佐久間が歩きながら、手袋を捲り上げ腕時計を覗く。

「午後一時五分か。まあまあか、この調子で行けば時間通りにいけそうだ」

すると、阿部が振り向き尋ねる。

「赤岳の出発時間は、何時だっけ?」

「予定では午後十二時五十分となっていたんで、十五分遅れかな」

「そうか・・・」

すると前をゆく村越が、風雪を手で遮りつつ呟く。

「まあ、十五分ぐらいの遅れなら、大幅な遅れではあるまい。誤差の範疇だ。計画通り行こうぜ。それにしても、この風雪たまらんな」

「ああ、時間を取り戻そうと、急いでも仕方ない。むしろ焦ったら、どんな落とし穴に嵌まるか分からねえ。ここは慎重に行こうよ」

佐久間が促した。、

「それは、そうだ。焦って強風に吹かれ、足を踏み外したら大変だからな」

阿部が追従した。一列に歩く彼らは、吹き上げてくる風雪と戦いながら、ゆっくりと横岳に向かって前進して行った。

「ここからだと、おおよそ二十分で赤岳展望荘へ着く。そこから地蔵仏を経由して二十三夜峰だ」

前を行く二人に、これから向かう要所を説明し、さらに思い出すように告げる。

「たしか、二十三夜峰の手前は急な登りだったはずだ・・・」

すると、それに阿部が疑問視する。

「そうだったかな・・・?」

それでも直ぐに思い起こしたのか、一気に説く。

「そうだ、そうだった。思い出したぜ。あそこは、ちょっと気をつけなきゃならねえところだった。それに、その後の日ノ岳を迂回するところも危ない。ザック担いでいるし、岩道の鎖が凍っているからな。とにかく慎重に行こうぜ」

すると、村越が振り返らず漏らす。

「だけど、日ノ岳はルンゼ状の一枚岩だ。見渡すと絶景だぜ」

阿部が前方を見つつ回想する。

「そうだった。今日は天気がいいし、さぞかし見応えあるだろうな・・・」

村越が軽口を叩く。

「でも、景色ばかり見てられねえ。しっかり鎖に摑まって移動しなきゃならねえからよ。それにしてもいい天気だし、今回の山行はばっちりだぜ」

すると最後尾から檄が飛ぶ。

「おい、村越。気を抜くな。そんなことに気を取られていると、この前の二の舞になるぞ!」

「大丈夫だ。そんなことには、二度とあわねえからよ!」

気を引き締め、前方を見据える村越がしんがりに返した。

それで、会話は終わった。

その後暫くは、荒くなった息音と吐かれる白い息、それにアイゼンの凍土を噛む音が、かわるがわるリズムよく響き渡っていた。横から吹き上げる風雪は、止むことなく山男たちを襲う。その中を、ただ黙々と歩を進め、やがて、二十三夜峰の見える所へとやってきた。

「おお、来たぞ。ほら、見ろよ。あの急勾配の登りを・・・」

先頭の村越が足を止め、ピッケルで前方を指した。

「すげえな、あんなところを登るのか!」

荒息で阿部が返した。

「ああ、そうだ。気をつけていこうぜ!」

「分かったよ!」

佐久間の注意に、阿部と村越が声を上げた。三人は慎重に、その急勾配の二十三夜峰へと取りついて行く。やがて峰を登りきり、日ノ岳を左に仰ぎ迂回し、さらに鉾岳を見て回り込み吹きかかる雪道に沿って歩く。

しっきりなしに左の鉾岳ルンゼ側と、反対方向の鉾岳沢側との両方面から、突風が村越を先頭にして歩む稜線へと駆け上がり、さらに、粉雪を巻き込み足元から絡みつくように、歪む顔をめがけ纏わりついてきた。夫々が前かがみになり耐えながら前進する。そのうち、目が開けられなくなるほど風雪が強くなっていた。息が上がっていた。ぜいぜいと吐く息と、舞い上がる粉雪が絡み合い、真っ青な空に向かって飛散して行く。

それでもゆっくりと着実に歩を進める。手に持つピッケルと、踏み締めるアイゼンがアイスバーンの岩道を噛んで行く。ぴゅうぴゅう呻る雪風の音と、アイゼン音が続いていた。誰一人として無駄口を叩かない。それどころではなかった。佐久間にしても、他の二人にしてもそんな余裕はなかった。

