朝は直ぐにやってきた。あっと言う間だった。それ程熟睡したのだろう。疲れきった身体が深い眠りに落し込んのだ。途中で一度も起きることなく、清々しい気分で朝を迎えていた。若い山男らには一晩で疲れを癒す。気持ち的にも達成感がそうさせていたのかも知れないが、目覚めよく白む朝を迎えた。

「ああ、よく寝た。おかげで疲れも取れたよ」

起きざま、阿部がすっきり顔で挨拶した。次々に起きた二人も、寝起き顔がすっきりしていた。

「今、何時だ?」

「おお」

阿部が腕時計を見て「午前六時過ぎだ!」と答えると、村越が状況説明する。

「通りで、白みかけていると思ったよ。それじゃ、今暫くすれば朝日が昇ってくるな」

「ああ、そうだ。まだ薄暗いが、もう少しで昇る。昨日出発した時間と、ちょい遅いぐらいだからな」阿部が同調する。

「そうだよ、昨日はもうこの時間には鉱泉小屋を出発していたんだ。今日は今頃起きたなんて、優雅な気分になるな」

村越が嬉しそうにほざいた。

「如何だ、小便でもしに行くか?」

佐久間が誘うと、二人が応じる。

「ああ、そうだな。ついでに天気の状態でも見ておこうか」

「おお、それじゃ行こうぜ」

三人は土間へと降りて小屋の外へと出た。冷やっこい風が彼らを包み、明けやらぬ空に無数の星が輝いていた。

「わお、寒いな。ううん、今日もいい天気じゃねえか?すっきりして気持ちいい。これで目覚めもばっちりだ。けれど、やっぱ寒いぜ」

村越が身体をちじ込め身震いをした。

「ううん、やっと東の空が白み出してきたぞ。このぶんだと、陽が昇ってくれば雪が朝日にあたって輝いて見えるな。それにしても寒ぶい」

やはり阿部も身震いし、大きく息を吸い背伸びをした。そして小屋から少し離れたところに立ち、積もった雪めがげて一斉に放尿する。当たった雪が、黄色に変わる様を阿部が見つつ促す。

「ほれ、見てみろ。面白いじゃねえか」

「そうだな、これは絵文字でも書けそうだ。ううん、結構難しいな。上手くいかねえや」

立小便をしつつ、村越が興味本位に試みた。

「しかし寒いな。たしかに陽が上がる前が一番冷えるというから。まさに、今がそれじゃねえか。でも西の空を見てみろ、星が落ちてくるようだぜ。この星数、無数というのはこのことだ。しかし、すげえもんだ。まるで俺らを、覆い尽くしているという感じだぜ」

放尿しつつ村越が感嘆していた。

しばし覗っていたが、寒さが堪えるのか、ぶるっと身震いする。

「さあ、戻って朝飯の仕度でもようか」

登山靴を引きずり小屋へと戻った。そして、手早く朝飯の用意をし、食い終えていた。煙草に火を点け細目となりくゆらせ、満足顔で食後の一服を楽しみ佐久間が告げる。。

「それじゃ、午前七時半出発とするか。そうすれば美濃戸口には、三時間半として十一時ぐらいには着けるから」

「いいんじゃねえか。後は下山するだけだし、朝方だけアイゼンを付けて歩き、必要なくなったところで外せばいい」

村越が了解した。

「そうだな、途中で小休止を入れても十一時三十分には着ける。急ぐ必要もないし、出発時間はそれでいいんじゃねえか」

阿部が推測し告げた。

「異存なし!」

村越が暢気な顔で発し、さらに講釈する。

「まあ、途中美濃戸口山荘辺りまでは、アイゼンの着用が必要だろう、佐久間の判断は正解だ。ただし、朝っぱら、この鉱泉小屋を出たところに、雪の吹き溜まりになっているところがある。来る時は踏み固められていたんでワッパを使わずにすんだが、ひょっとすると今朝は必要になるかも知れん。一応用意しておいた方がいいかもな。それを通り過ぎたら、ワッパの代わりにアイゼンが必要になると思うよ」

鼻を高くし得意気に説いた。

「ううん、そうかも知れんな。冬山のプロが言うんだ。間違えないだろう。着装出来るように準備しておくか」

謙虚に頷いた。

「おお、佐久間君。君は物分りがいい。ところで阿部君。なにか言いたそうだが、この件で私に意見でもあるのかね?」

「いいや、別にないよ。ワッパの準備はしておくぜ」

「ううん、いい心掛けだ。私の言うことを聞いていれば間違いない。特に阿部君のように冬山の経験が浅い未熟な登山者は、私のようなプロの言うことに従って行動することが一番だ。分かったかね、阿部君」

