登攀
午前四時を廻った頃、佐久間が目を覚ました。
外はまだ暗い。深閑とした大部屋は昨夜からの気温の低下で、小屋の中とはいえ、さらに冷え込みが厳しくなっていた。深々と頬を刺す寒さで起こされた。
布団の列が並ぶ部屋は、小さな裸電球の明かりだけが照らされている。薄明かりの中で起き、ふと横を見ると阿部も村越も軽い鼾を掻いていた。佐久間は明かりにかざした腕時計で時間を確認し、小声で二人を起こす。
「おい、阿部、村越、起きろ!」
周りの山男らに迷惑がかからぬよう、耳元で告げた。
「うっ、うむむ・・・」
はっとして阿部が目を覚ました。
「おお、寝過ぎてしまった。悪いな・・・」
横を向く。
「あれ、まだ村越は寝てるのか。起こすか」
耳を引っ張り小声で囁いた。
「おい、村越。起きろよ!」
「ううう・・・」
「なにやってんだ。起きろ!」
「あう、うむむ。眠いな・・・」
頭を掻きながら、むっくりと起きた。外の様子を覗っていた佐久間が、二人が起きたのを確認し、小声で説明する。
「まだ暗いが、星空が広がっているぞ。今日の天気は晴れだ」
聞いた阿部が、昨夜の談笑を思い出す。
「そうか、よかったな。星空ということは、今日の縦走は陽射しの中で歩けるわけだ。それは有り難い」
周りに気を配りつつ、村越が屈伸する。
「さあ、一服して。朝飯の用意をしようぜ!」
気負い声で促した。
「ああ、そうするか」
煙草に火を点け、くゆらせ身支度をしだす。とは言うものの、着替えるわけもなし、顔を洗うわけでもない。登山服のまま寝ていたので、直ぐに準備が出来た。仕度が終わると、夫々分担して朝飯の用意に取り掛かる。
土間の方に降りてコッヘルに水をいれ、冷たく硬い握り飯を入れる。それにソーセージを切り、ツナ缶を開け放り込む。ラジウスに火を点ける。そしてコンロを組み立て、具材の入ったコッヘルを載せて煮ればいい。それに醤油と出汁の素を加える。美味い不味いは二の次だ。要は朝飯が食えればいい。直に雑炊が沸騰してきた。
三人は頃合いを見てアルミコップに雑炊を取り、手早く食い出す。ついでにキスリングザックからチーズを取り、切って分け合い食った。食事の仕度を始めてから小一時間の作業で朝飯まで終わった。その頃になると、他の山男たちも起き始め、出発の準備に取りかかっていた。
「村越、今、何時かな?」
佐久間が聞いた。
「五時ちょい過ぎだ」
「そうか、それじゃ。五時三十分には出れるな。皆、その心算で準備してくれ」
二人に指示する。
「・・・」
夫々気持ちが高ぶるのか無言で頷いた。
手早く後片づけをし、出発の準備に取り掛かった。とはいえ、昨夜の内に大方整っており、再度の確認程度で終わる。手馴れた手つきで仕度をする。それでも、その顔は真剣そのものだ。出発前の意気込みが三人の行動の中に、しっかりと、そしてたくましく現れていた。
「如何だ、外は暗いし懐中電灯は必要だろうか?」
「いや、いらねえんじゃないか。結構、月明かりが雪に反射して、見通しがきくみたいだぞ。まあ、行者小屋に着くころには明るくなっているさ」
「そうだな、そこまでは別に難しいコースでもないし、雪明りで山道もよく分かる。もし、必要であればその時点ければいい」
阿部が補足した。すると、佐久間が続ける。
「ただ、登攀用ザックに入れておいた方がいいな。まあ、夕方が暗くなっていればヘッドランプを使うから、念のために持って行こう」
