第五章 帰還



小屋の大部屋には、すでに三組のパーティーが占拠していた。

昨日は部屋の大半が埋まっていたが、すでに下山したのか、はたまた入山する者がまだのか、それ以外に山男らはいなかった。土間に腰かけたままザックを下ろしウインドヤッケを脱いだ。三人ともゆっくりとアイゼンを外し、一呼吸おいてはロングスパッツを取る。皆、無口だ。喋る気力がない。とにかく装備を取り身軽になりたかった。目出帽子を脱いだ顔から湯気が立ち昇ってゆく。薄汚れた顔に厳しかった冬山縦走の疲れが表れ、吐く息と重なり漂っていた。

それでも三人は、黙々と取り外したアイゼンやロングスパッツ、そして手袋、ウインドヤッケなどの片づけをしていた。

「ああ、やっと片づいた。しかし、疲れたな・・・」

一通り終えた阿部が漏らした。

「そうだな、俺も草臥れたぜ。それにしても腹が減ったな」

村越が告げ、片づけをしている佐久間に、気だるそうに問いかける。

「終わったら、夕飯の用意でもするか?」

「そうだな、時間もたっぷりあるし、ひと休みしてからでもいいんじゃないか。お前らだって疲れていんだろ?」

気遣った。すると、阿部が諭す。

「そうだよ、村越。少し我慢しろや。一服してから一緒にやろう。それに完全縦走したんだ。まずはお祝いに一杯やろう」

すると、望むところだと顔を崩す。

「そうだ、それもいいな。せっかく無事に戻ってこられたし、八ヶ岳連峰の四岳を征服したんだ。おおいに祝おうぜ!」

佐久間とて異論はなく、無事に戻れたことに感謝する意味でも、祝杯を挙げたいと思っていたのだ。しかしその前に、ひと休みしたかった。勿論これは皆同様であろうと思う。そこで、早々と整理した荷物を持って、キスリングザックの置いてある大部屋の隅へと来て、腰を落とし車座に座る。

「ああ、やっぱ小屋の中はいいな温かくてよ」

村越がほのぼのと漏らした。

「まったくだ。稜線じゃ、いくら防寒具を着けていても寒いからな。それに吹きさらしの風雪が、顔に当たって冷てえというか、通り越して痛かったぜ。それが始終続いていたんだからな」

阿部が応じ、なにか思い出し、佐久間の顔を覗き込む。

「おお、そうだ。佐久間、お前の鼻如何なった。やっぱり切り落とさなければならんのか?」

「いいや、大丈夫みたいだ。ほら」

二人に顔を見せ、さらに、

「さっき小屋に入った時、気がついたんだが。ジョーゴ沢の木橋を渡っている時から、風雪がなくなったせいか、だんだん鼻の頭が温かくなってきてな。それで、凍傷にならずに助かったと思ったよ」

佐久間が軽口を叩いた。

「そうか、それはよかった。お前の鼻がねえ顔を連想したら、とても見られたもんじゃねえからな」

村越が小馬鹿にした。すると阿部がにたつき同調する。

「本当だ。それは言えるぜ。それでなくても、不細工な顔をしているんだから。鼻がもげたら眼鏡が掛けられなくなり、ずり落ちてしまうぜ。そうなったら如何するつもりだったんだか」

すると、「余計なこと考えるな。もげてねえんだから、そんな心配は無用だ!」と佐久間が口を尖らせた。

「分かったよ」と村越。

暫く煙草を吸いながら、身体を休め談笑に花を咲かせていた。

「ああ、やっと落ち着いたぜ。なんと言ったって、部屋の中は温かくて気持ちがいい。こうしていると、疲れが取れていくようだ。帰ってきた時は、動くのも嫌なくらい疲れていたからな」

村越が疲労が回復したのか、元気にのたまった。すると阿部が応じる。

「まったくだ。こうやってひと休みすると、体力が徐々に回復してくるな。なんだか腹が減ってきたんで、ぼちぼち夕飯の仕度にでも取り掛かるか。もう午後六時近くになるし、そろそろ始めるか?」

