大部屋に上がりザックを壁際に置き、三人はとりあえず車座に胡坐をかいた。昼前後の部屋はまだ空いている。がらんとした部屋に陣取っているのは彼らと、他に二組ぐらいの山男らだけだ。そんな中で、周りを気にすることなく安らぐ。

「やっと着いた。というか、エンジンがかかりようやく巡航速度に入ったと思ったら、着いたと言う感じかな。それにしても、あっけなかったな」

阿部が物足りなげに言った。すると村越が同感する。

「ああ、完全燃焼してねえと言うか、四時間ちょいでは中途半端で物足り気がするよ。でも、明日のことを考えればこれでいいんじゃねえか」

佐久間が追従する。

「たしかに計画通りだし、明日の本格的な縦走を控えているんだ。そういう意味からすれば体調のチェックが出来たと思えば可とせんと。そう言う村越、お前の体調は万全か?」

「ああ、今日半日歩いてみたところですこぶるいいぜ。そうか、阿部も大丈夫か。どこか具合の悪いところはないか?」

「おお、どこもオーケーだ。まあ、俺の場合、不摂生なお前らとは違って、今日に合わせ身体作りをしてきたから万全だ!」

阿部が突っかけた。

「あいや、阿部。俺の台詞を横取りするな。その言葉はお前には不釣合いだ。俺みたいなスペシャリストが使うためにあるんだぞ」

村越が反論した。すると、阿部が追い討ちをかける。

「なにを馬鹿なこと言っている。いい加減にせんか。それを言うなら、むしろお前の場合は、根本的に修正の効かない頭の悪さがあるだろう。そちらの方が問題だぜ」

すると村越が反論する。

「なんてえことを言う。このスペシャリスト様に向かって!」

「まあまあ、それくらいにしておけ。どちらにしても、皆、ベストであることに変わりない。俺も体調いいし、さあ、ひと休みして昼飯でも食うか」

佐久間が二人を制した。それに応えて阿部が言う。

「おお、そうだった。朝、握り飯だけだったから、腹が減ったよ」

腹を手で擦って、キスリングを開け食料を出す。

「ええと、今日の昼は即席ラーメンだったよな」

佐久間に確認すると応じる。

「そうだ。朝飯が冷たい握り飯だったんで、ちょうどいいんじゃねえか。そう言えば、前回来た時も同じだったと思うよ。まあ、前回は行者小屋だけどな」

そう言っているそばから、村越が食いたそうに割り込んでくる。

「おお、ラーメンか。いいね、こんな時はこれに限るぜ。俺も腹が減ったんで、熱いのを早く食いてえ!」

「そう焦るな。今日はこの鉱泉小屋までだ。これからどこへも行かねえからゆっくりしようぜ。とりあえずひと休みしたら昼飯の仕度だ。手分けしてやろうぜ」

佐久間が促し、胸のポケットから汚れた煙草箱を取り出す。

「おい、吸うか?」

二人の前に差し出した。同時に煙草を抜き取る。

「有り難う、頂くよ」

佐久間が点けたライターに、銜え煙草で近づけ火を点けくゆらす。

「ふうっ、いいな。こうしてくゆらせるのは」

阿部が目を細めた。

「本当だよ。こんな美味え煙草は、ここじゃなければ味わえん」

村越が満足気に煙を吐き出した。

各自が思い思いに、美味そうに寛ぐ。

「それで、如何なんだ天気の方は。晴れが続くのかなあ?」

ついと村越が尋ねた。阿部が応える。

「ああ、週間予報だと晴れで、大丈夫なんじゃないか。ちょうど今頃が、天気の方も雪の状態も一番安定しているからな。それだから冬山登山としては最高の時期なんだよ」

すると、指に挟んだ煙草を口に運びくゆらせ、

「ただ、晴れていても山の天気は、急に変わるから気をつけんと。それに、今頃の季節で注意せにゃならんのは風だ。崩れている時だけとは限らない。小屋のあるここらはなくても、山頂や稜線では吹き上げる風が強い。これだけは充分注意せんとな」

