眠る山に入りて
高山長治
第1章 鈍行列車
一
隊列を組み、阿弥陀岳を極め赤岳への稜線に取り付いていた時だった。油断していたわけではない。ピッケルを片手にアイスバーンに覆い尽くされた頑強な岩肌を、荒息を吐きアイゼンの爪を立て必死に歩を稼いでいる時である。
突然だった。
間段なく吹き上げる地吹雪のような風雪が、目出帽子を突き抜け俺の目に飛び込んできた。
「痛てっ!」
目を閉じた一瞬、気を取られる。その時だった。執拗に稜線に沿い這い上がって来た魔の突風が、狙いすましたように襲い、登山靴の足元がすくわれていた。
その瞬間、無常にもアイゼンの爪が凍りつく岩肌から離れ、そのまま身体が浮き上がり、稜線の対岸に舞っていた。
如何にもならなかった。
「わああっ・・・、助けてくれ!落、落っこちる!」
俺は、悲鳴を上げた。
目の前がぐるぐると回り、意識が乱れるのと同時に、そのまま谷底へと一気に落ちていった。突き出た岩に背中を打ち付けバウンドした。強い衝撃が走り息が止った。
激痛が走る。
「ううう、痛てて・・・」
呻き、ベッドから落ちていた。
はっと目が覚める。
寝汗が油のように浮き、鼓動が激しく高鳴っていた。ぼやける目を擦ってみる。豆電球に照らされ、薄ぼんやり浮かぶ己の影姿を見つけ出す。意識がはっきりするうち悪夢であることに気づく。
うむ、夢か・・・。いやあ、びっくりした。死ぬかと思ったぜ。額に浮く脂汗を手の甲で拭った。
しかし、驚いたな。足をすくわれ吹き飛ばされるんだもの、もう駄目かと思ったぞ。まさか、ベットから落ち、それが岩肌にぶつかり滑落する夢になるなんて。やはり出発前だけに、心のどこかで緊張しているんだな。それにしても、縁起でもねえ夢を見たもんだ。こりゃ俺自身、意気揚々としているようでも心の内じゃ、やっぱり緊張しているんだ。それじゃなければ、こんなやばい夢など見やせん。
ふうっと息を吐いた。そして己を戒める。
正夢にならぬよう気をつけて臨まんとな。冬山だ、なにがあるか分からん。くわばらくわばらだ。
そして、気持ちを引き締めたところで枕元の目覚まし時計を見ると、午前二時ちょい過ぎを指していた。
まだ、こんな時間かよ。真夜中じゃねえか。
中途半端な時間に起こされ雑言を吐き、尻を掻いて寝床に入り、大欠伸をして再び眠りに就く。そんな悪夢にうなされたにも係わらず熟睡した。危険の伴う冬山登山を前にして、潜在的な緊張感の高ぶりから不吉な夢を見たのだ。
そして、出発当日の朝が来た。
数日前の悪夢など、心の奥底に握り潰すように仕舞い込まれていた。
何時もそうだ。
俺がこれから冬山には入ろうと出掛ける時は、ことさら意識しないが、自然と緊張した面持ちになる。だがその反面、密かに優越感を覚えるのだ。大きなキスリングザックを肩に食い込ませ、ピッケルを携え意気揚々と最寄り駅まで闊歩すると、一種異様な様相を見て周囲から驚嘆の視線を浴びる。すると俺は鼻が高くなり、己の姿を得意気に誇示し出す。そんな時、心の中で叫ぶんだ。
これから俺は冬山に入る。素人さんには真似できない厳冬の八ヶ岳へと行くんだ。すごいだろう!・・・とな。
すると如何だ。背中を押されるように励ます視線を感じる。
「頑張れよ。冬山は危険だから気をつけて行け!」
それで益々高揚し、鼻を高くする。
まあ、任せてくれ。冬山に入るにゃ、それなりの準備をしてるんだ。だいいち冬山は体力がいる。そのために日頃から訓練と称して手頃な山へ入っているし、それに一ヶ月前から、今日のために毎日みっちりと走り込んでいるぜ。
言葉では返せねえが、ほれ見てくんな、俺の歩く姿をよ。それにな、あの素晴らしい白雪を被った雄大な岩稜の峰々を思い浮かべれば、そりゃ、瞳が輝くし浮き立つというもんだ。
肩を怒らせるが如くザックを背負い、ピッケル片手に胸を張り歩く。自分では雄姿を見せている心算だが、その姿はまるでアヒルの歩みみたいなものだ。他人が見れば、滑稽に思われるだろうが、自分じゃ格好いいと思ってる。
ともかく、入山の出発点である新宿駅まで電車を乗り継ぎ、その優越感に浸りながら行く。そんな中で、背負った二十キロのキスリングが肩に食い込むほどに、他目から羨ましがられるであろう優越心が、ことさら台頭してくるのだ。
「嘘でも、見栄でもない。本当に厳冬の冬山に入るんだ!
