかに才能がない。
「いや、だからさ、もう諦めて」
「イヤです」
「………」
即答されて、黙りこむ。
「簡単にやめませんよ。才能がなければ頑張ればいいんです。才能がないからって最初からやめちゃったら、自分が本当にできるかどうか、わからないじゃないですか。秋月さんにはお遊びに見えるかもしれませんけど。私は真剣なんです」
その言葉に思わずムッとした。まるで私が真剣にやっていないみたいじゃないか。
「真剣かどうかなんて関係ない。宇宙に出ることは命懸けなんだよ。だいたい、女子高生ならもっと楽しめるものがたくさんあるんじゃないの。なんでもできるでしょ。それをなんでスペースダンスなんか選ぶのかなあ。見るだけで満足しとけばいいのに」
水下愛の拳が握られたのがわかった。その瞳に激しい怒りが燃えていて、ちょっとびっくりする。水下愛は怒鳴ることはせず、唸るように言った。
「なら、秋月さんはどうしてやってるんですか。どうしてずっとダンスをやってるんですか?」
「私は――」
言葉に詰まって、唇を舐めた。どうして? 子どもの頃に見たスペースダンスがあんまりかっこよかったから。月子も私も夢中だった。大学を卒業して、月子と一緒にムーンベースへ移住してきた。それから、私と月子は大会に出て、優勝して、たくさん優勝して、でもある日月子はいなくなってしまった。
自問自答が頭の中を駆け巡った。どうして私は続けている? 独りになっても、どうして宇宙で生きていこうとする?
「私には……これしか、なかったから」
嘘じゃない。でも多分、本当でもない。曖昧な言葉だ。始めたのは憧れから。けれど続けているのは――独りになって、他のことをしようにも、なにもなかった。なかったんだ。
ただ、月子の見ていた景色を見ようとする以外、なにをしたらいいのかわからなかった。
水下愛は唇を噛んでいた。
「そんなの、ズルいじゃないですか」
「え?」
小声だったので、思わず聞き返したが、彼女は確かにズルいと言った。一体何がズルいのだろうか。
「これしかないなんて、ズルいじゃないですか。私はじゃあ、どうすればいいんですか」
その言葉にハッとした。いい大人が一体何をやっているのだろうか。恥ずかしくなって俯いた。まるで見せびらかしじゃないか。
「私、秋月さんの演技を見ました。すごかった、あんな繊細な表現ができるなんて。それに、月子さんとのデュエットも――」
「やめて」
久しぶりに他人から聞いた妹の名前に動揺して、私は十歳以上も年下の子を睨みつけた。怯えた表情を見せられて、さらに苛つきが悪化する。もう戻らないことを言われても、どうしようもなかった。
気分が悪い。謝らなくてはと思うのに気持ちが止められなかった。
「……明日までに、ここ二周できなかったら、もうやめよう」
「そんな、ちょっと待って下さい!」
「才能がなくても頑張るんでしょう?」
吐き捨てるように言って、訓練室から出て行く。水下愛は追いかけてこなかった。
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