二人の顔を見渡し、煙を避けつつ細目で佐久間が告げた。すると思い出したのか、吸い込んだ煙を一気に吐き、阿部が話す。

「そうだよ、そうだった。前回入った時に、その風で村越、お前死に損なったじゃねえか!」

「ああ、そうだ。あん時は、一瞬びびったぜ。危うく谷底に落っこちて死ぬところだったものな」

つい最近の出来事の如く甦った。すると、佐久間が割り込む。

「そうだったよ、お前も運がいいな。あの突風だ。用心して歩いていても、ちょっとした隙に足元すくわれてよ。アイゼンの爪を立て歩いていたのにな。俺も後方から見ていたが、お前がバランス崩して、あっという間に稜線から落ちたのを見たものな。声をかける暇などなかった。一瞬だったから、何も出来なかった」

「ああ、俺だって、あの時、踏ん張ることも出来ず、ふあっと身体が浮いた感じになり、「いけねえっ!」と、思った時はもう遅かった。吹き上げる突風に運ばれていたんだ。如何にもならなかったぜ」

村越の顔が悔やみ顔になった。すると阿部が、その時の状況を話し出す。

「阿弥陀岳の前の中岳コルのスロープで練習しておいてよかたよな。咄嗟の判断というか、身体が覚えていたのか、お前が無意識のうちにピッケルで身体を止める動作に入っていたからな」

「そうだった。ピッケルを使い三人で幾度も滑落停止の練習したものな。あの急斜面で訓練していたからよかったんだ。始めはなかなか上手く停止できなかったぜ。指導してくれる人がいないから、コツが掴めず苦労したよ。最初はどちらかというと、遊び心も入っていたと思うよ。でも、そのうち真剣になり熱が入っていた。それで何とか形が出来るまでになったんだ。あれこそ落ちた瞬間に、どれだけ瞬時に体勢を取り滑落を止められるかだ。まごまごしていたら加速がつきピッケルを立てても止められなくなる。意識して出来るもんじゃないが、ピッケルを身体に密着させ両手でしっかり押さえ、力を入れ爪を立て滑るのを止める。理屈では分かっても、落ちた瞬間にどれだけ素早く反応するかだ。これこそ身体に染み込ませておかなければ出来る技ではない」

佐久間が付け加え続ける。

「それが役立ったんだ。あれで訓練していなければ、今ごろ村越、お前はこの世にいなかったかも知れんぞ。阿弥陀岳と赤岳を結ぶ切り立つ稜線からダイブして、まあ、二百メートルくらい岩肌をバウンドしながら落ちていたんじゃねえか。そんなことになったら、ただじゃすまねえ」

聞いていた村越が真顔で呟く。

「そうだよ。今でも最近のように鮮明に覚えているぞ。俺自身骨身に染みて、本当に練習をしておいてよかったと思っている。俺だけじゃなく、お前らが真剣に取り組んでいたから、つい熱が入って、それがよかったんだ。もし、いい加減な気持ちで取り組んでいたら。と思うと冷や汗が出るぜ。それに、中岳のコルで俺自身あの訓練で、初めてやり方を習得できたんだからな」

そして、興に乗る。

「まあ、お前らと違い俺の場合は、日頃の行いがいいから、天が味方してくれていたといっても過言ではない。その証拠に、ほれ、この通り。また、八ヶ岳に来て、この小屋にいるじゃねえか。それが証と言うもんだ」

「なにを脳天気なこと言っている。お前のどこに行いがいいと言える。あの滑落で助かったのは、単に運がよかったにすぎねえ。山の神様が救ってくれたんだ。まったく証拠にもなく阿呆なこと抜かすぜ!

