入山
一
茅野駅には、まだ夜明け前に降り立っていた。
重いキスリングザックを背負い、眠い目を擦りながらホームから駅舎へと進む。ゆっくり歩く。腕時計を見ると、午前四時過ぎを指していた。
「やっと着いた。やっぱり寒いな」
身震いし佐久間が零した。
「そりゃそうだ。東京にいたって、二月といえば真冬だ。茅野まで来れば、さらに寒いに決まってら」
村越が応じた。白い息を吐き、薄暗い駅舎の片隅に陣取った。キスリングザックを下ろし、息を整え阿部が窓越しに外を見る。
「まだ、真っ暗だ。ほら見てみろよ。星空が綺麗だぞ」
二人を誘った。
「ええと、始発のバスは何時だったっけな」
時刻表を確認し、二人に告げる。
「あと、二時間ぐらいあるか、まあ、そこら辺に座ってひと休みするか?」
「ああ、そうだな。少しでも寝ておかなければな。けど、そうだ。今日は赤岳鉱泉小屋までの行程だ。比較的時間にゆとりがあるし、危険なところもない。ただ、日陰の山道では雪が深いだろうから、ワッパの準備だけはしておこうぜ」
佐久間が促しつつ、ザックの横につけてある輪かんを点検していた。すると、村越がぼやく。
「仮眠するにも、ここじゃ寝られねえな・・・」
「ああ、けどそれはしょうがねえぜ。まあ、座って目を閉じるだけでも違うんじゃないか」
佐久間が応じると、阿部が追従する。
「そうか、仕方ないか。ところでよ、昨夜の列車の中如何だった?結構混んでいたし、暖房が効きすぎてなかったか?」
「ああ、けど阿部。お前だけ座席に座れたじゃねえか」
村越が羨ましがり続ける。
「俺と佐久間は、座席の下と通路だったからな。それにしても暑かったな。冬仕度しているから余計だ。結構、汗かいたぞ」
「まあ、何時ものことだ。熟睡など出来たもんじゃねえよ。うとうとしているうちに茅野に着いたと言う感じかな。それに引き換え、村越、お前はたいしたもんだ。屁はこくし鼾は煩い。完全に寝入ったんじゃねえか?」
阿部が当たり前と告げ更に虚仮下した。
すると村越が惚ける。
「ええ、そうか。鼾かいてたか、気づかなかったな。昨夜はまあまあ寝られたんで、今日はすっきりしているよ。ところで、阿部。お前は座席に座れたんでラッキーだったよな」
「ああ、でも、じっと座っているのも辛いものがあるぜ。尻は痛くなるし、背中も窮屈だったし、座席下の村越の鼾が煩くて寝られなかった。それによ、俺の隣に座っていた奴なんか、お前の鼾が煩いのか、しきりに寝返りを打っていたぞ」
すると、割り込み佐久間がぼやく。
「俺だって、通路に寝ていたが、村越の鼾には参ったよ。煩いと言うもんじゃねえ。安眠妨害はなはだしいくらいだ。それでなくても蒸し暑くて寝られなかったと言うのに、まったくいい迷惑だ。村越、如何してくれる。体力温存どころではなかったぞ。責任とって俺の荷物、少しお前のキスリングに詰めてくれねえか?」
「そうだ、村越。俺も迷惑を被った。お前の良心に問うが、責任を感じていないか!」
阿部が相乗りした。
「ええっ、それはないよ。俺だって、わざとかいたわけじゃねえんだから。こればかりは生理現象だ。如何にもならねえ、勘弁してくれ!」
さらに、泣きを入れる。
「それじゃなくても、冬装備できているんだ。かなりの量を詰め込んでいるからな。食料や燃料、それに着替衣服。あとアイゼンや石油とその他。結構重くなっているんで、俺の方こそ、お前らに持ってもらいたいよ」
「ちえっ、それじゃ俺らは、安眠妨害のかけられ損ということか。まったくついてないぜ。図太い村越だけが得をしただけだもんな。何時もこれだ」
阿部がむくれ零した。そんなこと意に返さず、平気で話題を変える。
「それにしても寒いな。列車の中とは大違いだ。車内は人息と暖房で蒸し返すようだったのに、この駅舎はストーブもない。これじゃ天然の冷蔵庫と同じだぜ。列車から降りた時は、ひんやりして気持ちよかったけど、おお寒いな。身体が冷えちぃまったぞ」
冷気に村越が身震いした。すると、諦め顔の阿部が座り込み、冷えた身体を揺すり愚痴る。
「まったくだぜ。ストーブぐらい焚いてくれたっていいのにな。JRもサービスが悪いよ。もう少し客のことを考えてもらいてえな。まったくよ・・・」
三人は仮眠を取るどころか、気持ちが高ぶるのか、愚痴や仲間同士の貶しで、華を咲かせていた。それでも一通り話し終えると、寒さを堪え夫々が膝を抱えて目を閉じた。
暫しの静寂が訪れる。静まり返った駅舎は、これから八ヶ岳方面に向かう山男らで占領された。皆、うずくまり夜明けのバス発車時刻まで、仮眠を取っていた。
やがて、東の空が白々と明るくなってきた。すると、さらに気温がぐんと下がってくる。
「おお、寒ぶっ!寝てなんかいられねえや!」