その実感が、自然と己自身、身体全身に湧き出していた。
そんな冬山登山も、いざ入る時は、自然の危険さを知っていればこそ、事前にじっくりと計画を練る。
まあ、行く前に縁起でもねえ夢を見るくらいだからな。そりゃ、石橋を叩くぐらいの周到ささ。
それこそ、使い古したガイドブックを読み、過去に登った記録ノートを引っ張り出して分析する。さらに、五万分の一の地図にコース取りを赤鉛筆で埋め、あらゆる角度から何度も検証する。勿論、そんなことは当然すべきことだが、夏山と違って環境が厳しい分より熱が入る。佐久間がぼそっと呟く。
そうしてみると、俺らの登山は、すでにこの時点から始まっているといっても、言い過ぎじゃないな。
それほど事前準備の段階から入れ込む。でも実際のところ、やはり最高に盛り上がるのは、当日家を出発する時からであることは、疑いのないことだ。その時が妙に緊張するし、実質、登山のスタートともいえる。だから余計、注がれる周囲の視線に優越感を感じるのだ。
そんな待ちどうしかった優越感と緊張感に浸れる日が、今日訪れた。夜と言っても、真夜中に出発する夜行列車に乗るのである。
気負いにも似た高ぶりが身体全体から発散される。発する言葉は平凡だが、一つひとつの動作に現れる。自然体で振舞うのだと、自身に言い聞かせても押さえようがなく、どことなくぎこちなくなる。普段通り振舞っていても、そうはいかない。
無事戻ってこられるだろうか。はたまた、危険な目に合うんじゃなかろうか。そして、計画通り縦走ができるのか。これだけの過酷なスケジュールで本当に体力が持つだろうか。雪深い山中で体力が限界になったら、如何したらいいのか。まさか、先日の悪夢が正夢になりはしないだろうか・・・。
あまた詮索してしまう。
そんな時は、冬山の素晴らしさとか、感動するであろうことなど、心の片隅に追いやられているものだ。そんなところが、入山する当日の心境かもしれない。
事前準備に充分時間を掛け練り上げても、これでいいと言うものはない。それもこれも、厳しい冬山登山に対する期待と不安の攻めぎ合いであり、己自身では如何にもならない。
しかして、ともかく冬季八ヶ岳縦走登山に挑戦するため、内心はやる気持ちを抑えながら、態度では玄人面をして新宿駅へと向かうのである。駅へ来るとまた感じががらりと変る。それもそうだ。同じ目的を持った山男らがわんさといるからだ。面々の顔を覗えば、やぼな自信が湧いてくる。それは経験がそうさせるのかも知れない。
いずれにしても、気持ちがぐっと入り落ち着きを取り戻す。そうなればしめたものだ。今度は不安が影を潜め、楽しみが湧き立つ。心浮き浮きし、まるで恋人に会うような気持ちになってくる。それが今日、入山の日だ。例えれば、弓とりて弦をきりりと引き、直ぐにでも放たれる矢の如くの心境である。
ともかく、そんな心持ちになる新宿駅へとやって来た。我が冬山登山の玄関口である駅に仲間が集まった。多少緊張気味の面持ちのなか、輝いた目の仲間が顔を揃える。
「おお、来たな」
「ああ」
「さあ、出発だ。頑張ろうぜ!」
佐久間、阿部、村越の輝いた瞳が言葉を掛け合った。出発時間にはまだ充分と言っていいほどの頃合いに集まる。いても立ってもいられない心境なのか、ともかく早い時間に集合していた。ところで、乗り込む定番の午後十一時五十五分発長野行き普通列車は、何時も混んでいる。何故だか詮索は二の次にするが、ともかく、そんなこんなで鈍行に乗り冬山登山へと出発するのだ。
