第14話 これで全てが終わる
この間と同様、レースのカーテンが引かれ明るい日差しの入ったリビングはよく片付いていた。ダイニングテーブルの上には、中身のない食器が綺麗に並べられている。きっと桜子が、理央がいつ起きてもいいように朝食の用意をしていたのだろう。
テレビはついていなかった。音で理央を起こさないようにか。音を立てず朝食の用意も自分の身支度も完璧にして、理央が起きるのを待っていたのだろう。
そこに千紘が来て騒いだから、理央が起きたというところか。
「ねぇ、どういう意味?」
千紘がリビングに入ったことを確認すると、桜子はいつものほんわかした雰囲気からは想像つかないくらい、低く冷たい口調で言った。そして目に力を入れて、眉間に皺を寄せ鋭い眼光でにらむ。
──千紘を。
「旦那が私に嘘の電話してきたのよ、桜子は死んだって! そんな嘘をついてまで桜子を──」
「そうじゃなくて」
桜子は千紘の言葉を、低い声で止めた。くちびるを噛み、ぐっと千紘をにらみつける。その目にあるのは・・・・・・憎悪だった。
「なんでりぃくんが千紘の連絡先を知ってるの? なんで千紘に電話できるの!?」
千紘はハッとした。口に手を当て咄嗟に声を出す。
「それは・・・・・・」
しかし何と言っていいか分からず、言いよどむ。桜子はぞっとするほど冷たく、千紘ににらみを効かせた怒りの形相で話を続けた。
「さっき、りぃくんが千紘って呼んだわよね。なんで?! なんで呼び捨てなの!?」
千紘は一気に気の遠くなるほどの寒気を、背中に覚えた。血の気が引いたのだ。一方で手のひらには汗がじっとりと滲んでくる。
「だから、あの・・・・・・」
「おかしいとは思ってたのよ! 東京への出張はいつも週末に繋げて無駄に泊まってくるし!」
「ちが・・・・・・っ」
千紘は慌てて否定したが、桜子の表情は緩まない。心のどこかにあった疑惑が、確信に変わったのだろう。
正に牙を剥き目をつり上げた鬼のような桜子の表情に、千紘は目を強くつぶった。
「──そんなつもりじゃなかったのよ」
千紘は観念し、真実を口にした。六年間ずっと隠し続け、時に桜子本人に話してしまいたい衝動に駆られた真実を。
「理央を最初に見た時、すごくかっこいい人だと思った。優しくて、頭がよくてスマートで・・・・・・でも桜子の彼だったし。──桜子はこっちが嫌になるほど、毎日のろけを聞かせてくるし」
「・・・・・・」
桜子はにらんだまま、声を発しない。千紘は二人を見ることができず、リビングに立ち尽くしたまま目を閉じた。
──新入社員のあの頃。
ようやく就職先を見つけた自分とは対照的に、就職だけでなく彼も結婚の約束も手にしていた桜子。
会社の中で厳しく鍛えられ、それでも何とか必死に頑張ろうとする自分とは対照的に、辞めるつもりで働き、理央との甘い将来、甘い会話、甘い行為を甘ったるい声で逐一教えてくれた桜子。
「だから桜子が不在の時に声をかけてきた理央に、最初はちょっと乗ってみただけなのよ」
「はあっ!? なに言ってんだよ、お前の方が色目使ってきたんだろうが!!」
理央が平手でダイニングテーブルを叩く。大きな音が響き、千紘は肩を震わせたが桜子は微動だにしなかった。
「何言ってるの! 最初に声かけてきたのは理央じゃない!!」
理央が全てを自分になすりつけようとしている。千紘は悲鳴をあげた。
目を見開き、口を開けて愕然と理央を見つめる。お互いに顔を見合った二人は、大きな音にはっとして桜子の方を一斉に振り向いた。桜子がテーブルを思いきり両の拳で叩いたのだった。
「そんな前からなの!?」
ヒステリックな叫び声を上げ、桜子は血走った瞳で千紘をにらみつける。しばらくじっと動かずに、突き刺すような桜子の鋭い視線を受けていたが、千紘はショートボブの髪に両手を入れ、頭を抱え込むように俯いた。