「そうだな、了解!」
皆、喋りながらでも手を止めることなく仕度をしていた。
「さあ、用意が出来たぞ。何時でも出発オーケーだ!」
村越が登攀用ザックを背負い、ピッケルを持って立ち上がる。
「俺もだ!」
阿部が応じた。
「佐久間は如何だ?」
「何時でもいいぞ!」
「それじゃ、出発だ!」
村越が気負い告げた。
夫々が揃って大部屋から土間へと移動する。各自が登山靴を履き、佐久間がアイゼンを装着しながら村越を見る。
「おう早いな。けど、村越。アイゼンを装着しないのか?」
「そうだよ、村越。明け方は一段と冷えている。山道が凍ってアイスバーンになっていると思うんだ。だから着けた方がいい」
阿部が履いた登山靴にアイゼンを装着しながら、見上げて進言した。
「おっと、舞い上がっていたぜ。大事なアイゼンを着け損なうとこだった!」
すっとんきょな顔で叫んだ。すると、阿部が声を上げる。
「アイゼン装着、準備完了!」
「俺は何時でも出られるぞ!」
佐久間が凛とする声を上げた。張り詰めた顔で三人がピッケルを持ち、しっかりとした足取りで、まだ星空の輝く暗い外に出た。真っ白な息と伴に、佐久間の一声が響き渡る。
「いよいよ出発だ。八ヶ岳連峰縦走の途につくぞ!」
二人が力強く頷いた。
「まあ、行者小屋までは小一時間だ。気張らずに行こうや。準備運動を兼ねてよ」
緊張を解そうと佐久間が告げた。
「ああ、そうするか」
阿部が気負いを和らげた。まだ明けやらぬ雪明りの中で、赤岳鉱泉小屋を後にする。雪明かりにむっくりとたたずむ小屋の影が、力強く三人の背中を押すかのように見守っていた。
鉱泉小屋を午前五時三十分の出発である。予定より三十分早く途についた。
阿弥陀岳に登るには中山峠を経て行者小屋まで行く。そこから中岳沢を左に見て、樹林帯の山道を登り、中岳コル前のスロープになった急斜面を伝い稜線沿いに中岳コルに出て、さらに高度を稼ぎつつ阿弥陀岳の山頂へと目指すのだ。
昨日、赤岳鉱泉小屋に来た時と同じように村越を先頭に、阿部、そして最後尾に佐久間がついて、ゆっくりと歩いた。山道は氷雪に埋まり、閉め固められた道と化していた。その凍った山道を、雪明りを頼りにアイゼンで踏み締め進む。朝日の昇る前の深閑とした中で、アイゼンの雪道を噛む音が鳴り響いていた。
歩き出してから十五分ほど過ぎると、中山峠へと差しかかった。薄暗い中に大同心と小同心の岩稜が、青白くそそり立ち迫ってくる。その光景を横目で見ながら、樹林の中の細い山道を先へと進む。そして、暫く歩き山中展望台へと着いた。
薄暗かった空がようやく白みかけてきた。すると、薄明かりの中に黒々とした阿弥陀岳、赤岳、そして横岳の連なる峰々が、樹海の上に浮かび上がっている。それを見て足を止めた。
「おお、見えるじゃねえか。これから制覇しようとする頂群がよ!」
白い息を吐きながら、村越が挑戦者の声を上げる。佐久間も阿部も同時に歩みを止め、その雄大な魔物のような黒姿を固唾呑んで見やった。
「すげえもんだ・・・」
これから挑もうとする山男らにとって、目に飛び込むその雄姿は、無言の圧力となり迫り来る威圧感を投げかけていた。
「さあ、これからやってやるぞ!」
迎え撃つように村越がひと言発し、睨み返した。そして、その視線をいまだ空けやらぬ夜空へと移す。