「ああ、そうだな。俺も少しは疲れが取れたし、腹が減ってきたからな。それじゃ、皆でやるか」

佐久間が応じ、村越が返事をする。

「おお、そろそろやろうぜ」

立ち上がり三人は、仕度に取り掛かり出す。

「それじゃ、俺は食料を取ってくる」

村越が告げると、

「俺も行くぞ!」

阿部がコッフェルを持ち出す。

「それじゃ、俺も小便したくなったんで、一緒に行こうか」

佐久間も立ち上がる。

「それなら佐久間。水割り用の雪を取ってくるのに、別の容器を持って来いよ」

「ああ、いいよ」

「それじゃ行くか」

阿部が促し、ビブラム底の登山靴を引っ掛け、引きずり歩きながら外へ出る。

「ひゃあ、寒いな!」

村越が首をすくめた。

「ううん、本当に寒いぜ。よくもまあ、こんな寒いところを歩いて来たもんだ」

阿部が嘆きつつ背中を丸めた。すでに帳が降り、軒先の裸電球の明かりと真っ暗な空に無数の星が瞬き始めていた。

村越が促す。

「さあ、掘り出して持っていこうや」

「そうだ、佐久間が小便をする前に、綺麗な雪を取っておかなきゃな」

阿部が積もった雪を堀り、内の方から掻き出しコッフェルに入れる。

「馬鹿やろ、そんなことするか。おっと、俺も水割り用の雪を用意しなくっちゃ」

言いつつ、容器に雪を固め詰め込んだ。

「ようし、これでいい。食料は残すことないな。全部持って行こう。夕食分と明日の朝飯で使い切ればいいんだ。おっと、そうだ。持って行く前に、後でまた来るのもなんだし、俺も小便しておくか」

村越が告げた。すると阿部も同調する。

「それじゃ、俺もやって戻ろう」

結局三人が並んで、一斉に小便を雪めがけて放つ。

「ああ、清々したぞ」

「うむ、冷え込んでるな。早いとこ戻ろうぜ」

皆、夫々容器を持ち早々と小屋へ戻って行った。

「さあ、夕飯だ。早いとこ作って食おうや。如何する?ウイスキーの水割りは飯食う前にやるか?」

「そうだな、如何しようか?」

「そうだ、腹も減っているし、同時にやったらいい!」

佐久間がそう応じた。

「それもそうだな。別に気取ることもないしよ。それでいいんじゃねえか」

阿部が了解した。土間に下りてラジウスに火を起こし、雪の入ったコッフェルをかける。そして、凍る握り飯や野菜を触り見て村越が呟く。

「やっぱ、飯や野菜がカチンカチンだぜ」

「そりゃそうだ。一晩中雪の中に埋めておいたんだ。そりゃ凍りつくぜ。天然の冷凍庫と同じだからな。とにかく雪が解けたらぶち込んじゃえよ。それに味付けは煮えてきてからするから」

