第8話 亭主が帰るはずの

 家から歩いて十分程で見つけたのは、民家を改装したような小さなイタリアンだった。

「こんなお店、あったんだ」

 白を基調とした明るい店内を、キョロキョロと見回しながら桜子は呟いた。確かに見つけづらいとはいえ、徒歩十分の距離ではないか。あの家に四年も暮らしているというのに。


 大泣きをした千紘が落ち着いてくると、桜子がお昼を用意すると立ち上がったが、千紘はそれを制した。今までの話を聞いて、お願いしますなどとても言えない。それは夕御飯にしなよと言い、ごちそうするからと桜子を連れ出したのだった。

 

 わざわざ家まで来てもらったのになどと言うが、おしゃれな神戸に住んでるのに、神戸の中心の三ノ宮で食事をしたのは新婚の頃のたった一度きりだという。あとは近所のファミレスで年に一、二回。浮気がバレたり、理央の説教があまりに辛く、もう実家に帰りたい別れたいと言うと連れていってくれるのだそうだ。

 近所のファミレスに。ランチならワンコインで食べられる、安いファミレスチェーン店に。


 そして更に驚くことを桜子は言う。

「夕飯六時に用意するけど、七時くらいに電話がかかってきてやっぱり今日はいらないとか、よく言うんだよ。頭きて二人分食べたり、りぃくんのために買ったお菓子を食べてたらこんな体になっちゃった」

 ぷっくりと膨らんだ頬の肉をつまみながら桜子は言うが、勿論全く笑えない。

「そんなの、作る前に言ってって、言わないの? 桜子は」

 運ばれてきた前菜のサラダにも手を伸ばさず、千紘は眉をひそめて問いかけた。

「りぃくんが食べることが重要じゃないらしいんだよね。六時に夕飯ができているっていうのが大事なんだって。だから週末もそれに合わせなくちゃいけなくて。自分の予定は入れられないの。結局千紘に金曜に有給取らせちゃって・・・・・・ごめんね」


 千紘は桜子に前菜とスープを食べるよう促し、週末は家から出られないと桜子が言ったことを思い出す。それは用事があるわけではなかったのか。

「りぃくんは土日休みだから、亭主のために土日は開けておけって。でも向こうはしょっちゅう家を空けるし、いたらいたで夕方まで寝てたりするんだけどね。明日だって結局、予定が入ったって昨日言われたんだよ」

 桜子の言葉に千紘は顔を歪める。

「明日は? 旦那はなんて?」

「知らない。いつも仕事の付き合いっていうけど、どんな付き合いしてるんだか」

 もうどうせ女と会っているんでしょと言わんばかりだ。千紘の胸はずきんと痛んだ。


「そういう時どうするの? 女と会うのとか聞くの?」

 この前の電話で、理央が会社の女と怪しいと思った途端、確証もないままに桜子は問い詰めたことを思い出した。

「聞くよ、勿論。そしたらりぃくんは違うって言うし、何もないから、見てみればって、スマホ渡されたりカバン渡されたりする」

「スマホ!? 見るの!?」

 店内だと言うのに、思わず大きな声をあげてしまった千紘は慌てて口を押さえ、グラスの水を飲んでごまかした。

 

 一方で桜子は当たり前だと言うように、表情を変えずに話を続ける。

「うちはチェックOKなの。お風呂入ってる時とか、お互い見てるよ」

「・・・・・・」

 二人がいいなら自分がとやかく言うものではないが、浮気などしていなくても、スマホを見られるのは千紘は嫌だった。

 私のスマホもいつ見られるか分からないから、千紘にりぃくんのこと色々話せなかったんだけどね、と桜子は舌を出して言う。だけど問題はそこではない気がする。


「まあ見せられたところで、スマホには浮気の証拠なんてないんだけど」

 それはそうだ。

 綺麗に消して、痕跡など何もないから堂々と渡すのだろう。

「証拠を消してるっていうか、会社のスマホは企業情報が入ってるからダメって絶対見せないのね。私、あれ本当は会社のなんかじゃなくて浮気用だと思ってる。女とのやり取りとか、ホテルの決済とか、エロ動画見るのとか絶対あれでやってるのよ」

 際どい話をしている時に、ウェイターがメインのピザを持ってきたので、千紘はぎょっとする。

 

 桜子は目をギラギラさせて怒りで興奮しており、店員どころではないようだ。ウェイターも涼しい顔でごゆっくりと言って去っていった。裏で何を話されているか分からないが。


「ねえ、そんなに何度も浮気されても旦那がいいの? 許しちゃうの?」

 千紘はパスタを取り分けながら、ちらりと上目遣いで桜子を見た。桜子は眉間に皺を寄せ、考えるかのように腕組みをして、少しの間じっとテーブルに落ちたカーテンの影を見ていた。

 そして顔を上げ、ぐっと千紘をにらんで低い声で言った。

 

 「許さないよ。りぃも、女も。浮気女なんてぶっ刺してやりたい」


 普段のニコニコと癖のように笑っている桜子とは全く違うその表情と言葉に、千紘は恐怖に背筋の凍る思いがして身を強張らせた。


「何度も別れようと思ったよ。でもその度に泣いて土下座されて、あありぃくんには私がいないとダメなんだなあって」

 千紘が恐怖を覚えたことも気づかないようで、桜子は淡々と話を続ける。そしてブルーチーズの乗ったピザに手を伸ばした。泣いたり、怒りに満ちた表情をしたり、かと思えばピザを食べ始めたり。桜子の変化に千紘はついていけない。


 いや、桜子は時折本音を出してしまったのを、慌てて平静を装って隠しているのかもしれない。

 なんのために? 理央をかばうために? もしくは理央に色々制限されるなかで、自分を守るために?


 チーズと蜂蜜って意外と合うんだね、千紘も食べなよ、などと呑気なことを言う桜子に、千紘は首を振った。自分の身体の前で両手を組み、息をひとつ飲んで口を開いた。


「ねえ、桜子。それはモラハラだよ」


「・・・・・・」

 桜子はピザを食べる手を止め、千紘を見つめた。

「暴力はないみたいだけど、そうやって精神的になにも非のない桜子を追いつめて──」


「そうだろうね」


 真剣に諭そうとする千紘に、桜子は言葉を被せた。

 はっとする千紘に、桜子は驚きもせず、無表情のまま続けた。

 

「多分そうなんだと思うよ。りぃくんはモラハラだと思う」


 秋の昼下がり。太陽の光が桜子に辺り、黒髪に混じった白髪がキラキラと光っていた。 

 

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