「今日は天気がよさそうだ。風が冷めてえもんな。それに、白空に星の輝きが綺麗だ。すげえもんだぜ」
仰ぎ見、白い息で阿部が発した。
「そうだな。それにしてもすごい数だ。まあ、これならば天気の方も大丈夫。急変しない限り晴れるに決まってる。ただ、それよりも風が問題だ。稜線では吹き上げてくる風に、充分気をつけんと。前回の村越のこともあるし、細心の注意を払って確実に歩るこうぜ」
「それにしてもよかった。天気が晴れれば、冬山の視界が一挙に広がり、銀世界の中で、凛々しい姿の名峰を思う存分見渡すことが出来る。何だか、胸がわくわくしてきたぞ」
阿部が返した。立ち止まり薄黒く浮かび上がる連峰と向かい合い、ひと息ついて中山峠を後にし、再び行者小屋目指して歩き出す。一列に並んで歩く三人の吐く息が、連なりたなびく。それに合わせるようにアイゼンの爪音が重なり確実に刻んで行く。
直に、最初の目的地である行者小屋へと到着した。佐久間が腕時計を見て経過時間を確認する。針が午前六時二十分を指していた。小一時間の道程である。
「予定通りだ」
それを聞いて村越が、元気よく返す。
「これで足慣らしが出来たし、万全だぞ!」
勿論、この小屋に入るわけではない。通過点の一つである。ひと息入れるため小屋の近くの溜まりで一服する。
「さあ、これからが本番だ!」
「ところでよ。お前ら体調の方は如何だ?」
声をかけた。すると、返事が返る。
「快調、そのものだ。準備運動もばっちりだぜ!」
村越に返し、阿部も黙って頷く。
「そうか。それなら今日の予定コースの縦走へと入るぞ!」
佐久間が力強く宣言した。すると、
「ところで、佐久間。中岳コル手前の斜面での滑落停止の訓練は、どれくらいやるんだっけ?」
問うように、弾む声で尋ねた。佐久間が返す。
「あまり短くても身につかんし。そうだな、実際にやってみて感覚的に納得したら、そこで止めよう。各自二十本ぐらい練習すれば、感覚が戻ってくるだろうて」
さらに続けて、
「それくらいやるのに、そうさな、三十分以上かかるんじゃないか?それによ、夢中になり体力を使い過ぎては、これからの縦走に支障をきたすから、その点は充分心得ておけよ」
「ああ、分かった」
村越が了解した。
「中途半端で止めて、この前みたいになったら大変だしな。いざと言う時役に立たなければ訓練する意味がないからよ。だから、村越。お前は手を抜かず、特に念入りにやっておけ。それでないと、また突風に煽られて落ちるかもしれねえからな」
佐久間がからかった。
「佐久間、冗談いうなよ。俺だって、まだ死にたくねえや。手抜きなんかするもんか!」
口を尖らせ、さらに悪態つく。
「お前らこそ、しっかり訓練しろ。今度はお前らが風雪に惑わされ、足元がふらつき稜線から踏み外しかねねえからよ。だから、俺のことを心配する前に、お前ら自身のことを考えろ!」
ピッケルでアイゼンの爪の雪を落としながら、しゃあしゃあと告げた。する阿部が嘯く。
「そうだな、村越の言う通りだ。他人のことより自分のことを考えなくっちゃな。細心の注意を払って歩かないと駄目だ。そう言うことで、村越が今度落ちたら、佐久間、そのまま見放して先に進もうか。如何する?」
「ううん、そうだな。たしかに村越がそう言うんだし、希望するなら仕方ない。望みどおり放って行くか」
する佐久間が追従すると、目を丸くして反論する。
