四
「さあ、それじゃ。食料を雪の中に埋めてくるか。持って来た握り飯と、切ってある野菜を出してくれ」
阿部が促した。
「おお、分かった」
夫々がザックからビニール袋に入れた食料を取り出し手渡す。
「おいおい、村越。お前の全部よこしたら駄目じゃねえか。さっき言っただろ、今日の夕飯と明日の朝飯の分は残しておかんとよ」
「ああ、そうだった。ついと忘れていたよ。何時も完璧な俺としたことが、ほんの魔が差したとしか思えねえ失態だ。悪い悪い勘弁してくれ」
頭を掻きながら渡しかけた握り飯を取り戻した。集めた食料を持って、鼻歌混じりで外に出て行った。
「さあ、これで準備は完了だ。今、何時かな」
村越が腕時計を見る。時計の針が午後四時十五分を指していた。
「あれ、もうこんな時間かよ。結構、真剣に打ち合わやってたじゃねえか。あっという間に経ってしまった。後は夕飯食って寝るだけだ。まあ、夕飯食うにはちょっと早いし、それじゃ一服するか」
胸のポケットから煙草を取り出し火を点け、ゆっくりとくゆらせた。目を細め佐久間に向かう。
「明日の朝は早いからな・・・」
「そうだな、四時半頃起きればいいか」
「ええっ、そんなに早く起きなきゃいかんのか?」
「そうだ。それくらいに起きなきゃ、ここを六時前に出られないからな。それに、所要時間を考えたら、少しでも早く出発したいしよ。まだ暗いかも知れんが仕方ないさ」
村越の驚きに、さり気なく佐久間が告げた。すると納得するように、
「そうだよな。朝飯食ったり、明日の行程のことを考えればしょうがねえか。それじゃ、今日は早く寝ないといかん。うん、そうだ。早く寝よう」
己に言った。
「明日はなるべく早く出て、戻り時間を陽の落ちる前にしたいからな・・・」
佐久間が欲した。
「それじゃ、阿部が戻ったら、再度出発時間を決めようぜ。さっき検討したが、それだけじや駄目だ。前もって今日のうちに明日持って行くものは別の登攀用のザックに詰めておく方がいい。もう俺は完了したけど、佐久間らはまだだろう。今夜のうちに準備しておけよ」
促すと頷く。
「そうする心算で、小さいザック持って来たんだ。それに、食料も一食分と予備を入れて持って行く。山頂や稜線なんかで、足止め食った時のことを考えんとまずいからな」
不測の事態を想定した。そして装備をザックに移し終えた頃、ちょうどそこへ阿部が戻ってきた。二人の顔を見るや、身体をちじめ屋外の状況を説明する。
「おお、寒ぶっ。やっぱり冬山だな。陽が落ちてきたんで、一気に冷え込んできているぜ。これじゃ、明日の朝はそうとう冷えそうだ」
「そうかい、思った通りだ。今日は一日中晴れていたから、夜になれば放射冷却が厳しくなり冷えると思っていたんだ。案の定、そうなってきたか」
村越が想定通りと推測した。
「まあ、今夜は冷え込んでも、明日天気が悪くなるよりいいじゃないか。晴れていなけりゃ縦走だっておぼつかないぞ」
佐久間が相槌を打った。
「そうだな、冬山に来てんだ。寒いのは当たり前だよ。それより、これだけ寒くなれば稜線の岩道はアイスバーンになっていると思うが」
不安気な顔になった。
「大丈夫だ。アイゼン持ってきているから。美濃戸口で確認したが、皆、忘れてねえよな」
阿部が言うと、佐久間が当然というように応える。
「ああ、勿論だ。忘れちゃ如何にもなるまい。それにここまでの道程で、装着する心算で用意したが使わずにすんだ。明日は絶対必要だ」
そして、話題を変え続ける。
「さて、夕飯の仕度まで、まだ時間がある。少し身体が冷えてきたんで、如何だ、土間にある薪ストーブにでもあたりに行こうか。温まるぜ」
