「喜らく」で、にんにくのたっぷり入った餃子を食いビールを飲み、赤らんだ顔の山男たちは臭い息を吐き、さらにテンションを上げていた。時間などお構いなしに話しに興じる。周囲のことなど気にする様子もなく、大声で笑いながら山の話に夢中になっていた。

そんななか、阿部が突然切り出す。

「俺、この前、ひよんなことから今回の山行について話す機会があったんだ」

「なんだよ、それって・・・」と村越が絡む。

「ああ、お前らも知っている斉藤にだよ。奴とこの前、久しぶりに喫茶店でお茶を飲んでいる時にな。どこからか俺らの計画を聞きつけて、八ヶ岳山行を尋ねてきたんだ。奴も多少、山に興味があったらしくて、「阿部、冬山に入るんだって。噂で聞いたよ。いったいどこへ行くんだ。今頃行くんじゃ、冬山登山だぞ。危なくないのか?」ってな。それで、心配そうにしている斉藤に答えてやった。ああ、何時も行っているところだからな。細心の注意を払って行けば大丈夫なんだ。とな」

「へえっ、そうかよ。お前って大したもんだな。まさか、一人で行くわけじゃないよな。誰と行くんだ?」

斎藤が目を丸くした。

「うん、俺と佐久間、それに村越の三人だ。何時も一緒に行くメンバーだ」

阿部が自慢気に応えた。すると、改めて感心し頷く。

「なんだ、そうか。お前の山仲間が、あいつらなんか。それで、何日ぐらいの日程で入るんだ。俺も山には多少興味があってよ。ただ、夏に二、三度ハイキング程度で行っただけなんだが。冬山登山って、どんなものか興味あってな。恐ろしいところじゃないんか。すごく危険なところじゃないのかよ。差し支えなければ聞かせてくれないか?」

興奮気味に問うてきた。

「ああ、まあ、話してもいいが、もしかして一緒に行きたいと言うことじゃねえよな。そうだとすれば、お前じゃ無理だ。夏山とは、まったく違うからな。いや、別に行きたいわけじゃない。少しばかり興味があって、それで聞いているだけだ」斎藤が応える。

「そうか、それならいいが。それじゃ、そうだな。簡単に比較すると、どちらかと言うと夏山は山歩きだ。冬山と言えば冬季の登山というところかな。それだけ違いがある」

阿部が比較し説いたが、斎藤が困惑する。

「ええっ、そう言われてもどこが違うのか、言葉の比較だけでは分からねえな」

「まあ、それは実際に経験してみなければ理解出来ないよ。冬山入山は夏山と違って装備も多い。ウインドヤッケ、ロングスパッツ、そしてピッケルやアイゼン、それに輪っぱなんかを持って行かなきゃならない。本格的に入るには、結構重装備になるからな」

「なんだ、・・・その輪っぱって?」

「ああ、輪っぱか。これは俗語だ。正式には輪かんといってな、深い雪道を歩く時に使う道具だ。登山靴だけでは、雪に埋まって歩けない。そこでこれを靴のした履き、雪の上を歩く。多少歩きずらいが、これがないと深雪の山道はとても歩けない」

「ふうん、そうか・・・。輪っぱって、雪道を歩く時に使うものなんだ」

さらに、納得させるように付け加える。

「いいか、夏山とは装備が根本的に違うことだけは言っておく。それだけ危険の伴う登山だが、比例して魅力的な山登りでもある」

「そんなものかな、俺には経験がないんで分からねえや」

「そんなもんだ。危険と常に隣り合わせだから、それだけ重装備になるけれど、一度経験したら、その魅力の虜になること請け合いだ」

語気を強めた。

「俺も写真集なんかで、冬山の景色を見ることあるが、たしかに美しいし迫り来る迫力があるよな。じっと見ていると、引き込まれていく感じになる。ただ、実際に見たことないから、本当のすごさが実感できねえのが残念だけど」

「いや、経験してみると分かるが、その素晴らしさは一言では表現できないくらい良いもんだ。これぞ一生もんの宝といってもいい」

すると、納得したのか頷き、さらに興味深く尋ねる。

「それで、どんなスケジュールと言うか、行程で行くんだ。なんだか、夜行で行くらしいな。列車の中でゆっくり寝て、明け方起きた頃、目的の駅に着くと言うわけか。ところでその夜行列車って、何時頃のに乗るんだ?」