佐久間が説くと、

「雪が溶けるまで、ちょっと時間がかかりそうだな」

村越が物欲しそうに呟き、二人に提案する。

「それじゃ、今、一杯やるか?」

「そうだな、出来るまで時間かかるし、乾杯しようや」と告げ、村越に頼む。

「それじゃ紙コップを用意してくれ。新鮮な八ヶ岳の雪を入れ、ウイスキーを注ぐから。さあ、さあ出してくれ!」

「おお、分かった」

返事をし準備する。

佐久間がコップに雪を入れ、ウイスキーを注ぎ込んだ。

「こうやって掌で温めるんだ。そうすりゃ溶けてウイスキーの水割りが出来るから」

阿部が促すと、二人とも真似をして、両手に収めた。

「それじゃ、乾杯しようや」

佐久間が発し、阿部も村越も掲げ、紙コップを軽く合わる。

「乾杯!」

声を揃えた。コップを口に運び、ちびりと喉に流し込む。

「ううん、美味い!」と村越。

「やっぱり雪で作った水割り、あいや、雪割りは格別だな!」

阿部が満足そうに続いた。

「そりゃそうだ。東京じゃ、こんなこと出来ねえからな。なかなかいいもんだ」

口に運び佐久間が付け加えた。

「それによ。なんと言ったって、時間のロスもなく無事に帰って来られたんだ。それも、阿弥陀岳、赤岳、横岳、それに硫黄岳の完全縦走だ。それも夏山じゃないぜ。この二月の、一番寒い季節の厳冬の冬山だ。それを踏破できたんだ。こんな嬉しいことはない」

佐久間が感激を表すと、阿部が揶揄する。

「それにしても、村越。今日は谷底に落ちなくてよったな」

「ううん、まあな。けど、せっかくの訓練が無駄になっちまったな」

「なにを言う。前回は上手く停止出来たからいいものを、同じように成功するとは限らんぞ。偶然にも役立ったが、それが横岳手前の鉾岳ルンゼや台座ノ頭の大同心ルンゼだったら、岩ばかりで滑るどころか弾んで落ちるだけだ。訓練なんかなんの役にもたたねえ」

村越の顔を覗き、阿部にも視線を送りながら続ける。

「幸いにも通過出来たからよかったけど。勿論、お前だけではなく、俺らも無事通れたんだ。感謝しなけりゃな」

「そうだよ。それじゃ、今度来る時は落下傘でも背負ってくるか。なんせ、鉾岳ルンゼに落ちねえとも限らねえからよ。そうなると、縦走するのも大変だぜ。登攀用のザックじゃ、とても無理だ」

村越が惚けると、阿部が反論する。

「阿呆くさ、なにを馬鹿なこと言っている。そんなもの持って来られるか。スカイダイビングじゃねえんだ。ザックと落下傘を背負ったら重くなる。とても四山縦走とは行かねえ。そんなの背負って急な岩稜を登れるか!」

