ゼンイのセカイ
@PinQ
第1話 発端
ハナガスミ・エイは、常日頃から覇気のない人間であるのに、稀なことに不機嫌であった。それはもちろん大口で即金払いの実入のいい仕事を片付けて、当分はのんびりしようと考えていた最中に強制された仕事のせいでもあったし、その連絡がよりにもよって、奮発したコーヒー豆を買って帰路に就こうとしたその瞬間のことであったことが理由であり、今この瞬間の事柄についてには何の感情も覚えてはいなかった。
未だ日も変わらない時間であり、最寄りの駅の中心街の方では、いつ寝静まるともしれぬこの街区にあって、いま歩いている廃棄地区には、朽ち続けている建物から立ち昇る淡い埃の臭いの他には、電気波の普及により撤去されていった電線が二重の意味で未だに生きていてそれに連なる街路灯が弱々しい光を健気にも明滅しているのみで、人の営みが感じられる光の姿は一切見られなかった。そのくせ、息を潜めた人の気配だけは、朽ちかけのビル群からエイを無感情に観察していた。いや、観察している対象はエイだけではなく、常日頃破られることのない廃棄地区の静寂を気にも止めず、大声で罵声をあげながらここに行き着いてしまった男に対しても、変わらぬ無感情な視線を向けていた。
荒い息を吐いて、今にも倒れこみそうな男とは対照的に、エイは常からの服装である暗色の襟シャツに首元を緩めたネクタイ、黒ボーダーのチョッキ、下は畝の細い暗色のコーデュロイ。その上からダークグリーンのコートを羽織り、右手で庇うように肩から下げている鞄を軽く抱えながら、不機嫌そうに眉を寄せ、殆ど急ぐ素振りも見せないまま、慌てることなく男を確実に追い詰めていた。
「はっはっ……んっ。はぁ……はぁ……はぁ。っ……くそっ! 何がいけねぇんだよ! あいつらは所詮モノだろ!」
汗まみれの男が背後を確認しながら、荒い息と共に終わらない罵倒を繰り返す。
「人間様の役に立つために生まれたんだから、ソレで俺が金儲けしようとも念願叶ったりってもんだろう!」
その言葉を自白と判断した。
「くそっ。なんだよ! あんたに関係ないだろ!」
疲れ切った脚は縺れ、たたらを踏み、バランスを取ろうと泳がせた腕も虚しく、男の体は勢いよく路上に倒れ込んだ。受け身も取れず強かに体の前面を強く打ち付けたが、危機感が素早く体の向きを変えさせ、追跡者と相対した。男自身も頭ではこの状態からでは逃げられないと理解しているにもかかわらず、体は自動的に後ろに後ろに下がっていき、このどうしようもない状況からどうにかして逃走を求めているようだった。
エイは何も言わない。不機嫌そうに男を見ているだけで、少しでも逃がしてしまうかもしれないといった焦りも、無様にも転倒した男に対しての嘲りも、逃げることしかできない男に対しての憐みも何もなく、ただただ予定外の他愛もない仕事への不機嫌さだけを放っていた。
「ーーっ! ……! ……っ」
エイは只々自分に言っても仕方のない繰り言を続ける男に向かって近づいていくだけ。
5m……3m……2m……50cm、手を伸ばせば届く距離。
片方はなんの気負いもなく、もう片方は覚悟をして準備をしていた。
叫びながらも息を整えていた男は、体の影に隠した右腕を前に突き出した。腕は三倍以上に肥大化し、掌には穴が開き、その穴は肘まで伸びて、その中では穴の中に入った物体を間違いなくぐちゃぐちゃにする鋭利な刃物群が回っていた。いや……、それはもう腕と言えるようなものではなくなっていた。逃げ回っているときには確かに人の腕の形をしていたそれは、いまや凶悪極まりないミキサーじみていて、吸い込んだものを間違いなくミンチにする凶器に他ならなかった。
互いに手を伸ばせば届く距離にいる。
気負いもなく、身構えてもいないエイは、避けることもできずに、ただ羽織っていたコートの裾をその凶器に向かって払い、凶器に比してあまりにも薄い壁を作ることしか出来なかった。ただの布など引きちぎりながら、それを身につけている体とともに、文字通りボロ切れのようにしてしまう凶悪な狂気が、だけれどなぜかその薄っぺらいダークグリーンに絡まり止められていた。
「……」
あっけにとられる顔。その腕だったものを引き寄せられ、体ごと引き倒されるのに合わせて、悪態をつく余裕すらなく須臾の間に男の意識は刈り取られていた。
「いけねぇ。つい力が入っちまった」
男を地面に押し付けていた膝を戻しながら嘆息する。
「アンドロイド誘拐犯で凶器置換者か……世も末だね。……むっ。ぐぐぐ……、っ」
巻き込まれたコートの裾を苦労して引き抜き、勢い余ってよろめく。
「お気に入りなのに……。はぁ……、便利だからつい払っちまうな。またオッサンに嫌味言われるよ」
自分のコートの内側の膨らみには一切手も触れず、気にすら止めないまま、常の通りの覇気のない顔つきでガサゴソと鞄を漁りながら気絶している男に近づく。
男の首にタグをつけ、スイッチを入れる。それが終わった後に、首筋にあるニューロジャックにつけていた記録媒体を外し、コートのポケットに落とす。
そうして日付を大幅に跨いでようやく、今日の仕事が全部終わった。
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