「桜子が結婚する二年くらい前よ。初めは食事したりラインするくらいだった。でも関係が深くなると・・・・・・そうよ、私だって理央が好きだった。離したくなかったのよ!」
乾いた、張り裂けるような音が千紘の鼓膜を震わせ、左の頬に焼けるような痛みが走った。桜子が、無言で千紘の頬を引っぱたいたのだった。
「私の彼だって分かっててやったんでしょう! 私がどんなにりぃを好きか知ってて!!」
「・・・・・・」
手を当てた頬はじんじんと痛み、熱を帯びる。千紘はなにも反論できなかった。その通りだったから。
最初は『桜子の彼』だから近づいたのだ。桜子の彼が自分のことを『前から気になっていた』と言い、自分に桜子の束縛が厳しいと愚痴を言う。
話を聞いていると、やっぱり千紘は優しいな、俺の本当の気持ちを分かってくれるのは千紘だよ、と言う理央──
深い関係になることに、大した抵抗はなかった。
桜子じゃない、理央が本当に求めているのは自分なのだと。
自分と関係を持ってからも、何も知らずに細かく理央とのことを自分に報告する桜子に、自分とのことを思い出しながら優越感に浸る──最高だった。
ざまあみろと思った。
それなのにいつしか理央への気持ちが本物になり、桜子と別れて欲しいと願うようになってしまった。でも決して理央は桜子を手離したりしなかった。
そして千紘の懇願も聞き入れず、理央は桜子と結婚した。
結婚しても、千紘が東京に異動になっても、理央との関係を続けたのは本当に恋愛感情ゆえだったのだろうか。桜子に対する意地だろうか、執念だろうか。千紘は悩み続けた。
悩んでいるのに、理央が千紘の家に来ると迎え入れてしまう。今日は横浜に来ているなどと言われると、会いに行ってしまう──・・・・・・
「私がセックスレスだって知って、大喜びで笑ってたんでしょう!! 神戸まで来て助けるふりして、泣く演技までして!!」
「──違う!」
千紘は顔を上げ大声を出して、にらみ続ける桜子を見た。爛々と光り、怒りを湛えている瞳。千紘は顔を歪ませ、首を振った。
「全然知らなかったの。桜子がされてること、桜子が苦しんでること! 理央が桜子を苦しめてるんだって分かった。理央はモラハラだって。だからせめてもの罪滅ぼしに、桜子を助けようって・・・・・・」
「はあっ!? 何勝手なこと言ってんのよ!」
勝手なことは、百も承知だ。千紘は首を振りながら話を続ける。
「だからこの前神戸に来たときに、私から理央に別れようって話をした。ちゃんとけじめはつけたの!」
再び左頬に痛みが走る。耳に衝撃。桜子が千紘の頬をひっぱたいたのだった。
「何がけじめよ! 長いことずるずるやってたくせに!!」
桜子に会いに来て、話を聞いた翌日。神戸で理央に別れ話をした。もういい加減辞めたいと思っていたのに、ずるずると辞められなかった関係。理央が危険な男だと分かって、やっと決意した。
ようやく切り出せた別れ話に、理央はああそうとしか言わなかった。
──結局、理央は自分に興味のない女には用はないのだと、六年も関係を続けてようやく分かった。
私の代わりの女は、いくらでもいる。
でも桜子の代わりはどこにもいない。自分のエリート意識を満たしてくれる、どこまでも従順な妻。飼い慣らし続けるためなら、時に土下座でも涙でも見せるのだろう。
「ねえ、桜子はこれでいいの? こんな風に閉じ込められて・・・・・・連れ出そうとした私に死んだなんて嘘つく男と・・・・・・」
「うるさいわね!!」
耳に激痛が走る。今度はこめかみを打たれた。キーンと甲高い音が左耳に残る。
左目をつぶり、左頬を押さえながら桜子を見ると、一滴の涙も流さず般若のような顔で千紘を睨んでいた。そして無表情で立つ理央のそばに歩みより、右手をその背中に這わせて自分の腰を理央の身体に密着させた。