「なにを暢気なこと言ってんだ。お前らの話を聞いていると阿呆らしくなるよ」

佐久間がなかば呆れ締めくくった。三人の間ではウイスキーを飲みながら、たわいのない戯言が続いた。

村越がコッフェルの中を覗く。

「おお、雪が溶けてきたぞ。さあ、握り飯と野菜を入れよう」

「そうしてくれ」

凍った飯を入れると煮立つ湯音が消えた。続けて野菜も入れる。

「後は煮えるまで、飲みながら待つとするか」

そう告げ、なにか思い出す。

「そうだ、こんなこともあろうかと、つまみ持ってきたんだ!」

「そうか、村越。お前、呑み助だからな。ところで、なにを買ってきた?」

「ああ、大したもんじゃねえ。定番の柿の種、それもピーナッツ入り。それにチーズ。ええと、それから・・・」

「村越、甘納豆があったんじゃねえか?」

「おお、そうだった。昨日食った残りがある」

すると、

「俺も、ドライフルーツ持ってきたんだ」

「いいな、それ出せよ」

「ああ、非常食に取っておいたがが、もういいだろう。食っちまおうぜ」

阿部がチーズを取り出し、ナイフで刻んで皆の前に出す。

「美味そうじゃねえか」

村越が摘まむ。佐久間が尋ねる。

「ウイスキーの雪割り、お替りは如何だ?」

「いいね、もらおうか」

阿部が空になった紙コップを出した。手早くこしらえ手渡す。

「村越、作ろうか?」

「ううん、頼む」

紙コップの残りを空けた。佐久間が自分のと合わせ作る。出来上がった雪割りを村越に渡す。

「有り難う。ううん、いい気持ちだな」

ゆっくりと口に運んだ。佐久間も喉へ流す。

「それにしても非常用だろうが、いろいろ副食物を用意してきたな」

感心すると、阿部が添える。

「それと、あとは裂きイカがある」

「おお、こいつはいい。俺、裂きイカ好物なんでね!」

村越が、封を切り口に運んだ。

「やっぱり、美味めえな。雪割りのウイスキーによく合うぜ」

もぐもぐ食い、満足気な笑顔を見せた。

「さあ、夕飯が出来るまで、つまみ食って飲もうぜ」

各々ウイスキーの雪割りを飲み、つまみを食い談笑に華を咲かす。佐久間が、先ほどキスリングから出し収めておいた煙草を胸ポケットから取り、二人に差し出す。

「如何だ、一服?」

「おお、悪いな。頂くぜ!」

真新しい煙草を抜き取り夫々が火を点け、雪割りを飲みながらくゆらせる。裸電球の薄明かりの部屋に、コッフェルから立ち上る湯気と、山男がくゆらす煙草の煙が絡み合いたなびいて行く。しばし雑談が続いた。腹が減っていたのか、つまみのおおかたが雪割りの進み具合に合わせ、腹に納まっていた。 

佐久間ひょいっと見て、。

「おい、そろそろいいんじゃねえか。ぐつぐつ煮えてきたぞ」

沸騰する様を告げた。そして、煮立つ雑炊をかき回す。

「後はコンビーフを入れ、味付けに醤油を加えれば出来上がりだ」

手早く入れ、味付けをしていた。

「ううん、いい匂いだ。温かくて美味そうだな」

食いたそうに村越が匂いをかいた。

「それじゃ、飲むのは、また後にしようぜ。今夜はゆっくり出来るし、明日は下山するだけだからな。さあ、食おう」

夫々が紙コップを置き、一斉に雑炊を食い始める。

「ううん、美味え。やっぱり山で食う飯は美味えな!」

ふうふう息をかけ口に放り込む。佐久間も阿部も、熱い雑炊を腹に収めていた。あっという間に、コッフェルの中身は空になった。

「ああ、食った、食った。満腹だ。これで疲れも取れるぜ」

満足気に佐久間が吐いた。阿部も漏らす。

「夕飯を食ったんで、俺も元気になれそうだ。そう言えば、昼飯は握り飯を即席雑炊にして山頂小屋の前で食ったきっりだけど、あん時は冷え切っていたんで、一時的にせよ暖を取れたし、ひと息つけた感じだった。ほんのひと時の安らぎを得たというところかな」

「そうだった、吹きっさらしの中だから仕方ないけどよ。それにしても、小屋の中でこうやって温かい雑炊を食うと、こんなに美味く感じるんだから不思議なもんだ。それに、雪を使ったウイスキーが飲めることだって感激だぜ」

