第6話 籠の中の鳥

 ウーロン茶入りのキティちゃんのマグカップが目の前に置かれ、千紘は違和感を覚えた。桜子はお客さんが来ないから来客用のカップがなくてと言うが、一人暮らしの千紘の家にですら、結婚式の引き出物でもらったブランドものの食器がいくつもあるというのに。


 桜子と理央が暮らす家は、住宅街の一画にあった。古くはないがよくある軽量鉄骨の二階建てのアパートで、ちょっと意外だった。理央は大手企業の研究員だから給料はいいだろうし、服のセンスや車の趣味から考えて、神戸なら三ノ宮辺りのマンションを借りていると思っていたのだった。

 家はリビングダイニングとふすまで仕切られた寝室と、物置にしているという一室があるだけだった。


 この家にいるか、スーパーに行くしかないと言った桜子。

 

 近くのマンションから丸見えだからとレースのカーテンが引かれたこの部屋に、桜子はたった一人で一日中いるのか。神戸を知らない、知り合いもいないというのはそういうことなのか。


「──なんで」

 出されたお茶に手もつけずに、千紘は呟いた。こんなこと四年もラインのやりとりをしていたのに、一言も言ってなかったではないか。

「りぃくんが嫌がるのよ。亭主が働いている時に、無駄にあちこち出掛けるの」

「無駄って」

 スーパー以外は無駄なのか。生産性がないことは全て? 気分転換も、楽しむことも無駄なのか。理央自身はあれこれやっているのに。

 テーブルで向かい合って座っている桜子を見つめると、そっと微笑んで返した。


 桜子はいつもそうだった。見つめると反射的に笑う。決して楽しんでるわけではない。その証拠に目は冷めているのだ。

 今も冷えきった目で微笑む裏にあるのは、諦めの感情なのだろうか。窓から日差しが差し込んできて桜子の笑顔を照らし、ほうれい線に深く影を落とした。


「別に旦那に断らないでも、出掛けたり買いものしたりはできるでしょう? 昼間、旦那はいないんだし」

 無駄じゃないと思うし、と前置きして千紘は問いかける。桜子はくたびれたような笑みを浮かべて、首を横に振った。

「お金、ないもの。大体一週間5000円貰って、それで食料と日用品買ったら何もできないの」

「ご、5000円!?」

 あまりの少額に千紘は声を上げる。料理を殆どしていないせいもあるが、一人暮らしの千紘でさえ一日の食費が千円位かかっている。

「それに旦那が定時なら六時過ぎに帰ってくるから、それまでに夕飯の支度とか片づけとか終わらせてないといけないの。時間ないのよね。私、料理下手だし」

「いやいやいや・・・・・・!」

 それは料理の上手い下手の問題ではない。

 

「それ・・・・・・もし、用意が間に合わなかったらどうなるの?」

 桜子の顔から笑みが消え、ぐっと下唇を噛み締めて視線を落とした。テーブルの上で組んでいる両手の指先をじっと見つめたまま、小さなため息をついてから口を開いた。

 

「ずっと家にいるのにどういうことだって、怒られる。亭主のことを考えたらできるはずだろって。ずーっと、その夜は怒られ続ける。何日もぶり返される」


「──それって」

 千紘は血の気が引いていくのを感じた。

 脳裏に理央の優しそうな笑みを浮かべる。紳士的で、明るく、気配りのできる理央。

 自分は一体何を見ていたのだろう。

 理央が浮気をしていると聞いて飛んできたというのに、事態はもっと深刻だった。


「ねえ、桜子」

「──浮気もね」

 千紘の呼びかけに、桜子は被せるように話を続けた。

「初めてじゃないの。もう何度目か分からないの」

「えっ!?」

 もう十月というのに、千紘は脇にじっとりと汗がにじみ出ているのを感じた。胃の奥から苦いものが込み上げてきて吐き出しそうになる。

 気持ち悪い。

 だって、浮気は初めてじゃないって。


「大学の頃から何度もあってね。でも私が高校の時に彼氏がいたことは許せないんだって。今でもたまに怒られる。おかしいよね」

 おかしいと言って再び笑い出す桜子に、千紘は空恐ろしいものを感じる。自分は次々と他の女に手を出すのに、彼女に対しては過去の恋愛すらも許さない。

 ──正常ではない。

 