「うん、何時ものやつなんだけれど、十一時五十五分新宿発長野行き鈍行だけど。これも要領よく寝る場所を陣取らにゃならない。結構、大変なんだ」

「ええっ、十一時五十五分というと、午後十一時・・・、か?」

「ああ、そうだ。その午後十一時五十五分だ」

「へえっ、そんな遅いのに乗って行くのか?」

少々驚きの表情で聞き及んだ。

「そうだよ」

平然と応えた。

「それじゃ、ゆっくりと家を出れば間に合うな。お前の家からだと、十時過ぎに出れば充分間に合うもんな」

「いいや、そんな遅くには出ない」

「えっ、そんな遅くって、如何いうことだ?」

聞き返し、半信半疑に尋ねる。

「午後十一時五十五分新宿発の列車に乗るんだろ?」

すると、頷き応える。

「ああ、そうだ」

「それだったら、午後十時頃に出れば間に合うじゃないか」

「まあな、所要時間的に言えばな。でも、八ヶ岳に行く場合、俺は何時も午後五時過ぎには自宅を出ることにしている」

「新宿から行くんだろ?」

「ああ、そうだが」

「それなら、午後十時過ぎでいいじゃねえか。そんなに早く行って如何する。午後五時に出れば、遅くとも六時過ぎには着いてしまうだろ・・・」

「いいや、それでは駄目なんだ!」

阿部が否定した。すると、怪訝そうに反論する。

「如何してだよ。そんなに早く行ったってしょうがねえだろ!」

「いいや、俺らは何時もこのくらいに家を出て、午後六時頃には集まっている。それに、直接プラットホームに入るのではなく、西口のコンコースで並んで待つんだ。それでないと、遅く行き長い列の後についたら、列車の中で立ちっぱなしになるだろ。座席を確保するには最低六時頃までには、着いていなけれりゃならんのだ」

「うへえっ、そんなに早く行かなきゃならねえのか、初めて聞いたよ。冬山登山って大変なんだな!」

「まあな、金がねえからしょうがない。指定席でも取れば、お前の言うように、出発時間ぎりぎりに行けばいいが、鈍行列車じゃ仕方ないよ」

「そうか、それにしても時間を潰すのが大変だろうな。おおよそ六時間もあるぜ。よくも待てるよな。いったい、出発まで何してんだ?」

「それによ。時間をもてあまして、山に入る前に飽きて嫌になっちまうんじゃねえか?」

自分がそうだったらと考え結論づけた。すると、考えてもいないという様に説きだす。

「いいや、そんなことは考えてもねえな。待てよ、そうだよな。そう言われれば、今までまったく気にも止めなかった。たしかに、六時過ぎに行ってザックを列に並べ、出発時間まで待つわけだからな。考えてみれば、随分長い時間だよな」

「そうだろう、いくら金がないからといって、退屈でしょうがないんじゃないか。俺だったら、真っ平ご免だ。そんな長い時間待てねえよ」

納得しかねた。

「まあ、たしかにお前に言われれば、そう思うけど。でも、こんなことは今回が初めてじゃない。冬山に行く時は何時もこうなのに、今までまったく気にならなかったぜ。はて、如何してだろうか?そうだよ。考えてみると不思議なもんだ。でも、事実だからな・・・」

阿部が振り返った。すると、斎藤が口を尖らせる。

「おいおい、本当にお前ら、そんなに早くから行ってんのか。信じられねえ!

だって、そうだろ。普通に考えりゃ、そんな長い間、たとえ夕飯を食う時間を差っぴいたとしても、出発まで五時間以上になるんだぜ。それが気にならねえとか、如何とも思わねえなんて考えられない。お前らの頭の中のねじが緩んでいるんじゃないの。如何かしてるぜ!」

理解に苦しむが如く疑った。

「それともなんだ。気にならないというか、時間潰しにどこか面白いところへでも行って、他人には言えねえことをやっているんじゃねえの?それしか考えられねえぜ・・・」

勝手に結論づけた。

「そうか、お前らには山へ行く金はなくても、女といちゃつく金はあるとかよ。下賎な安キャバレーにでも引け込んでんじゃねえのか?」

疑いの眼差しで矢継ぎ早に発した。すると驚き反論する。

「いいや、そんなことはしねえ。だいいち、山へ行く格好を見れば分かるだろ。汚ねえなりしてるんだ、店の方が嫌がるぜ。まあ、そんなことした覚えもねえがな」

益々訝り問う。

「それじゃ、如何してそんな長い時間、気にも止めず過ごすことが出来るんだ。そんないい話しがあるなら教えてもらいてえもんだ」

「いいや、特別、何をやるでもないが・・・。しかし、如何しているだろうか?だいいち、今までそんなこと考えもしなかったからな」

「おいおい、待てよ。お前らのことだぜ。当事者が思い当たらねえってことねえだろう?だいたい、阿部が気づかなくても、村越や佐久間がなにか特別なことをしているんじゃねえのか?」