「馬鹿言え、俺はそんなことを言ってんじゃねえ。夫々が細心の注意を払って行こうと言ってんだ。それにしても、随分、冷てえこと言うじゃねえか。そんな奴らだとは思わなかった。ああ、お前らと来て後悔しているよ。だけどな、ここまで登って来ちまったんだ。戻るわけにもいくまい。仕方ねえ、頼りねえが伴に行動するしかなさそうだ」
村越が愚痴った。
「なに、冗談言ってるんだ。まあ、どちらにしても、これから始まる縦走は、村越が言うように細心の注意を払って行動しようぜ」
佐久間が促した。そして、膝を叩き、大きく息を吸い立ち上がる。
「さあ、出発しよう!」
声をかけ歩き出していた。直ぐに村越が佐久間を追い抜き先頭に立つ。それに阿部が続き、行者小屋の前を通り過ぎ、ゆっくり阿弥陀岳へと向かっていた。
直に中岳コルの手前の急斜面へとやってきた。そこで立ち止る。その頃になると、朝日が雪山全体に注ぎ始め、スロープがその陽射しを受け、真っ白な雪に反射しきらきらと輝いていた。肩でつく荒い息が勢いよく青空に向って飛んで行く。三人は手をかざし、眩しそうに大きく広がる斜面を見上げた。
「さあ、休んでいる暇はないぜ。早速訓練だ!」
佐久間が声をかけるのと同時に、夫々がザックを雪上に放り投げ、アイゼンの装着状態を確認し、思い思いにスロープをよじ登り始める。まず始めに、村越が斜面の中間地点に到着し、そこから転がり落ちる。と同時に、ピッケルを脇腹に抱え、爪を立て滑落の停止を試みる。滑りながらピッケルに力を入れると徐々に止った。
「おお、こんな調子で如何だ!」
大声で怒鳴ると、次に到着した阿部が、怒鳴り注意する。
「ううん、そんな調子でいいんじゃねえか。けどな、もう少し足を落とせ。アイゼンを雪に食い込ませろ。今のやり方では、足が折れて空に向いている!それじゃ、今度は俺の番だ。見ててくれ、村越!」
言うやいなや、飛び込むように滑落し、停止動作に移り雪煙を上げながら止まった。
むっくりと起き上がり尋ねる。
「村越、如何だった?」
「うん、いいんじゃねえか。お前も、まだ足が浮いているな」
「そうか、意識してやってるんだが、上がっているか。通りで思ったほど停止の効きが悪い。止らずこんなに滑っている」
「もう一度やり直しだ」
急斜面のスロープを見上げる。
「佐久間、いいぞ。見ててやる!」
阿部が声を張り上げた。
「それじゃ、行くぞ!」
滑り落ち、反転して滑落停止の態勢に入る。すると滑り落ちながら、雪煙が上がり、二人の手前で停止した。
「おお、やったじゃねえか。俺らより前だぜ。佐久間、結構いい線いってる!」
停止する様を見て感嘆の声を発した。佐久間がピッケルを振り、それに応えた。三人がふたたび斜面を登り、中間地点で集まる。
「如何だ、最初の一本は。思ったように行かないのが現状だろ。そこそこ感じは掴めたと思うから、真剣にやろうぜ」
佐久間が分析し促すと、阿部が頷く。
「ああ」
佐久間がさらに促す。
「ちょうど今が、午前七時前だ。さっきに比べれば、陽の輝き一段と増している。スロープの中腹まで行くと朝日が当たっている。そこらまで行って、そこを基点に訓練しよう」
「そうだな、あそこら辺まで行けば斜面もカール状になっていて、雪景色が綺麗だぞ。まあ、とにかくそこまで行ってみよう」
阿部が仰ぎ見た。
「おお、あそこから転げ落ちれば、相当加速がつく。訓練するにはちょうどいいぜ!」
村越が気勢を上げた。すると佐久間が促す。