あまりの寒さに耐えられなくなったのか、ぶるんと身体を震わせ村越が立ち上がった。すると、他の二人も身体を揺らしつつ起き上がり、大きく背伸びをする。
「ああ、やっぱり寒いな。今頃の時間が一番冷えるんじゃねえか。寒くて寝ているどころではないぞ。凍え死んじゃうよ」
言い終わるや佐久間が、駅舎の出口の方へと歩いて行き、白みかけた空を見上げ二人に聞こえるように呟く。
「ううん、すげえな。星が降ってくるようだぜ。こんなに近くに見えるのは、やっぱり山に来たからだな。東京じゃこれほどには見えんぞ。特に新宿じゃ、絶対無理だ。それにしても、綺麗だな。茅野辺りでこれだけ見れると言うことは、赤岳鉱泉小屋まで行けば、もっと綺麗に見えるかも知れんな。待てよ、星の数だって、ここでこれだけだ。あそこへ行けばより大きく、数の方ももっと多く見ることが出来るに違いない。やっぱり冬の山はいいな。ロマンティックでよ」
言つつ、二人のいるキスリングの脇まで戻ってきた。
村越が上目遣いで尋ねる。
「おい、佐久間。なにをぶつぶつ喋っている。なんかあったのか?」
「いいや、なんもないよ。しかしそれにしても寒いな。いやな、今見てきたんだが、東の空は少し白々しくなってきたが、まだ真っ暗だ。けど、星がすげえぞ。手が届きそうなところで輝いているんだ。まるで落ちて来るような感じだぜ。東京じゃ見られねえくらい綺麗だった。如何だ、村越。お前も外へ出て見てこないか、いいもんだぞ」
「俺か?俺は遠慮しておくよ。ここでもこんなに寒いのに、外なんかに出たら、もっと寒いじゃねえか。勘弁してもらいたいね。それより阿部に勧めた方がいいぜ。阿部は意外とロマンティストだからよ。寒さより美の追求の方が優先するらしいからな」
誘いをちじこまる阿部に振った。
「あいや、待ってくれ。俺は寒さに弱いんだ。村越、馬鹿のこと言うな。俺はロマンティストなんかじゃない。現実の方が重要だ。星の美しさはこれだけ空気が澄んでいて、気温が下がっていれば、それなりに綺麗に輝いていると思うよ。今のところは想像だけさせてもらえば充分だからな」
いい訳し断った。そして、ザックの紐を揺るめる。
「それどころじゃない。ワッパの用意をしなければならないんだ。それに明け方は冷えているから、登山道も凍りついているだろうから、アイゼンも準備しておくとするか」
断わる口実のようにザックの中をいじくり出していた。それに合わせ、佐久間も村越もザックを開き仕度に取りかかる。指示などなくても自然とそうなる。経験がそうさせるのだ。手馴れた手つきで仕度をしていた。暫くすると、すっかり出発の仕度が整っていた。
「さてっと、そろそろ時間だ。準備も出来たし、駅舎を出るとするか」
佐久間が告げた。
「そうするか、寒いけどここに居るわけにはいかないからな。行こうか」
阿部が応じつつ、出口の方を見ると、駅舎外の諏訪交通の停留所には、すでに何人かの山男たちが並んでいた。
「さっき確認しておいたが、始発が午前六時三十分だ。今が午前六時ちょっと前だから、そろそろ停留所へ行こう」
佐久間が誘った。
「そうだな」
三人はザックを背負い移動する。始めに阿部が歩き出した。駅舎を出るといきなり冷たい空気に触れ、奇妙な声を発する。
「ひえっ、つめてえな!」
「おおっ、つめてえ!」
続いた村越が驚きの声を上げた。その後二人の様子を覗い、佐久間が首をすくめながら出てきた。
「うん、本当だ。これでやっと山へ来た感じがするよ。この冷たい外気でやっと目が覚めた。いよいよ八ヶ岳に入るのか」
阿部が背筋を伸ばした。そして、
「そうだ、この外気に触れると、そういう気分になるぜ!」
気合を入れ、ザックを背負い直し気張った。
ぞろぞろと歩き、美濃戸口に向かうバス停へと行き列の後へとついた。ザックを肩から降ろし、屈伸運動をしながら、ほのかに明けてきた東の空を見上げる。
「よかたじゃねえか、今日も天気の方は大丈夫そうでよ」
阿部が告げ、さらに確認する。
「ところで、今日は行者小屋にはいかねえんだな」
「ああ、手前の赤岳鉱泉小屋までだ」
佐久間が応じた。すると村越が続く。
「そうだったな。それで、どのくらいの行程時間だっけ。たしか、バスに一時間弱乗っているんだよな」
「ああ、そうだ。美濃戸口から赤岳鉱泉小屋までは三時間の行程だ。途中休憩を入れるから四時間程見ておけば充分だろう」
「それなら午前中には赤岳鉱泉まで行ってしまうな。そりゃ楽勝だ」
「まあ、そうだが、これは普通に歩いてのことだ。冬季の山道じゃ積雪の状態によってはワッパを履かなきゃならないところもあるし、早朝では日陰なんか、地面が凍っているやもしれん。そんなところはアイゼンを履く可能性もある。それを加味したらプラス一時間ぐらいは多くかかるかも知れんぞ」
「そうなったら、山道の状況で装備を付け外ししなけりゃならん。ちょっと手間だぜ。まあそれでも、時間が充分あるんで安心だがな」
