第六章 回想


「ああ、疲れた。それにしても良かったな・・・」

自宅に戻った佐久間は早々と湯に浸かり、三日間の山行の垢を落とした。さっぱりすると同時に、溜まった疲れがどっと出てきた。安堵顔のお袋が作った好物料理を肴に、冷えたビールを一気に飲む。成し遂げた充実感と伴に、じわっと腹に染み渡っていた。

「やっぱり、お袋が作った茄子の天ぷらは美味めえな。山じゃ、ろくなもの食ってねえからな。美味さが腹に染み渡るよ。お袋、有り難うな」

心の内で感謝しつつ、ついと口にでた。

「そう、それはよかった・・・」

それだけ、お袋が返した。

笑みを浮かべる顔が、食いっぷりを見ていた。それに気づき照れる。

「なんだよ」

すると、

「あら、なんでもないわ」

さらに零れた。

会話という会話にならないが、それでいて、互いの気持ちが通じ合う。勝手気ままな冬山登山。親の心配をよそに、どこ吹く風と出かけていった。元気な姿で戻るまで、心配かけたと思う。俺には少なからず、すまぬという気持ちが生じる。 お袋にとっては、無事に帰って来てくれたという安堵の思い。そんな間の空気が漂っている。その証拠に手料理や顔色に表れていた。

満たされつつ、ふと思う。

腹を空かした子供の如く、料理にかぶりついている。目を細めたお袋がその仕草を見守っている。冬山が危険であることは、言われなくても感じているのだろうか。俺の飯を食う様を見る目が安堵していることで分かる。危ないから行くなとは言わない。説教しても無駄だと分かっているからだ。黙って行かせてくれるが、大いに心配しているに違いない。俺が今、食っているお袋の手料理を見れば、それが分かる。

お袋ったら、元気な俺の顔を見たとたん、急に夕食の仕度をしだしたからな。

なんと言ったって、俺の好物ばかりだ。無事の帰還を喜んでくれているのだろうか。お袋、心配かけてすまない。けど、すまないが、こればかりは止めやれねえんだ。

胸の内で懺悔する。

冬山が危険であること、そして心配であること。俺には説教しないが、送り出す時の様子で心痛めていることが分かる。だから出掛ける時、なるべく危なげな顔はせず、心配ないと振る舞う。

では、そんなにまでして、「如何して行くのか」と問われれば、俺ははっきりと断言できる。「山が好きだから」と。それに、「万全の注意を払ってチャレンジしているだから心配するな」とな。

それでは何故、危険を冒してまで挑戦するのかと言われたら、即座に答えるそこには冬山の素晴らしい魅力が一杯あるから」と。「一度その扉を開くと、冠雪した山々の絶景が、見るものすべてを虜にしてしまうからだ」とな。

無事に戻った日は、そんなことを思いつつ、黙って見つめるお袋の前で、飯を食いビールを飲んだ。そのうち、腹が満たされるのと同時に酔いが廻ってきた。早々と切り上げ寝床へともぐり込む。睡魔は放っておかない。直ぐに眠りに落ちていた。それはまるで、安堵するお袋の懐で寝ているようだった。

翌朝、遅めに目が覚めた。起き上がると節々が痛く、疲れが取れてないのか、なんとなく身体がだるかった。が、一夜明け、さらに成し得た充実感が、ずっしりとこの胸に感じ取れるものとなっていた。煙草に火を点け、ゆっくりとくゆらす。

すると、脳裏に刻まれた素晴らしい山影が、瞬時に蘇ってきた。冠雪した八ヶ岳連峰の岩稜に一段と輝く山並みがクローズアップされてくる。阿弥陀岳、主峰赤岳、続いて横岳、そして硫黄岳と連なる鋭鋒の山々。夜の白みを突き破り昇り来る朝日を受けて、冠雪した峰々が輝き始める。眩いばかりのその輝きは真っ白な積雪に当たり、よりたくましく、そして岳々の岩肌に反射し、四方に解き放たれて行く。その輝きの中で、稜線に吹き上げる強風に、追い立てられるように粉雪が舞い上がる。その中で、一段と煌びやかな装いの山岳が光り輝く。