「それじゃ、登るぞ」
三人は列を作り、急勾配の斜面をピッケルを使い、息を切らし登って行った。
「ここいらでいいか?」
村越が荒い息をしつつ足を止めた。
「ううん、いいんじゃねえか。ここまで来れば、さっき試したところとは格段に勾配が違う。先程の感触だけでは止れないかも知れん。もっと衝撃を肌で感じないと駄目だから、真面目に取り組もうぜ」
佐久間が気を引き締めた。二人が頷く。
「それじゃ、俺が先にやる!」
まず始めに、佐久間が本格的な滑落停止の訓練に入った。阿部も村越も続いた。雪煙が上がり、急斜面のスロープ下から吹き上げる風に舞い上がる。その粉雪に朝日が当たりきらきらと輝き吹かれ落ちて行く。そんな様など三人の眼中にない。途中まで滑り落ちては、雪煙を上げ止る。そこからまた転がり落ちては停止動作に入って粉雪を舞い上げた。斜面の下まで行くと、またスロープの上まで息を切らして行き、滑落停止の訓練を繰り返す。
何度か試みた後、佐久間が声を張り上げる。
「おい、皆、今度はザックを背負ってやってみないか!」
阿部が反応し返事が返る。
「そりゃそうだ。現実は空身で歩くわけではないからな。実践でやらんといかんぜ」
「おお!」
三人は一旦斜面のコルの麓まで戻り、ザックを背負う。
「ちょっと、小休止しないか?」
荒い息で阿部が覗った。
「そうだな、ちょっと休むか」
「いいな、一服しようや」
村越が言いつつ、胸のポケットから煙草の箱を取り差し出した。
「おお、悪いな。一本頂くぜ!」
阿部が煙草を取り、続いて佐久間も一本抜き銜える。村越が銜え煙草に火を点け、ライターの火を二人に差し出す。夫々、火の点いた煙草をくゆらせ、急斜面を仰ぎ見つつ、朝日に輝く雪景色を細めた目で眺めていた。
素晴らしい絶景に佐久間が感動する。
「改めて見ると、やっぱり綺麗だな。青空の中に純白の雪景色が対照的で。これぞ絶景と言うんだな。俺らみたいな山男でも感動するんだから、下界の奴らが見れば、あまりの美しさに卒倒するんじゃねえか」
すると阿部が茶化す。
「そうだな、まあ、村越の彼女だって、これを見たら間違いなく倒れるな。「そうだろ、村越」そこがチャンスと、しっかり抱きかかえ、そこで言うんだ。「俺がついているから大丈夫だ」ってな。そんなシナリオでよ」
「おお、そうだな。だけど、阿部にそこまで言われちゃ、俺の出る幕がねえじゃねえか。勘弁してくれよ」
「おお、でもよ。お前にのろけられたんじゃ、つまらんから先に言ったまでだ。なんせ、お前の場合はワンパターンだからよ」
「なにを言う、阿呆くさ」
「ところで、調子の方は如何だ、村越?」
佐久間が話題を変えた。
「うん、まあまあだな」
「そうか、万が一の時は、反射神経だ。これからはザックを背負ってやる。意識していたら手遅れになる。何度も練習して身体に染み込ませにゃならん」
佐久間が調子を聞き、そう答えた。すると、村越が同調する。
「おお、そうだ。前の時は、それで助かったんだ。咄嗟だったからな。気がついたらピッケルで滑落停止の姿勢になってたよ。無意識のうちに生かさていた」
「そうだったな、身体が覚えていたんだ。ちょうど阿弥陀を登り斜面を降り、赤岳へ向かう両側が切り立った稜線だったからな。急斜面で訓練してから、稜線までが二時間ぐらいだった気がするよ」