すると待ってましたと、村越が同意する。
「そうしようぜ。夕飯にはまだ時間もあるし、ここにいたんじゃ寒くてかなわん。さあ、あたりに行こう。あっ、それに阿部。再度明日の出発時間を確認することにしたんだが、なるたけ早く出発する。だから必要なものは、今夜中に登攀用ザックに詰め込んでおけ。直ぐに出られるようにな。俺らもそうするからよ」
「おお、分かった。もう、大方完了している。再確認は後でしておくぜ」
促されるように、言いだしっぺの阿部に続いて、二人が立ち上がり登山靴を引っ掛け、土間の薪ストーブの方に歩いて行った。燃え盛るだるまストーブの側に立つ。
「ひゃあっ、温ったけえな!」
村越が感嘆の声を上げ手をかざした。阿部もすぐさま手をかざし、温もりを味わう。
「ううん、いいもんだ。温かくて気持ちがいいぜ」
佐久間とて同様だ。
「ふうっ、身体の芯から温まるな。薪ストーブに感謝しねえといかんな。こんなことが出来るのも、冬山で味わえる醍醐味というもんだ」
ストーブの周りには、すでに三、四人の山男が先客で陣取っていた。空いてる椅子に三人は腰掛けた。そして、手をかざし温まっていた。
手の先が温もり、ついで顔が火照ってくる。
「・・・」
言葉を忘れるほどに、踊る炎をじっと見入っていた。勢いよく燃える薪が、時々ぱちぱちと音を立て跳ねる。薄暗い小屋の中に、ストーブの明かりが輝くように眩しい。
そうしているうちに、ストーブの放つ熱が身体全体に染み渡っていた。さらに、三人は無口になる。
「・・・」
言葉などいらない。この時ばかりは、喋る必要がない。
赤々と燃えるだるまストーブを囲み、手をかざし勢いよい炎を見ながら、温もりを身体全体で受け止めていた。
「しかし、いい気持ちだな・・・」
村越が久々にぽつんと口を開いた。すると続いて阿部が、満足気な顔でのたまう。
「ううん、こんなに温かくなるんだから、薪ストーブの威力はすごいもんだ。感心するぜ。まったく大部屋の方とは別世界だ。このままずっと、ここにへばり付いていたい気分になるな」
応えて村越が発する。
「まったく、同感だ!」
すると隣で、佐久間が笑みを浮かべる。
「いいもんだな。これぞ冬山で味わえる至福の時といえる。この醍醐味はこの時期のここじゃなければ味わうことが出来ねえからな。それによ、こんなこと出来るのも、初日の時間取りにゆとりを持たせてあるからだぞ。計画作りのおかげだ。感謝してくれよな」
燃え盛るストーブに手をかざし促した。すると、その言葉をきっかけに三人は、また、山の話を堰を切ったように喋り始めていた。
「おお、有り難うな。佐久間のおかげだよ。こうして至福の時を迎えられるのもな」
「なんだ、なんだ、村越!」
「如何も気持ちが入ってねえじゃねえか。礼というのは、もっと気持ちを込めてするもんだぞ」
「ああ、そうか、そうかよ。それは悪かったな。俺の場合は、態度にはあまり表わさないが、心の中じゃ深々と頭を下げてるんだ。男というものは、そう容易く頭を下げない。そのかわり胸の内で手を合わせ深く感謝するのさ」
「ああ、分かった、分かったよ。お前は何時も屁理屈ばかり並べんだから」
諦め顔になった。
真冬の山岳の世界は午後四時頃を過ぎると、山小屋を取り巻く環境ががらっと変わる。陽が傾き出すと、直ぐに陽射しが弱くなり、山々の影が急速に長くなる。そして、昼間色に投げていた陽射しが冷た色へと変化して行く。
山での夜の訪れは早い。