それが主峰赤岳の雄大な姿だ。

思い起こすと、また生々しく脳裏に浮かんでくる。すると顔や耳の辺りに、あの時の風雪の突き刺す感じか蘇る。なんとなく手の先、足の指先までにもその感触が疼いてくる。気持ちでも早まる鼓動と伴に高ぶりだす。そして、その波動が大波の如く身体全体にうねり広がり、脳裏に浮かぶ厳冬期の八ヶ岳の厳しさと、眩いばかりの光景が、現実のものとして目の前に鮮やかに蘇ってくるのだ。そんな思いに駆られた時、手に汗を握るほどその情景にのめり込み、そんな絶景を追い求めるように目を細め、じっと遠くを見ている。

日めくりを何度めくっても、心の襞に深く刻み込まれた山景は、そう容易く消えたり、薄らんだりせず、何時までも残り続ける。俺はそれを感動の余韻と共に大切にしている。時々思い起こしては、タイムスリップし陥る。

あん時はよかったな。寒さは厳しかったけれど、それ以上に素晴らしかった。頬を刺す風雪の痛さ、それに甚深と伝わるアイゼンが噛む凍岩の響き」

「時々思い出しては、その時の感動が蘇るんだ・・・。

そんな日々が続く。

八ヶ岳から戻り数日が過ぎていた。山行の疲れも取れ、日常の暮らしへと戻っていた。山行の絶景が詰まるフイルムの現像を依頼し、出来上がった写真をまざまざと凝視する。そこには踏破した己らの雄姿が、鮮やかに映し出されていた。

「おお、よく撮れているな。しかし、結構険しい顔をしているぞ。それに睫毛が凍って、本当に寒そうな格好しているじゃねえか」

何時の間にか、佐久間はぶつぶつと喋り、その情景の中へと引き込まれていた。

足元から吹き上がる風雪が目出帽子をすり抜け頬に当たり、冷たさが身体の芯まで突き刺してくる。吹きさらしの稜線に出てからずっとそうだった。吐き出す息が睫毛にこびりつき、やがて凍りついた。半端でない寒さは、手袋を通して指先が痛くなる程だ。足にしても同じだ。登山靴を通してつま先の感覚がなくなった。

ふと現実に戻り、そっと頬に触れてみた。一瞬、冷たく思えたが直ぐに消え、何時もと同じく温かい。

それにしても、厳しく寒かったな・・・。けれど、楽しかった。それに絶景だった。厳冬の厳しい空に向かってそそり立つ岩稜の山々。その中でひときわ異彩を放つ主峰赤岳。今、思い出しても、あの迫り来る鋭鋒が谷底から風雪を巻き上げ、天空に吹き飛ばしていたんだな。

誰も、そしてなにもかも寄せつけない凛々しい姿があったではないか。それに従うように阿弥陀岳や横岳、そして硫黄岳が連なり君臨する姿は、そりゃあ圧巻だった。そんな厳冬期の緒岳を踏破してきたんだ。きつい行程だったが、やっつけてきた。勿論、俺一人で成したわけではない。阿部、村越と三人の仲間の強い絆と連係プレーがあったからだと。彼らが如何思おうが、感謝している。

それにしても、厳しかった。でも、胸打つ感動する場面が幾つもあった。これらの写真を見、目を閉じれば、今でも瞼の裏に鮮明に蘇ってくる。そうだ早く奴らに見せてやらねば。きっと喜ぶだろうよ。

