第11話 つぐない

 電車を乗り換える時間ももどかしく、千紘は新神戸でのぞみを降りると、そのまま構内を出てタクシーに飛び乗った。タクシーは神戸の中心街を抜け、六甲の山の方を目指し上っていく。


 新幹線に飛び乗ってから、今もずっと色々な考えがぐるぐると頭に浮かんでは消えていった。自分が今やろうとしているのは正しいのだろうか。そして今やろうとしていることは、どこか現実離れしているなと心のどこかで思っていた。


 桜子のアパートに行くと、理央はいなかった。桜子はモスグリーンのワンピース姿で、もう泣いてはいなかった。


 ドアを開けられた玄関には、千紘が手にしている通勤バッグと大して変わらない大きさのボストンバッグがあるだけだった。その小ささに千紘は驚く。しかし必要最低限なのかなとすぐに思い直した。

 

「千紘、あの・・・・・・」

 家のなかに招こうとする桜子を、千紘は首を振って制する。

「ねえ、私・・・・・・本当に東京に行って・・・・・・大丈夫かな?」

 上目遣いで千紘を見つめ、玄関から動こうとしない桜子。涙の跡は消え、代わりに戸惑いと怯えがその顔にはあった。

「タクシー待たせてるから、早く」

 今更何を、と思う。ここまで理央がエスカレートして、道はもうこれしかないではないか。取り敢えず、この家を出よう。後のことはそれから考えればいい。


 千紘は玄関に置かれたままのボストンバッグを手に取り、背中に手を添えて半ば強引に桜子を連れ出した。



 タクシーに乗り込み、四年間住んでいた見知らぬ街が見えなくなると、桜子の表情は更に不安の色を濃くしていった。

「理央、帰って私がいないことすぐ気がつくよね。どう思うかな。怒るかな。逃げたってすぐ分かるかな」

「・・・・・・」

 元々付き合っていた頃から、理央を中心に生きていた桜子だ。別々に暮らしていたが、考えるのは理央のことばかり。朝の星占いは理央の星座をチェックし、週末の予定は理央次第。将来の夢も理央ありきのもの。

 それが結婚して、文字通り桜子の全てが『理央のもの』になった。だから遠く離れて不安になるのは、当然だとは思うが──


 大丈夫だろうか。


 千紘の胸に一抹の不安がよぎる。

 そしてそれは見事に的中する。




 新神戸が近づくに連れ、桜子の言葉数がは減っていった。新神戸で無言のままタクシーを降り、改札に向かう。

「桜子・・・・・・」

「・・・・・・」

 眉間に深く皺を寄せ、うつむき加減で歩く桜子に声をかけたが、桜子は顔を少し上げ、千紘を上目遣いで見るだけで下唇を噛み締め何も言わなかった。

 それでもとにかくここを離れなければと、千紘は桜子の分もキップを買う。発券されたチケットを握りしめ、自動改札の前で待っていた桜子に差し出した。


 桜子はゆっくりと右手でキップを掴んだかと思うと、ぐいと千紘の方へ突き返した。

「・・・・・・!?」


 驚いた千紘が顔を見ると、桜子は泣いていた。

 眉間に力をいれて眉を下げ、声を出さずに、大粒の涙をこぼしていた。

「桜子・・・・・・」

 呆然とする千紘に、桜子は再び右手を千紘に向かって力強く押しやり、キップを拒否した。歪ませたその顔は、苦しげで、でももう迷いのない強い意思がそこにあった。


「千紘、ごめん! 一緒に行けない!!」


 桜子はそう叫ぶや否や踵を返し、今二人で歩いてきた駅入り口への道を走り出した。

「なっ、ちょっと・・・・・・桜子!?」

 千紘は慌てて追いかけようとするが、タイトスカートが太ももに貼りつき邪魔をした。あっと思った時には高いヒールでバランスを崩し、見事にコンクリートの上ですっ転ぶ。


「いったあ・・・・・・」

 激しく身体を打ちつけ、取り敢えず上半身だけは起こしたが立ち上がることはできなかった。

 派手な音は桜子の耳にも届いたはずだ。しかし桜子は一切振り返ろうとせず、駅の雑踏のなかに消えていった。


「桜子・・・・・・」


 やっぱり、桜子は理央から離れられなかった。離れようとしなかった。


 

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