稜線の粉雪がその訪れを示すように激しく舞い上がっていた。やがて、陽射しが粉雪をきらきらと輝かせ稜線の向こうに落ちた。すると、赤岳鉱泉小屋が急速に冷た色の夜の帳に包まれて行く。そして、大きく迫り出すような稜線の黒い影が小屋を包み込む。一瞬の様相も、純白に輝く煌びやかな昼間の世界から、冷た色の極寒の世界へと変化し、やがて闇の中へと埋没して行った。
陽の当たらなくなった稜線や大同心、小同心の岩稜は、青白い雪景色のなかで異様なほど迫り来るような様相となる。しかし鉱泉小屋の中にいる山男たちは、その情景を誰も見ていない、まさしくこの情景が、厳冬期の八ヶ岳が夜の帳に包まれて行く瞬間なのだ。
昼間の顔、そして夕日が沈む頃の顔、瞬く間に変わり果て、まったく異なる夜の顔に。一大パノラマが展開され、別世界が現われる。満天の闇夜に落ち降るような星たちが輝き始めて行くのだ。その輝きは、まるで、手の届くほどのところで瞬き輝いているのだ。幾千個、いや、幾万個の星たちが我が世を得たりと、これまた、無数の宝石を散りばめたように輝き放つ。
その瞬く星は、手を伸ばせばもぎ取れるのでは、とさえ錯覚する。降り注ぐ輝きすら、その放たれる光と共に、落ち来るのではとさえ思うほど異様に放つ。その素晴らしい光景も、じつは、誰も小屋の外に出て見る者がいない。佐久間らにしてもそうだ。そう、陽が沈むのと同時に極寒の地と化した山岳にあっては、皆、山小屋に引きこもり暖を取る。輝く星たちの姿を見るようなロマンティストの山男には成り得ない。そんな感性など持ち合わせていないのが、彼らなのだ。
燃えるストーブの炎に顔を赤らめて温もる共々は、相変わらずその場を離れようとせず居座っていた。時には煙草をくゆらせ、あまりの温かさに冬山用の服を着ているせいか、薄っすらと額に汗を滲ませては、上気した顔で村越が喋る。
「しかし、温ったけえな。熱いくらいだぜ」
さらに、話に花が咲く。それでも偶然かもしれないが、山の夜話になっていた。しかしそれすら、これから始まる厳冬期の山岳での星たちの輝く天体ショーとはなんの関係もないし、直ぐにでもこの温もりを離れて見に行こうという興味が湧くわけではない。まったく別次元の話であり、たまたま話題がぶれていっただけである。それでも話の流れから、冬山の星空の話に及んだのだが。
「おい、佐久間。夏山の夜空も綺麗だったな・・・。おお、そうだ。昨年の八月の山行でよ。夜行で行った丹沢の時、むわっとするなか歩いたよな。あん時も星が降って来るようだったぜ。覚えているか?」
阿部が問いかけた。すると応じる。
「ああ、覚えているよ。暑っい夜だったなあ。真っ暗で、懐中電灯をつけて歩いたもんな。汗が滴り落ちてよ。けど明かりを消すと、そりゃ、綺麗だった」
「おお、蒸し暑くてな。なんだか、懐中電灯の明かりに、随分虫が集まって来たじゃねえか。たまに顔に当たって往生したぞ」
阿部が応えているところに、村越が割り込んでくる。
「そうだった。お前らは女にもてねえが、虫には好かれるんだ。特に夜の虫にはよ」
「なに馬鹿なこと言っている。お前だっておんなじだろ。よく顔に当たって嘆いていたじゃねえか」阿部が返すと村越が反発する。
「大きなお世話だ。それにしても、都会では見られない輝きだった。東京から近い丹沢でも、あれだけ違うんだから。驚きもんだぜ」
「それは言えるよな。それに東京は照明の洪水だ。とても見られたもんじゃない。それに比べれば、丹沢の山の中は真っ暗だから、余計星が輝いて見えたんじゃねえか」
阿部が講釈すると、佐久間が察し頼む。
「しかしよ。夏山より冬山の方が、より輝いて見えるんじゃねえか?村越、お前。小便したくねえか。ちょいと悪いが用足しのついでに、どんな案配か見てきてくれねえか」