携帯電話の発信ボタンを押す。

「もしもし、阿部?」

「はい・・・」

「俺だ、佐久間だ!」

「おお、佐久間か!如何だ、調子の方は?」

尋ね返してきた。

「ええっ、調子って、なんの調子だ?」

「決まっているだろ、八ヶ岳へ行ったその後の回復具合は、如何かと聞いているんだ」

「ああ、そのことか。それなら、もう疲れは取れたし、別になんともないよ。それで、お前の方は?」

逆に問うた。

「いや俺の方も、あの日は帰ってからバタンキューだった。翌日も昼過ぎ迄寝ていたからな。今じゃ、お前とかわらん」

「そうか、それはよかった。そうだ、じつは今日電話したのは、八ヶ岳で撮った写真が出来たんで、見せてやろうかと架けたんだ」

「本当かよ。よく撮れてるのか?」

「ううん、まあまあだ。皆もそれなりに写っているし、景色もばっちり撮れているよ」

「そうか、それじゃ早くみてえな」

「それでだ、この前別れ際に話したように、また、三人で合おうぜ」

「ああ、いいな。反省会というか、一杯やりながら写真でも見て、わいわい山の話でもしようじゃねえか。ところで、村越の方は、お前の方から連絡してくれるんだろ?」

「ああ、しておくよ」

そして確認する。

「それじゃ、何時会うか?」

「そうだな、今日が火曜日だから。今度の金曜日の夜ということで。場所は池袋の東口で如何だ?」

「ああ、いいよ」

阿部が返した。

「それじゃ、午後五時ということにしよう。如何せ何時もの居酒屋なんだろ」

「決まっているじゃねえか。俺らの溜まり場だ。他にどこがあるってんだ」

「まあ、そうだよな」

「それじゃ、そういうことで楽しみにしているからな」

「ああ、それじゃな」

佐久間は電話をきり、直ぐに村越に連絡を取り、二月二十六日の金曜日夜に会うことに決めた。ただ、村越は待ち合わせ場所の駅でなく、居酒屋「白糸」で落ち合うことになった。

当日がやってきた。

「いや、久しぶりじゃねえか!」

佐久間と阿部がすでに飲んでいる席に、少々遅れて村越がやってきた。

「悪い、悪い。ちょっと野暮用があったんで、遅れてしまった」

「まあ、そんなことは如何でもいい、早く一杯やれよ。俺らは先に始めていたからな」

佐久間が急かすと、村越が応じる。

「それは構わないが、ところで写真出来たんだろ。もう阿部は見たんか?」

「いいや、まだだ。こいつが、「村越が来るまで見せねえ」って言うもんだから、まだ見てねえんだ」

「おお、そうか。それは楽しみを先延ばしさせて悪かった。佐久間、阿部に見せてやれよ」

「いいや、まだだ。村越が、俺らのペースに追いつくまでお預けだ!」

「仕方ねえな。それじゃ、早くお前らに追いつくとするか」

そう言い、店員が持ってきたビールジョッキーをかかげる。

「それじゃ、もう一度、乾杯しようぜ!」

三人はジョッキーを合わせ、遅れを取り戻そうと村越が一気に喉に流し込んだ。

「ぷっはあ、やっぱり美味えな!」

「さあ、駆けつけ三杯だ。村越、どんどん飲んでくれ!」

進められるままに、ジョッキーを空にし、直ぐに二杯目が持ち込まれる。

「村越、遅れてきたんだ。早く俺らに追いついけよ。それじゃねえと、佐久間が見せてくれねえからよ」

「ああ、合点だ!」

二杯目のジョッキーの大半を飲み干した。頃合いを見て、佐久間が告げる。

「それじゃ、そろそろお待ちかねの厳冬期八ヶ岳縦走写真のお披露目だ」

カバンから袋を取り出し阿部に渡す。

「ひやっ、楽しみだぜ!」

写真を取り出し見入った。

「おお、よく撮れているじゃねえか!」

まじまじと視線を投げかける。すると待ち切れず、村越が手を伸ばす。

「早く俺にも見せろ!」

「ああ、ちょっと待て。ほら」

一枚づつ村越に手渡す。受け取り凝視する。

「うひゃっ、いいじゃねえか。この赤岳の絶景、写真にしても迫力があるな。さすが八ヶ岳連峰の主峰だけあって、すげえ!」

「おい、佐久間。これが赤岳山頂で撮った俺の写真か?」

「どれどれ、ちょっと見せてみろ」

村越から預かり、写真に視線をやる。

「ううん、そうだ。赤岳山頂で撮った、お前で間違いない」

「そうか、そうか」

勇姿に納得し、阿部が写真を受け取り見直す。

「そうか、そうすると。こちらの写真は、阿弥陀の山頂のものだな。どれどれ」

横から佐久間が覗き確認する。

「そうだ」

「うむうむ、どれもよく撮れてるな」

阿部が食い入り見ていた。しばし飲むのを忘れ、絶景や自分らの写真に満足する。そんな時、誰もが一時的にせよ、情景写真の中に引きずり込まれている。その目の輝きは、まさに八ヶ岳での山行に全精力を傾けている時の、そのものの視線だった。自分らが今いる居酒屋から、投げる視線が時空を超え、まさしく岩稜の岩道を歩いている。縦走中の稜線に投げている鋭い視線と同じになっていた。 そして、心が身体から遊離し、吹き上げる稜線の真っ只中に飛んでいた。三人の息遣いが、何時の間にか荒くなっていた。