だいたい神様は、常識知らずのお前をもう少し生かせておき、苦労させようと企んでいるんだ。阿呆のまま死なせちゃならねえと考えているだけだい!」

惚け顔に向かって阿部が卑下した。今度は村越が反論する。

「なにを言う。この人格形成の出来た俺様に向かって、神様がそんなことする訳ねえだろ。むしろ出来損ないのお前らの手本になれという思し召しから、俺を見守っているんだ。阿部、分かったか!」

「なにを寝惚けたこと抜かしてる。そんなわけねえだろう」

すると、佐久間が神妙な顔で促す。

「明日からの中山峠を越えて、阿弥陀岳から赤岳、そして横岳、硫黄岳への縦走が待っているんだ。この前のようにならないよう、また阿弥陀岳手前の中岳コル前の斜面で滑落停止の訓練をしておこうぜ。備えあれば憂いなしだ」

二人が真顔で応える。

「そうだな。今シーズンに八ヶ岳へ入るのは初めてだし、あん時以来訓練してねえから、もう身体の方も忘れちまっている。再度やって感覚を呼び戻し、瞬時に役立つよう準備しなければならないな」

「如何だ、やろうじゃないか!」

佐久間が煙草の火を灰皿で揉み消しながら同意を求めた。

「そうだ、そうしようぜ!」

勿論、反論などなく賛成した。

「村越、お前は日頃の行いに、多少問題がある。一度あることは二度あるという喩えもあるから、みっちりしておけよ。さぼると今度は、山の神様が助けてくれねえぞ。阿弥陀岳登頂後、気をつけて歩いても、前回と同様に突風が吹き上げてくるやもしれん。注意するに越したことがない」

阿部が窘めた。すると、村越がかわす。

「ああ、まだ死にたくねえから、十分やっておくよ。お前らだって訓練しておけ。順番から言って、今度は阿部辺りが吹かれる気がするからよ」

「おい、おい、冗談言うな。お前と違って日頃の行いにはいいんだ。俺だってこの若さで死にたくねえや。佐久間もそうだろ?」

阿部が振った。

「まったくだ。稜線じゃ、なぎっていても安心は出来ねえ。突然吹き上げてくるからな。油断していりゃ、この前の村越ように一気に持っていかれる。気をつけんと。そのためにも、明日はピッケルを使いみっちり訓練をしておこうや」

「それに俺の場合は、万が一、死んだら悲しむ女が五万といるからな」

佐久間が鼻を突き上げた。その鼻っ柱を折るように村越が貶す。

「なにを夢みてえなことほざいている。見栄張ってよ、佐久間に泣く女なんかお袋ぐれえなもんだろう」

「うるせえ、放っておいてくれ。明日はしっかり訓練するぞ!」

「ああ、了解した」

二人が同時に頷いた。すると、村越が場違いのように訴える。

「それより、腹減ったな。早く飯の準備しようぜ」

「そうだな、一服したし、取り掛かるとするか。断然俺も減ってきたよ、なんせ朝早く握り飯食っただけだからな」

佐久間が立ち上がり、ザックを引き寄せ開く。

「それによ、飯食ってからでもいいんだが、明日の予定を再確認しておこう」

「そうだ、そうしようぜ」

阿部も部屋の隅から自分のザックを持ってきた。さらに村越が引き寄せ告げる。

「とりあえず今日の昼飯はラーメンだ。俺の持ってきた分を使おうぜ」

キスリングを開け取り出す。あわせて阿部が手際よくラジウスとコッフェルを出した。

「そうだな、水は外の雪を取って溶かして使えばいいか」

「おお、そいつはいいな。阿部、綺麗なところを取って来いよ。まさか、お前のこった、不用意に小便かかったところを持ってくるな」

阿部が告げると、冗談ぽく村越が促した。

「分かってら。そんな馬鹿なことするか。そんなことしたらラーメンが食えねえじゃねえか。まあ、お前の分だけ作るんだったら、小便かかった雪を入れて、塩味を効かせてやるがな」と、阿部がにやけ顔で言うと、佐久間が不審を募らせる。