ここで我ら山男の、出発前の心境を述べれば次のようになろうか。
「まったく、気分がいいぜ!」
山男たちは、この時期八ヶ岳へ行くには、たいがいこの列車に乗る。勿論、我らもこれに乗る。だから、他の時間帯が混んでいるか分からないし、推測したこともない。従って、俺らにとってこの時刻以外は如何でもよい。と言うより、興味がない。いずれにせよ、午後十一時五十五分発の長野行き各駅停車の普通列車に乗る。所謂鈍行である。勿論この列車、混んでいようがいまいが、一向に構わないし、とってそんなことは、さして問題ではない。要は目的がある。
入山する者は、大体皆、同じ考えを持つ。俺らとてそう思う。所為、勝手にそう決めているだけだが、そうに決まっている。従って、新宿駅が北アルプスや八ヶ岳方面に向う玄関口であるが故、出発間近になると乗り込む山男らで長蛇の列になる。
そんな光景は、登山に興味を持たない人らが見れば、まるで蛇がとぐろを巻き、胡散臭さを醸し出しているように感じるだろう。それは皆、山へ入る者たちが大きなキスリングザックを列に置き、一応にして汚い格好をしているからだ。
しかし、当事者にしてみればそんな心算はない。むしろ入山する時の正装とでも思って決め込んでいる。周りの視線を気にせず、妙にせこせこしていないから、そうに違いない。もし、汚ねえなりで気恥ずかしい気持ちがあれば、隅っこの目立たぬところにいるはずだろうが、その気が毛頭ないから恥も外聞もなく、どこへでも大手を振って闊歩する。
とはいうものの他人様には、そのようには受け取られない。薄汚れた出で立ちで動き回るのはいただけないと言う目で見られるのも然りだ。たしかにその格好でどこにでも座り、時には寝転んだりしているのを見れば、いくら登山用の出で立ちといえど、胡散臭く思うだろう。その辺は山男らも気遣いが必要だ。
しかしそうは言うが、山男たちは勝手なことばかり言う。自分らの都合のいいように解釈し、他人のことなど気にする様子もなく振舞う。それが彼らの常識となっているみたいだ。世間様が受け入れてくれようが、くれまいが、一向に気にする様子がない。曰く、
「まあ、そうは言われるが、俺らは命がけで冬山に入るんだ。そこのところは、たとえ不躾な振る舞いがあっても、大目に見てやって欲しいと思っているんです。おそらく下賤に思っているようですからね」と。
多少なりとも謙遜するが如くのたまう。それでも、自分らが薄汚れた登山姿で胡散臭く見られていても、まるで他人ごとのように振る舞うから始末に終えない。
いずれにしても、これから厳冬期の八ヶ岳連峰に入るために、この出発点である新宿駅で乗り込む列車を待つことから、三人の山男たちのドラマが始まる。それもわざわざ午後十一時五十五分発の鈍行列車の座席取りのために、夕方六時頃から並んで待つのである。
こんなこと、まっこと暇人でなければ出来ない芸当であろうことは、言うに及ばない。
と言うことで、前置きはこれくらいにして、スリリングな厳冬期の眠る山縦走登山へと話を進めてゆきましよう。
俺は優越感という心地よい感触を感じつつ、少々の緊張気味に電車を乗り継ぎ、午後六時ちょい前には新宿駅へとやってきた。同行する仲間の山男たちも、やはり同じ気持ちに違いない。
佐久間は新宿駅の待ち合わせ場所に着くなり、肩からザックを外し、笑みを浮かべ先着の仲間と軽く挨拶をする。
「やあ、久しぶりだったな、元気か?」