村越がとっぽく言うと、

「ああ、分かった、分かったよ。冬山のプロ屋だか風呂屋だか知らねえが、聞いてやるよ」

阿部が貶し気味に応じた。すると、村越が口を尖らせる。

「プロ屋や風呂屋ではない。プロだ。プロフェッショナルというものだ!」

いきり立ち念押しする。

「プロ、プロだ!」

阿部がかわし惚ける。

「はい、はい、プロ屋さん。了解しましたよ」

「くそっ、何度言ったら分かるんだ!」村越がむきになった。

戯言を交わしつつ、夫々が荷物の整理に取り掛かった。午前七時半が過ぎていた。アイゼンを装着して、佐久間が一息入れる。

「さあっ、出発するか。村越、準備の方はいいか?」

「ああ、何時でもいいぞ!」

「そうか、阿部は如何だ?」

整い応じる。

「俺の方も仕度は出来ている」

「そうか、それじゃ。下山するか」

佐久間がピッケルを杖代わりにし、反動をつけ「よっこらせっ!」と掛け声をかけ、大きなキスリングザックを背負い出口に向かう。肩にずっしりと重みが伝わり、よろけそうになるが踏ん張り耐える。ピッケルでバランスを取りながら小屋の外に出た。案の定、村越の予測通り山道が雪深くなっていた。早速アイゼンを外しワッパに履きかえた。

「如何だ、俺の予感が当たっていただろう!」

胸を張り鼻をつんと上げた。

「さすがだな。村越先生の言われる通りだ。先程は先生が助言してくれるまで、まったく気がつきませんでした。やはり風呂屋じゃなくてプロ、そう冬山のプロフェッショナルですね」

佐久間が持ち上げた。

「ううん、それ程でもないが。俺くらいになれば、これしきのこと簡単に分かるものさ」

汚れた鼻をさらに上げ嘯いた。それを見て阿部が茶化す。

「大したもんだぜ、風呂屋さんよ」

すると村越が目を剥く。

「風呂屋じゃねえ、プロだ。間違えるな!」

さらに突っ込む。

「そういえば、たしかに大したもんだよな。昨年なんか稜線で滑落停止の手本を、本番さながらに見せてくれたもの。それも予告なしでだぜ。ありゃ、プロじゃなきゃとても出来ねえ芸当だ」

困惑してか村越が口ごもる。

「まあ・・・、一瞬のことだったんで、即興ということで、予告なしで手本を見せてしまったが、臨場感があって君らには多少なりとも、いや、大いに勉強になったであろう」

言い訳け気味に応えた。するとまた、阿部が冷やかす。

「ああ、大いに勉強になったさ、肝を冷やす勉強にな。なあ、風呂屋さんよ」

「あれ、またそんなこと言いやがる。風呂屋じゃねえ、プロだ。俺は冬山登山のプロフェッショナルだぞ!」

村越が剥きになり怒鳴った。後尾につける佐久間は、二人の軽口を苦笑し聞いていた。

「さあ、ワッパも着けたし無駄口叩いてないで、先へ進んでくれよ!」

佐久間が急かせ気味に促した。三人は輪かんを装着し、日陰になった雪深い山道をゆっくりと進んで行った。暫くすると、窮屈そうに村越がぼやく。

「しかし、草臥れるよな。ワッパを着けると、歩きづらくてかなわん」

すると阿部が同調する。

「まったくだ。息が切れるぜ」

佐久間も息が上がっていた。三人ははあはあと息遣いをし、たくみにピッケルでバランスを取り歩を進める。一時間ほどの行軍が続いた。

「ここいらまで来れば、ワッパも必要ないだろう。けど、雪道は凍っているからアイゼンに履き替えようぜ。村越先生、それで宜しいでしょうか?」

しんがりが尤もらしく尋ねた。

「そうよの。俺も今、同じこと考えていたんだ。察しがいいな。見るところ、積雪の状態からワッパはもう必要ない。ただ、凍土ゆえアイゼンがベターだろう。まあ、こんなところだな。佐久間君」