目出帽子に覆われた苦渋の顔で、凍りついた睫毛の間から、前方を見覗う視線だけは、凛として力強く注がれていた。鎖場の岩肌をピッケルを腰に差し横伝いして、鉾岳を左に迂回し前進する。そして足場の悪い石尊峰手前へとやってきた。 荒息で阿部が戒める。

「村越、すごく足場が悪いな。ほら、お前の前方に、登山道要注意と書いた立て札がある。雪が付いて見づらいが、そう書いてあるだろう?」

「ほら、あそこに」

ピッケルで指差した。

「おお、分かってら。皆、注意して行こうぜ!」

村越の声が飛んだ。

「了解!」

阿部らが強く返した。村越を先頭に、注意深くピッケルを使い慎重に進む。やがて、三又峰へと着いた。標高二千八百二十五メートルの峰である。後方から佐久間の声が飛んでくる。

「三又峰だ、小休止しようぜ!」

「分かった!」

村越が返し、足場を確保し腰を下ろした。阿部らもザックを背負ったままピッケルを雪上に刺し座り込んだ。互いに息が弾んでいた。夫々目出帽子の口当たりから、盛んに白い息が吐かれる。彼らに襲いかかる風雪は、行く手を阻もうとしているのか、一向に勢いを止めようとはしなかった。

「如何だ、村越。気分の方は?」

阿部が覗った。すると、纏わりつく風雪を避けつつ視線を投げる。

「いやっ、やっぱりいいな、緊張の連続だけどよ。つくづく実感するぜ、厳冬期の冬山の醍醐味をな。これこそ経験してみないと、良さが分からねえだろうて。ただ、結構きついけどよ」

「そりゃそうだ、言う通りだぜ。まだ、今日ように晴れていればこそ、冬山の良さが分かるというもんだけど。これが悪天候だったら、そんな暢気なこと言ってられねえぞ。ほら、見ろよ。この景観。今登ってきた赤岳の雄大さ。素晴らしいと言うしか、他に表現のしようがないんじゃないか?」

「なんて言ったって、赤岳は八ヶ岳の主峰だ。他の山々を従えて、堂々とそびえ立っているんだからな」

村越が感慨深げに言うと、阿部が頼む。

「佐久間、今のうちに、ここから一枚撮っておいてくれないか?」

「ああ、そうだな。名峰赤岳の雄姿を撮っておくか」

ザックを肩から外し、カメラを取り出して、赤岳に向け数枚シャッターを切っていた。そして、そのまま二人にカメラを向ける。

「如何だ、お前らも撮ってやろうか?」

「いいや、今は時間を掛けている時じゃない。ひと休みしたんだ、直ぐに出発しようぜ!」

村越が促した。

「そうだな、お前の言う通りだ」

カメラを入れザックを背負い直し、佐久間が立ち上がった。阿部も、村越もピッケルを杖代わりにして、「よっこらしょ!」の掛け声で立つ。

「それじゃ、行くか。ここから台座ノ頭辺りまで、積雪用の梯子だとかロープ伝いに歩かにゃならん。気を抜くな!」

最後尾が怒鳴った。

「ああ、分かったぜ!」

村越が元気よく返す。風雪の収まらぬ岩道を一列に並びゆっくりと歩く。程なくして、大権現へとやって来た。

「おお、横岳の最高峰だ!」

先頭の村越が声を上げた。続く阿部が感嘆の声を上げる。

「やった。横岳制覇だ。標高二千八百二十九メートルをやっつけた!」

奥の院の標識が雪に埋もれていたが、村越が見つけ確認するや、阿部と共に叫んでいた。

「佐久間、今、午後二時過ぎだ。予定経過時間との比較は、如何なっているか確認してくれ。十五分のタイム差は?」

阿部が尋ねた。

「ちょっと待て」

ポケットから手帳を取り出し、予定時間を見る。

「ええと、横岳到着予定時間はと・・・。さっきの赤岳山頂までの十五分遅れは、大方取り戻しているぜ。横岳経過予定時間が午後二時十分だから、おお、ちょうどジャストだ!」

「おお、そうか。それはいいペースたな」

経過説明に、村越が安堵して頷いた。すると阿部がおどける。

「それはよかった。阿弥陀から赤岳を経由して横岳へと来た。なんかちょろいもんだな。けどよ、それにしてもなんだか、あまりにも順調過ぎないか。なんとなく怖いような気がするぜ」