「ああ、そうだ。真近かだったが、あれが一日経っていたら如何なっていたやら。ひょっとして、今日のお前がいなかったんじゃねえか」
阿部がおちょくった。
「そうかも知れんな。もしかして、あん時村越は、止ることが出来ず谷底に落ちていた。だから、今ここにいる村越は、幽霊と言うこともあるぞ。だって、さっき滑落停止の訓練をしていた時、如何も雪煙が立っていなかったもんな」
さらに佐久間が茶化した。すると、顔色を変え否定する。
「何を馬鹿なこと言っている。冗談言うのも程々にしてくれ。なにが雪煙が立たねえだ。縁起でもねえ!」
すると、佐久間がフォローする。
「まあ、稜線じゃ、なにが起こるか分からねえ。おそらく岩道もアイスバーンになっているだろうから、しっかり踏み締め、ピッケルで支えていかねえとな」
「そうだ、そうだ。数多く訓練をしておくに越したことねえ!」
村越が口を合わせた。
登攀用ザックを背負った彼らは、雪に刺してあるピッケルを抜き、ふたたびスロープをよじ登り始めた。そして、今度は中腹より若干上まで登り、そこから雪煙を上げ停止訓練を続けていた。佐久間にしても、村越、阿部にしても、その目は前方を見据え、投げる視線が真剣そのものだった。ぜいぜいと荒い息と伴に、ピッケルが爪を立て止まるごとに雪煙が舞い上がる。一段と輝き出した朝日がそれを受け、眩いばかりに反射し、吹き上げる谷風が、乱舞し舞い散る雪煙を、さらに大きく咲かせるように青空に向け押し上げていた。山男たちは幾度も繰り返し訓練を重ねた。
「さあ、これくらいにしておくか。時間も時間だし、次へ進まんといけないからな。如何だ、身体に焼き付けられたんじゃないか」
「おお、大丈夫だと思うよ」
「そうか、それなら。ここらでザック下ろして一〇分休もうぜ」
村越の返事に佐久間が告げた。すると、阿部が荒息をしつつ制する。
「いいや、待てよ。こんなところで休むより、阿弥陀岳の山頂まで行ってから休まないか?」
佐久間が確認する。
「村越、如何する?」
「俺はここで一服した方がいいと思うよ。ちょうど日溜りだ。多少の風は吹き上げてくるけど、休むには丁度いい場所だからな。それに、この滑落停止の訓練結構入れ込みやったんで、少々草臥れたぜ。何本やったかな。そうだな、二十本近い気がするよ・・・」
「ああ、俺だってそれくらいはやったな。おかげで要領を思い出したよ」
荒息で返した。
「それもそうだな。ここなら休憩取るにはいいか」
佐久間が了解しつつ促す。
「阿部、如何だ。ここで一服しないか。汗もかいたことだ。吹きっさらしのところよりいい。それに小休止を入れ息を整えないとまずい。これから阿弥陀の岩稜に臨むんだ。そのままでじゃちょっときついぜ」
「ううん、そうだな。そうしようか。それじゃ、阿弥陀岳の頂上では写真を撮るぐらいにしようか。佐久間、写真の方は頼むぞ。あそこから見た赤岳の景観が、また一段といいからな」
「分かった、そうしよう。それに、この訓練した急斜面のところで写真を撮っておこう」
「ああ、それがいい」
ピッケルを雪上に刺し登攀用ザックを肩から下ろして、雪溜まりの中に座り込む。一服しながら、佐久間がザックからカメラを出し二人を撮った。
「よし、俺が撮るから、佐久間、村越と並べよ」
「いいな格好よく撮ってくれ。彼女に見せるんだから」
村越がにたつき惚気た。阿部がカメラを受け取り、並び座る二人にシャッターを切った。