「ええっ、俺が?」
驚き、難色を示す。
「俺は、別に小便なんかしたくねえよ。こんな温かいところにいるんだ。そんなことのためにわざわざ外なんかに行けるかよ!」
「そうか・・・」
「当たり前だ。せっかく温まった身体が冷えちまうじゃねえか!」
冗談じゃないという顔になった。
すると佐久間が企む。
「まあ、そうだが。お前たしか、誰からもロマンティストだと言われているらしいが、本当にそうなのか?」
「ああ、まあな。皆、俺のことをそう言っているが。自分では当然のことと思っているから、人様が如何騒ごうと、別に驚きはしないけどな」
村越が鼻をつんと上げると、佐久間が突っ込む。
「それじゃ、今日の夜空はどのように感じているんだ?まさか、何にも感じない訳がねえよな。だって、冬山の、それも一年中で一番寒い季節だぜ。空気が透き通って、夏山なんかに比べたら段違いに輝いていると思うが、俺なんか鈍感だから、その良さが分からねえ。それに比べ感性豊かなお前なら、その辺の違いを見定めるのはお手のもんだろう?」
「ううん、そうだが。それは、まあ、俺ぐらいになると、小屋の中にいてもおおよそ見当がつく。実際には凡人のお前らが思うより、遥かに想像を超えたものが天空に散りばめられ、雨のように降ってくるほどに輝いているはずだ」
知ったかぶりに村越が嘯くと、さらに突っ込む。
「おお、そうか。そんな素晴らしいんか?それだったらロマンティストとしては、そのよさを味わうべく見てくる以外にねえやな。実際に見てその素晴らしさを、さらに表現豊かに語ることが、感性豊かなお前のすべきことではないのか。俺はそれを期待しているよ」
「ああ、まあ、そうだが。ちえっ、余計なことを言うんじゃなかったぜ!」
佐久間の言い回しに乗せられ、しぶしぶと立ち上がる。
「分かったよ。したくはねえが、小便でもしに行くついでに、ちょっと見てくるか。しょうがねえな。これだから凡人と付き合っていると、余計なことまでやらされるんだ。まったく感性の優れた俺には辛いぜ。せっかく温もっていたのに、行かなけりゃならなくなってよ」
くどくどと嘆き、登山靴を引っ掛け小屋の外に出て行った。その様子を黙って見ていた阿部が、吹き出しそうになる。
「おい、よくもまあ、村越を垂らし込んだな。佐久間、お前天才的だ。上手くおだてて無理矢理出て行かせ、星の輝き状況を調べさせるんだから。あいつを見ていて、危うく吹き出しそうになったよ。我慢するのも辛いところがあるな。決まってるじゃねえか、夏に比べれば冬の星空が綺麗なことはよ。そんなこと凡人だって知っていることだ。それを歯の浮くように持ち上げて、野郎がロマンティストだと。どの面下げて感性豊かだ。大口を開け欠伸をしている姿なんぞ。馬鹿丸出しじゃねえか」
「まったくだ。俺も唆していて、危なく吹き出しそうになった。でも、話し始めたんで、途中で終わる訳にはいかなかったんだよな。まあ、奴も変なところで肩肘張るから。ものの弾みというのがあるだろ。それだよ、それ」
二人は半ば呆れるように話し、帰ってくる村越を待った。
ストーブの周りにいる山男らも、ちらちら覗き会話を聞きながら、思わず吹き出しそうになるのを堪えていたが、村越が席を離れた途端、げらげらと笑い出していた。そんなこととも知らず、直ぐに冷え切った顔で戻ってくる。
「おお、寒ぶい。ちんぼこが凍りつきそうだぜ。ほら、手なんかがちがちだ。まったく外なんか行くんじゃなかった。せっかく温まった身体が冷え切っちゃったよ」