すると、阿部が少し難儀そうな顔をする。
「そうだよな。装備の装着に手間かかるし、特にワッパなんか履くところだと、結構時間食うからな。それに着けたら歩きづらいしペースも遅くなる」
「ああ、そうだが。まあ、行ってみれば分かるさ」
佐久間が下した。
そうこうしているうちに、美濃戸口行きの始発バスがやってきた。三人はキスリングザックを肩に掛け、列について乗り込む。定刻どおりバスは美濃戸口へ向け走り出していた。
その頃になると、白んでいた夜も空け、眩いばかりの朝日が昇り輝き出した。
一路バスに揺られ八ヶ岳への入口、美濃戸口へと向かう。
「こう揺られると、腹が減るな」
村越が愚痴った。それに阿部が応じる。
「俺も同じだ。さっきバスに乗る前に、握り飯でも食っておけばよかったな」
すると、佐久間が宥める。
「まあ、いいじゃないか。美濃戸口に着いたら、ラジウスで湯を沸かし、紅茶でも入れて握り飯を食おうぜ。こう寒くっちゃ、冷めてえ飯なんか食えねえからよ。一時間ぐらいで着くんだ。それまで我慢して、それから腹ごしらえしようや」
予定を含めて伝えた。すると村越が頷く。
「そうすっか、さっきは起きたばかりだし、飯を食う気分じゃねえ。それにラジウスを出して、湯を沸かす時間もなかったしな。これから小一時間バスに揺られて行けば、目も覚めるし調度いいんじゃねえか」
「ああ、そうだな。美濃戸口に着いてから、ゆっくり紅茶でも入れて食うとするか。如何せ今日の日程は、赤岳鉱泉小屋までだもの、入山雰囲気を味わいながら、少々時間をかけて食ったっていいしよ」と佐久間。
「なんせ初日だ。それくらい楽しんでも罰なんか当たらないぜ。今日くらいだぞ、ゆっくりできるのは。明日はそんなゆとりないからな」
阿部が、己に言い聞かせるように呟いた。村越も、「まったくだ」と思ってか、頷いていた。
諏訪交通のバスは、曲がりくねった山道を高度を稼ぎ、幾度も曲がりエンジンをフル回転させながら走り、やがて美濃戸口へと着いた。
「さあ、着いたぞ!」
口々に言いつつ席を立ち、重いキスリングザックを肩にかけ、他の登山客に続きバスを降りて、適当な場所を探しザックを置いた。
「飯、飯、飯食うぞ。腹ペコだ!」
村越が大声を張り上げながら、ザックを開け急いでラジウスを取り出し、コッフェルにポリタンの水を入れ、ラジウスに載せ火を点ける。
「そうだ、お湯が沸くまで今日の行程を再確認しておこうや。昨日、新宿で話した通り今日の目的地は・・・」
佐久間が喋りながら、五万分の一の地図を広げ、赤鉛筆ですでに記されるルートを指でなぞりつつ、確認していった。二人は真顔で覗き込み頷き、なぞる方向に視線を走らせる。
「途中の積雪の状態によっては、ワッパが必要になるかもしれん。準備だけはしておけよ。それに朝方は、山道も凍っていることも考えられる。よって念のためにアイゼンも、直ぐに取り出せるようにしておこうぜ」
さらに促し、再度赤岳鉱泉小屋までのルート上の等高線が幾本も折りなす道を指し、細かく説明する。
「ほら、ここのところなんかは、朝日が当たらないし、間違いなく凍っているぞ。滑って転んで捻挫でもしたら大変だ。それにここと、ここ。山の陰だし雪が大分積もっているんじゃねえか。ワッパが必要になると思うな。如何だ、二人とも頭に叩き込んだか?」
阿部が了解する
「ううん、そうだな。そこ、そこんとこ、山影になっているみたいだ」
「おお、間違いなく、そこは積雪があるな。冷え込んで凍っているんじゃねえか。それに、結構、深いかも知れんぞ」
村越が推測した。
「それによ、昼ぐらいまではほとんど登山道が凍っているかもしれない。ピッケルだけじゃ足元が怪しいんじゃねえか。それに、早朝だ。これだけの重いザックを担いでいたら。歩きだって馴染んでいない。滑って転んでしまうかもしれん。ワッパの上に、アイゼンの装着が必要だぞ」
阿部が続けて論じた。すると、佐久間が応じる。
「そうだ、八ヶ岳に入ったばっかりで捻挫でもしたひにゃ縦走計画もおじゃんになってまうで。もし、俺がその当事者になったら、お前らに、何て言われるか知れたもんじゃねえぞ」
「そりゃそうだ。お前だけがそうなるとは限らん。俺だって馴染んでいなければ、これだけのもの背負っているんだ。バランスを崩しひっくり返るかもしれない。気をつけなければな、他人事じゃねえよ。アイゼンは取り出せるようにしておかなきゃな」
阿部が頷くと、佐久間が導く。
「いずれにしても、山道の状況によりワッパも、アイゼンも出せるようにしておき、面倒くさがらず、ザックを下ろし装着してから前進しよう。それに、お互い様だが、誰でもいいから必要と感じたら、直ぐに声を掛け合おうじゃないか。それで全員が必要な道具を装着する。それで如何だ?」