その顔に笑みを浮かべるが、白く凍った睫毛と顔が引きつり、妙にこわばっていた。村越が貶す。

「なんだ、阿部。お前の顔、ひでえ顔しているじゃねえか!」

「なにを言う、お前だってひでえぜ!」

阿部が反論した。返す言葉で佐久間の顔を見て注意する。

「佐久間、笑っている場合じゃねえ。鼻の頭、なんだかおかしいぞ?」

「ええ、なにが。おい、如何なってるんだ!」

まじまじと見られ、鼻の頭を擦り慌てた。そして、気になっていたのか不安気に漏らす。

「ああ、そうだ。赤岳過ぎた頃から、少し気になっていたんだ」

さらに阿部が覗き込む。

「もしかしてお前の鼻、凍傷にかかっているんじゃねえか?よく手で擦っておけ。佐久間、そのままにしておくと危ねえぞ!」

「それは、ちょいと、やばいいんじゃねえか?」

村越が不安視した。すると、真顔で応える。

「おい、おい冗談言うな。万が一、凍傷にでもなったら、切り取らなければならなくなるぜ・・・」

「それは、一大事だ。佐久間の鼻がもげたら、そりゃ見られたもんじゃねえぞ。それでなくても、女にもてねえところ、そんなことになったら、尚更もてなくなる。それこそ、化け物になっちまうよ」

村越が顔をまじまじ見て嘆いた。

「馬鹿野郎、変なこと言うな。俺だって鼻がもげたら、みっともなくて人前に出られん。冗談じゃないぜ!」

慌てて、しきりに手袋の手で、鼻の頭を擦り温めようとした。その狼狽える様を覗い、真顔で阿部が尋ねる。

「佐久間、そんなことしたって駄目だ。凍傷というのは、応急処置として温めにゃならんが、至急下山し本格的な治療をしないと治りゃせん。如何するんだ。ここからじゃ、コース変更するにも地蔵仏まで戻って、そこから地蔵尾根を通り、行者小屋経由で下山しなけりゃならんが。如何する・・・?」

「なにを今さら、そんなこと出来るか。ここまで来た以上、前進あるのみだ。決まってるだろう!」

声を荒げた。

「佐久間、それでいいのか。一時間ちょいの差があるぞ。そのタイム差が悪影響して、鼻がなくなるかも知れんぞ。それでもいいんだな!」

阿部が念押しした。

「ああ、結構だ。俺も山男だ。鼻の一つや二つ無くなっても、それは勲章というもんだ。結構な話じゃねえか!」

内なる心配をよそに、見栄を張り突っ張った。

「そうか、佐久間は大したもんだ。了解した。それじゃ、先を急ぐか」

村越が声をかけた。阿部も佐久間も頷き、後に続いた。

少し行くと佐久間が叫ぶ。

「左側を見ろよ。ちょうど大同心、小同心の真上の稜線に来たぞ!」

前を行く二人が覗き込む。

「おお、そうだ。ここらはちょうど、鉱泉小屋から見える両同心の岩稜の上にいるんだ!」

立ち止まり、ピッケルを雪の上に立て、吹き上げる粉雪を振り払いながら、しばし感無量とばかり眺めていた。

「さあ、行くか」

阿部が声をかけた。すると満足気に頷き、また一列になって歩き始める。

「さあ、後は硫黄岳を制覇すれば八ヶ岳縦走が完遂する。三十分もあれば硫黄岳山荘だ。そこまで行けば、今までのような危険な稜線は少なくなるはずだ。頑張ろうぜ!」

しんがりが檄を飛ばした。

「おおっ!」

吹き上がる粉雪と共に声が弾け飛んだ。三人は横岳の山頂、奥の院から下りつつ、かにの横ばいを鎖を掴みながら攻める。さらに、岩肌に貼り付けたロープで伝い岩稜の左側を沿い歩いた。そして、今眺めてきた大同心を見渡せる台座ノ頭へと到達した。