「いいや、そんなことはない。俺と同じことをしたり、喋ったりしている。はて、如何してかな・・・?」

「しかし、お前らの冬山登山って、どんなもんなんだ。そんないい加減な体で、よく厳しい冬山に入れるよな・・・」

見くびるように疑い、さらに推測する。

「そうか、分かったぞ。八ヶ岳には行くんだろうが、山には入らないんじゃねえのか。麓の山小屋辺りでぶらぶらしているだけでよ。だから、なんの心配もなく、だらだらと助べえな話を、その待つ五時間に当て費やすだけなんだ。そうだろて、図星だろ!」

「なにを馬鹿なこと言っている。そんなことしているわけねえだろ。なんという阿呆なこと言ってんだ!」

阿部が毅然と反論するが、斎藤の目が冷める。

「だって、しょうがねえだろ。お前らの言うことがいい加減なんだから、そう思われても仕方ねえだろ。違うなら、分かるように説明してみろよ。のらりくらりと、訳の分からないことばかり言ってんんだからよ」

釈然とせず、きっぱりと断言した。すると真顔で返す。

「たしかに、お前の言うことも一理ある。でも事実なんだから仕方ない。嘘を言っているわけじゃないし、はぐらかしているわけでもない。あまり、こんな話していてもこんがらかるだけだ。とにかく言えることは、これだけ長く待とうと、退屈しないということだ。それは気持ちの上で、もうすでに山行が始まっているということだ。時間を潰しているわけではない。もう新宿駅に来た時から登山が始まっているから、そうなんだ。ここのところが、お前に分かるか?」

「はて、今ひとつ解せねえ。俺には経験がないからお前の説明では腹に収まらねえ。それにしても、よくそんな長時間話すことがあるよな。それも山の話ばかりだろ。俺には考えられんことだ」

「お前に、そう言われたら仕方ねえ。実際になんの苦もなく、午後十一時五十五分発の時間まで過ごしているんだからな。まあ、言えることは。待っている時間もすでに登山の一部だということさ」

「そんなもんか・・・」

「そんなところで、もうこの話はお終いにして、お前がさっき言っていた山行行程だが、それを話した方が良いかも知れんな」

「おお、そうだ。ころっと忘れていたぞ。お前が妙な話に持っていくから、おかしくなるんだ。とりあえず、それを聞かせてくれるか?」

「ああ、でもな。山行スケジュールを聞かせてやろうと思ったけど、如何も気分が乗らねえんで止めるよ。俺らの冬山登山を馬鹿にされているようで、話す気がしなくなった」

阿部が不機嫌そうに告げると、斎藤が慌てて撤回する。

「おおっと、気に触ったか。悪かった。謝るよ。だって、お前が訳の分からん返事をするもんだから、俺だってなんだかからかわれているかと、つい勘ぐって言ったまでだ。気に触ったら勘弁してくれ」

「まあ、謝るなら許してやる。それじゃ話してやるか。俺らの今回の登山は、大袈裟でもなんでもない。命がかかっているくらい危険が伴う。だからいい加減な気持ちで入山しないさ。コース取りにしても、山行時間の割り当てにしても、事前に時間をかけ前回の経験も踏まえ、充分練って計画を立てている」

きっぱりと告げ、さらに目を輝かせる。

「決して油断したり、いい加減な計画は立てない。天候の変化だって機敏に捉えることにしている。最大限注意を払い無茶することはしないさ。過去に、冬山に無謀な計画で入って、命を落とした山男は幾人もいる。俺らはそんな仲間に入りたくねえ。

だから、今回の八ヶ岳だって、慎重に計画を立てているさ。夫々の経過地点までの所要時間と経過予定時間を分単位で詳細に決めている。当然そこには、一時間ごとの休憩時間も設定してな。それに、万が一の時のために、滑落停止の訓練も加味している。さらに、途中での異変に備えた逃げ道、すなわち避難の下山ルートも確保しているぞ」