一通り見終わり、現実の世界へ戻るなり、今だ興奮が冷めやらぬのか、村越が上気した顔で発する。

「いや、よかった!しかし、どの写真も、よく撮れているが。やはり、俺が一番凛々しい気がするよ。まあ、お前らが劣るというのではないぞ。そこのところは誤解しなでくれ」

「あれ、また村越の空けが始まったぜ!」

阿部が突っかかった。すると、ぬけぬけと抜かす。

「まあ、俺の場合は被写体というか、要するに元がお前らと違うから、写真に収めると、如何しても差が出てしまうんだよな。これは致し方ないことさ」

「しかし、懲りねえ野郎だぜ、村越は。いや、待てよ。そうじゃねえんだ。そうか、別名能天気という病気なんだっけな!」

ずうずしさにカチンと来たのか、あからさまに揶揄した。

「なにを言う、阿部。馬鹿なこと言ってんじゃねえ。素材の悪さを棚に上げて、その言い草はないだろう!」

逆に村越が突っかかった。

「ああ、分かったよ。気にさわったら勘弁してくれ」

惚けた。そして話題を変える。

「お前は遅れてきたんだ。まあまあ一杯やってくれ。お前のビール、もう残り少ねえから頼んでやる。お~い!」

店員を探し目ざとく手を挙げた。

直ぐに来る。

「ビール大ジョッキー追加。急いでくれ!」

阿部が注文した。

「おい、村越。何か食うもの決めて頼めよ」

「ああ、分かった。それじゃ」

メニューを見ながら、幾つかの肴を注文した。終えて打ち明ける。

「ところでよ。この前の八ヶ岳、すんごくよかったよな。俺、今でもあの時の感激というか、感触がこの身体に残っていて消えないんだ・・・」

「お前もそうか。じつは俺もそうなんだ。何かにつけ、ふと思い出すと言うか、蘇ってきてな。気がつくと何時の間にか、この写真に写っている状況の中にいる自分がいてよ。足のつま先や手の指先が甚深と来てるんだ」

阿部が同調した。そして横にいる佐久間に尋ねる。

「佐久間、お前は?」

すると、ジョッキーを口に運びながら頷く。

「ううん、俺も同じだな。ほら、阿弥陀へ行く手前のコルというか、急斜面のところで、滑落停止の訓練をやっただろ。思い出すよな・・・」

すると阿部が絡む。

「おお、そうだった。俺だって、そりゃ、真剣にに取り組んだからな。何回ピッケルで止めようと、雪と戯れたか・・・」

「そうだったな。最初は要領えねえから、へっぴり腰になって転がっていた。でも、何度か試すうち様にになるもんだ。昨年体験しているから、上手く止められるようになったもんな」

阿部の話に添え、佐久間が思い出していた。するとそこに、村越が割り込む。

「ああ、あれで結構汗かいたぞ。幾度も斜面を登り、滑っては滑落停止を繰り返していたからよ。それに、鉱泉小屋に着いた時のあの感動。甦るやな」

思い起こし目を細めた。

「そうだよ、何度見ても絶景だぜ。冠雪した針葉樹林と、その上に巨岩の大同心や小同心が、そそり立っているんだからな。すげえっていうか、眺めていると迫り来るようだった」

阿部が感激していた。すると、写真の束から抜き出す。

「ほら、この写真だ。見てみろよ!」

佐久間が巨岩の大同心、小同心の写真を見せる。

「おお、これだ。これだよ。写真で見てもすげえけど、あん時見た実物は、もっとすごかったな。ああ、やっぱり実際に行き、生で見るとその迫力感が、ずんと伝わるよ。あの巨岩、やっぱりすげえや!」