「鉱泉小屋辺りで仰ぐ大同心、小同心は迫り来るものがあるが、ここから見ると景観がまったく違い、切り立つ大同心も鋭鋒らしくて、すごくいいな」

村越が絶賛した。佐久間らも同じ思いに駆られる。

「おい、村越。如何だ、疲れていないか」

佐久間が後方から労った。ちょいと足を止め振り向き応じる。

「ああ、大丈夫だ」

すると、その様子を見て阿部が声をかける。

「村越、睫毛が凍っているぞ。先頭を歩いているんだ、気をつけろよ」

「ううん、少し見づらいけれど、取ったところでまた付くだろ。こんな寒さの中じゃ、仕方ねえ。お前らだって、睫毛が凍っているぞ」

「そうなんだよ、参っちまうぜ」

阿部が嘆いた。

「俺だって、お前らと同じだ。まあ、せいぜい注意して歩くから」

佐久間が促した。すると、阿部が覗う。

「お前の鼻、大丈夫か。大分黒ずんでいるんじゃねえか?」

「ううん、気にはしているが、ここじゃ如何にもならねえよ」

鼻を懸命に擦った。

「それもそうだな。このまま進むしか、今となったら下るルートはもうないからな。後は運を天に任せることだ。それでもげればついていなかったと、きっぱり諦めるしかないぜ」

阿部が振り返り、佐久間の鼻を凝視した。

「そうじろじろと見るな。気色が悪いじゃねえか。それよりも前を向いて歩け。まあ、この際、後は天に任せるよ。仕方ないもんな・・・」

観念し、さらに嘆く。

「でもよ、万が一、鼻頭がなくなったら無残な顔になるだろうな。この歳で、そんなことになれば絶望的だぜ。まったく、なんで俺ばっかりこんな目に合わなきゃならねえんだ!」

そして、二人を相手に虚仮下す。

「いくら、なんでもひでえよ。不細工なお前らの汚ねえ鼻がなくなったところで、不細工さは変わりはねえだろうが、俺みたいな美男子がそんなめに合うと、世の淑女とって大損害なはずだけどな。それに、お前らと同じ状況にありながらよ・・・」

ぶつぶつと愚痴った。

「佐久間、愚痴るな。仕方ねえだろ、俺らはなんともねえんだから。これも俺らの場合は日頃の行いがいいからだ。そうさ、清く正しく、そして慎ましく生きている証だ。俺なんか、周りからそう何時も言われているぞ。それに比べお前は、やはり天罰としか言いようがねえ。日頃の行いの悪さの報いだな」

村越が貶し、しゃあしゃあと屁理屈を捏ねた。

「馬、馬鹿野郎。何が慎ましくだ、なにが清く正しくだ。聞いて呆れるわい。お前なんか、まったく正反対のことばかりやっているくせによ!」

目ん玉を広げ反論した。

「まあまあ、そういきり立つな。佐久間、冬山は冷静さが一番大切なんだ。それを、それごときでいきり立っては、冬山に入る資格がねえな」

阿部が窘めた。すると、

「くそっ、如何して俺の鼻ばかりやられるんだ。まったく忌々しい。如何せなら阿部や村越の鼻を狙ってくれや!」

ふて腐り気味に、舞い散る風雪に向かい捨て台詞を吐いた。そして、

「さあ、こんなところでぐずぐずしてられねえぞ。午後三時を過ぎれば気温がぐっと下がってくるからな。村越、先頭を頼むぞ!」

気持ちを切り変え声をかけた。少しばかり足を止め戯言を吐いていたが、直ぐに列をなし歩き始める。稜線は谷底から吹き上げる風雪に、間段なく行く先を遮られるが、その中を黙々と歩いて行った。三十分程歩くと、硫黄岳山荘手前の駒草神社へと着いた。

「あと、少し行けば山荘に着くけど、如何する?」

「さっき小休止をしたから、休まず行こう」

村越が前方見つつ告げた。

「そうだな、佐久間如何する?」

阿部が覗うように、しんがりの佐久間に振った。

「村越の言うように休まず行こうか。あと三十分程で硫黄岳に着く。そこでひと休みしようじゃないか」

先行する阿部と村越に促した。

「そうするか、早目に山頂を極めて、それから休もうぜ。その時点で予定時間と差がないかチェックしてから、休む時間を決めたらいいんだ」

阿部が進言した。すると、佐久間が頷く。

「そうだな、順調に行っていなけりゃ、後がきつくなるし休んでいられねえからよ。日没までどれだけ稼げるかが勝負になるんだ。それを考えたら、少しでも先を稼いでおきたいからな。それじゃ、このまま通過前進だ!」