熱が入り背筋を伸ばす。

「気象の変化や地形を取り巻く条件、また俺らの体調など、考えられるいろんな角度から検討し詳細な行程計画を練り上げている。例えば、気象条件の変化に対処する。晴天の時の山行行程。それが一日中続く場合と、途中から崩れた時の対処行程など。また朝から雪の場合如何するかも計画に練り込んである。体力の消耗度も幾通りのケースで想定している。それらを総合した結果として、最低限体力温存のため列車の中で寝て行かなければならない。そのために早く新宿駅に来て並ぶんだ。大まかに言えば、そういうことだ。それ故、集合が午後六時前となっている。分かったか、斉藤」

「・・・」

絶句し返事をしなかった。いや、返す言葉がなかったのだ。阿部の目の輝きを見た時、反論する気持ちが癒えていた。その真剣な視線と語る仕草は、決して生半可でなく、本物であると確信できたのだ。

態度が変わっていた。

「へえっ、予定時間とか、避難ルートとか、そんなに綿密な計画を立てているのか。そのために体力温存まで考える。それに冬の登山は、結構危険なところが多いんかな・・・」

改めて敬意の表情で頷いた。すると、興に乗り経験談を喋り出す。

「ああ、夏山でもあるぞ。丹沢での沢に入った時も、浮石を掴んで危うく滝壺に落ちるところだった。それに冬山でもそうだ。この八ヶ岳でも、昨年の入山時に経験した。阿弥陀岳から中岳を挟み赤岳へ連なる稜線でだ。露出した岩肌がアイスバーンになっていてな。勿論、アイゼンを装着し慎重に歩いていたが、そこに突風が吹き上げてきた。村越がその風にバランスを崩して、反対側斜面に落ちた。あっという間の出来事だった。咄嗟の判断で、ピッケルで滑落停止体勢を取れたから、よかったものを。もし、それをしていなければ、落石のように二百メートルぐらい谷底に滑り落ちていたかもしれん。それも強烈に身体を岩肌にぶっつけながら、おそらく助からなかっただろうよ」

斎藤は目を丸くし、固唾を呑んで聞いていた。阿部の説明が続く。

「これなんか、途中の中岳コル手前のスロープになった急斜面で、ピッケルを使い滑落停止の訓練をしていたから、咄嗟の出来事にも対処できたものの、何もせずに進んでいたら、止めることなんか出来なかったと思うよ。

冬の稜線は常に崖下から風が吹き上げてくる。だから前かがみになり、慎重にアイゼンで踏みしめて歩くが、ちょっとした隙を狙われて突風が吹き上げてくることがある。だから細心の注意が必要なんだな。村越にしたってその点は充分心得ていたと思うが、それでも、一瞬の隙に危険な目に合った。それにしても命拾いしたもんだ」

聞き及び、

「ううん、そうだよな。たらればになると思うけど、よくその中岳のコル手前で訓練していたよな。もしやっていなければ、それこそ、今の村越はいないことになるから。しかし村越もついているよな」

斎藤が感慨深げに漏らすと。さらに阿部が続ける。

「今までの山登りを思い出すと、他にも危ない目にあっていることが、まだ数あるよ。大きいのから小さいものまでな」

「ええっ、阿部・・・!」

絶句し目ん玉を丸くし、

「お前ら、随分無謀なことをやってんな。それにしても、よく無事で今まで生きてこられたな。ほとほと感心するよ」

鼻を膨らませた。そんな仕草を気にする様子もなく、得意気に話し続ける。

「だがな、勿論、こんな恐ろしいことばかりじゃないぜ。こんなのはほんの一部だ。冬山に入って、楽しいことや素晴らしいことの方が格段に多いさ。素晴らしい景色。これからまた、拝めると思うと鳥肌が立つくらい胸が弾む」

「本当かよ。怖いことばかり聞かされるから、恐怖感が先に立ってしまったが、そんなにいいことがあるのか?」

「ああ、実際に行ってみると実感する。本当に良いもんだぜ!なんせ、赤岳鉱泉小屋の前から見た巨岩の大同心、小同心の絶景。これは見ごたえ充分だ。雪に覆われた針葉樹林の上にそそり立っているんだ。じっと見ていると吸い込まれていくほどの迫力だぜ。それにな、阿弥陀岳山頂から見た雪を纏った鋭鋒の赤岳、八ヶ岳連山の主峰だ。これこそ一度見たら、直ぐに虜になること間違いなしだ。素晴らしいの一言に尽きる」