「なに言ってやがる。つい最近会ったばかりだろが」
「まあな、挨拶代わりの文切り言葉さ。気にするなよ」
周りを見ながら佐久間がほざいた。
「おいまだ六時前だというのに、もうこんなに集まっているのか。しかし、皆、暇人ばかりだな」
「おいおい、俺らだって同類だぞ。他の奴から見れば、同じように見られているかも知れんぞ」
互いに軽口を叩いた。そして佐久間がすでに薄汚れた手で、登山服の胸ポケットから煙草を取り出し、おもむろにライターで火を点ける。目を細め大きく吸い込んで、ゆっくりとくゆらせ告げる。
「おい、阿部。今日はちょっと冷えるな」
「うん、そうだな。そう言えばもう大寒だもん、冷え込んでいるはずだ」
阿部が返した。佐久間や阿部にしても、表面的には一見、平静さを装っているが、内に冬山に対する意気込みからか、身体は火照るほど燃えていた。
「如何する、飯は?」
阿部が尋ねた。
「ううん、そうだな。なにか食っておかねえとな」
「村越、お前は如何だ?」
「おお、俺だって腹ぺこだ!」
「それじゃ、飯食いに行くか?」
佐久間が二人を促した。
「うん、食いに行こう!」
揃って声を上げた。すると佐久間が提案する。
「そうだな、冷えているから温かいラーメンでも食うか」
「おお、いいね。熱っいのを腹に入れて温もりたいよ。それに餃子も食いてえな。ニンニクの入ったやつ。これを食っておけば、明日からの山行もスタミナ切れしねえんじゃねえか」
阿部が食いた気にほざいた。すると、村越がつられるように同調する。
「そうだ、スタミナだ。スタミナつけなくっちゃ。山に入ったら寒いし、多分雪も多いぜ。ワッパ付けて歩かなきゃならねえ。稜線じゃ岩道も凍っているだろうから、アイゼンの世話にもなるぞ。夏なんかに比べりゃ、やっぱりスタミナ付けておかんと。俺、二人前食うからな。にんにく臭くなっても勘弁してくれよな」
「なあに、大丈夫さ。俺らだってラーメンににんにく入れるし、餃子も食うからよ」阿部が返す。。
「それじゃ遠慮することないな。俺はラーメンの大盛りと餃子。これで三人ともにんにく漬けになるんで、互いの匂いなんぞ気にならねえや」
佐久間が顔を見合わせ、安心したように告げるが、阿部が少々心配顔で呟く。
「そうだが、俺らは良いよ。けどこれから茅野まで鈍行で行くんだ。多分混んでいると思う。三人共にんにく臭かったら、周りの奴らに迷惑をかけるんじゃねえか・・・」
「おお、そうだ。そのことを忘れていた。それは社会ルール上、由々しき問題だな。如何にすべきか」
わざとらしい驚き顔で応じた。すると、横から佐久間が割り込む。
「なに言ってんだ、村越!そんなこと言って、柄にもねえこと言うな。何時もそんなこと考えてもいねえくせに、他人の迷惑を心配するたまか!」
「いいや、佐久間。阿部の言うことは社会通念から言えば尤もなことだ。共存社会では、互いに気を配り、敬ってこそ円滑な営みが出来るというもんだ。そのことから言えば、自分勝手な行動は慎まなければならない」
「言ったな、村越。それだったら、にんにく抜いたラーメンだけにしておけ。餃子も食ってはいかんぞだ!」
窘めると、阿部が相槌を打つ。
「そうだ、それがいい。俺らはお前の言う、難しい話は分からねえ。だから、にんにくをたっぷり入れたラーメと餃子を食うからよ」
「俺だって、スタミナ付けるためにそうするぜ」
佐久間は吸いかけの煙草を銜え直し、吸い込んだあと、勢いよく吐いた。すると言い訳する。