大きな声で怒鳴った。

硫黄岳山荘から爆裂火口まで、比較的平坦な道のりが続く、相変わらず稜線めがけて吹き上げる風雪は、止むことがない。風の抵抗を受け踏み込むアイゼンの爪をきしませ、着実に前進して行った。

「おお、見えてきたぞ。あそこにロボットの雨量計跡がある」

村越が目ざとく叫び、右側にお椀形の大きな火口ぐちを見ながら歩いていた。そして、三角地点の発見で硫黄岳に辿り着いたことを知る。

「ああ、ここが硫黄岳か、やっと着いた」

少々草臥れ気味に、凍りついた顔を擦った。それに応え阿部が、ピッケルを高々と上げ喜びを表わす。

「やった、厳冬期の硫黄岳を極めたんだ!」

それを見る佐久間も叫ぶ。

「そうだ、これで八ヶ岳連峰の四岳の頂を征服したことになる。嬉しいじゃねえか。そうだよな、阿部!」

「おお、その通りだ」

「万歳!」

阿部が一声を放った。すると、佐久間も村越も、ピッケルを大空に突き立てた。

「やったぞ、俺らは極寒の八ヶ岳縦走をやってのけたんだ!」

感極まり叫んでいた。

「さあ、ひと休みしようぜ!」

「ああ、一服だ!」

ピッケルを雪上に刺し、佐久間がウインドヤッケの内側の胸ポケットから、草臥れた煙草を取り出し、二人に差し出す。

「おお、悪いな。一本馳走になるぜ」

凍りついた目出帽子から笑みを零す阿部、村越が続いてよれた煙草を口に銜えた。佐久間が手をかざし火を点ける。

「ちょっと貸してくれ」

「おお」

火のある煙草を阿部に近づけ火を点け、ついでに村越の煙草にも分けてやる。夫々が思いっきり吸い込み、吐く息と共に煙を吐き出す。

「さあ、ザックを下ろして、記念写真を撮ろうじゃないか」

くゆらせる煙草の煙を目に染みさせつつ、佐久間がカメラを取り出す。

「おい、撮るぞ。二人共そこに並べや!」

声をかけシャッターを切った。

「村越、代わってくれ」

「あいよ、分かった」

佐久間からカメラを預かり、

「さあ、佐久間、阿部と並んでくれ」

二人に向けた。

「おお、それじゃ。男前に撮ってくれよな」

佐久間が注文づげると、

「男だから、はい、ニコチン!」

村越が二人の様子など構わず、ギャグ入りでシャッターを押した。写真を撮り終えると佐久間は、五万分の一の地図と磁石で、予定通過時間を記した手帳を広げ、風の中で腕時計を見つつ経過時間と居場所を確認していた。

村越が煙草をくゆらせ尋ねる。

「佐久間、如何なんだ。今は三時三十分だ。計画では硫黄岳には、何時着くことになってたんだ?」

「ああ、今見ているけど・・・」

ページを開き視線を落とす。

「ええと、硫黄岳は三時二十五分が予定到着時刻だ。と言うことは、五分遅く着いたことになる」

「おお、そうか。まあ、いい線じゃねえか」

満足気に了解した。

「そうか、午後三時二十五分硫黄岳山頂か。そうすると、ここから下山だから、鉱泉小屋までが、佐久間、どれくらいで行けるんだっけ?」

阿部が尋ねた。手帳の予定時間を調べ説く。

「ここからだと、計画では一時間二十分いになっている。途中で十分休憩を取るとして、所要時間は一時間三十分だな。だから、今が三時三十分だから四十分に出発するとして、午後五時頃になるな」

「うむ、そうか。稜線や山頂は日影にならず明るいが、下山して行けば、そのうち太陽の明かりが稜線に隠れると薄暗くなるな。それに四時を過ぎれば、寒さも一段ときつくなるぞ」

阿部が講釈し、さらに続ける。

「そうだな、雪明りがあるから真っ暗になるまでには、鉱泉小屋まで辿り着けるんじゃねえか?」

佐久間が返す。

「それは覚悟のうえだ。最初から縦走計画の時間取りで、早朝、日の出前に出発し、ぐるりと廻って小屋まで戻る。如何考えても、時間ぎりぎりで立てていたからな。止むを得んぜ。それにしても、やっぱり朝が早かったんで、少々疲れてきたよな・・・。村越、お前。レモン持ってこなかったか?」