感慨深気に言い、

「厳冬期の冷たいと言うか、極寒の空にそそり出ているんだ。それを間近に見れば、そりゃ、鳥肌が立ってもんだ」

佐久間が二の腕を摩り付け加え続ける。

「おおそれと、鳥肌というと思い出したが。縦走を終えた翌日。そう、下山した日だけど。すごく寒かったよな」

「ううん、別に毎日が寒かったんで気にしていなかったが。それが如何だと言うんだ、佐久間?」

阿部が訝り問い返した。

「ああ、なにを言いたいかというとだな。まあ、あまり大したことじゃねえんだが、じつは、ほら、朝起きて皆で小屋の前で小便をしただろ」

佐久間が説くと、阿部が促す。

「おお、したが、それで・・・」

「溜まっていたんで、長小便で雪の上に絵を描いたよな」

「ああ、思い出したぜ。そうだったな」

佐久間が次の質問をする。

「いや、まあ、そんなことは如何でもいいんだが、小屋の玄関に温度計があったの覚えているか?」

「いいや、そんなの知らねえ。と言うより、寒くて気がつかなかったけど」

「いや、なんの気なしに、その温度計を見て驚いたよ。あん時の気温が、いったい何度だったと思う?」と今度は村越に向けた。

「あいや、相当寒かったよ。ちんぽこが凍えていたからな。そうさな、氷点下であることは間違いないが。阿部、お前は何度だったか覚えているか?」

分からず振った。

「いや、俺もすごく寒かったんで、小屋の温もりばかり気になって、入口に温度計があったことすら気づかなかった。だから、何度だったと聞かれても、村越と同じ答えしか出せねえな」

戸惑いつつ返した。すると村越が尋ね返す。

「ところで、佐久間。お前見たんだろ?」

「ああ、たまたま見てびっくりしたね。氷点下だが、なんとマイナス十一度になっていた」

「なにっ、マイナス十一度・・・」

想像つかぬ顔の阿部を前に、村越が驚きの声を上げる。

「うっへえ、そんなに低かったのかよ!」

すると、阿部が目を丸くする。

「本当かよ、マイナス十一度。そんなに下がっていたのか。寒いっていうもんじゃねえぜ。寒さの限界を遥かに超えた寒さだ。東京で零下になったら騒ぎ出すだろ」

改めて驚きの顔になった。

「それにしても、佐久間。よく今まで黙っていたな。お前がびっくりしたんだったら、その時教えてくれればよかったのによ。まったく冷めてえな。おっと、マイナス十一度じゃ、口の周りが凍りついて喋れなかったのかな?」

上げ足を取った。佐久間が返す。

「ああ悪かったな、気づかねえでよ。俺もあまりに寒かったんで、小屋に早く入りたくて、その時教えればよかったが、気が廻らなかった。それで今、思い出したから話してんだ」

「そうかい。でも、そんなに温度が下がってるなんて想像もつかなかったぜ。それにしてもよかったよな。あん時たしか、硫黄岳から下りて来て、広い岩くずの尾根に出て、天狗岳へ行く分岐点のところの話を、赤岳の頭で話していたじゃねえか」

何故か別の話題に切り替えていた。それに応える。

「おお、そうだ。あそこで道を間違えて、天狗岳の方へ行ったら大変だと話していたんだ。そうだよ、夏場なら雪がないから白い砂地で、目印になり間違えないが、二月の今じゃ、雪が積もっていて、辺り一面が真っ白で砂地など隠れてしまい、気をつけねえと間違えるからな。それこそ天狗岳方面に行って、気づいた時には戻れなくなっているか、そのまま突き進んでビバークなんてことになってみろ、あの鉱泉小屋前で朝方マイナス十一度だぞ。稜線じゃ、おそらくもっと低く、マイナス十五度以下になっていたかも知れんな・・・」

佐久間が推測した。すると、珍しく真顔で、村越が付け加える。

「・・・と言うことは、俺ら三人とも凍死して、遭難ということになっちしまうじゃねえか。しかし、そんなに温度が下がるということか。だから事前に周到に計画を立て、さらに細心の注意を払って行動せんといけねえということだな」

「まあ、俺らが行った時は、三日間とも天候に恵まれたから良かったが、途中で天候が急変することだってざらにある。特に低気圧が進んで来ている時に出っくわしてでもみろ。たまったもんじゃないぜ」

阿部がさらに加えた。

「そうだよな。せっかく来たからと、天気の崩れているのに無理して行動する奴らもいるからな。途中で急変した時は、断念するくらいの勇気を持たないと駄目だ。無謀な冬山登山は絶対にやっちゃいけねえ。晴れていればこそ、絶景だのといってられるが、万が一、赤岳の山頂付近で崩れてみろ、めちゃ危険だぞ」