「おいおい、ひょっとすると阿部のこった。こいつ、やりかねねえぞ」

「馬鹿野郎、そんなことすっか!」

村越が舌をだしつつ簡易コンロを組み立て、ラジウスを下にしてコッフェルを置き準備した。

「ポリタンの水でもいいんだが、東京の水道水だろ、カルキ臭くて美味くねえからな。そうだ、せっかく八ヶ岳に来たんだ。ここの雪なら新鮮な旨い水になる。間違いなしだ。これで作れば、東京で作るラーメンより、数倍美味いのが出来るに決まってら」

「そりゃそうだ。ああ、早く食いてえな。そんな話をしていると、腹が空き過ぎて涎が垂れちまうぜ」

佐久間がひもじそうな顔で訴えた。すると、

「それじゃ、村越の要望に答えて、新鮮な水になる美味い雪を取りに行ってくるか」

阿部がコッフェルを持ち小屋の外へ出て行った。

「野菜は切ってきたやつがある。それを入れればいいだろう。それにコンビーフを入れようぜ。出汁が出て美味くなる」

佐久間がザックから取り出した。

「村越、ラジウスの方は大丈夫か?」

「ああ、用意は出来た」

「そうか、それじゃ。ラジウスに石油を入れておいてくれ」

「ああ、分かった」

ザックのサイドポケットから石油入りポリタンを取り出し、注意深くラジウスに注入した。

「よし、これでいい。後は阿部が戻ったら、ラジウスに火を点けるからよ」

そう言っているそばから、阿部がコッフェルに雪を山盛りに詰め戻ってきた。

「積もっているところを深く掘って、綺麗なやつを取ってきたぞ。それにしても、外はよく晴れているが風が冷たいな」

「おお、そうか。それはいいぞ」

村越がコッフェルを受け取り、コンロの上に置きラジウスに火を点けた。勢いよく燃え始める。

「さあ、これで雪が溶ければ、即席ラーメンを入れられる。それと野菜にコンビーフだ」

「早く溶けないかな。腹がぺこぺこだ」

村越が手持ち無沙汰なのか、即席ラーメンの袋をいじりまわす。すると、側にいる佐久間が窘める。

「村越、そう焦るな。ラジウスの火力は固形燃料と違って、格段に強いから直ぐに沸くよ。ほれ、見ろ。もう雪が溶け出しているじゃねえか」

三人とも早く食いたいのか、ごくりと喉を鳴らし視線が溶ける雪に注がれる。

佐久間が呟く。

「まあ、今日の山行は、ここまでで楽だったな。天気もよかったし、アイゼンもワッパも着けずに難なく来られたからよ。ここをベースにして、明日、早朝に出発するんだ。一日がかりの縦走だぞ。今日は充分休養して体力を貯えておかんとよ。そういう意味から言えば、初日としてはちょうどいい行程じゃねえか」

「そうだよな。今日の山行の日程やコース取りも、前回と行者小屋へのコースと違うが、まあ計画通りだから、なんの不満や不安もないぜ。それより明日の天気が気になるな。なんと言ったって、明日がメインだからよ。ああ、今日のように晴れてくれねえが」

阿部が気づかった。

「ああ、そう願いたいね。阿弥陀岳から赤岳にアタックし、さらに横岳から硫黄岳まで踏破するんだ。勿論、忘れちゃなるまい。中岳のコル手前で滑落停止の訓練が入っているぞ。晴れてもらわにゃ困る。いや、新宿を発つ前に調べた段階では、天候の崩れはないということなので、多分明日は晴れるだろうよ。俺の感から絶対とは言えんが、天気図で高気圧の張り出し具合を見て、ある程度確信できるから。お二人さん、俺の言うことを信じろ。間違いないから」