「いいんじゃねえか。そうしようぜ!」
村越が了解し、三人の意見が纏まった。
そんな確認をしているうちに、コッフェルのお湯が湧き出していた。すると、村越がザックの食料袋から紅茶のティーバックを取り出し、沸騰する湯の中に入れた。漂う湯気を嗅ぐ。
「おお、いい匂いだ。直に紅茶が沸く。腹が減ったし飯でも食うか」
頷き、佐久間も阿部も冷たい握り飯をかじり始めた。そのうち紅茶が沸き、夫々コップに注ぎ飲みながらかっ込んでいた。
食い始めてから程なくして、佐久間が腕時計を見て告げる。
「ええと、今、午前八時前だ。飯を食い終わってから、そうだな、八時ちょい過ぎには出発しようか?」
「それがいい。飯を食って一服してから出るか」
「ああ、いいんじゃねえか」
促す阿部に応えた。
「それによ、後は小便をし、後片づけをすれば出発できるからな。さあ、いよいよ本格的に八ヶ岳へと入るぞ!」
村越がさっさと後片づけを仕出していた。
「さあさあ、片付けて小便してこなくっちゃ。途中でもよおしたくなったら、重たいキスリングを背負ってんだ。面倒くさいしよ。なあ、阿部!」
「おお、そうだよな。俺も小便しておこっと」
片づけつつ応じた。その様子を佐久間が、同様に手を動かしながら道理と黙って頷く。そして手隙となったのか、胸のポケットから煙草を取り、火を点けくゆらせていた。村越がそれを見て、吸いたそうに所望する。
「おい、佐久間。煙草一本めぐんでくれねえか?」
「おお、いいぞ!」
ポケットから煙草箱を取り出し、一本抜き差し出した。
「悪いな、遠慮なく頂くぞ」
口に銜え、煙草を突き出す。
「ついでに火を貸してくれや」
「おお、それ」
火の点いた煙草で点けてやった。村越が吸い込み、ふうっと吐き満足気に呟く。
「食後の一本は美味いな・・・」
ついでに阿部にも勧める。
「有り難うよ!」
煙草を受け取り口に銜え、差し出してくれた火種で点けると、深く吸い込みくゆらせたあと、勢いよく煙を吐き出した。
「煙草と言うのは、なんの栄養にもならねえが、食後の一服は格別なものだ。なんとなく気持ちが和む、これだから止められねえんだよな」
阿部がこじつけ講釈した。
片づけが終わり、さらに用足しも済ませ、各自がキスリングザックにコッフェルやラジウス、水の入ったポリタン、そしてその他の物を詰め込んだ。
「よしっ、これで準備ができたぞ!」
村越が掛け声をかける。
「よっこらせ!」
それを合図に、佐久間や阿部もが一斉にザックを、ピッケルを杖代わりにし反動をつけ担いだ。
「それじゃ、これから出発する!」
佐久間が合図した。
「そんじゃ行くか!」
村越が応じた。
「さあっ、出発だ!」
阿部が己に気合を入れた。そして村越を先頭に、二番手の阿部、最後尾が佐久間と一列に並び、ゆっくりと美濃戸山荘に向け歩き出した。
凍りついた山道の凍土を噛む三人のビブラム音が、鳴り続いていく。皆、黙って歩く。これから始まる八ヶ岳縦走が、寡黙にさせた。夫々が思いを胸に秘め、その固い決意が登山靴を通して、しっかりと凍った道を噛む。
暫く歩き、白い息が荒くなり出してきた頃、弾む声で佐久間が先頭に声をかける。
「如何だ、村越。朝が早いんで、歩きづらくないか!」
「ううん、まあ、馴れれば大丈夫だ。これくらいなら滑ることもないと思うが、佐久間の方は如何だ?」
歩きつつ前方を見ながら阿部が覗った。
「俺は、今のところは大丈夫だが、阿部は?」
息をつき返す。
「おお、俺の方か?歩き始めたばかりだし、靴が結構食い込んでいるんで、少し注意しながら行けば歩けないことないぜ」
「そうか、それなら、アイゼンを付けるまでもないか。それじゃ、暫くこのままで行こうか」
佐久間が結論を出した。すると二人が弾む息で短く頷く。
「そうだな」
会話はそれで終わった。また黙々と歩く。喋る者はいない。三人の息遣いと、凍土を噛む音だけが止ることなく、針葉樹林に覆われ冷気の漂う登山道に響き渡るだけだった。
美濃戸口山荘までは、緩やかな林道を少し行き柳川を渡り、坂になった山道の白樺林の中を登って行く。
「美濃戸口山荘までは、一時間ぐらいか?」
歩くなか沈黙を破るように、前方の村越が問うた。
「ああ、そんなところだ」
最後尾の佐久間がが応じた。
「こんな道だからな。まあ、身体慣らしと言うことで行くか。凍っていてもこれくらいなら、アイゼンを装着するまでもない」
前方を見ながら、ついて来る二人に諭した。さらに続けて、
「ゆっくり歩いて行けば、ビブラムでも充分だぜ。ほれ見てみろよ」
己の登山靴を指で指し、歩き具合を示し言った。すると、
「だけどザックが重いから、バランスとって歩けばいい。それによ、慌てると足を滑らせるから気をつけろ!」
後方から声が飛んだ。