続いて村越が満足気にほざいた。すると阿部が突然発する。

「おお、そうだ。昨日、小屋の売店で買った野沢菜の漬物、まだ残っていたんだ。雪に埋めて置いたやつ掘ってきた。凍っているかも知れんが食おうぜ!」

「いいな、凍った野沢菜漬は、ここでしか食えねえ絶品だからよ」

三人とも目を輝かす。

「ううん、美味え。このしゃき、しゃきした歯応えが、なんともたまらん。街中じゃこんなの食えねえ!」

村越が感激した。そこで阿部がうんちくを語る。

「そうだ、ここだからこんな美味い漬物が食えるんだ。もし、東京で同じ物食おうたって、こうは行かねえぞ。決して同じ味にはならんからな」

佐久間が頷く。

「それは言えるな。やはり去年入山した時も食って美味かったんで、東京のデパートで探し買って食ってみた。そしたら、全然味が違っていたよ」

「俺だって、試しにやってみたが佐久間の言う通りで、今、食っている野沢菜漬にはかなわねえな」と、村越が比べ言った。

すると、阿部と村越の会話が弾む。

「やはり美味い野沢菜漬が食いたかったら、こうして冬の八ヶ岳へ来て赤岳鉱泉小屋に泊まって食わねえと満足できんな」

「そうだよ。それだったら来年、またこの漬物食いに、八ヶ岳の縦走にチャレンジしようか?」

「おお、いいんじゃねえか。今の時期、雪が一番安定しているし、冬の冠雪した赤岳の素晴らしさを、また堪能出来るしよ。それにこの野沢漬も食えるから。また来てえよな」

「それじゃ、また来年、今頃の時期に来ようぜ!」

佐久間が二人の話に応じた。両名も頷く。そんな談笑が止まりかけた頃、食事が終わった後一服火を点け、くゆらし食後のまどろみを楽しんだ。

「ああ、食った。それじゃ、後片づけでもするか?」

佐久間が促すと、三人は食器、コッフェルを持ち洗い場の方へと出ていった。戻った三人は、口々に漏らす。

「やっぱり冬場は、寒いし水が冷てえな。ほら見ろよ、手ががちがちに凍えちまってるぜ。ウイスキーを飲み雑炊を食って、やっと身体が温まったのに、元の木阿弥だぜ」

共々口に手を寄せ息を吹きかけていた。

「さて、と。あとは寝るだけだ。ゆっくりしようぜ。それに、つまみがまだ少し残っているから、ウイスキーの雪割りでも飲みなおすか?」

「ああ、それもいいな」

頷き合い、作り夫々が口に運んでいた。

「そういえば、佐久間。帰ってきた時間を手帳につけたのか?」

「あっ、そうだ。忘れていた。ええと、何時だったっけ?」

「ううん、何時だったっけな・・・」

村越が覗う。すると、阿部が応える。

「たしか、午後五時十分だったような気がする」

「そうだったか。それじゃ赤岳鉱泉小屋着を、午後五時十分と記録しておこう」

「それがいい、これで今朝出発して戻った時間まで、縦走経過時間がすべて記録されたことになる」

「そうだ。まあ、ほぼ予定通りだった」

各地点の経過時間と予定経過時間を見比べ、佐久間が結論付けた。

「昨年も計画通りにいったんじゃなかったかい?」

阿部が確認した。

「そうだった。今、手元にないが、今回と同様順調に出来た記憶がある」

村越が応じた。

「俺もそんな記憶があるぜ」

佐久間が煙草をくゆらせ、

「そうだったよな。村越のあんなアクシデントがあったにも係らず、途中で止めず計画通りに完遂したからな。今考えれば無謀というか、大胆だったな。本来なれば、そんなことがあったら、その時点で中止し、下山しなきゃならんところだぞ」

振り返った。すると阿部が同調する。

「そう言われれば、たしかにそうだ。しかし、未経験というのは時として大胆になるもんだ。あん時は一瞬驚いたが、村越が助かり三人とも平然として、予定通り縦走していたからな。懐かしいというか、無茶なことをやったと思う。だけどその分、今回は慎重にやっつけてきたんだ」

「ああ、そうだった。けれど余計神経を使ったんで、おおいに疲れたような気がするよ」と村越が添える。

「まったくだ。だけれど、天気がよくてよかった。ただ、あの風雪には閉口したがな。俺なんか、危なく鼻先が凍傷になるところだったんだからな」

佐久間が鼻の頭を擦った。すると、阿部が安堵し漏らす。

「まあな、でもよかったじゃねえか。なんともなくてよ」

佐久間が安堵し二人を誘う。

「ああ、本当だ。ところで、寝るにはまだちょっと早いな、また土間のだるまストーブにでもあたりに行こうか?」

「おお、いいね。それじゃ、燃える炎を肴にして雪割りウイスキーを飲みながら、少し温まろうか。さぞかし気持ちがいいだろうて。それに、少しばかり身体が冷えてきたしいいと思うよ」

村越が応じ、佐久間が満足げに告げる。

「夕飯も食ったし、酒も飲んだ。寝るににゃまだ早い。少し飲んで山小屋の夜を楽しもうじゃねえか。それに今日の縦走山行の余韻を、もう少し楽しまなきゃ」「いいね、ストーブに当たりながら反省会とでもいこうか」