村越が自信有り気に説明した。

「それならいいが、せっかく来たんだ。メインの明日を楽しめにゃ、来た甲斐が半減するというもんだぜ」

佐久間がコッフェル内の半溶けの雪を掻き回していると、阿部が反応する。

「まあ、村越の予測はともかくとして、後は各人の今日の行い一つで、良くもなるし悪くもなるというものだ。互いに気をつけようじゃねえか。特に村越、お前にかかっている。是非とも頼むぞ!」

「任せておけ。日頃、俺様は常に気をつけ過ごしているから、明日の天気は間違いなく晴れる。ただ、お前らのことを考えると、如何も心もとない。なんせ、俺様に比べたら行いが下賎なことばかりだからな」

「なにをいう。お前こそ下賎じゃねえか。辺り構わず屁はこくし、他人のことなど気にせず好き勝手はやる。少しは俺らを見習ってもらいてえもんだ。まったく、言いたい放題。それが証拠に、昨夜の列車では品がなく、迷惑ばかりかけていたからな。被害者である俺らはとんだ目にあったぜ」

「ああ、悪かったな。俺の考え方に付いてこられないだけだ。屁をするのも生理現象であって、至極自然なことだ。多少臭さは残るが仕方ない。如何してそれが分からんのだろうか。この辺が比類な俺様と違い、お前らは凡人なんだな」

「そんなことは如何でもいい。村越、本当に明日は天気になるんだろうな」

「大丈夫、安心しろ!」

「おっと、その言葉が、一番怪しいぞ。村越の忠言は何時もまともな結果がでんからよ」

佐久間が揚げ足を取った。

そうこうしているうちに、コッフェルの雪が溶け沸騰してきた。

「もうそろそろ、即席ラーメンを入れてもいいんじゃないか。それに野菜とコンビーフを加えようぜ」

「そうだ、もう大丈夫だ」

阿部が促した。

「分かった。それじゃ入れるか」

即席ラーメンを入れ、ついで野菜とコンビーフを入れだ。

「ラジウスの火は大丈夫か?」

佐久間が確認した。炎を覗き込み、たしかめて村越が応える。

「大丈夫、正常に燃えている。これで一気に煮え出すぞ」

程なくして煮えて来たところで、スープの素を放り込む。

「おお、いい匂いがしてきた。やっぱり冬山ではラーメンが一番いい。面倒臭くなく手軽に出来て美味い。それに身体が温まるしよ」

「そうだ、手軽に作れるから便利なんだ」

阿部が箸でラーメンをかき回し鼻を鳴らした。三人とも沸騰するラーメンに視線が注がれ、涎を垂らすほどすきっ腹を抑えていた。阿部が合図する。

「さあ、ぼちぼちいいぞ!」

すると一斉に箸が伸び、湯気の立つラーメンをアルミ皿に取り、ふうふうと息をかけ、夢中になって口に放り込む。

「うめえ、本当にうめえな。寒い冬山で食う温かいラーメンは格別だよな」

「ううん、腹が減っている分差っぴいても美味い。それに、今回は水がいい。なんと言ったって、八ヶ岳に降った雪を溶かしたものだぜ。そこらそんじょの水と違うんだ!」

「そうだ、東京の不味い水で作るラーメンとは段違いだ。八ヶ岳産のほんまもんの絶品ラーメンだ。美味えな」

「ううん、熱いけど、美味え!」

各人が感想を言いつつあっという間にたいらげた。食い終わった三人は満足気に足を投げ出していた。

「美味かったな。あっという間に食っちまった。腹一杯になったぞ!」

「俺もだ。ゆっくり味わっている暇なかったよ。ゆっくり食っていたら、お前らにみんな食われちゃうからな」

佐久間が村越をからかった。すると阿部が笑みを湛える。

「本当だ。恥も外聞もなく、お前らすげえ顔して食ってたぞ!」

「なに言ってやがる。阿部だってすごかったじゃねえか。まるで腹を空かした野良犬のように、しゃにむに食らいついていた感じだぜ」

村越が反撃すると阿部が応じる。

「そうかい。俺は、ちっともそんな心算で、食ってはいなかったように思うがな。それよりも、村越の食う様がすごかった。あの、異様さ思わず噴出すところだったぜ!」

「な、なんだよ、振りやがって。俺が何をしたと言うんだ。この紳士の食う様を非難する言い方は止めてくれ。淑やかさでは、世間が認めるほど定評があるんだ。フォーク替わりに箸を使い・・・伝々」