「そうだ、忘れていた。持ってるぞ!」

佐久間の要望に応えた。直ぐさまザックから取り出し、二人に手渡す。

「これを丸かじりしようぜ。こんな時には、これを食えば疲れが吹っ飛ぶ。ほら、食えよ」

「おお、悪いな。早速頂くか」

阿部がそのままかじり出した。

「すっぱくねえな、疲れている証拠だ。ううん、美味え・・・」

村越もかぶりつく。

「ううん、すっぱくねえ。美味いぜ。やっぱり疲れが溜まってるんだな」

「本当だ。昨日からのことを思えば、強行軍だったからな。まあ、よくここまで来たよ。疲れるに決まってら。通りですっぱさを感じねえぜ」

佐久間も感じを述べた。

「何時もそうじゃないか。レモンを持ってきているものな。冬場だけじゃない、夏のくそ暑いときも持って行ったよな」

阿部が講釈し、さらに続ける。

「普段こんなことしたら、すっぱくて食えたもんじゃねえぞ。それが如何だ。平気で食えるんだからよ。草臥れているからだ。これで多少なりとも疲れが取れるんじゃねえか?」

三人は、一気にレモン一個をたいらげていた。

「コッフェルでお湯でも沸かそうと思ったが、時間がもったいないな」

「そうだ、止めておけ。ここで時間をロスしたら、鉱泉小屋に着く前に、ヘッドランプのお世話にならなきゃなる。そうなったら、雪道だ。迷ってしまうかもしれねえし、夜道で大幅に時間を食ってしまうかもしれん。それは、・・・まずいよな。それに、ここまで来る間に相当体力を使っているんで、これ以上消耗したら、動けなくなるかもしれんぞ」

阿部が推測した。

「そういうことで、熱い紅茶はお預けとしようや。その代わり鉱泉小屋に着いたら、昨夜のように、ウイスキーの雪割りで一杯やろうぜ」

村越がフォローすると、

「そうだ、そうしようぜ!」

阿部も同調した。

「そうと決まったら、直ぐに出発だ!」

佐久間がザックを背負い立ち上がった。続いて両名も背負い立ち上がる。

「さあ、行こう!」

佐久間が声をかけた。三人はまた村越を先頭に阿部が続き、そして最後尾に佐久間がつき、赤岩の頭へと向かって歩き出した。十分ほどで赤岩の頭へと着く。

「さあ、ここから下りだ。気をつけろ。村越、装着しているアイゼンは大丈夫か。バンドが緩んでいないか?」

「それに阿部の方は?」

「大丈夫だ、さっき点検しておいたんでよ!」

二人の返事が返ってきた。佐久間も立ち止まり、自分の装着状態を確認した。

「よし、大丈夫」

阿部の後を追った。

三人は下りの尾根道を、アイゼンの爪を利かせて降りて行く。

「結局、中岳コル手前のスロープでの滑落停止訓練に始まり、阿弥陀、赤岳、横、それに硫黄岳まで、一日中アイゼンの世話になったな」

村越が歩を進めつつ顧みた。

「まったくだ、これを履いていなかったら、とてもこんなアイスバーンの岩道は歩けなかったぜ」

慎重に足を運びつつ阿部が感謝した。

「そうそう、忘れちゃいけねえ。こいつだって役立ってるぞ」

阿部がピッケルを擦った。

「そうだよな、今日は落ちずに済んだが、コル下のスロープでの雪上訓練の時には、随分世話になった。感謝しているぞ」

先頭を歩く村越が、感慨深げに言った。すると阿部が漏らす。

「しかし、さっきはよかったな」

「えっ、なにが?」

村越が聞き返した。すると阿部が応える。

「ああ、さっきの赤岩の頭のところなんだけど、迷わずによ」

「おお、そのことか。そうだな、あそこは夏場なれば白い砂地だし、そこから赤岳鉱泉へと降りる分岐点として、目印になるから迷わんが。けど、それを間違えると、天狗岳コースへと行ってしまう。今は雪が積もっているだろ、同じ白でも雪に覆われていちゃ分岐点を探すのに苦労する」

歩きながら講釈した。それに村越が頷く。

「まあな、でも俺らは、この縦走も二度目だ。前回程苦労せずに探せて、無事通過出来た。後は稜線沿いに下ればいい」

熟知しているのか、三人の足取りが軽くなったように思えた。最後尾にいる佐久間が、歩く二人の様を見て感じ取る。「さもあろう」と、笑みを零した。




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