愚痴りながら阿部の隣に腰掛け、ストーブに手をかざした。
「ふうっ、温ったけえなあ・・・」
安堵したのか、大きく息をついた。
「おい、村越。如何だった?」
佐久間が尋ねた。
「はあ?」
「なにが、はあ?だ。如何だったか説明してくれねえか?」
「なにが・・・」
「なにがじゃねえよ。お前、外になにしに行ったんだ!」
「なにしにって。小便しに行ったんだが・・・」
阿呆面した村越に重ねて尋ねる。
「それだけか?」
「ああ、そうだ・・・。あいや、待てよ。それだけじゃなかった。星空をみてくるんだったんだっけな。あんまり寒かったんで、つい忘れてしまった。如何しようか?」
「ちぇっ、しょうがねえな。ロマンティストが聞いて呆れるぜ」
「面目ねえ」
悪びれることなく頭を下げた。
「それじゃ、しょうがねえ。俺が見てくるか。ちょうど小便したくなったからよ。ちょっと行ってくら」
佐久間がストーブから離れ出て行った。暫くすると、凍え背中を丸めて戻ってくる。
「ひえっ、寒いな。すっかり冷えちまった。おい、村越。端へ寄ってくれ。ストーブにあたらせよ」
割り込み、燃えるストーブに手をかざした。
「おい、佐久間。如何だったんだ。夜空のカーニバルはよ」
村越が知りたそうに尋ねた。
「おお、よかったぞ。まるで、手が届きそうなところで輝いているんだ。なんていうか、じっと見ていると、錯覚かもしれないが落ちて来るような気がしてきたな。数え切れない星が、輝きと共に今にも降ってきそうだった。小便しながら、思わずぞくっとしたぜ。ぎんぎんに冷えているんで、おおいに寒さも手伝っていたからよ。それでも、これ程の様相は東京じゃ見られねえ。
もっと厚着して出れば、寒さもしのげるし、もっとゆっくり眺めていられたんだが残念だよ。本当に、背伸びをすれば掴めるんじゃねえかとさえ思えたぞ」
温もりながら、夜空の様相を一気に喋った。
「そうか、それは素晴らしい景観だろうな・・・」
見そびれた村越が羨まし気に返した。
「ああ、その通りだ。後は言えんぞ。知りたかったら、もう一度見て来いや」
佐久間がもったいぶった。すると、聞き及ぶ阿部が興味を持ったのか、ついと立ち上がる。
「俺も小便して来るわ」
さっさと外に出て行ってしまった。
「なんだ、阿部も小便しに行ったのか」
村越が燃えるストーブを眺めながら、一服くゆらせ呟いた。そこへ、阿部が戻ってきた。椅子に座るなり、考え深気にのたまう。
「いやっ、綺麗だったな。夏山と違って、冬山の夜空は一段と美しい。佐久間が言っていた通り、輝きがまるで違う。本当に落ちてきそうだったぜ。思わず手を出しそうになった」
そこで、村越に語りかける。
「やっぱり、口で説明するのは限界があるな。あんな素晴らしい情景は、しっかりと己の目で見るのが一番いい。百聞一見に如ずとはこのことだな。寒かったけど、十分見応えあったぞ」
煙草を取り出し、だるまストーブに押し付けて火を点け、深く吸い込み満足気に口で煙の輪を作りながら、ゆっくりと吐き出していた。すると、村越がなんとなくそわそわしだし、さっき行ったばかりなのに、ふたたび席を立つ。
「俺もちょっと、もう一度行ってくるわ・・・」
突然言い、急ぎ小屋の外へと出て行った。佐久間と阿部が顔を見合わせ、苦笑いしていると、直ぐに戻って来た。
「すげえな。あんな天体ショー見たことがねえ。ああ、いい目の保養になった。こんな素晴らしい夜空を、彼女に見せたら泣いて悦ぶところなんだが、連れて来られなくて残念だよ。」
惚け顔で口惜しそうに漏らし、ストーブに手をかざして目を閉じた。そして真顔で続ける。
