第2話 諦めの日々は終わる

 今日も一日が始まってしまった。

 一瞬で過ぎてしまった7時間の睡眠時間を怨めしく思いながら俺は目を覚ました。

 職場に行きたくない思いを存分に抱えつつも、仕方ない仕方ないと自分に言い聞かせ歯を磨き顔を洗い、車に乗る。夕飯を食べてから半日は経っているはずなのに不可思議な満腹感があるので朝は食べない。エンジンを掛け、少しでも気分を上げるため朗読音声を流す。

 物語が好きだ。自分の利益のことしか考えない現実の愚か者たちではない、大切に思う人や社会正義のために自身の全てを向けて進んでいく主人公たちの真っ直ぐな生き様が好きだ。

 綺麗な生き様ではない俺でも、綺麗な生き様が当たり前な世の中であれば、自分を好きになれる生き方ができると憧れていた。

 なんとなくのこの世の中が嫌いだ。なんとなくいいことをするのはまだいい。だけどなんとなく悪いことをするのだけはダメだ。気持ちが悪い。自分だけに都合のいいことのためになんとなく悪いことをして、なんとなく他人に迷惑をかけて、なんとなくのためにそのことにすら思い至らない。そんななんとなくな人間が嫌でも目につくこの世界が大嫌いだ。

 1時間弱の職場への道が刻一刻と短くなっていくとともに気分は落ちていく。その気分を心で直に感じないように、この弱い心を自分の中心から遠くへ遠くへと押しやっていく。

 そうこうしながら、いつもと同じように賃貸の駐車場に車を入れる。

 車を降りて気分的に重い足を、他人からはそうとは見えないように意識して前へ前へ進める。職場への30m程の道行を歩き、自分のデスクに最も近い3階の入り口から入るべく、屋外庭園へ続く階段を登る。階段の手前の滑り止めブロックは、剥がれやすいのかいつも少なくとも一枚は周りとは異なる水気のあるモルタルで貼り付けられ、補修されていた。そんな些細なことを目ざとく見つけ、気にしている自分の神経質さ加減が嫌だった。

 庭園への道は一辺1m程の分厚く重そうなコンクリートで造られている。その端が微かにひび割れていることを見るたびに、中学生が校内にテロリストが侵入してくることを妄想するように、今この足が踏み締めている足場が崩れていく由無しごとを妄想してしまう。

 そんな妄想から2週間前にはコンクリートの破損に関する論文を調べ、知ったところで意味のない恐怖にラベルをつけて、飼い慣らした気になっている。

 尤も妄想の中の自分は、その突発的な事態にも冷静に対処し、崩れるよりも先に、安全圏まで走り抜けていくスーパーマンになっているが。

 だけど、その妄想が現実となった今この時は、耳障りで破滅的な音がビシリビシリと足の下で鳴り響き、同時に加速度的に崩れていく足場に、全く優雅ではないたたらを踏みながらただただ呆然とするだけで、スーパーマンどころか運動自慢にもなれないような有様で、階段で登ってきた高さを浮遊感を伴いながら落ちていった。


 ……何時間気絶していたのだろう。気絶なんて中学生時代にチョークスリーパーを我慢し続けた時と最近旅行先でアルコールを摂取した後に風呂に入り、出た瞬間に倒れた時以来だ。

 体は痛くはない。腕は動くし、足は……腿が瓦礫に挟まれていて抜け出すことはできないが痛みはないので問題ないんじゃないかと思う。

 耳に意識を集中すると、周りにいくつかの呻き声が聞こえる。同じように出勤途中だった他の職員だろうと予想する。万が一にでも市民が巻き添えになっていたら大問題になるな、と頭の隅で泡のようにすぐ弾けてなくなる考えが浮かぶ。

 胸ポケットのスマホは幸運なことに、落下した衝撃でポケットから落ちることもなく、また破損することもなく正常に動いていた。近頃はスマホも高価で、このスマホも壊れて交換するまであと3年程度は持ち堪えてくれることを期待していたので、こんな状況ながらも少し安堵していた。

 ジタバタすらできないのではどうしようもないので、そのスマホでまとめ掲示板を暇つぶしに見ていたら、約1時間ほど経ってようやく救急車のサイレンの音がドップラー効果を伴いながら近づいてきているようだった。

 慌しげに響く複数人の足音に呼応したのか、事故当初は騒がしかったが、時間とともに疲れたのか静かになっていた一緒に埋もれた人々の声が、にわかにざわつき始め、急に十分な酸素を与えられた燻っていた炎のように、悲鳴や助けを求める声が爆発していた。

 俺も足音が近づいてきたときには大声をあげようと思っていたが、……いやまさにあげる瞬間ではあったが、周りに機先を制されて何だろう……萎えてしまってた。恥ずかしさと言い換えてもいいかもしれない。周りのあまりにも情けない悲鳴や自分勝手な怒りの声に愚かしさを感じ、それに乗ずる自分を想像して羞恥を覚えていた。なのでまぁ、この狂騒の中で自分の場所を殊更に伝えなくても、間違い無く助けられるんだろうと思って目を閉じた。

 朝起きたころから感じていて、さっきからもう我慢できないくらいの眠気に、感覚のない下半身から強烈に登ってきている眠気に身を任せた。綺麗な綺麗な、自分と誰かを思う物語を想いながら。

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