第4話 妻の勘
「えーっ、まじなのぉ!?」
同期の電話に、千紘は素っ頓狂な声をあげる。驚きと同時におかしくて、嬉しくて、顔がにやけてしまう。
「こんなこと嘘で言うわけないでしょ。恥ずかしいけどさあ、どうせバレるならって先に言ってるのよ」
「いいじゃんいいじゃん、おめでとう!!」
相手は同期の
「いつから付き合ってたの? もしかして私がそっちにいたころから? 全然知らなかったよー!」
「いや、あの、去年の研修で和歌山勤務の野口と久し振りに顔を合わせて、それでだね・・・・・・・」
気恥ずかしさからか、口ごもる由香だが電話の向こうから嬉しさがにじみ出ているのが分かる。千紘も嬉しかった。不安いっぱいの中、一緒に社会に出て共に頑張った同期の二人が結婚するというのは、なんだか特別な感じがする。
「ねえ、千紘は桜子と連絡とってるんだよね?」
「うん。ラインは割と頻繁に」
千紘と桜子は29歳になっていた。桜子の結婚から四年。神戸で暮らしてる桜子とは結婚式以来会うことはなかったが、近況把握のために月に一、二回連絡は取るようにしていた。
「私はさ、桜子とはもう全然繋がってないんだけど、桜子の結婚式は呼ばれたし、他の同期の女子は皆招待するつもりだからどうしようかなあと思って・・・・・・。桜子、声かけたら来るかなあって」
そんな義理など気にしなくてもいいのにと思うが、結婚式あるあるだろうか。独身の千紘にはよく分からないが。
由香との電話を切って、部屋の時計を見る。夜の九時。
今日の昼に、同期に一斉送信された二人の結婚報告の社内メールを読んだ。由香と直接話したくて、帰ってシャワーを浴びるなり電話をしたのだった。
桜子にはラインで由香の結婚を教えようとしたが、字を打つのが面倒になった。電話をしようかなと、千紘は冷蔵庫からビールを取り出しながら考える。あと豆腐とキムチ。スーパーで買ってきた唐揚げをレンジで温めながら、冷奴の上にキムチをのせてゴマ油を垂らした。これを千紘は自炊と言っている。
リビングのローテーブルにこれらを並べてソファにもたれて床に座り、千紘はスマホで桜子の連絡先を呼び出した。
主婦にとって、平日夜九時の電話がNGなのか分からなかったが、ダメなら出ないだろうと思い、通話ボタンを押す。
「──千紘?」
五コール目で桜子は出た。ちょっとくぐもったような、眠そうな声だった。
もう寝てたのだろうか。まだ九時過ぎだが。悪いことしたかなと、千紘は右手のビールをテーブルの上に置き、口を開いた。
「桜子ごめん、今電話して大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ」
あの高めの甘い桜子の声が、妙に低い気がするが電話のせいだろうか。首をかしげつつも、キムチの欠片を口に放り込み千紘は話を続けた。
「あのさあ、由香と野口が今度結婚するんだって!」
普段ラインでやり取りはしていたから、お互いの近況は知ってる。挨拶をすっ飛ばして、早々に話題に入ると桜子は驚きの声を上げた。
「えっ、野口くんってあの野口くん!? 二人ずっと付き合ってたの?」
「ううん、一年前の研修からみたい。Q県と野口のいる和歌山で遠恋してたらしくて」
「へええええ」
「しかもさあ、もう赤ちゃんいるんだって! 妊娠五ヶ月!」
「えっ!?」
桜子は再び、前よりも更に大きな声を上げた。
「由香は恥ずかしがってたけどさあ、同期としては面白いような、嬉しいようなだよね。で、式なんだけど──」
「──・・・・・・ひっ」
「・・・・・・桜子?」
甲高い変な声が聞こえてきて、千紘は話を止める。
「千紘、ごめん・・・・・・っ」
「え・・・・・・桜子!?」
ようやく喉の奥から出てきたような、桜子の声が揺れていると気づいた途端、声を押し殺したような嗚咽がスマホの向こうから聞こえてきた。
「え、どうしたの!? なに?!」
「ごめっ、ちひろ、ごめ・・・・・・っ」
桜子はこの状況を必死に謝るが、かえって涙を助長させているようだ。
「いいよ、大丈夫だよ。どうしたの? なにかあった?」
桜子に突然泣き出され、千紘は戸惑いながらも、両手でスマホを左耳に押し当てて一生懸命声をかけた。
いつも、声と同じような甘い柔らかな笑顔を見せていた桜子。仕事がどんなに大変な時でも笑って、大丈夫だよと言っていた桜子。いつも私にはりぃくんがいるから大丈夫と幸せそうで、決して涙を見せたことはなかった。
それが今、電話の向こうで子どものように泣きじゃくっている──
千紘はさっきの会話を思い出す。由香と野口の結婚とおめでたを伝えた途端、桜子は泣き出した。もしかしたら無神経に話しすぎたのだろうか。
桜子と理央は結婚五年目だが、まだ子どもはいない。むかしは、理央と結婚したら子どもをたくさん生んで・・・・・・などと話していたけれども。
それは夫婦の中で色々話した結果なのかもしれないし、もしかしたらできなくて苦しんでいるのかもしれない。
マメに連絡を取り合っていたが、踏み込みたくなくて子どもについては敢えて話さなかった。
だけどもし、桜子が苦しんでいたのだとしたら──