「そんな時はいくら体力があっても、臨機応変にコース変更して下山することだ!」

村越がビシッと決めた。

「それはいい判断だ。俺らの計画では、要所に逃げ道を入れているからな。その辺は抜かりがねえぜ。今の話の場合だと、中岳寄りに戻ったところに文三郎尾根があり、そこから下山して行者小屋へと避難する。そうだよな、万が一の時の計画では」

「ああ、阿部の言う通りだ。だけど、一番頭を悩ますのが、横岳を過ぎた後だ。硫黄岳辺りで急変したら最悪だぜ。だって、逃げ道がないからな。それでも唯一あるのが、天狗岳へと抜ける道だ」

すると阿部が、

「それって、俺は考えていなかったし、入る前の打ち合わせでは、出なかったんじゃねえか?」

佐久間に疑問を投げた。

「ああ、その通りだ。だけど、そんなの通用しないぜ」

「まあ、そうだが・・・」

「けど調べておいたんだ。ほら、地図を見てみろよ」

持ってきた五万分の一の地図を広げて指差した。阿部や村越の視線が、その地点に注がれる。

「ほら、こちらの方向に逃げるんだ。ロボット雨量計跡のところ通っただろ。あそこから夏沢峠のヒュッテ夏沢か、やまびこ荘へとな」

「ああ、そちらに行くわけか。なるほどな。そういう手があったか」

今度は村越が頷く。さらに佐久間が注釈する。

「四十分ぐらいで行けるからよ」

すると阿部が疑問を呈する。

「でも、待てよ。それって、さっきのビバーク、遭難という話になっちゃうんじゃねえか?」

「まあ、たしかに要注意地点として、確認し合っていたところだけど、今の話は目的が違う。途中で道を間違えるのと、緊急避難という目的で行くのとでは、自ずと持つ意識が違うんだ。はっきりしていれば、狼狽えることもないし、動揺せずに天狗岳方面へ行けるというもんだ」

「ううん、佐久間。そこまで考えていたのか!」

阿部が興奮気味に放った。

「でもよ、仮にそちらの方へ逃げたとしても、山小屋は閉まっているんじゃねえか。如何やって避難するんだよ」

またまた阿部が疑問を吐いた。

「ああ、そこのところだが、たしかに閉まっている。けど、小屋のどこかを探せば入口はある。緊急避難時のために、小さな入口を作ってあるものさ」

「それは、知らなかった」

「まあな」

佐久間が応えた。

「感心するよ」

阿部が納得した。

佐久間は頷き、ジョッキーを口に運んだ。

「でも、よかったじゃねえか。天候も変わらず、晴天の山歩きを充分堪能させてもらったんだからよ」

村越が結論付けて話題を変える。

「しかし無事に帰れ、こうして今、美味いビールを飲めてるんだ、楽しかったな。ほら阿部、見てみろよ。俺の目の周り」

日焼けした顔を差し出した。それを見て伺う。

「おお、真っ黒じゃじゃねえか」

「ああ、雪焼けの跡だ。ところで、お前らだって、目の周りが焼けてるぞ」

二人の顔を指差した。

「おお、そうなんだ。他の奴らに言われるよ。「なんだ、阿部。お前の目の周り黒くて、まるでパンダみねえだぞ」ってな。でも、そいつらに言ってやるんだ。「いや、ちょっとな。この前、冬山に入ってきたんでよ」って。すると、皆、一様に「冬山かよ!」と驚かれ、「お前、そんな本格的なことやってんのか」って。急に敬拝する物言いとなり、まじまじと見らるんだ。

それで俺は自負し、「まあな、厳寒の八ヶ岳縦走をやってきたばかりでな。あの絶景を見たら虜になっちまったぜ。その勲章がこれだよ」と、ちょいと黒い鼻を高くしてやったさ。

そしたら、皆、目ん玉丸くして、「すげえな、お前って。そんな危険なことやってんのか」って、驚いていたぜ」

そんな話を喋り終えたところで、佐久間の顔を覗く。

「そう言えば、佐久間。お前の鼻くっついているじゃねえか」

冗談ぽっく振った。

「おお、凍傷にならずよかったよ。あん時はびっくりしたもんな。寄りにもよって、鼻の頭がもげたんじゃ、さまにならねえからな。一生マスクして暮らすことになっちまうじゃねえか。そんなの真っ平ご免だぜ」