「浮気してるってどうして分かったの? 何度も浮気されて別れなかったの? 私はそんなこと全然・・・・・・」

 千紘は両腕で二の腕を抱え込む。震えと鳥肌が止まらない。自分はそんなことも気がつかず、あんなに優しそうで格好いい理央に愛されている桜子が、ただ羨ましいと思っていた──


「付き合って最初の頃は脇も甘かったし。携帯に証拠残してたしね。浮気されてその度に別れる! ってなるんだけど、一番愛してるのは桜子だとか、こんな俺には桜子しかいないとか・・・・・・大泣きして土下座するんだよね。車飛ばして真夜中に謝りにきたこともあったなあ」

「・・・・・・大泣きして土下座」

 あの理央が。颯爽としていて、自信に満ち溢れたような、あの理央が。

「私も浮気される度に友達に愚痴こぼして、別れなよ! って言われるんだけど、結局別れられなくて。これを何回も繰り返すから、大学の友達は疲れちゃったみたい。みんなよそよそしくなってね」

 確かにその場に千紘がいて、 理央のことを聞いていたら別れなよと言うだろう。

 そんな勝手な浮気男、泣かされるだけだよ、辞めなよと。

 桜子も何度もうん、分かったと決心したのだろう。しかし理央がそれを拒み、仕方ないなもういいよと言うまで、大泣きでも土下座でもして許しを乞うたのだろう。それを自分に向けられた愛だと考える、桜子に。


 そうなると別れろとアドバイスしても、結局桜子は理央と別れない。理央の危険性を何度話しても別れようとしない。それが繰り返されたら、友達は疲れ愛想がつき離れていくかもしれない──


「だから同期のみんなには理央の浮気のこと、話せなかったんだ。また嫌がられちゃうかなと思って」

「──そんなこと」

 千紘は首を振る。

 しかし確かに話されていたら、距離を取っていたに違いない。桜子とも、理央とも。


 桜子と理央の結婚式を思い出す。大学の同級生同士の結婚なのに、桜子の参列者は会社の同期は沢山いる一方で、大学の友達は殆んどいないなと思ったのだった。


「ねえ、親は理央の浮気を知ってても、子どもがいないのは桜子のせいって言うの? どう考えたって──」

 千紘の問いかけに、桜子は激しく首を振った。

 

「違うよ、違う!」

 不意に涙声になり、桜子の目からは大粒の涙が溢れ出した。今まで抑えるかのように、努めて落ち着いて話していたのに、堪えきれんとばかりに顔を両手で覆い激しく泣き出した。

「──桜子」

 千紘は手を伸ばし、そっと向かいに座る桜子の腕に触れる。しゃくりあげる桜子の肩は大きく震え、白髪交じりの後れ毛が手の甲で揺れた。

「できるわけないの。子どもなんて、できるわけない!」


 泣きながら首を大きく振り、桜子は言葉を続ける。千紘は顔を歪め、かける言葉もなく肩をそっとさすった。桜子は顔を上げ、千紘を見つめた。化粧っ気のない顔に幾つもの涙の筋ができ、眉を下げ、頬を歪ませて大きく皺を作っていた。その顔を桜子は再び大きく振る。

 

「──ないの」

「え?」


 桜子が必死な表情で口にした言葉の意味が分からず、千紘は眉をひそめて聞き返した。

 そして桜子の返事を聞いて、更に顔を歪ませた。


「できるわけないじゃない、子どもなんて! 結婚してから数回あったきりで、ずっとしてないんだもの!」


 

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