薀蓄を並べた。ところが聞いてないのか、勝手に話を進める。

「そうだ、ちょっと待て。輪かんを履いているところを写真に撮っておこうぜ」

佐久間が告げ、ザックを下ろしカメラを取り出し、その雄姿を連写して、気が付いてか礼を言う。

「おっと、村越。アドバイス有り難うな」

「おお、如何致しまして。役に立てればそれでいい・・・」

拍子抜けした。

そして、アイゼンに履き替える。

「ところで、佐久間。今、どこら辺にいるんかな?」

「ちょっと待てくれ。今、調べるから」

村越に尋ねられ、五万分の一の地図を広げて現在地を探す。

「そうだ、たしかここは、堰提広場手前の北沢まで来ているはずだ。もう少し歩けば堰提広場へと着く。ほれ、この北沢沿いに下山していけばいいんだ」

「そうか、するとあと三十分ぐらいで、美濃戸山荘に着けるな」

村越が返した。佐久間が頷き、地図やカメラを手早くザックに納め告げる。

「それじゃ、そろそろ行くか」

三人は立ち上がり、凍りついた山道をしっかりした足取りで下山して行った。北沢を何度か繰り返し渡り歩いて行くと、初日迎えてくれた美濃戸山荘へと戻ってきた。

「しかし、ここまで来る間は日陰ばかりだったな。せっかくいい天気なのに、日向ぼっこも出来ねえや。まったく面白くねえ」

村越がぼやいた。

「そうか、それじゃ。この先の赤岳山荘のところで小休止しようか。あそこなら陽射しがあるぞ。そこで日向ぼっこして、一服しないか?」

佐久間が提案した。

二人が賛同する。

「そうだ、そうするか。昨日は時間に追われていたから、ちょっとのんびりしたいもの。ここまで来れば、あと小一時間で美濃戸口に着けるしよ」と村越。

「そうだよ、あそこまで行ったら、もう八ヶ岳の冬山縦走は完全に終わる。赤岳山荘で日向ぼっこし、昨日の縦走した余韻を、もう一度ゆっくり回想してみたいぜ」と阿部。

するとそこで村越が望む。

「おお、それはいい。そうしよう。このまま赤岳山荘まで行こう。そこでのんびり、昨日のことでも思い浮かべてさ、一服しようや」

皆が了解し美濃戸山荘を後にした。程なく歩くと、赤岳山荘へと着いた。勿論、冬季のため山荘は閉まっている。各々が入口扉前にザックを置き、階段に腰掛ける。そこには真っ青な空から燦燦と陽射しが降り注いでいた。

「ううん、気持ちがいいな」

阿部が目をつぶり太陽へと顔を向けた。

「さあ、一服するか」

村越が胸のポケットから煙草を取り出し、一本ずつ分け火を点け、互いに大きく吸い込み、気持ちよさそうに空に向け白い息と伴に吐き出していた。真っ青な空に向かって、冬の風に後押しされたなびいていた。じんわりと注ぐ陽射しに、佐久間が感慨深気に呟く。

「しかし、温ったけえな。周りの雪景色も綺麗だし、なんといっても、今回の山行が計画通りいったんで満足しているよ」

すると、揃って感謝する。

「そうだな。今回の八ヶ岳縦走は、天気に恵まれたし、なにより怪我なく無事完遂出来て嬉しい限りだ。ああそうだ。しいて挙げれば、あの風雪には阿弥陀岳から硫黄岳まで散々悩まされたがな」

「そうだよ。佐久間なんか、危うく凍傷になりかけてよ。慌てふためいていやがんの。滑稽だったぜ」

「ああ、あんときゃびっくりした。幸い日焼けですんでほっとしているよ」

佐久間が安堵した。

談笑が続いた。少しの間、降り注ぐ陽射しと戯れ休む。勿論、その間に、日溜りで寛ぐ様の写真を数枚撮った。冬の陽射しを浴びて、山男らの間にまどろむ時間が流れていた。小休止を満喫したのか、

「さてっ、そろそろ出発するか」

佐久間が立ち上がり声をかけた。

「オーライ!」

声が返り、また村越を先頭に、キスリングを背負い歩き出していた。赤岳小屋を出て暫く行くと、柳川沿いの山道へとやってくる。ここら辺まで来ると、すでに凍土もなくアイゼンも不要になった。そこでアイゼンを外し、ザックに仕舞い込み、また歩き出す。幾度か柳川を渡り進み、出発点となった美濃戸口へと辿り着いた。