己の鼻を摩り応じた。

「そうだけど、彼女とキスするにゃ、邪魔にならずにいいんじゃねえか」

阿部がふざけた。

「馬鹿野郎。鼻がなかったら、女だって逃げちまうぜ。だいいち、キスする時にマスクを取って見せてみろ。それこそ、悲鳴を上げ気絶しちまうぞ」

「そりゃそうだ。それでなくても、お前は短足で不細工なんだから。万が一、鼻のない顔でマスク取ったひにゃ、如何にもならなくなるぜ」

村越が、さらに悪態ついた。

「放っといてくれ、ちゃんとついてるから。けど、短足で不細工はねえだろ。そう言うお前らだって、俺とおんなじで変わりねえぞ。だからそう言う村越、お前だって己に言っているようなもんだ。あっ、そうだ違いがある。村越、お前の場合はプラス、でぶがつくよな」

「あれ、自分のことを棚に上げ、俺も同じだなんて、よく言うよ。この男前の俺を捕まえて、同類に扱わないでくれよ。迷惑千万だ!」

真顔で反発した。

「まあ、まあ、互いに身体のことはいいっこなしにしようぜ。所詮、似たり寄ったりだからよ。それより、如何だ。次の山行の話でもするか」

阿部が両者を宥め話題を変えた。すると村越が乗る。

「そうだな、それもいいな。でも、今年の冬山はこれでお終りだろ」

「ああ、今シーズンは本格的な冬山山行はお終いだ。三月になれば暖かくなり、雪崩が発生する恐れもあるし無理だ」

佐久間が結論付けた。

「それもそうだ。まあ、来季まで手仕舞いとしようや。でも、ちょっと欲しい気がする。だって、如何もこの手先や耳たぶが火照ってくると、つい思い出してしまうんだ。あの岩稜の稜線で吹き上げてくる風雪を。あん時は、夢中でピッケルを握り、アイスバーンの岩道をアイゼンで踏み締めていたからな。今になると妙に恋しくなるぜ。それに吐く息が睫毛にくっついて凍り、本当に見づらかったよな」

しみじみと阿部が言った。すると、佐久間が反応する。

「そうだな。厳しい寒さと風雪には随分悩まされた。でも、その厳しさこそ冬山の絶景になるというもんだ」

村越が同調する。

「ああ、たしかにそうだ。さっきお前が言ったように、マイナス十一度の温度、いや、稜線じゃ十五度以下の中で格闘してたんだ。これは貴重な経験だったぜ。あの寒さを思えば、都会の寒さなんて大したことない。また来年、八ヶ岳に入ろうぜ!」

「今度は正月にでも入ってみるか?」

阿部が提案すると、佐久間が案論する。

「駄目だ正月は。山小屋なんぞ、如何しても人が多くなる。ごった返すだけで、よさが半減しちまう。だから二月頃に入るのが一番いい」

「佐久間の言う通りだ。やっぱり二月の雪が安定している頃に入るのが一番だ。そうしようぜ!」

村越が賛同し続ける。

「それが言い。俺らのペースで楽しめなきゃつまらんからな。正月なんかに行くのは、時間的にゆとりのない奴らが行けばいいんだ。幸い俺らには、腐るほど時間があるって言いたいんだろ」

阿部が尤もと応じる。

「まあな。それに金もねえし、シーズンに行けば山小屋も割高だからよ。ケチって野宿するわけにいかんし」

冗談言うなと村越が虚仮下す。

「馬鹿野郎、そんなことできるか。死んじまうじゃねえか!」

厳しかった反面、それを克服すると断ち切れなくなるのか、もう次の冬山登山の予定を決める。それだけ妙に懐かしくなっていた。そのせいか思い出し、厳冬期の八ヶ岳での山行の情景に我を忘れ、談笑に花を咲かせていた。ひとしきり話し終えたところで満ち足りたのか、夫々の顔に満足感が漂う。過酷な厳しい大自然に立ち向かう縦走も、今ではむしろ懐かしいというか、愛しささえ感じていた。





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