第10話 けじめ
千紘はその日は神戸のホテルに一人で泊まり、翌土曜の夜に帰りの新幹線に乗った。京都を過ぎると真っ暗になる車窓を、ぼんやりと眺めながら考える。
あの理央が、いつも自信に満ちあふれ、何でもスマートに行動し、エリートで優しげな理央が、桜子が別れようとすると大泣きして土下座する──
想像できなかった。
桜子から自由を奪い、自分の支配下に置き、他の女に手を出す一方で、桜子とはセックスレスだったというのも衝撃だった。
けれどもその桜子には、いざとなると格好の悪いところを見せても引き留めるというのは、何故なのか。それがモラハラの常套手段なのかもしれないが、ただただ驚くばかりだった。
やっぱり桜子は、理央にとって特別なのだろうか。モラハラは愛情表現なのだろうか。
千紘の目から涙がこぼれる。
いや、泣いて土下座などしてくれなくていい。
自分を、自分だけを愛してくれる人を見つけよう。
不倫をしていた自分が言えることではないけれども。
自分と対等に接して自分だけを愛してくれる人、そして自分も迷いなくその人だけを愛せる、そんな人と今度は恋愛しよう、と思った。
火曜に桜子から、子どもの学習塾の受付のバイトに応募しようと思うとラインが来た。桜子は前へ歩きだした。
千紘は、いいじゃん決まるといいねと、返した。
例え仕事を始めてもすぐに何かが大きく動くわけではないだろうが、ずっと家に一人閉じ込められているような桜子にとっては大きな一歩だと思う。
──しかし、うまくはいかなかった。
桜子のラインから二日経った、木曜日の午前中。千紘が仕事をしていると、机の上の私用のスマホが震えだした。画面には公衆電話とある。思い当たらない電話は基本無視だが、何だか胸騒ぎがした。
スマホを手に取り、慌てて事務所の廊下に出ると通話ボタンを押した。
「もしも・・・・・・」
「ち、ちひろぉ・・・・・・っ」
一言話した途端、スマホの向こうから今にも崩れ落ちそうな泣き声が聞こえてきた。
「桜子?!」
いい大人が泣きながら電話とは普通ではない。しかも公衆電話から。何かが起きているとしか、思えなかった。
「どうしたの? なにがあったの!?」
勤務中のオフィス内には聞こえないよう、声を押さえて問いかける。目線を走らせ、周りに人がいないことを確認しながら、更に人が来ないよう廊下の隅へと移動した。
「ちひろ、もうだめだよぉ・・・・・・っ。家事もろくにできないお前なんかに仕事できるわけがないって、いっぱい言われて」
「なんで!? 仕事すること旦那にバレたの!?」
千紘は思わず叫び声をあげる。理央のことだ、桜子が仕事するなんてよく思わないに決まってる。
「だって、りぃくんに黙って勝手に仕事する勇気なくて・・・・・・ほんの三時間くらいだからやっていいよねって聞いたの」
「・・・・・・」
だから内緒で働き始めろと言ったのに! 何故自分のことなのに、理央の許可を得ようとするのか。
理央も理央だ。自分は黙って勝手に他の女と楽しい思いをしてるのに、何故そんなことを言うのか。千紘は半ば呆れ、言葉を失う。
「そしたらお前にできるわけないって、そしてこの前来た千紘が変なこと吹き込んだせいだろって・・・・・・」
「・・・・・・」
実際その通りだし、今更理央に何と言われようと構わなかった。理央はきっと千紘のことは憎しみの存在でしかないだろう。
尊敬し、すごいと言ってくれる相手じゃないと理央は嫌なはずだ。自分に歯向かい、そっぽを向いた千紘など一番憎むべき存在のはずだ。
「あんなやつと連絡取り合うから妙な考え起こすんだって、スマホ取りあげられて」
「ええっ!?」
スマホは家に閉じ込められている桜子の、唯一の外と繋がる手段ではないか。例え本音で話すことが出来なくても、それでもスマホを取りあげてしまったら本当に桜子は理央のなかでしか生きられなくなる。
「もう今日解約してくるって・・・・・・どうしよう、ちひろ・・・・・・きっと公衆電話からも、か、けられなくさせられ、るよ・・・・・・っ、もうわたし、誰とも・・・・・・っ」
桜子の嗚咽が千紘の耳を、身体を震わせる。千紘は強く目をつぶった。
「逃げよう、桜子!」
気がついたら叫んでいた。誰もいない会社の廊下に鋭い千紘の声が響き渡る。
「えっ!」
突然の千紘の言葉に、さすがに桜子は泣くのを止めて驚きの声をあげた。
「逃げるって・・・・・・ 」
「取り敢えず東京においで! 私の家に来て! 後は何とかするから!!」
千紘の家が得策とは思えなかったが、まずは理央のもとから離れることが先決だ。物理的に離れれば理央とのことも桜子は客観的に見られるかもしれない。仕事だって、東京なら沢山ある。
「だってそんな、私、東京に行くお金なんてないし・・・・・・。理央が・・・・・・」
「今から私迎えに行くから! 一緒に東京に逃げよう! いいね!? このままだと桜子、一生このままだよ!」
「えっ・・・・・・」
桜子は千紘の必死な説得に、戸惑いの声をあげる。
さすがに理央も、今日桜子が何かをするとは思ってないはずだ。チャンスは今しかない。そして今動かなければきっと、桜子は一生このままだ。
理央の機嫌を伺い、理央に自由を奪われ、そしてそんな愛しかたをされているのに、指一本触れられない。
「とにかく荷物まとめてて! ね!?」
「──う、うん」
圧されるように桜子は返事をした。千紘に対して“理央から逃げる”という、初めての意思表示だった。
千紘は通話を切ると、慌てて席に戻ろうとする。今から早退して、そのまま東京駅からのぞみに飛び乗るつもりだった。
走りにくさを覚えて、しまったと気がついた。勿論今日はこんなことになるなどと思わなかったから、タイトスカートにハイヒールという服装であった。
しかし着替えに帰る時間はない。早くしないと理央が追いかけてきて、自分を切りつけてでも桜子を渡すまいとするかもしれない。
千紘は怒りに満ちあふれた理央の姿を想像し、振り払うかのようにかぶりを振った。
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