「それによ、手の届きそうなところに在るんだぜ。見せながら、そっと彼女の肩に手を乗せ「この僕が、あの輝く星を集めネックレスにして君の首にかけてあげるよ」と、優しく囁くんだ。そしたら、潤んだ瞳で上目使いに俺を見つめ、「嬉しいわ」と、感動して涙を流すかもしれんぞ・・・」
鼻の下を伸ばしていた。
「あれ、また始まったぞ。村越、なんでもいいから喋れ、聞いてやるから」
「ほれ、もっと歯の浮くような、格好いいこといわねえか」
阿部が茶化した。そう言われ、止めるかと思いきや目を輝かす。
「それじゃ、遠慮なく続けさせてもらうよ」
さらに得意気になる。
「でもな。冬山は無理なんで、今度夏山に連れて行ってやろうと思う。それもな、夜行で行って、小屋泊まりとする。夕飯食ったあと二人で外へ出て、満天の星空を見上げる。そっと手を繋ぎながらな。そこで彼女が感謝する。「道雄さん、有り難う。こんな素晴らしい星空を見せてくれて、とても素敵ね」って。するとおもむろに俺が応える。「ああ、君のために。この夜空があるのさ。僕が、君にプレゼントする最高の輝きさ」ってな。すると感激し、「有り難う」と、言いながら。俺にしっかりと抱きつく。そして、厚い口づけを交わすんだ・・・」
ストーブに手をかざし、夢の如く目を細め妄想するが、現実に戻り同意を求める。
「如何だ、こんなシナリオで?」
阿部が呆れる。
「なに、馬鹿みてえなこと。お前、阿呆と違うか。聞いていればしゃあしゃあと。夢物語みたいなこと言ってんじゃねえよ。まったく」
「ああ馬鹿らしくて、虚けの話なんか聞いてられねえや」
佐久間も呆れ茶化す。
「ほんとうだ。村越、熱でもあるんじゃねえか。それとも、この小屋までの山登りで疲労困憊したんか。この際夕飯食ったら、直ぐ寝た方がいいぞ」
すると、真顔で反論する。
「なんだい、いいたいこと言って。お前らが聞きてえというから、話してやってんのに。馬鹿にしやがってよ。もう止めた!」
すねて、ストーブの方に目をやってしまった。すると佐久間が訝る。
「あのな、村越。話の腰を折るのもなんだが。お前の山行が彼女連れというのが、仮説から成り立っているよな?」
「なんだい、佐久間。お前の言っていることが、よく分からねえな。なんだ、その仮説っていうのはよ」
「ああ、それはな。一つは、彼女がすでに夜行で行くことを承諾していること。大体お前と二人きりで、夜行でなんか山に行くか?それに、夏山であろうと冬山であろうと、天気ばかりとは限らないぜ。たとえ昼間晴れても、夜には曇って星が見えなかったら如何する。前提が崩れれば、お前の目論みも水の泡と化すじゃねえか。そしたら感動して抱き合うことが出来るのか。それに盛り上がらず、キスなんか出来ねえんじゃねえか?」
飲み込めぬ顔に、佐久間がずばり告げた。すると、想定外という表情に変わる。
「それは困るぜ。夜行での山行きは、なんとか説得するが、天候の方はなんともし難い。そこんところは晴れてもらわにゃ困る。せっかく雰囲気を出そうと思って外に連れ出ても、星空がなければ話しにならんからな。それに、彼女とキスが出来なくては・・・、それは困るぜ」
すると、阿部が口を挟む。
「大体、お前の誘いに彼女がのるか。なにされるか分からねえと疑われ、体よく断られるのが落ちだ。村越の顔見ちゃ、危険極まりないと思われるからよ」
「なにを抜かす、お前とは違うんだ。俺みたいな男前を、そんな風に思うわけねえだろう。もてねえからと、ひねくれた言い方するな」
「まあ、そうかもしれんが。それはそれとして、途中で腰を折って悪いが、その話はこれまでにしよう。村越、それでいいよな」
