二
彼らには、長野行き鈍行列車を待つ時間といえど、なんの弊害もなく時計の針が加速するほど熱中していた。まるでその様子は、まさに、今回の山行がすでに始まっている情景すら醸し出す。こんなことは、勿論彼らだけでなく、同じ列車に乗り込む他の山男たちにも同様なことが言えた。各々の仲間が談笑に花を咲かせていたし、十二時近くまで待つこと自体、苦痛など感じられず、大いに楽しんでいるのだ。
そして歓談の途中で、
「おお、もうこんな時間だ。十時半近くになるぞ!」
佐久間がおもむろに腕時計を覗き告げた。
「ええっ、もうそんな時間か。さっきここへきたばかりだと思っていのに、もうそんな時間かよ。早いもんだ」
阿部が驚いた。すると、村越がまた惚ける。
「やっぱり好きな彼女といる時と同じだよ。あっという間に経ってしまうものな。長い時間が本当に短く感じるぜ」
「また、そんなこと言っていら。よくよく村越は、女にもてねえとみえるな。欲求不満で凝り固まっているんじゃねえか。ありもしねえ願望だけが強くて、現実と夢がごちゃ混ぜになってるんだから」
佐久間が阿呆らしそうに嘆いた。すると、阿部がおちょくる。
「おいおい、村越。何時まで夢を見てんじゃねえ。目を覚まし現実を見つめろ。これから厳しい冬山に入るんだ。腰がふらついて、俺らに迷惑をかけるなよ」
すると、目ん玉を丸くし反論する。
「分かっちゃいねえな。こうやって俺自身奮い立たせているのかよ。そういう繊細な心遣い、それによって、より山行を満足すべきものとすべく、見えぬ努力をしている。それが分からねえのか、この朴念人どもが!」
「ああ、分かった、分かった。有り難うよ。好きにすればいい。もう、お前の相手はしねえから。村越の話を聞いてたら、こっちが疲れる。むしろ調子が狂って、明日からの縦走が危うくなっちゃうぜ」
阿部が訝り気味に応じ、さらに続ける。
「俺だって、佐久間の言い分を支持するよ。村越のペースにゃついて行けねえからな。なにが、見えねえ努力をしてるだ。心にもねえこと抜かしてからに」
「なんだ、なんだ、お前ら。いろいろけちつけるけど、意外とへそ曲がりなんだな。素直な気持ちになって、感謝のひとつも言えねえもんか。もっと思いやりのある優しい心の持ち主かと思ったが見込み外れだな」
虚仮下した。
「ああ、なんとでも言ってくれ。くわばら、くわばらだ」
突き放すように佐久間が、不服そうな村越に笑顔で言った。そして時間を気にする中で、さらに酒が進んだ。
すると続く話しを遮り、阿部が背伸びをする。
「さあ、そろそろ戻るか?」
「ああ、そうだな。飯も食ったし、時間も十一時近くだ。出発まで、一時間ちょいだ。そうそう、直にコンコースからホームへと移動する頃だから、それに間に合わねえとな」
佐久間が、やはり背伸びをして促した。すると、村越が席を立ち未練がましく漏らす。
「もう、こんな時間かよ。しかし、時間の経つのが早いな。さあ、途中で小便して行かなくっちゃ、夜中に車中で催したくなったら困るからよ」
「おお、俺だって同じだ。座席の下にもぐりこんでいたら、混んでいる列車の中じゃ如何にもならなくなるし」
阿部が応じた。
「たしかにそうだ。車床に皆寝転んでいるし、その上をまたいて歩くんじゃ、容易じゃねえからな。小便が我慢出来なくなり、急ぎまたごうとして、寝ている奴を踏んづけでもしたら大変だ」
佐久間が付け加えた。三人はそんな話を機会に立ち上がり、長居したラーメン屋を後にし、登山靴を引きずりビブラムの擦る音と共に、ほろ酔い気分で新宿駅へと戻って行った。
東口改札口を抜け西口コンコースへ戻ると、さらに長蛇の列になっていた。
「うへっ、すげえな!」
村越が声を上げた。三人は驚き顔で、自分らが置いたキスリングザックを探し近寄り、改めて後方を見やる。
「それにしても、今夜の午後十一時五十五分発はすげえな。こんなに並んでいるとは思わなかった。まあ、混むことは予想していたが、これ程までになるは思ってもいなかったぜ」
阿部が同調する。
「ああ、早く順番取って正解だった。まあ、ここら辺であれば寝る場所も確保出来そうだ」
佐久間が目論みが当たったように応じる。