しかしひとしきり泣いたあとに落ち着いた桜子が口にしたのは、千紘が全く予想してなかった話だった。
「りぃくん、浮気してるの」
「ええっ!?」
自分でも驚くくらい大きな声が、今度は千紘の口から出た。
「なんで!? そんな、あの旦那が!?」
心臓が早鐘のように打つ。強く激しい脈の音が、身体中に響き渡る。
色んな思いが、千紘の中を一気に駆け巡る。いやまさかそんなと、たった数秒の間に、色んな考えが浮かんでは自ら打ち消した。
「なんで分かったの!? 旦那がそう言ったの?」
耐えきれず、身を乗り出さんばかりの勢いで千紘は尋ねた。手が震え、勢い余って触れた空のビール缶が、テーブルの上で倒れた。
「勘よ。妻の勘」
あの桜子からは想像できないくらい、押し殺したような低い冷たい声で桜子は呟いた。千紘の背中に冷たいものがさっと走る。
「勘って・・・・・・勘でしょう?」
さっきまでビールを飲んでいたと言うのに、喉がカラカラだった。
「勘だけど当たってる。りぃは、あの女と絶対浮気してる」
「あの女って・・・・・・」
力強く言いきる桜子に対し、千紘は気の抜けたような声を出した。
あの理央が、他の女と浮気するなんて。
にわかには信じがたく、千紘は寄りかかっていたソファに身体を押し付け、座面に頭をのせて天井を仰いだ。胸が、苦しい。自分は動揺しているのだと分かった。
「りぃくんの会社の女よ。この前、家族も参加する部署のBBQがあって。そこでりぃくんにやたら目で合図してくる女がいたの。りぃくんも目で制したりして、ありえなくない!? 私の前で、敢えて、よ!」
「でもそれだけじゃ・・・・・・」
口ではそうは言ったが、心のなかでは何て浅はかな女だろうと思った。一番隠さなきゃいけない妻の前で、敢えてアピールするなんて。それがスリルなのか、理央を動揺させるためなのか、桜子に挑戦するためなのかは分からないけれども。
「ううん、絶対そう。だってあの二人が不倫してるって思ったら色んなことに思い至ったの! 夜中に急に仕事だって出ていったり、土日に出張を絡めることも多かったわ。家でスマホを見てることも多かったし──」
色々思い出したのか、桜子の声が熱を帯びると共にまた徐々に揺れ始めてきた。
「それで私、りぃくんに聞いたのよ! 浮気してない!?って」
桜子の大胆な、そして短絡的な行動に、千紘はぎょっと驚き慌ててソファから頭を上げた。ショートボブのストレートヘアが、勢いをつけて頬をなでる。
「えっ、旦那に聞いたの!?」
普通は証拠を集めて問い詰めたり、カマをかけて出方を見るものじゃないだろうか。らしいといえばらしいが、こんなやり方では逃げられ、警戒され、うまく隠されるような気がする。
「だって許せなかったんだもの! 私、私は・・・・・・っ!」
再び桜子は言葉を詰まらせ、こらえようとするが抑えられないかのように高い声で何度もしゃくりあげた。千紘は少し黙り、桜子が再び落ち着くのを待とうと思ったが、か細く震えるような泣き声は止まる気配がなかった。
「旦那は認めたの?」
「ううん」
だろうな、と千紘は思う。浮気しているか聞かれて、うん浮気してるよなどと言う人間は、そうそういないだろう。
「そっちに友達は? 誰か話せる人いないの?」
「・・・・・・そんな人、一人もいない」
桜子は神戸に引っ越してからずっと主婦だと言っていたから、知り合いができにくいのかもしれない。だからこうしてたまたまかかって来た千紘の電話で、こらえきれずに泣いてしまったのだろう。
「実家は? 取り敢えず帰ったら?」
「できるわけないよ、そんなこと」
桜子の即答に、千紘は首をひねる。Q県にいた時は月イチで実家に帰っていたし、結婚式で会ったご両親は桜子に似てとても優しそうだった。帰ったら大変だったねと話を聞いてくれたり、話すのが嫌ならば骨休みとでも言ってしばらく帰省させてもらうとか──
「千紘は東京の子だから分かんないかな。うちみたいな封建的な田舎は一度嫁に行ったら、戻ることは絶対許されないの」
「いやでも、不倫されてるわけだし、桜子はこんなに泣いて・・・・・・」
「りぃくんが不倫したって言ったら、耐えなさいって! そもそもお前が子どもも作らんから、こんなことになるって! 私が悪いって!」
「え・・・・・・っ」
確かに想像を超えていた。子どもって、桜子一人でどうこうするものでもなかろうに。しかも娘が不倫されてるのに耐えろとは、あんまりではないか。
「桜子、取り敢えず私そっち行くから! ね、話をしよう!!」
千紘は決意を固める。
もうダメだ、やはり一度話をした方がいい。
知ってしまった以上、このままでいいはずがない。
「え、千紘、そんな遠いし・・・・・・」
「何言ってるの! 距離なんてどうでもいいでしょ! 桜子がこんなに苦しんでるのに!!」
千紘は目を強くつぶり、首を振った。毛先が頬の横で激しく揺れる。
食べかけのキムチは、冷ややっこから出た水分で水の中につかり、唐揚げは固く冷え切っていた。
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