「ああ、まあな・・・」
「そうだ、村越。言うの忘れていたが、さっき、お前たしか、二度目の小便をしに行ったんじゃなかったのか?それを、彼女の話になってしまってよ」
「いや、なんだ。まあ、そうだが。お前らが、「あまりにも綺麗だとか、落ちてくるようだ」とか言うもんだから、つい、見たくなってよ。それで口実作って行って見てきたが、本当に綺麗で、つい願望から彼女に及んだんだ」
「そんなことかと思ったよ」
「ああ、すまん」
腰を折られた格好になり、しぶしぶ詫びた。すると佐久間が、別の話題に移す。
「しかし、楽しいな山小屋はよ。これが冬山の醍醐味かもしれんな。薪ストーブを囲んで暖を取りながら止めどなく話し込む、いいもんだ」
「そうだな、こんなこと冬山じゃなければ味わえねえよ。それに今回の山行は、一日目にかなり余裕を持たせてあるからな」
阿部が目を細めた。談笑を促すように囲むストーブの薪がぱちぱちと燃えていた。ゆったりとした時間が流れて行き、まどろみが彼らを包み込む。山男の誰からか、ぐう、と腹の鳴る音がした。それを聞いて、ふと、佐久間が我に返った。そして、背伸びをし腕時計を見る。
「さあ、そろそろ夕飯の支度でもするか。六時過ぎだ」
「おお、そうするか。明日の朝が早いし、早飯食って寝ねえと」
すると、村越が同調する。
「そうだな、なんせ、明日が本番だから、充分休息を取っておかなきゃならん。阿弥陀から入って硫黄までの縦走じゃ、体力がいるからよ」
「それじゃ、戻って用意をしようや」
佐久間が促した。立ち上がり揃ってストーブを離れて行った。
夕食の仕度といっても簡単である。手の込んだものを作るわけではない。コッフェルに握り飯を入れ、取ってきた雪を混ぜる。ラジウスを使って雑炊を炊く。野菜やコンビーフ、それにソーセージを切って入れれば出来上がりだ。調味料は味噌か、醤油と出汁の素を使う。はなはだ簡単である。後はウイスキーをグラスに注ぎ、やはり雪を入れる。即席のウイスキーの雪割りを飲みながら、雑炊をかき込む。
勿論、飲みながら雑談を繰り返す。だからと言って箸は止まらない。夕食の仕度から一時間足らずで食事を終えた。すると満足気に村越が告げる。
「さあ、後は寝るだけだ」
「ああ、それじゃ。午後八時頃には寝ようぜ。明日は午前四時半前には起きなきゃならねえからな。それに、寝る前に明日の準備も済ませておけよ」
佐久間が二人に促した。
「了解!」
阿部も村越もアイゼンの整備、目出帽子のチェック、さらに防寒用ヤッケ上下、そして、食料を登攀用ザックに詰め直していた。
「佐久間、カメラ忘れるな。要所、要所で撮っておこうぜ。記念になるからよ」
「ああ、持って行く。それに、皆、防寒用手袋の代替も予備に入れておけ。それと、セーターなんかもな。万が一、ビバークしなけりゃならなくなった時、最低限必要だからよ。それに、途中の昼飯の時に、紅茶ぐらい沸かさんと、飯も食えねえぞ」
さらに阿部が村越に頼む。
「固形燃料、お前が持って行け」
「おお、分かった。忘れないように、今から、ザックに入れておくよ」
「ポリタンは、佐久間、お前に任せたぞ!」
「了解!」
「そうそう、地図と忘れるな。これがないと命取りになるからな」
佐久間に促した。
「勿論さ、地図がなければ、一寸先は闇だ。磁石も忘れないよ」
「いい心掛けだ。さすが山男だけあるぜ。要所はきちんと押さえているものな」
「まあな」
阿部のおせいじに、得意気に頷いた。
「さあ、準備万端だ。用意は出来た。後は寝るだけだ。一服して寝ようぜ」