「了解!」
前を歩く村越の返事が響いた。
「それにしても、いい天気だな。明け方は冷え込んでいたけれど、飯食って歩き出したら、気持ちがいいな」
最後尾が前を行く二人に、白い息を吐きながら話しかけた。
「そうだな」
返事はそれだけ。後は荒い息が続く。
曲がりくねった林道をゆっくりと歩く。少しづつ行程を稼ぎ、ビブラム底の登山靴で踏み締めて行く。村越や阿部、それに佐久間が一列に並び、息を弾ませ歩を稼いでいた。息を吐く音、凍土を噛み締める音、それに、ピッケルの先を読む音、夫々が林道に木霊する。三人とも黙って歩いた。
一時間ほど歩き。やがて、前方に赤岳山荘が見えてきた。先頭が始めに見つける。
「おお、赤岳山荘だ。山荘に着いたぞ!」
それを聞き阿部が呟く。
「小一時間かかったな。まあ、順調な滑り出しだ」
すると、佐久間が促す。
「ここを過ぎれば、次は目と鼻の先の美濃戸山荘だ。そこまで行って、ひと休みしようや」
「おお、いいんじゃねえか。そんなに疲れているわけじゃないし、美濃戸口から一時間しか歩いていない。それに、急勾配じゃなかったから、耐えられないほど息も上がってもいないしな。そうしようぜ」
阿部が応じた。すると村越が逆提案をする。
「待てよ。今日の行程は、そんなにハードじゃないんだ。急ぐこともないんじゃねえか。美濃戸山荘は直ぐそこだし、どちらで休んでも大して差はない。ここらで一服しても罰は当たらねえよ。なあ、佐久間。ひと休みしないか?」
「ううん、そうだな・・・。まあ、今日は鉱泉小屋までだからな。あまり急いでも仕方ないか。この程度なら、ゆっくり行っても昼過ぎには着ける。明日のことを考えれば、のんびりと行きたいところだ。阿部、如何する?」
阿部に投げ返した。
「そうだな、そうしようぜ。村越も言っていることだし、身体慣らしが今日の目的と考えれば、急ぐこともないしよ」
阿部が結論付ける。すると皆が頷く。
赤岳山荘前へとやってきた。勿論、営業しているわけではない。山男たちが入口近くで立ち止まる。阿部がキスリングを背中から下ろすのと同時に、他の二人も下ろし雪の積もる道端に置いた。
「それじゃ、ここで一〇分ほど休憩してから出発しよう」
佐久間が腕時計を見て確認した。二人は黙って頷いた。尻皮を腰につけており、そのまま雪の上に座り、煙草を取り出し火を点け一服する。
「阿部、如何だ調子は?」
「ああ、まあまあかな。やはり二十キロの荷物を背負っていると、多少なりとも汗が滲んでくるな。でも、気持ちがいい。このくらいの汗はよ」
額から滲む汗を拳で拭き取った。
「そうか、それはよかった。俺だって、この天気だ。小一時間歩いたんで、ちょっとばかり汗をかいたぜ」
村越が吸い込んだ煙草の煙を吐きながら合わせた。そして、頭を掻きこれから進む予定のコースを確認する。
「ええと、ここからだと我々の計画では、北沢コースを行くから、もうちょっと林道を行き美濃戸山荘を経由して堰提広場まで歩くんだよな」
すると、付け加え阿部が尋ねる。
「そうだな、一時間弱ぐらいか。そこから岩道の登山道に入って行くんだよな」
応じ佐久間が説明する。
「ああ、そうだ。この美濃戸山荘が南沢と北沢の分岐点になっている。俺らは赤岳鉱泉小屋へ行くんで、南沢へは行かない」
「そうだよな。そう言えば前回来た時は、行者小屋へ行ったから、南沢コースへ入ったんだ。今日は北沢だもんな」
阿部が再確認した。
「それにしても、いい天気だ。陽射しが暖かいぜ」
村越が顔を朝日の方に向け、浴びるような格好で目を閉じた。それを阿部が真似、同じ格好をする。
「ううん、気持ちいいな。最高だぜ!」
燦 燦と降り注ぐ陽射しが、朝の澄んだ空気の中で、座り込みひと休みしている三人の山男を包み込んでいた。
「さて、出発する時間だ。そろそろ行くか。北沢沿いに歩くだけだが、これから岩肌が多くなる。気をつけようぜ!」
佐久間が告げ、ピッケルを杖代わりにし、タイミングを計りキスリングザックを担ぎ上げ背負う。
「よいしょっ!」
続いて二人もザックを担ぎ、村越が先頭に立ち、夫々がその後に続いた。山道も次第に雪が多くなってくる。ただ凍結しており、歩くには支障なかった。歩き出すと、皆、無口となる。これは山歩きの鉄則だ。無駄なエネルギーを使わずに歩く。ザックが肩に食い込むのか、息遣いが荒くなり、山道に響き渡っていた。
赤岳山荘を出発し、息が弾むまもなく美濃戸山荘へと来た。
「おお、やっぱり美濃戸山荘は近いな。あっという間だ」
「たしかにそうだ。赤岳山荘から目と鼻の先だからな」
村越の説きに阿部が応える。
「さあ、これから北沢沿いに入って行く。ここからは勾配もきつくなる。凍りついた山道も馴れたと思うが、今一度引き締めて行こうじゃねえか。村越、アイゼンが必要と思ったら何時でも言ってくれ。その時点で装着するから」