阿部も同調して立ち上がり、各自が雪割り入り紙コップを持ち、土間にある薪ストーブへと向かった。ストーブの周りには椅子が置いてある。何人かが座っていたが、まだ席に余裕があった。空いている椅子に腰掛け、燃えるストーブを囲む。

「温けえな・・・」

村越が手をかざした。それにつれ阿部らも手をかざす。そして、ちびりちびりやり回想し出す。

「しかし、今回はよくやっつけてきたな。朝早く出発し、夕方遅くまでかかって縦走して来たんだからな、疲れるのも当たり前だ。それにしてもよかった。冠雪した鋭鋒を拝んできたし、それに絶景ばかりだった」

「そうだよ。ああ、阿弥陀から見た、赤岳。いかにも主峰らしく、荒々しさの中に王者としての風格があった。それに真っ白な雪に抱かれて雄々とした姿、凛々しささえ感じたものな」

村越の感激話に、ウイスキーを口に運びつつ阿部が応えた。

「その鋭鋒めがけ、谷底から粉雪が吹き上がって陽に当たり、きらきらと輝きながら弧舞散る景観は、なんとも言えねえ素晴らし情景だった」

佐久間が目を細めた。

「でもよ、良かったし綺麗だったけど、あの風雪の嫌らしいこと。あれがたまらなかったぜ。常に顔に当たってくるんで、冷たさを通り越し痛ささえ感じたよ。まともに目なんか開けちゃいられなかった。顔は目出帽子で覆っているが、隙間から入り往生した。それに吐く息に粉雪が纏わりついて睫毛につき、仕舞いには凍りついていたから、前方が見づらかったよな。

それにな。晴れていてよかったんだが、陽射しが強くて雪に反射し、ほら、見てみろよ。目出帽子から出ていた目の周りや鼻が日焼けしちまって、赤くなりひりひりしているよ。それに佐久間の鼻も凍傷になりかけ、悪運強いのか、ならずにすんでよかったじゃねえか」

「まあ、不細工な佐久間だ。山の神様が目零ししてくれたんじゃねえか。これ以上不細工になったら如何にもならんからよ」

煙草をくゆらせ村越が悪態をつくと、佐久間が返す。。

「おお、よかったぜ!なんといっても、日頃の行いがいいんで凍傷にならなかったんだ。これがお前らだったら、間違いなくなっていたと思うよ」

すると、「阿呆、ぬかせ!」と村越が吐いた。

暖を取りながらの軽口が続く。

「そう言えば、如何も目の周りがひりひりすると思っていたんだが、日焼けが原因か。すごいもんだ、冬でも雪の反射で焼けるんだからな」

村越が感心す。

「まったくだ。これじゃ東京に帰ったあと、顔の中で目出帽子から出ていた部分だけが黒くなるぜ」と阿部が心配顔をすると、村越が同調し佐久間に尋ねる。

「それじゃ、パンダと同じじゃねえか。他の奴らにからかわれるかも知れんぞ。如何だ、佐久間。写真の方は、あまり撮れなかったんじゃないのか?」

「うん、まあまあよく撮ったと思うよ。お前のは少ないかもしれんが、要所要所で撮っておいたからな。なんといっても、赤岳の雄姿を撮れたのがよかった。それに、阿弥陀や赤岳山頂で、皆の厳しい顔写真も撮った。それと、フル装備の山男の姿をカメラに収められたのが記念になると思うよ。それに阿弥陀、赤岳、横岳と、そうそう、それにあの巨岩の大同心、小同心を撮れたからな」

ウイスキーをちびりと喉に流し込み、佐久間がひと講釈し、さらに付け加える。

「とりあえず、まだ、フイルムが残っているし美濃戸口までの下山途中に、お前ら中心に撮るから、楽しみにしてくれや。

ううん、それにしても、俺を除いて被写体が今ひとつだな。薄汚れた男どもを撮っても、絵にならねえしよ。それにくらべ俺は、それなりに写真写りがいいんでさまになるが、阿部や村越じゃ、ただの汚ねえ山男としか写らないぜ。一度見たら後は本に挿まれ、二度と見られなくなると思うよ。まあ、本のしおりの役目ぐらいにはなるがな」