「ああ、また語り出したぞ。阿部、聞いてやれ。他に誰も聞く奴がいねえんだから」

「ええっ、俺が聞くのかよ。消化に悪いぜ!」

振られた阿部もげんなり顔をした。

すると、むっとしてほざく。

「なにを言う。お前らみたいな野蛮人には、食事のマナーというものが欠けらもねえ。せっかく話してやってるのに!」

「いいから、いいから、今度にしてくれ。東京に帰ってから聞いてやるから勘弁してくれや。あれれ、こんな話をしていたら、腹の具合が悪くなってきたみたいだ」

阿部が軽くあしらうと、

「ええい、分かったわい。お前らに話しても一銭の得にもならねえ。止めた!」

村越が口を尖らせた。二人は一難去ったと安堵の表情になり、各自が煙草を取り出し、火を点けくゆらせ始める。

「ああ、食った、食った。満足したぞ。これで腹ごしらえはいい。ひと休みしたら片付けるか。ええと、今が一時半だから二時まで休もう。それで後片づけして、さっき話した明日の予定をちょっと詳しく地図を見ながら確認し合おうじゃないか」

佐久間がくゆらせ、細目で申し合わせた。

「そうだな、そうしよう。一服してからやろうぜ」

村越が応じ惚ける。

「しかし、さっき見た大同心。本当に綺麗だったな。あれを見ると冬山の醍醐味が味わえるよ。八ヶ岳に来たという実感が湧くしな。雪を背負った針葉樹林の上にそびえる雄大な岩稜の峰。その中でひときわ凛々しく覆い被さるように立つ一枚岩。それが大同心であり小同心だ。まるでお前らを従えた、俺みたいじゃねえか」

「また馬鹿な寝言が始まったぞ。阿部、耳を塞げ。俺も聞きたくねえから、聞こえない振りをするからよ」

佐久間が促すが、気にする様子もなくふやけ顔で続ける。

「ああ、こんな雄姿を彼女に見せてやりてえな。そうすりゃ、絶対俺のことを惚れなおす。間違いない。「・・・道雄さん、有り難う。凛々しい姿を見させてくれて感激だわ。あなたって、にたくましいのね。改めて見直したわ。好きよ」なんてね・・・」

「おい、佐久間。村越が、また始めたぞ。在りもしねえことを、夢でも見てるんじゃねえか。願望が強すぎて、現実の己の姿と抱く理想がごちゃ混ぜになっちまってる。こりゃ、一種の妄想狂という病気だな」

「いいから、いいから、放っておけ。なに言ったって狂っている時は駄目だ。病気だと思って勝手にやらせておけば、一過性のものだ。だから、喋り終わったら元に戻る」

阿部に感知するなと諭した。それでも気になるのか、呆れ顔で言う。

「なにが「道雄さん、見直したわ。好きよ」だ。阿呆なこと抜かせ。そんな汚ねえ格好して、言われるわけがねえだろ。だいいち女にもてたためしがないんだからよ」

「阿部、放っておけ。奴は勝手に妄想しているだけだ。少しばかり耳に触るが、本人が楽しんでいるならいいじゃねえか。俺らに危害を加えるわけでもなし、相手にするな!」

佐久間が窘めた。すると、村越が図に乗る。

「まあ、お二人さんには彼女がいないから、この気持ちが分からねえんだ。その点、お前らと違ってもてるからな。つい俺にぞっこんの彼女に、この悦びと素晴らしさを伝えたくなるのさ。純粋な気持ちを持っているから、俺の凛々しさを見て、惚れ直すだろうよ」