目を細めた。

「本当かよ。そんなにいいんか!」

羨ましそうに吐き、さらに興味深気に尋ねる。

「それって、絶世の美人を見る時のように、胸が時めくというか、腰がめろめろになるような感覚に陥るのか?」

「おお、そうかも知れんぞ!」

「おいおい、そんなにいいもんか?」

「なんだ、その目つきは!」

「はあ?」

「だから、そのいやらしい目つきはなんだと聞いている!」

「いいや、あの、その大同心と小同心の景色の素晴らしさや、冠雪した主峰赤岳の話じゃないのか。それが絶世の美人のように良いもんだと言うよな。たしか、抱きつきたくなるような・・・」

「斉藤、そんな不純な気持ちじゃねえ。この馬鹿野郎。だいたいお前は、直ぐに助べえ視線で物事を見るから駄目なんだ!」

「えっ、そうじゃなかったのかよ」

「あたりめえだ!誰も女の話などしてやせん。俺が言っているのは冬山での景色の素晴らしさだ。鉱泉小屋から観た景色の素晴らしさや、阿弥陀から観た赤岳の絶景だ。それを、お前はなんでも助べえごとに移し替えるからいかんのだ」

「俺なんか、そんな女のことなど考えもしない。純粋に感動する真の素晴らしさだ。まったくしょうがねえんだから、斉藤はよ。

まあ、いずれにせよ。山歩きにしても、登山にしても奥が深い。だから今回のように、行くと決まったその時から山行は始まっているようなものさ。三人集まって綿密な打ち合わせをする。むしろ気持ち的にも、ここからすでに登山が始まっているともいえるがな。だから、出発当日になれば、列車の発車まで何時間待とうと、さらに熱が入り退屈なんて言葉は出てこないんだ」

「なるほど、そんなもんか・・・」

「そうさ、そう考えれば、重いキスリングを背負い新宿駅に着いてでもみろ、本格的なアドレナインが滲み出ていら。そうなれば出発時刻までの時間だって、とっくに山登りが始まっている。そんな気持ちになっているんだ」

「ああ、なるほど。そういうことか、阿部。お前がさっき話した新宿駅でのことや、すでに山登りが始まっていると言ったこと。そういうことだったのか、やっと解ったよ。なるほどな・・・」

頷き、さらに期待する。

「あんなに早く新宿駅に行っていても、すでに山登りが始まっているという気持ちになれば、そりゃ、なんの苦もないし、退屈になんかなるわけがない。そう言うことだったのか。たしかに素晴らしい景色が、また見られると思えばわくわくしてくるんじゃねえか。もし俺が同様としたら、やはり同じ気持ちになるんだろうな?」

「ああ、勿論さ。誰だって、あの素晴らしさを一度味わえば、また行ってみたいと思うぞ。それは間違いない。山行の素晴らしさとはそんなもんさ。特に冬山はな」

「ううん、そうかも知れんな。お前とは経験が違うけど、たしかに俺に当てはめても、なんとなく分かるような気がする。夏山だって、前日や計画を立てている時、それに山行行程を、地図を見ながら決めている時なんか、すでに山登りの気分になっているもんな」

「そうだろ、斉藤。それなんだ。夏山であろうと、冬山だろうと同じことだ。分かるだろ、その時の気持ちを」

「ああ、それだったら、言っていることが分かる。俺だって行く先は違うが、同じ新宿駅で二、三時間前に待ち合わせたって、なんの苦にもならないよ。よく考えたら、もうその気になっているものな」

納得し頷いた。

「分かってくれれば、それでいい」

「それにしても、お前らは本当に山にのめり込んでいるよな。普通じゃ、そうはいかないぜ。それをこの長い待ち時間までも楽しんでしまう。しかし、その気持ちは分かったが、いったい、如何やって楽しんでいるのか、俺には今ひとつ理解に苦しむな。たしかに、なにかとても楽しみなことをするとか、お前の興奮する気持ちは分からないでもない。

そういうことなら、別に山じゃなくても俺自身経験したことがある。例えば好きな女の子とデートの約束をした前夜だとか、待ち合わせする場合、遅れちゃいけないと早めに行き、待つ時の心境なんかは、あれやこれやと夢を膨らませ、胸踊る気分だよな。これぞ、待ち時間など苦にならんもの。そうだろう。そんな時の気持ち、時間があっても苦痛など起こりゃせん。むしろ、わくわくてしょうがないんじゃないか?」