後尾から声をかける。
「おお、今のところは大丈夫だけれど、皆、足元だけは気をつけろ。まだ、凍っているからよ!」
「おお、ガッテンだ!」
阿部が返した。
美濃戸山荘を横目で見て素通りする。三人の姿は心持ち前傾姿勢を取り、ピッケルを岩道に当てながらゆっくりと、山荘から北沢沿いの山道へと入って行った。ここからは本格的な山道となる。両側が急斜面になった窪みが北沢だ。その沢沿いに高度を稼ぐように細くなった山道が行く手にあった。ここまで来て、山男らの誰もが、北沢目がけ両脇から迫る山道を息を切らせ歩くうち、冷厳な八ヶ岳の懐に入ってきたことを実感していた。
無駄口を叩かず黙々と歩く。直に堰堤広場へとやってきた。計画した行程時間通り、小一時間ほどで着く。
「着いたぞ、ちょっと休んで行くか?」
村越が声を掛けた。後方の二人が応じる。
「ああ」
今度はザックを背負ったまま、反り返るような格好で、道脇の雪へと尻皮をつけた腰を下ろした。荒い息を整えながら講釈し尋ねる。
「やっとここまで来て本調子になってきたぞ。やはりこれじゃなくっちゃな。ビブラムも凍った山道に馴染んできているし、歩く感覚も違和感がなくなってきた。これならアイゼンを着けづに行けそうだ。お前らは如何だ?」
村越が確認すると、後尾の二人が応じる
「おお、俺もようやくビブラムが馴染んできたよ。結構調子いいぜ!」
「俺もだ。美濃戸口からちょうど二時間だ。凍土にも慣れたよ」
「そうか。それにしても、いい天気だな。陽射しが眩しいぜ。こりゃ日焼けするぞ。夏とは違うが、雪山でもこれだけ降り注ぐと、結構焼けるんだ。何だか鼻の頭が、ひりひりしてきたみたいだ。気のせいかな」
佐久間が息を弾ませ言った。
「おお、俺もそんな気がする。阿部、俺の顔を見てくれ。鼻の頭が焼けていないか?」
鼻頭を摩りながら見せた。そう言われて、村越の顔をじっと見て案ずる。
「ああ、少し赤くなっているな。まだ歩き始めたばかりなのに、もう焼けているんだ。こんな調子で本格的に八ヶ岳に入ったら、顔中が真っ赤に焼けてしまうんじゃねえか」
「そうだよな、まだ始まったばかりなのに、もうこんな状態じゃ、先が思いやられるぜ。懐へ入って行けば、さらに雪が深くなるんだ。このまま晴れれば反射がきつく、本格的に日焼けするぞ」
阿部が鼻や顔を撫ぜながら呻った。
そして佐久間も加わり、互いに顔を見合わせた。各自が煙草を取り出し、火を点けゆっくりとくゆらせる。白い息と共に吐き出される煙草の煙が風にたなびき、青い空へと吸い込まれて行く。
「ううん、気持ちいいな・・・」
阿部が呟いた。夫々目を細め、周りの景色を見渡し同じ気分に浸っていた。十五分ほど経ち佐久間が告げる。
「ひと休みしたし、そろそろ出発するか?」
「ああ、そうしようぜ」
声を掛け合った。
「よっこらしょ!」
座ったまま背を丸めキスリングザックを背中に乗せ、反動を利用して両足を踏ん張りピッケルを突いて立ち上がった。三人とも背中へ押し上げ歩く体勢に入った。ピッケルでビブラム底の雪を削り落とす。
「ここから岩肌の多い登山道だ。気をつけていこうぜ!」
佐久間が促した。村越が先頭で一列になり、ふたたびゆっくりと歩き出す。ほどなくゆき、北沢の一枚岩上に架かる木橋を渡り、左岸沿いに登る。すると、沢の上に崩壊した斜面が見えてくる。さらに、右岸に渡り返した辺りから、横岳の稜線がちらりと顔を覗かせ始めた。その雄姿を見るなり、息をつき村越が叫ぶ。
「おお、横岳が見えてきたぞ!」
はあはあと荒息で、足を止めて阿部が驚嘆し見つめ叫んだ。
「本当だ、いいぞ!待っていろ、俺がこれからお前のところへ行く。それまで待っていろ!」
佐久間も足を止め仰ぎ見て、横岳の稜線を食い入り眺める。その無言の視線は、妙に懐かしさを漂わせると同時に、これから挑戦するという鋭さも備えていた。その横岳の雄姿を、三人は息を吐きつつしばし見入った。
北沢に入りこの付近が、赤岳鉱泉小屋までの丁度三分の二の通過地点である。腕時計を見て佐久間が告げる。
「あと一時間ちょいぐらいで、鉱泉小屋に着くんじゃねえか?」
更に先ほど記録した手帳を見ながら確認する。
「そうか。堰堤広場まで来た時が、たしか十時四十五分だった。十五分ほど休んだからな」
「今、ちょうど午前十一時十五分だ。この調子で行けば、昼過ぎ頃には鉱泉小屋へと着けるんじゃん。余裕だぜ!」
村越が楽観視した。
「そうだな、今日の行程はそこまでだから。小屋に着いたら、ひと休みして昼飯でも食うか」
阿部が応じ。続けて、
「それにしても、横岳の稜線を見ると、まさしく八ヶ岳に入った気持ちになるな。美濃戸口からずっと林道ばかりを歩いて来たからな。たしかに、沢沿いに山道が繋がっているから、山にいる感覚にはなるが、こうして雪を被った横岳を見ると、やっぱり違うな。最高の気分だぜ!」