「それにしても、気持ちがいいな。斜面の日溜まりで正解だよ。身体も温まるし、何より身体が休まるもんな。村越、いいこと言った。感謝するぜ」
「おお、なんでも聞いてくれ。まあ、俺みたいな一流の登山家の言うことを聞いていれば間違いない。ちょいとプロとしての気配りを見せただけだけどな。まあ、こんなもんだぜ」
ついと、鼻頭を上げた。
「そうかい、それなら、これからその度聞くとしようか?」
調子こく。
「ああ、そうしてくれ。弟子の阿部君」
「な、なにが弟子だ。村越、調子に乗るんじゃないよ。まったくしょうがねえ野郎だ」
阿部が虚仮下した。そんな掛け合いを、佐久間が笑い頷いていた。
一服し終わると、三人は村越が先頭を立ち、ふたたび阿弥陀岳へ進む中岳コルの稜線へと向かって急斜面を登り始めていた。歩く隊列を追いかけるように谷風が吹き上げてくる。稜線に近づくにつれ、山風が一段と強く襲ってきた。目出帽子から視線を這わせながら黙って登り行く。息が荒くなってきた。帽子に覆われた各自の口から白い息が、しっきりなしに吐き出されて行く。その荒息に吹き上げてくる風雪が纏わり付き、夫々の目をかすめ斜面の急勾配に沿って流れ散っていた。
ゆっくりと登りながら高度を稼ぐ。
やがて、阿弥陀岳へと続く稜線へと登りつめた。中岳のコルである。そこから切り立つ稜線沿いに阿弥陀岳の山頂を目指す。稜線に出ると、吹き上げる山風が雪を舞い上げ、さらに強くなっていた。自然と目が細くなる。アイゼンが凍りついた岩道を、しっかりと捉えながら歩む。凍道を噛む響きがアイゼンを通して爪先に伝わってくる。一歩一歩ゆっくりと噛む。吹き上げる谷風に舞い上がる粉雪を受け、視線を落とし確実に進む。直に稜線が急勾配に変わる。
阿弥陀岳に取り付いた。
岩肌が目前に迫り、大きな岩に挟まれた細い岩道に変わった。凍りついた岩道にアイゼンが跳ね返されるが、それでも辛抱強く爪を立てる。ピッケルを使い慎重に前へ歩を進める。息が激しい風のようになっていた。吹き出す白い息が、岩稜に吹き付ける風に微塵に散って行く。やがてその息が、睫毛にこびり付き結晶化していた。
ふと立ち止まり、荒息の中で周りの情景を垣間見る。陽射しに反射した雪が、きらきらと輝き、眩しいばかりだ。とにかく冷たい風が、しっきりなしに吹き上げてくる。足をとられまいと、ピッケルを片手に慎重に急勾配の岩道で歩を稼ぐ。 三人の山男らは喋ることをしない。
「・・・」
さもあろう。ぜいぜいと荒い呼吸が言葉を拒む。声を出す、そんな余裕などない。全神経を凍りついた岩肌に注いでいるからだ。この稜線を一歩でも踏み外せば滑落する。それは許されない。そして、佐久間や阿部にしても、前を行く村越の後姿を全神経で追い、互いの心の内で叫び合う。
とにかく、落ち着いて行け。焦る必要はないんだ。ゆっくりとこの岩肌を捉え、先へ前進すればいい。慎重に一歩一歩稼いで行くことだ。そして俺らを導いてくれ・・・。
おお、分かっているさ・・・。
先頭をゆく村越が内で呟く。後ろから射いる物言わぬ視線が痛いほど分かる。
もうじきだ、頑張ろう。俺の歩んだ後について来い。慎重に選んだ軌跡だ。信じてついて来い・・・。それにしても、この急勾配きついぜ。
おい、村越。大丈夫か。息が荒くなっているぞ。お前の力強い意気込みが、飛び散る白い息と足跡で伝わってくる。あと少しだ・・・、頑張れ!