「ああ、そうか。それはよかったな。精々伝えてくれ。喜んでくれるんだろ。それより村越、お前はもてるんだな。それだったら俺らにいい子紹介してくれねえか。頼むよ。お前ばかりいい思いしてんじゃ惨めだからな」

佐久間が惚けた。すると戸惑いながら、自慢気な顔で応える。

「ううん、考えてみるぜ。まあ、俺ばかりいい目見ているのも、お前らには気の毒だ。それじゃ、今回の山行が終わったら二、三人見繕って紹介してやるよ」

「そうか、それは有り難い。楽しみにしているぞ」

「任せておけ。俺の意に従う女なら幾人もいるから、よくいい聞かせて、もてないお前らに紹介するからよ」

「おお、頼むぜ。大いに期待しているぜ!」

暫くの間、たわいない戯言を続けた。そして休憩した後、三人は昼食の片付けをしだす。すると佐久間が法螺を吹く。

「しかし楽しみだな。村越が彼女を紹介してくれるんだ。それも飛びっきりいい女をな。早く山を降りなきゃ。この際、縦走を止めて下山するか。なあ、村越。そうしないか。待ち遠しくて山どころじゃないぜ」

わざとらしく発した。村越がなにか罰の悪そうに、後片付けをしていた。すると阿部が話を変える。

「しかし、さっき外へ出た時、すごく寒かった。雪も冷たいし往生したぜ」

「そうかよ、それはご苦労さんだったな。おかげで美味いラーメン食えた。感謝するぜ、阿部さんよ」

佐久間が礼を言った。さらに、

「それじゃ、外の炊事場に行って、食器洗いは俺がやってくる。ゆっくり休んでくれ。ついでに、さっき見た大同心、小同心の絶景をもう一度拝んでくるか」

「そうか。それじゃ、夕飯後の食器洗いは俺がやるから」

笑いながら返した。そしてついでに頼む。

「村越、今夜の夕飯の仕度は宜しく」

「ああいいよ。それじゃ、俺が持ってきた握り飯を使おうか。それでいいよな」

「ああ、結構だ。阿部、俺の握り飯とお前の分を、後で雪の中に埋めておこうぜ。万が一、悪くなると困るからよ」

「そうするか。でもよ、これだけ寒けりゃザックの中に入れておいても大丈夫だと思うけど。まあ、そうしておけば安心だ」

「そうしよう。それじゃ、後で埋めるから出しておいてくれ。それに村越、お前の分で残っているものがあればよこせ。一緒に保存しておくから」

「頼む。俺も多めに持ってきたから、今晩使ったとしても残るんでよ」

「そうか。ただ、明日の昼の分を如何するかだな。朝夕は湯を沸かし雑炊にすればいいが、山頂で食う昼飯は部屋に置いておこう。まさか凍ったものを持って行くわけにいかねえだろう」

「そりゃそうだ。明日の行程じゃ、ラジウスやコッフェルは持っていけねえ。精々固形燃料を使って簡易鍋で紅茶を沸かすぐらいしか出来ない。なんせ昼頃は稜線にいるから、まともに昼食なんか取れん。今晩は凍りつかないように部屋に置いておこうぜ」

阿部が提言した。

「それじゃ、まあ、飯食ったところで、俺は食器でも洗ってくるか」

コッフェルに入れた食器類を持って、佐久間は登山靴を履き引きずり外の炊事場へと出て行った。

「それじゃ、ラジウスに石油でも入れておくか。夜入れるのも面倒だし、今のうちにやっておくことにするよ。それにしても共同作業というのは楽しいな。如何だろうか、もし今の彼女と一緒になっ新婚生活というのは、共同生活するわけだな。ということは一緒に飯を作ったり後片づけしたりするわけか。それに二人で風呂にも入るんだ。ううん、いいもんだろうな、阿部」