「ああ、まあ多少例えが違うが、そういう時の気分に近い気がするよ」

「なるほどな、それなら俺にも分かるぜ。彼女とのことを思い巡らせれば、楽しくてしょうがなくなる。武者震いするというか、あん時の気持ちは、なんと表現していいか、どきどきもんだぜ。それによ、彼女が遅れて来ようもんなら、顔を見るまで不安の渦に巻き込まれてしまうもんな。それに・・・」

「なんだよ。それにって。ああ、馬鹿野郎。お前、なにか助べえなこと考えているんじゃねえか」

「そんなことないよ。ただ、ちょっとだけ。彼女が遅れてきた時の詫びる仕草を巡らせてしまってな。「敏男さん、遅れてご免なさい」なんて、恥らいつつ詫びる。これがたまらなく可愛いんだ。俺はそこでぐっときて、そっと肩を抱き寄せキスをプレゼントする」

似たつき連想する斉藤に、醒めた顔になる。

「あのな、お前少し考えすぎじゃねえか。そんなことまで聞いちゃいねえぞ。しかし、俺らの場合は女の子とデートするんじゃねえんだ。たとえとして、お前の言ったことに同調しただけで、同じだと思うな。斉藤はす直ぐに女の話に結びつけるから、始末に終えねえよ。まったく似たつきやがって、助べえ面するんじゃないぜ」

「分かったよ。阿部はもてねえから、ひがんでいるんだろ?それに俺の場合は、汚らしい山男と違って、スマートで格好いいから下界というか、世間じゃもてるんだ。それによ。まあ、もてねえお前らの場合、俺と違って、山が恋人だと思えばいいんじゃねえか」

誇らしげに言う斉藤に阿部が、「なにを言いやがる、この阿呆!」とへつらったが、少々納得した。

「でも、まあ、いいか。俺らにとって山が恋人だと思えば、長野行き鈍行を待つ時間を、彼女との待ち合わせ時間と仮定すればいいんだ。そうだよ。そうすれば楽しく、そして胸時めくものな。苦になるわけねえよ。それこそ退屈だなんて思うわけねえからな」

「ああ、そうかい。阿部、精々山という彼女に嫌われねえよう、充分注意して行けよ。それでないと、何時なんどき彼女が牙を剥くかもしれねえから。女も冬山も気を抜くと危ないぜ。女心と山の天気は変わりやすいというからよ」

「ああ、分かった。注意するぜ、でも、お前こそちゃらちゃらしながら、女の尻ばかり追っかけていると、とんでもない仕打ちを喰らうから気をつけろ!」

斉藤に返した。すると、

「なにを言う、俺はそっちの方のプロだ。そんな目に遭うか!」

開き直った。

「それならいいけど。まあ、自惚れて、彼女に鼻っ柱を折られねえよう、精々油断しないことだな」

「ああ、分かったよ」

「まあ、こんなところかな」

斉藤との話しを終えた。佐久間も村越も聞き入っていたが、そこで佐久間がぼそっと呟く。

「そうか、斉藤とは今回の八ヶ岳山行話で盛り上がったんだ。女と山と、どっちが好きなんだか。しかし、あいつらしいぜ。ごちゃ混ぜにしやがって、まあ、言い方によっては、相通ずるところがある気もするがな」

村越が感心した。

すると、佐久間が真顔で反論する。

「斉藤の考えを否定する心算はないが、俺としては一緒にしてもらいたくねえな。そりゃ、彼女とデートする時はわくわくするし楽しい。けど登山とは違う。ましてや冬山に入る時は、そんなちゃらちゃらした気持ちでは望めんぞ」

「たしかに、佐久間の言う通りかもしれん。立ち向かう姿勢や心入れが違うからな。でも、それほど厳格に区別することもないんじゃないか。俺はそう思うが」

阿部が横槍を入れた。

すると、村越が笑みを浮かべ宥める。

「まあまあ、お二人さん。話しのついでの例えじゃないか。そうかりかりしなくてもいいぜ。どっちだって胸のわくわくすることに変わりはないんだ。俺はどっちとも欲しいよ」

佐久間も阿部も顔を崩した。

そして、酒を飲み飯を食いながら話題が変わり、他山の話へと進む。時間の経つのも忘れ、周りに響くような馬鹿笑いが混じる。また時には互いを貶し合いながら、三人の山男はこれから赴く山行について話し及んでいた。






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