「おお、やっと帰ってきたぞ。美濃戸口だ。これで後は、バスに乗り茅野駅まで行けばいいんだ。そしたら冬山縦走の完遂だ!」

村越が興奮気味に叫んだ。

「ああ、これで冬の山歩きともお別れだな。早速、茅野駅行きバスの発車時刻を調べてくるか」

充実感の中にも、なんとなく未練がましそうに佐久間が呟いた。

「ああ、それがいい」

阿部が言い、諏訪バス停へと向かった。時刻表を見ると、歯抜けのような運行時刻が目に飛び込んでくる。

「ええと、今、十一時だから。ああ、十二時二分までねえか」

佐久間が呟いた。

「ええっ、本当か。一時間も待たなきゃならねえのか!」

村越が不満気に叫んだが、それでも、後ろ髪引かれる思いが漂う。

「そうか、それしかないんじゃ仕方ねえ。それにするか」

阿部が落ち着いた口調で告げた。

「ちぇっ、しょうがねえ、そうしようぜ。小一時間あるからな。それにしても、腹が減ったな。如何だ、あそこの美濃戸口高原ロッジなら営業しているみたいだし、そこで早目だが昼飯食ってこようぜ」

村越が軽口と合わせ提案した。

「そうするか?」

「うん、それもいいな」

尋ねる佐久間に、阿部が賛同した。

「それじゃ決まった。ザックはここに置いておこう。如何ぜ、こんな汚ねえキスリングなんか持って行く奴はいねえだろう」

「そうだ、そうだ」

停留所に置いたまま高原ロッジへと向かい、閑散とするレストランで早めの昼食を済ませた。そして、予定通り十二時二分発、茅野駅行きのバスに乗り込む。乗客は我ら山男三人だけだった。最後尾の座席に座る。直にバスが走り出し、佐久間らは、バスの揺れに身体を任せていた。暫く走ったところで、なんとなく別れ惜しそうに佐久間が振り返る。すると、冠雪した八ヶ岳の全貌がくっきりと、その姿を現していた。

「おい、見てみろ。八ツが見えるぜ!」

佐久間が二人に声をかけた。同時に振り向く。

「おお、いい景色じゃねえか。今、俺らが登ってきた八ツみが見える」

バスに揺られ、ひとしきり離れ行く八ヶ岳連峰の景観を、食い入るように見つめていた。その顔は、車内の暖房に温められ、さらに感慨深気となり、日焼け色に染められて三つとも並んでいた。見入る山男らの目には、別れを惜しむ連峰が映され、時が止るほどゆっくりと進むように刻まれていた。そこで、佐久間がぽつんと呟く。

「しかし、今回の山行はよかったな。天候にも恵まれ、最高の冬山登山日和だったんじゃねえか・・・?」

すると、阿部が苦笑いし応じる。

「本当だ。佐久間の言う通りだぜ。計画通り、すべて制覇したんだからよ。それに滑落停止の訓練までやっちまってな」

「まったくだ。今回の冬山は、入念に計画を立てたからな。やっぱり段取り八分、仕事二分だよ。充分練りに時間をかけて準備したことが、いい結果に結びついたんじゃねえのか」

村越が満足気に付け加え、得意気にまたぞろ鼻をつんと上げる。

「まあ、今回の縦走の成功は、なんといっても俺のリードオフマンとしての好役割に尽きると思うがな。この類まれな行動による功績なくして、厳冬期の八ヶ岳縦走完遂は出来ないと言っても過言ではないんじゃないか。なあ、お二人さん」

「・・・」

歌舞かられ、一瞬、ぽかんと口を開けた。

「あいや、お前ら、なんという阿呆面しているんだ!」

「おお、いや、村越の言う通りだ。その通りだ・・・」

慌てて佐久間が応えた。横で阿部が苦笑いする。

「それにしても、よかったな。無事に下山まで出来てよ。なあ、村越」

同意を求めた。すると、傲慢顔になる。

「俺のリードが、今回の山行を有意義なものにしたんじゃねえのか!」

「その通りだが、滑落せずに済んだんだ。お前が感謝しろよ」

捻くるように阿部がほざいた。

「・・・まあな、今回は前回の経験を充分肥やしにして臨んだからな」

罰が悪そうに弁解した。揺れ動くバスに身体を任せ、一昨日以来入山した行程を回想し、夫々が思いを巡らせていた。バスはゆっくりと茅野駅に向かって走って行く。

「この中が暖かいから、ああ、なんだか眠くなってきたぜ。ひと寝りするか。如何せ小一時間かかるしよ」

阿部が漏らすと、皆、疲れていたのか、心地よい温かさに包まれ、何時の間にかバスの揺れを揺り籠代わりに、夢の世界へと落ちて行った。バスの中は暖房と車窓からの陽射しで、まるで春先の暖かさになっていた。





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