「うへっ、また始まったか。病気がぶり返したぞ!」

村越の眉唾に、勘弁してくれと阿部が悲鳴を上げた。

「なんだ、話を聞いてくれねえのか。ああ、つまんねえ。それじゃ仕方ねえ、飯も食ったことだし、一服するか」

胸ポケットから煙草を取り出し、阿部に一本渡し、ライターを擦り火を点け、阿部の銜え煙草に点けくゆらせていると、直に佐久間が戻ってきた。

「やっぱり冬だ。つめてえのなんのって、長く水に手をつけてられなかった。何とか我慢して洗ってきたけど。ほれ、この通り。手がかじかんでいるぜ」

二人の前に、赤くなった手を差し出した。その手を見ながら、阿部が煙草を差し出す。

「それはご苦労さん。まあ、一本吸えよ」

「おお、悪いな」

礼を言い、口に銜えて火を点け美味そうに吸った。

「さあて、それじゃ。今、午後二時過ぎだ。小一時間ぐらい昼寝しようぜ。昨日からろくに寝てないんだ。疲れただろう。やっぱり夜行列車じゃ熟睡できねえからな。今のうちなら、まだ登山客も少ないし、大の字になって寝られるぞ。四時過ぎると混んでくる。その頃になれば、こんな風に広く使えねえぞ」

「そうだな、昨日からゆっくり寝てないから、ちょうどいいや。小一時間昼寝してから、明日からの予定を話し合おう」

佐久間の提案に阿部が応じた。

「村越、異存はないだろう。ゆっくり彼女の夢でも見ろや」

「そうさせてもらうよ。彼女のいないお前らには気の毒だが・・・」

「ああ、いいだろう、好きにしてくれ」

うっとうしそうに、村越に告げた。それでも多少興味があるのか、そろりと尋ねる。

「よお、どんな感じの子なんだ?」

「なんだ、阿部。お前みたいな奴でも女に興味あるんか?」

「おお、勿論だ!」

「そうかい、お前らにお披露目するのはもったいないくらい良いぞ。何時か紹介してやるから、それまで楽しみにしてな」

「なにもたいぶって、そんなに綺麗なんか?」

「ああ、絶世の美人だ。身体の方もいい線いってるぜ。胸はボインだし、腰はくびれ、尻は若干大きめで、これまたいい。おっと、これ以上話すともったいないし、独り身のお前らじゃ鼻血ぶーだ」

「そうかい、そうかい。そんないい身体してんのかよ」

「それによ、俺の器からいえばそれなりの器量をした女じゃなければ、彼女にするわけねえだろ。それに俺にぞっこんだからな」

「おまえ、まさか嘘言ってんじゃねえだろうな。実際のところは、まったく違ったりしてよ。よく眉唾と言うこともあるからな。まてよ、ああそうか、この話も虚言だったりしてな」

「村越、本当のところ図星だろ?」

「なにを言う、嘘なんか言うもんか。嘘でも虚言でもない。そうか、阿部。お前、彼女いないから、やっかんでいるわけだ。俺が羨ましいんだろうが。お前みたいな不細工な男を好きになる女はいねえよ」

「悪かったなもてなくて、放っておいてくれ!」

一通り語らい終わると、阿部が話題を変える。

「それじゃ、起きたら明日のスケジュールを、地図を見ながら縦走ルート、それに所要時間なんかを再確認しようや」

「それがいい」

村越が返す。

「昼飯を食ったから、なんだか眠くなってきたんで、昼寝するわ」

「俺もだ。たしかに半日行程だったが、結構重い荷物を担いできたからな」

「さあっ、ひと眠りしようぜ」

三人はがらんとした大部屋で、大の字になり目を閉じた。






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