二人を刺激する軽口を叩いた。

「なにをぶつぶつと訳の分からねえこと言ってんだ。「俺ぐらいならましだ」と、俺らは汚ねえ山男とほざいたな。お前だって、自分の姿を見てみろ。俺らと少しも変わらねえじゃねえか。薄汚れた顔と汚い服。なにが写真写りがいいだ。まったく聞いて呆れるよ。よくもそんなことが言えるな。なあ、村越?」

阿部が貶し投げた。

「たしかに、阿部の言う通りだ。佐久間、お前なんか、危なく凍傷になりかけ、鼻がもげるところだったんだぞ。美男子なんて言えた面かよ。それでなくても、不細工な作りのくせによ。まったく減らず口叩いている奴だぜ」

村越が虚仮下した。

「互いに顔の話はやめようぜ。だって、そうだろ。昨日から洗ってないし、歯だって磨いてないんだ。それに、服だって着っぱなしだ。汚ねえに決まっていら」

佐久間が反論した。

「でも、それって。山に入ったら当たり前だよな。今日も歩いている時は、稜線ではねえが下山途中じゃ、少しばかりじわっと汗を掻いているしな。まあ、夏と違い大汗掻かないから、塩は吹かんが汚くなるのは同じだ」

阿部が説明し、さらに村越が加わる。

「だけど、山じゃ。それが普通だ。気にすることなんかないな。他の連中だって同じだからよ。それにしても、厳冬期の赤岳鉱泉小屋から見た大同心や小同心は見ていて飽きねえよな。これぞ冬山の中に咲いた岩稜の花だぜ」

何時の間にか話題を変えていた。

頬を擦り赤々と燃えるストーブの暖を取る。酒の酔いとあいまって互いの顔が緩み上気していた。皆、一様に赤くなる。まさに、少し前に成し得たという達成感が汚れたどの顔にも滲み出ていた。

そんな時、隣に座る別パーティーの山男が、村越に話し掛けてくる。

「あの、八ヶ岳、やっつけてきたんですか・・・?」

不意だったが、村越が自慢気に応える。

「ええ、ちょっときつかったけど、まあまあですわ」

「そうですか、大したものですね。私らは明日、阿弥陀岳登頂を目指しているんです。なんせ冬の八ヶ岳は初めてなんで・・・」

「そうですか、気をつけて下さい。天気の方は崩れることがないし、雪の方も安定しているから。それに阿弥陀から見た赤岳が素晴らしいですよ。俺らなんか、その絶景を充分堪能させてもらいましたから」

「そうですか。素晴らしいんでしょうね。明日が楽しみだな」

「そりゃ素晴らしいに尽きます。阿弥陀の山頂に登ることも意義あるが、さらに主峰赤岳の記念写真でも撮っておけばいいと思いますよ」

「有り難うござ今す。そうさせてもらいます」

「ああ、そうそう。一つだけ注意しておきたいことがあるんだ」

阿部が口を挟んだ。

「たしか、冬の八ヶ岳登山が初めてとおっしゃいましたよね」

「ええ、そうなんです。大菩薩や雲取なんかには入っているんですが、今度は本格的に冬山に登ろうと来たんです」

「そうですか、それなら今日経験したことが参考になると思うんで話しましょう。中岳のコルはご存知ですよね」

「ええ、知っています。阿弥陀に向う前の最初の頂ですよね」

「ああ、そうだ。そこから稜線を伝い向うわけだけど、ここは両側から風雪が吹き上げてくるんで注意が必要ですよ。それに岩道がアイスバーン化しているから用心して下さい。こいつは昔、その風雪に吹き飛ばされ落っこちそうになったんですから」