感激し漏らす。
外気がまだ冷えているなか、立ち止まり三人の息づく肩辺りから、白い湯気が立ち上っていた。
「いやっ、しかし、気持ちいい。やっぱ、冬山はいいよ。なんとも言えんな」
ザックを背負う村越が窮屈そうに、吐く白い息と、立ち昇る湯気に目線を走らせ、
「本当だよな。ちょうどいい案配に汗もかいているし、肌に触る空気も程よく冷たいしな。やっぱり東京とは違う。期待していた通りの別世界だぜ」
佐久間が満足気に唸った。さらに、
「そうだ、ここで写真でも撮っておくか。元気なうちにな」
ふと気づいたのか、ザックを背中から下ろし、手早くカメラを取り出し促す。
「阿部、村越。撮るからポーズ取れよ!」
カメラを向けてた。
「ああ、分かった!」
ピッケルを掲げ二人はポーズを取った。シャッターを押し、阿部、村越と続けて撮る。
「それじゃ、今度は俺を撮ってくれ!」
カメラを阿部に渡し、ポーズを取りカメラに収めてもらう。そしてさらに、村越の隣に座り直して、撮ってもらった。
「よっし、これでいい。山に入って最初の写真だ。上手く撮れているか如何かは、後日のお楽しみだ」
佐久間がザックにカメラを収めつつ嘯くと、村越が少々荒い口調で訴える。
「おいおい、大丈夫か。せっかく撮ったんだ、上手く写っているといいんだが。男前の俺が変に写ってたら格好悪いぜ。万が一、よくなかったら、それは佐久間の腕が悪いということだからな。そんなことがないように、しっかり撮ってくれよな」
屁理屈を捏ね、何時もの調子で苦言を呈した。
「まあな。俺の腕もさることながら、問題は被写体が一番重要だからよ。カメラは正直だ。いいものはいい。不細工なものはへんちくりんにしか写らない。如何撮っても相応にしか写らんぜ」
村越の注文など気にもせず、言い返しながら手際よく整え、ザックを背負った。
「と言うことで、村越、お前がたとえ不細工に撮れても悪く思うな。お前自身の問題だから、俺のせいにするな」
村越を逆なでした。
「なに言ってやがる!俺の男前を妬んで、己の腕の悪さを、そうやってすり替えるんだからよ。まったく。能書き言う前に、もう少し腕を上げてもらいたいね」
嫌味を吐いた。そんな言い分に聞き耳持たず、
「さあ、出発するぞ!」
佐久間が二人の後につき、掛け声をかけ促した。
「ちぇっ、佐久間の腕に期待しても無駄だな。しゃあない、それじゃ玄人的俺の美貌でカバーするか」
村越が嘯き、先頭を歩き始めていた。三人の会話はそれで終わる。暫く押し測ったように黙り、ゆっくりと歩いた。直に荒くなった息が、夫々の口から白い息と共に吐き出される。
針葉樹林の中に細長く延びる岩道を、二十キロのキスリングの重みが肩に食い込んでくる。荒く吐かれる息と伴に黙々と歩き続ける。一時間一〇分の行程を進める都度、橋を二、三回渡り歩を稼ぐ。樹林越しに白い息の間から、忽然と凛々しい大同心、小同心が大きく顔を覗かせてきた。
「おお、大同心が見えてきたぞ!」
感嘆し村越が叫んだ。さらに続けて、
「何時見てもすげえな。まさしく厳冬期の冬景色だ!」
大声を上げた。そして、阿部が仰ぎ見る。
「しかし、すげえな。ああ、早く鉱泉小屋に着きてえな。そうすれば、もっと迫力ある景色が見られるのによ!」
目を見張る表情で感激し、希望的観測を漏らす。すると追従するように、佐久間がまざまざと雄大な一枚岩の大同心を仰ぐ。
「そうだよ、楽しみだな」
山男らが立ち止まり固唾を呑み、冠雪する針葉樹林の上にそびえ、迫り来るような凛々しい姿の大同心、小同心の岩稜を見つめていた。夫々の感嘆の声が荒い白息と共に木霊し、厳冬期の八ヶ岳にいる実感を、この連なる岩稜を見上げることにより、身体中に感じ取っていた。立ち止まり見上げる時間は、ほんの一時かもしれないが、心中に勢いよく飛び込み、冬山の絶景を堪能させていた。
感嘆の声を上げた後は、誰もが無口になる。
目の前に現れた圧景がそうさせるのだ。三人は感激したのか、ピッケルを雪道に突き刺し、惜しみなくその姿に見入っていた。吐く白い息が、透き通る青い空に舞い上がり吸い込まれて行く。歩んできた荒息が止めどなく続き、絶景が心の襞に染み込んでいた。
村越が呻る。
「それにしても素晴らしい。この迫力なんともいえん」
阿部が返す。
「本当だ。素晴らしい・・・」
ひとしきり愛でる。
「さあ、行こうか」
佐久間の促しに息を整え足元を確認し、村越が先頭になり歩き始めた。三人がまた押し黙る。
さもあろう。感動したばかりで、まだ残影が脳裏に残っている。余韻を反芻するが如く、噛み締め歩いているからだ。
「・・・やっぱり、来てよかった」
阿部がぼそっと呟いた。