「私の理央への気持ちは、そんなもんじゃないから。中途半端な気持ちで、手なんか出すんじゃないわよっ!!」
自分のやっている裏切りを桜子が知った時、きっと桜子は大泣きするんだろうと思っていた。
泣きながら『信じていたのに、ずっと裏切っていたのね!』と、自分と理央に怒るのだろうと。
しかし実際は全く違っていた。
一粒も涙を流さない桜子。怒りで眼光は鋭く、その瞳には怒りと憎しみが、千紘だけに向けられていた。
理央を想っていた六年間。桜子への嫉妬に身を焦がしていた六年間。千紘は大切なものを失った。
キラキラした20代も、他の男性との出会いも。
だけどそれも、これで終わる。左頬は腫れ上がり、耳もジンジンとひどく痛むが、これで全てが終わるのだ。
桜子のこの生活はこれからも続く。理央に縛られ、自由のない生活が──
それこそが幸せなのだろうか。
縛られ閉じ込められても、長い間自分が友達だと思っていた相手と旦那が不倫をしていても、それを許せるほど相手を愛せる桜子は、幸せなんだろうか。
憎悪にあふれた表情の桜子と、蔑むように顔色ひとつ変えずに上から自分を見下ろす理央を、千紘は呆然と眺めていた。
『ねえねえ桜子ってば、また理央を許したらしいよ!』
大学の中庭で、一人の女子学生が二人組に駆け寄り、話しかける。
『ええーっ! またあ!?』
『三人目だっけ、四人目だっけ? しかも今回も相手は同じゼミの後輩っしょ?』
『二人揃って同じゼミなのに、なんで理央くんもそのゼミで他の女に手を出すかねー』
『桜子に女が近ければ近いほど、理央は燃えるらしいよ』
『変態じゃん』
『桜子もよく許すよね。気持ち悪くないの? だって自分のよく知ってる女と彼氏がやってるんだよ?』
『あっ、しっ!』
一人が鋭い声を出し、慌てて制する。
『ほらっ! 二人が来たよ!』
指差す先に、講義棟から仲良く出てくる理央と桜子がいた。指を絡めるように手を繋ぎ、桜子は理央の腕に頬を寄せて、嬉しそうな顔で理央を見上げていた。
『よく大学でいちゃいちゃするよ。恥ずかしくないのかね』
『浮気相手の女たちも、あんなベタベタの二人の間によく入ろうとするよね。普通桜子ちゃんに遠慮するもんじゃない?』
『いや浮気女たちも結局、ちょっとイケメンの理央とこれ見よがしにいちゃついてる桜子に、イラっとしてるんじゃないの。そこに理央が声かけたらさ。あれ? 私桜子より上じゃね? みたいな』
『なーんかどっちもどっち・・・・・・誰か教えてあげないの? 桜子ちゃんに。理央くんはヤバいって、そんな浮気男辞めておけって』
一人が呆れた声を出し、ため息をつく。
『言った言った! 桜子も相談してくるからさ、話聞いてやっぱり理央なんてもう辞めなよって何回も』
『私も浮気されて辛いって、されるたびに泣いてるからさ。話聞いて、もう別れた方がいいんじゃないって何度もアドバイスしたよ。桜子もそうするって言ったんだよ』
過去に桜子に別れるよう説得した二人は、何ともなしに顔を見合わせる。
『でもさあ、結局』
『そう、結局別れないし。それで何回も同じこと繰り返すし』
『こっちも疲れちゃったし』
『なんか別れろ別れろ言うこっちが、悪者みたいじゃん』
だからもう桜子とは、理央の話はしないんだと声を揃えて二人は言う。もう一人は、ぽかんと口を開いた。
『結局さ、桜子も浮気されても自分のところに戻ってくるってことで、理央の愛を感じてるんじゃないの。もうそうなると二人の浮気プレイだよね』
『変態じゃん』
三人は顔を見合わせて苦笑いをする。
そして人目をはばからずキャンパスで顔を寄せ合って話している二人を横目に、嘲笑を浮かべながら研究室へと向かっていくのだった。
籠の中の鳥 塩野ぱん @SHIOPAN_XQ3664G
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