村越を指差した。

「へえ、それは大変でしたね。よく無事で・・・」

山男は村越に気づかった。

「ううん、あん時は苦労したな。咄嗟だったんで無我夢中で滑落停止をピッケルでやって助かった。命拾いしたっけ」

「それはよかったですね。それで、その滑落停止というのはなんですか?」

「ああこれは、腹這いになりピッケルを両腕で挟んで滑落を止める動作なんだ。分かるかな。こうやってこうする」

村越が身体を使ってみせた。

「そうそう、中岳コルの手前の大きなスロープで訓練したっけ。それで助かったようなもんだぜ」

「うへっ、そこまでやってるんですか。俺らそこまで考えていません。やっぱ、ずぶの素人だよな」

山男が敬意の眼差しになった。それを感じ村越が謙遜する。

「まあな、俺らみたいに冬山の経験者からみれば、当たり前の行為といえるがな。自然の猛威に立ち向かうには、これくらいのことをやるのが普通だよ」

「そうですよね。大いに参考になります。おい、お前ら、分かったな。先輩たちのご意見を充分生かして明日は登ろうぜ!」

「そこまで気合入れなくてもいいと思うよ。気負い過ぎると、かえってマイナスになることもあるから。少しぐらいの緊張感を持つ程度がいいんじゃないかな」

村越が、鼻頭をつんと上げ注意した。

「まあ、頑張って下さい」

阿部が添えた。

「お話し有り難うございました」

「如何致しまして」

会話はそれで終わった。

黙って聞いていた佐久間が、ストーブに手をかざし飲みながら満足気に告げる。

「しかし、暖けえな。身体中が温まってきたよ。なんだか、顔が火照ってきたぜ。一日中寒さと戦ってきたんだ。ストーブで温まっていると、心の底から充実感が湧いてくるな」

すると横から、阿部が口を挟む。

「いや、俺も、そう感じてたんだ。飯も食ったし酔いも廻ってきた。ああ、いい気持ちだ」

村越が同様に口を揃える。

「俺だって、ゆったりした心持ちになり、満足感というか、ずっと緊張していたせいか、こうして無事に帰って来られ安堵している。今なんか、なんとも言えねえ気分だぜ。それにこうして、ストーブにあたりながら酒も飲めるんだ。極楽、極楽。こんないいことねえやな」

燃えストーブの温かさに、全身の毛穴が緩んでいるように思えた。程よい酔いに包み込まれ、燃える炎に暖められた各々は、夢うつつのようにっていた。言葉では言い表せぬ気持ちのよさに、顔が紅潮し時の立つのを忘れさせるが、程なくして、佐久間が告げる。

「さあ、そろそろ寝るか。なんだか眠くなってきたよ」

阿部らも、まどろみ頷く。

「ああ、ぼちぼちそうするか・・・」

欠伸をし、両手を突き上げ背伸びをした。

「これだけ温まればいいんじゃねえか。酒も全身に染み渡ったし、それに疲れているから寝床に入れば、直ぐにバタンキュウーだ」

阿部がほろ酔い気分で言った。

「それもそうだな。さて、俺も寝るぞ」

村越も同調した。各自が椅子から立ち上がる。

「それじゃ、明日は七時頃起きようぜ」

佐久間が告げた。

「ああ、そうしよう」

頷きつつ、夫々が登山靴をつっかけ大部屋へと移る。

「小便も済んだし、後は寝るだけだ。ああ疲れた」

ぼやきつつ、村越が「ぶりっ」と屁をこく。

「あっと、失礼!」

「村越、臭せえじゃねえか。まったくお前は人前で平気で屁をするんだから。ちょっと気使えよ」

阿部が鼻を摘み罵ると、

「悪かった、悪かったな阿部さんよ。出ちゃったものは仕方ねえ、以後注意するから勘弁してくんな」

悪びれることなく言い訳した。

天井から吊るされた裸電球に見守られて、三人は並べられた煎餅布団に潜り込む。阿部が大欠伸をする。二人もつられて欠伸した。そして、瞬く間に軽い鼾をかき、山男らは深い寝りに落ちていた。



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