村越が添える。
「そうだな、けれどこんなに早く寝たことないが、無理してでも寝ておかねえとな。さあ、もう一度小便でもしてきて、寝るとするか」
阿部が二人に促した。
「それじゃ、三人揃って連れションでもしてくるか」
佐久間が言い、揃って小屋の外に出て、一列に並び満天の星空を仰ぎ所用する。
「それにしても、素晴らしい星空だな。くそっ、やけに寒いぜ。これじゃ酔いが醒めちまうよ」
愚痴りつつ、背中を丸めて青白い雪めがけて放尿を始めた。勢いよく放たれる小便にすっきりするのか、佐久間が夜空を見上げ呟く。
「おお、なんとも言えねえ気持ちのよさだ。おい、村越。お前とこうして小便するのも初めてだな」
すると応じる。
「そう言われれば、そうだな。それにしても気持ちがいいが、しかし、寒いな。早いとこ切り上げて小屋に入ろうぜ」
身体をぶるんと震わせ、阿部が早々と終え戻り始めた。
「おい、待てよ。俺も戻るから、待ってくれ!」
村越が用足しをしつつ頼んだ。すると阿部が返す。
「村越、焦るな。急がなくっても、待ってやるから、ゆっくりと用足ししろよ」
「ああ、悪いな」
「それにしても綺麗だ。冬の夜空っていうのは、こんなに綺麗なんだな。今さらながら驚くぜ。しかし、それにしても寒い」
佐久間が終え、身体をちじ込めた。すると村越が、すっきりとした顔になる。
「悪いな、待たせちまって。さあ、戻ろうぜ」
「さあ、早く帰って寝よう。明日は早いから」
阿部の言葉に、「さあ、寝よう寝よう」と口々に言いながら、冷え切った身体で背中を丸め、足早に戻って行った。
着くなり、その温もりにほっとする。
「温ったけえや。やっぱり小屋の中は天国だぜ」
村越が顔を崩した。続いて阿部、佐久間が、口を揃えて連発する。
「おお、小屋の外とは大違いだ。この温かさにはほっとするな。もう一度、ストーブにあたりなおそうぜ。外の寒さにちんぼこがちじこまったからな」
「俺も同じだ!」
「やっぱりストーブは温ったけえ。こうして手をかざしていると、身体の芯から温もってくるものな。冷えたままじゃ寝られやしねえ」
「まったくだ。おお、温ったけえ。極楽、極楽!」
手をかざす佐久間が腕時計を見る。午後八時前を指していた。
「そうだな、八時半になったら寝るか?」
二人に問いかけた。
「そうだな、そうしよう」
「村越は如何だ?」
「おお、俺は何時でもいいよ。そうさな、俺の場合は冬山に長けているから、コンデション作りはお手のもんだ。君たちの自由にしてくれや。まあ、未熟な君らに合わせてやるからよ」
鼻をつんと上げた。
「また始まった。そうかい、そうかい。分かったよ。それじゃ好きにさせてもらうぜ」
阿部がぶっきらぼうに告げた。佐久間が笑みを浮かべる。
「それじゃ八時半に寝よう。合議制だからな。それに起床は四時半ということにする」
「おお」
三人の会話はそれで終わった。だるまストーブに手をかざしていると、直に顔が火照ってきた。
「しかし、温っけえな・・・」
「そうだな。それにしても気持ちがいい・・・」
各自の目が細くなり、燃えさかる炎に注がれる。村越が胸ポケットから煙草を取り口に銜え、ストーブの火から貰い火をし、ゆっくりとくゆらせる。ついでに二人にも勧める。
「よかったら吸えよ」
「おお、悪いな。遠慮なく頂くぜ」
村越と同様に貰い火し、目を細めくゆらせる。ストーブを囲み暖の中に包み込まれつつ、互いの気持ちは一つになっていた。
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