死の闇

 そのまま二人は小高い丘のゆるやかな斜面を上る。すぐに崩れる砂のせいで、足を取られて苦労したが、彼女は何とか上りきった。

 丘の上には黒いローブを着た者が立っていた。


「ケルボルク、新しい漂着物を連れてきました」

「ああ」


 それまで二人に背を向けて、丘の向こうを見下ろしていた人物は、ゆっくりと振り返る。

 彼女は思わず息を止めた。黒いフードの下は人の顔ではなく、鋭い牙を持つタコのような顔だった。

 ケルボルクは彼女に目を向けて言う。


「ようこそ、我々の世界へ。さっそくで申し訳ないが、あなたにはこの穴に落ちてもらいたい」


 そう言われて、彼女は初めて丘の下に目を向けた。すり鉢状の砂の斜面の底には、巨大な生物の口を思わせる、真っ黒な穴がある。


「えっ」


 彼女は当惑のあまり、言葉を失った。

 続けてイスセンスダが穏やかな口調で説明をはじめる。


「この世界は不完全なのです。あなたの元いた世界のように、物理が美しく整っていません。この世界を完全な形に変えるために、あなたの命と知識を世界の礎とさせてください」

「そんな」


 彼女は何と言ったら良いか分からなかった。ただイスセンスダに裏切られたという気持だった。味方だと言われたことは一度もなかったが、紳士的な態度から信頼できる人物だと勝手に思っていた。


「あなたは他の世界から、この世界に流れ着いたのでしょう? そしてこの世界のありさまに、大きな違和感を抱いたはずです。その差異をあなたの存在を以って、埋めさせてください。あなたの持つ知識が、この世界を支える新たな法則となるのです。あなたは謂わば『神』になるのですよ」

「そんな急に――」


 どうにか話を逸らそうと、彼女は必死に知恵を働かせる。


「再生炉は……」

「この穴こそが再生炉です。不完全な我々に、死をもたらしてくれるもの。有を無に還して、新たな形に変えるもの。恐れることはありません。あなたもまた違う存在に生まれ変わる」


 どうやら何を言っても聞き入れてはくれないようで、彼女は深いため息をつく。

 もう彼女は話を聞いてもらうことを諦めていた。記憶がないことは幸いである。今の彼女は空っぽなのだから、何も失うものがない。故に我を通そうとすること自体が無意味なのだ。

 彼女は開き直っていた。


「見よ、漂着物」


 ケルボルクは地平を指しつつ、彼女に向けて言った。

 遥か遠くにかすんで見える地平から、黒い闇が迫ってくる。


「あれがこの世界の太陽だ。黒い闇をまとい、夜をもたらす。あれもまた漂着物が創造したもの」

「どういうことなの……」

「私はこの世界で最古の貴種、始まりを知る者、ケルボルク。原初、この世界には何もなかった。天地もなく、ただ広大な場所だった。私は今の姿ではなく、ただ一粒の小さな泡に過ぎなかった。だが、ある時に何の前触れもなく、この世界に天地が誕生した。天と地が分かれた後に、海も生まれた。それが漂着物によってもたらされたものだと知ったのは、しばらく後のことだった」


 黒い球体が空に現れて、白い部分を侵食していく。

 その様子を彼女はケルボルクの話を聞きながら、茫然と見つめていた。


「これでもこの世界は、かつて比べれば、大いに豊かになったのだ。しかし、あなたの世界に比べれば、まだまだ貧しい世界なのだろう。あわれに思うならば、恵みを与えてほしい」


 それは真剣な訴えだった。

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