さらに雪道を行くと、前方に今日の目的地の赤岳鉱泉小屋の屋根が、木々の間から見えてきた。
先頭が一声発する。
「おお、鉱泉小屋の赤屋根が見えてきたぞ!」
「本当か、どれ。あっ、赤岳鉱泉小屋だ!」
阿部が追従した。
「そうか、ここまで来たか。もうひと踏ん張りだ!」
肩に食い込むキスリングを揺らし佐久間が促した。テント場の脇を通り小屋へと進む。そして、手前の小高い丘に立った。
「やっと着いた。もうそこだ。目と鼻の先だぜ!」
村越が叫んだ。
すると、後続の阿部、そして最後尾の佐久間が、安堵したようにひと息つく。
「ああ、ようやくというか、着いたな」
「そうだ、着いちまったぜ。とりあえず今日の行程は終了だ。何だか物足りねえ気がするが。でも、着いた」
阿部が息を弾ませた。
「まあ、いいじゃねえか。俺だってお前と同じ気分だが、明日があるし、今日のところは足慣らしとでも考えておけばよ」
「そうだな」
労う村越に返した。
そして、佐久間がピッケルを雪上に刺し、振り返るように巨岩の大同心を仰ぎ見て指を差す。
「おい、見ろよ!」
声に誘われ窺うと、大同心と小同心の岸壁が迫り来るように、壮大な姿を覗かせていた。
「わおっ、すげえ!何時見てもすげえや。こうやって真近で見ると迫力あるな。やっぱ、厳冬期の八ヶ岳を象徴するぜ!」
村越が同様に突き立て仰ぎ見た。
立ち尽くし、先ほど以上の言葉が皆の口から、吐く息と伴に出ていた。続けて阿部がのたまう。
「あの巨岩の大同心と寄り添うような小同心。雪を被った針葉樹林の上に、岩稜を定石にしてそそり立つ姿は圧巻というか、あの絶景を見れば、一瞬にして疲れなどすっ飛んじまう。まあ、体力に余力は残っているが、それはそれとしてよ」
「阿部の言う通りだぜ。今、鳥肌が立っているものな。俺って幸せ者だぜ。こんな素晴らしい景色を拝めるんだからよ」
村越が興奮し呟いた。すると、
「そうだよな。村越に限らず、誰だってこの絶景を見たら、疲れなど消し飛んでしまうわ」
ふたたび同調する。
「そりゃ、そうさ。美濃戸口から四時間ちょいかけて、登って来た甲斐があったというもんだ。この感動のために、重たいザックを肩に食い込ませ来ているんだからよ。それに北沢沿いにルートを取り、赤岳鉱泉小屋へ来るのも、この絶景があればこそだぜ。南沢から行者小屋に行ったら、見られねえんだから」
佐久間が説いた。
「そうだよ。俺なんか北沢ルートから厳冬の八ヶ岳に入るのも、何よりこの大同心や小同心を見るためと言っても過言ではないぞ!おっと、言い過ぎかな。それほど素晴らしいということだが、さらに楽しみは主峰赤岳だったっけな。こちらも甲乙付け難いが、それにしても、この絶景は見応えあるな」
村越が満足気に息をふうっと吐いた。
「素晴らしい巨岩を見られたし、第一番目の目的は達成だ!」
再び叫んだ。二人が頷く。
夫々、巨大な凛々しい岩稜を見ながら、胸に刻むように受けた感動を言葉にする。
「うむ・・・、なんとも素晴らしい」
「感慨無量だな・・・」
「見れば見るほど見事だ。これほど胸打つものはない」
「やっぱ、いいものはいい」
ひとしきり感嘆の言葉を夫々が並べ、満足する様を伺う。
「さて、小屋へ行くか。とりあえず今日の行程はここまでだからな」
佐久間が告げながら、固く踏み締められた山道を、鉱泉小屋の入口の方へと、先頭立って歩き出した。阿部も村越もその後に続いた。
直ぐに、古びた小屋の入口前に着いた。降り積もった雪の中に、埋もれるような形で赤岳鉱泉小屋は建っている。すでに、何人かの山男らが、小屋の中にいるようだったが、表の明るさのせいか、薄暗い小屋の中の様子は容易に判別出来なかった。
いずれにしても佐久間らは、まずはここまで来たことに、一種の安堵感を覚える。全体の行程から見れば、今日の歩んだ道程は半日程度のものである。それ故、疲労感はないと言っていい。それでも計画通りの行程である。多少物足りなさはあるものの、明日からの本格的な縦走行程を思えば、余力を残すぐらいの初日と割り切っていた。
キスリングザックを下ろし手で持ち、小屋に入り片隅に置く。ランプの灯る受付で宿泊の手続きを取り、宿帳に各自が氏名、住所等を記帳した。その頃になると、先ほど感じた小屋内の暗さには、何時の間にか慣れていた。
宿泊手続きを終えると、予定通り着いたことと、間違いなく我ら三人が、八ヶ岳に入山した実感が胸中で大きく湧き出していた。顧みれば早朝バスを降り朝飯を食い、美濃戸口を午前八時三十分に出発してから、赤岳鉱泉小屋に着いたのが午後十二時十分である。途中の休憩を少々長めに取ったが、予定所要時間通りの四時間十分の行程となった。
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