「よかったな。時間的に早く来て、飯食ってからここへ来たんじゃ、えらい目に合うところだった。これなら前回と同様に何とか寝ていけそうだ」
三人は安堵し顔を見合わせた。佐久間が腕時計を見る。
「十一時過ぎだ。そろそろホームへ移動する時間だな」
予想していると、駅員の誘導が始まっていた。
「さあ、行こうぜ!」
声を掛け合い、キスリングザックを背負い始めた。まもなく、ぞろぞろと列が動く。ぐるっと回り移動して行く。三人は心得ていた。あわよくば皆の席を要領よく確保する。鈍行列車はどこの席に座ろうが自由である。いわば早いもん勝ちだ。だから歩きつつ、そのことを虎視眈々と狙って行く。勿論、そんなことを考えず歩む奴らもいた。
俺らは違う。
経験の差からくるのかもしれない。先のことを考えれば立って行くことなど、もっての外である。座席が確保出来れば大成功。さもなくば、座席の下にでも通路でも座れる場所を確保し、寝て行ければそれでいい。その陣取りを、歩きながら目ざとく偵察していくのだ。
六番ホームへと上がる。そこにはすでに長野行き午後十一時五十五分発の普通列車が入っていた。三人の足が自然と速くなる。急ぎ足になった山男たちが、一斉に列車に乗り込んだ。すばやく阿部が、入口から少し入った座席を確保した。村越も佐久間も躊躇することなく座席を確保しようとしたが儘ならず、佐久間は急ぎ通路に陣取り座る。続いて村越が座席の下へ潜り込み、これでともかく、寝る場所だけは確保した。三人がやったとばかりに目配せする。
「さあ、これでひと安心だ。これで茅野まで、ゆっくり寝て行かれるぞ」
村越が息を弾ませた。そして喜び勇んで握手を求める。
「成功だ!」
二人が交互に応じた。
「まったく、座れてよかったよ。それにしても、この列車暑いな」
阿部が額に手をやり、にたりと応じた。夫々の場所を確保していると、車両はあっという間に登山客で埋め尽くされていた。視線を合わせながら、網棚にザックを載せ、阿部がゆっくりと座席に腰を下ろした。
三人の周りでは通路に座る者、ザックを置きそこに腰掛ける者、はたまた座席の下に潜り込む者。夫々が勝手に寝るための仕度を整える。すべて早い者勝ちである。しかし、それの出来なかった者たちは、結局立って行かねばならならない。ざわつく様子を窺いつつ、佐久間が佇む山男らを見てほくそえむ。
「ほら、見ろよ。考えていた通りだ。座りそこねているじゃねえか。俺らだって、寝る場所が確保できなかったら、あの風にならなきゃならないところだぞ。立ちんぼで茅野まで行くんじゃたまらんぜ。今回はセーフだ。それにしても混んでいるな。早めに来て正解だったじゃねえか」
「まったくだ。これも俺らが何度も経験しているから要領よく出来るんだ。まあ、これが出来なきゃ山男として一人前とは言えんがな」
阿部が誇らし気にほざいた。村越が安堵して頷く。
「本当だぜ。とにかく寝る場所だけはなんとかなったな。それにフラミンゴみたいに立ったまま寝られるわけじゃねえし」
さらに阿部が応じ尋ねる。
「まったくだ。それで佐久間、出発の時間まで後どれくらいだ?」
「ううん、今、ちょうど十一時二十五分だから、あと三十分だな」
腕時計を見て応えた。
「そうか、今暫くか・・・」
村越が独り呟いた。
「さてっ、座れたことだし一服するか?」
「おお、いいね」と、佐久間と阿部が同調した。
周りの混雑をよそに、三人は煙草をくゆらせていた。発車時刻を待ち、寝る準備をしたり雑談をする。そうこうするうちに、出発時間になっていた。ゆっくりと列車が走り出す。
「おっ、動き出したぞ!」
村越が発した。それに阿部が相槌を打つ。
「ううん、出発だ。いよいよ始まるな」
佐久間も黙って頷いた。互いの目が合った。
佐久間が告げる。
「さあ、寝るとするか」
「ああ、そうしようぜ。明日は早いしな」と阿部。
「早いとこ寝なくちゃ、体力温存できねえからよ」と村越。
夫々確保した場所で就寝につく。
夕食時の酒が効いたのか、直ぐに大欠伸をし眠りに就いていた。車内は人息と暖房で暑さが増し寝苦しかったが、とにかく夢の中へと落ちて行った。
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