互いに口から吐く白い息が、連携するように胸内で叫ぶ掛け声となって、山男らを熱くしていた。
三十分弱の岩道との格闘で、ようやく阿弥陀岳の山頂に辿り着く。三人は標高二千八百五メートルの頂に立っていた。視界が三百六十度開けた。眼下に雪を纏った針葉樹林の帯が広がっている。前方を見ると対峙するかのように、凛々しい赤岳がその全容を煌びやかに誇示していた。吹き上げる粉雪が目出帽子をすり抜け、冷え切った頬に容赦なく突き刺さってくる。胸を打つ荒息は、一向に収まろうとしない。
佐久間らは山頂の岩場に風を防ぐように腰掛けた。呼吸を整え阿部が感謝する。
「佐久間、やっぱり、さっき休んで正解だったな。こんな急勾配に取り付いてきたんだ。そのまま来ていたら息切れして、とんでも登れなかったぜ。それに、ここじゃ風が強くて、じっとしていられねえもんな。村越、改めて礼を言うぞ」
目をしばつかせ、前方の赤岳に視線を移す。
「それにしても、すげえじゃねえか。絶景としか言いようがねえぜ!」
興奮気味に発した。同時に佐久間が視線を投げ応える。
「本当だな。早速、我らの雄姿を写真に収め、ここからの赤岳を撮っておかなきゃな。こんな素晴らしい景観はめったに見られん。やっぱり冬山はいい。何にもまして感動ものだぜ」
感激しつつザックから手早くカメラを出し、てきぱきと三人の雄姿を交互に撮り、さらに、赤岳の絶景を数枚収めた。
「しかしきつかったな。この急勾配を、よくもまあ一気に登ってきたもんだ。見ろよ、一歩踏み外したらいちころだぜ。それにしても風が強いな。見晴らしがいいだけ、吹き上げがまともだからな。とても目を開けてられねえぜ」
襲いかかる強風に耐えつつ、手で顔を覆い村越が漏らした。
「よし、それじゃ。阿弥陀岳とは、これでおさらばだ。中岳のコルまで引き返して、主峰赤岳へと挑戦するか」
阿部が告げた。すると村越が応じる。
「そうしようぜ。その前に今一度、ここからの絶景を拝んでおかないとな」
「おお、俺もそうするぜ」
阿弥陀岳の山頂から、しっかりとその雄姿を目に焼きつけていた。
「それにしても、ここは風が強いな」
村越が愚痴った。
応えるように佐久間が促す。
「そうだな。風が強いから足元に気をつけろ。アイゼンのベルトが緩んでいないかも点検してから下山しようや」
「ああ、了解した。下りは気をつけねえとな。見ろよ、この凍りついた岩道。アイスバーンになっているぞ。それにしても、顔に当たる風がつめてえな。下からの吹き上げがまともだぜ」
「おい、阿部。お前の睫毛、白く凍っているぞ」
「おお、如何も見づらいと思ったら、そんな案配か」
佐久間の指摘に応え、今度は阿部が佐久間を見て発する。
「佐久間、お前だって、睫毛が凍っているぞ。それと目出帽子の口の辺りが白くなっているよ」
「吐く息が凍りついているんだな。こんなに寒くっちゃ、そうなるぜ」
佐久間を見て、村越が自分の目出帽子の口の周りを触り言った。そして視線を赤岳へと移し推測する。
「ここからだと、赤岳山頂小屋まで一時間半というところかな?」
「そうだな、そんなところだ。それにしても、今のところは順調に進んでいるよ。経過時間もコースの時間取りと同じだ。このペースで行こうぜ。まあ、まだ阿弥陀をやっつけただけだけどよ」
佐久間がピッケルを雪上に刺し手袋を捲り、腕時計を見て言った。それを聞いて、合点し合図をする。
「おお、いいペースじゃねえか。それじゃ出発だ!」
「了解!」
三人は阿弥陀岳の急勾配の岩道を慎重に降りていった。吹きつける風雪が、今度は真正面から顔を目がけて襲いかかってきた。目に入るのを防ぎながら、ゆっくりと下山して行く。
「きえっ、たまらんな。この風、何とかならねえかよ。まったく如何しようもねえぜ。くそっ、参ったな」
ぶつぶつと喋り進み降りる。後につく阿部も佐久間も、顔をしかめついて行く。それでも吹き上げる風雪は容赦ない。とにかく耐えながら、次の登頂目標である赤岳を目指し下山して行った。
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