「あんや、待ってくれ。俺だってにんにく入りを食いたいよ。俺みたいな紳士でも明日からのことを考えると、今夜の場合は例外と言うこともある。日頃は実直な人間でも、今回だけは特例となる。そういうこともあるんだ!」
「なにを屁理屈こねている。お前の特例は何時もじゃねえか。社会倫理とか、社会通念を、お前自体言うことがおかしいんじゃねえか。この阿呆!」
佐久間が煙草を揉み消しながら嘯いた。
「本当だ、村越の共存社会というのは、腹の中じゃお前を中心に廻っているようなもんだからな」
阿部が追い討ちをかけると、村越が頭を掻きすまなそうに詫びる。
「面目ない。今日のところは、例外ということで勘弁してくれ!」
二人が呆れ顔で頷いた。そんな言葉の掛け合いも山男らにとっては、高ぶる気持ちの上での遊びとなる。佐久間らは笑みを浮かべたところで阿部が急かす。
「早く食いに行うぜ!」
「ザック、背負っていくのか?」
村越が確認すると、すかさず告げる。
「ああ、ここに置いていけばいいよ。如何せ汚れたザックだ。誰も持って行きやせん。他の奴らと同様にここに並べておけばいいんだ。大体午後十一時五十五分の鈍行に乗る奴らは、皆ここに置いたまま、時間潰しに飯食いに行くか酒飲みに行っているんだからな」
「そうだよな。何時もそうしているのを、ちょいと忘れていたぜ!」
背負いかけたザックを元の場所に置き、気負い気味に告げた。
「ええと、今午後七時過ぎだから、まだまだ時間はあるな。まあ、大体出発の一時間前に戻ってくればいい。そうだな、十一時前ぐらいかな。そう、この列が動くまでに間に合えばいいだろう。おそらく三十分前になると、構内アナウンスで知らせて、ホームの方に移動するからよ。それに間に合わせればいいんだ」阿部が告げる。
「そうだよな、そうだった」
村越が納得するような崩し顔になり、直ぐに目を輝かせ促す。
「それじゃ、食いに行こうぜ。たっぷり食ってスタミナつけなきゃならねえからな。それによ、景気づけにビールでも飲んで気合を入れるか!」
すると佐久間が揶揄する。
「村越、お前は本当にげんきんな奴だな!」
すると振り返り、気取り顔で応じる。
「おっと、それなら。げんきんなとは言ってもらいたくないね。他人様が聞いたら、紳士たるイメージが崩れるからよ。まあ、しいて言えば、スマートというか、合理主義とか言ってもらいたいくらいだ」
「馬鹿野郎、なにをほざく。まったく自分勝手で、呆れるぜ!」
阿部が口を挟んだ。
「まあ、いいか。こいつになにを言っても糠に釘だ。諭してもしょうがねえ。それじゃ行くか」
村越の言い分に、諦め顔で佐久間が聞き流した。そして、三人とも登山靴の紐を緩め、ぞろぞろと歩き出していた。漫ろ歩きながら能書きを垂れる。
「冬山に入るのは、俺らだけではないぞ。冬場でもこの時期が一番雪が安定しているから、こぞって入山する。誰しも金のねえ奴らは、考えることが一緒だよな」
やはり午後十一時五十五分の長野行き鈍行に乗る者が多い。それ故、新宿駅では西口コンコースに待たせる場所を作る。山行く仲間はこの場所へ集まり、その列が結構長蛇になる。従って、山男らは直接ホームに入れない。むさ苦しい奴らが、大きなザックを長時間ホームに置き居座られては、他の客に迷惑千万ということだ。そういう思惑もあってか、そのように設える。
それも道理と思う。山男たちは平気でいても周りの者は迷惑する。かと言って、山男たちが気を使うかといえば、そんなことは決してない。周りの者に迷惑をかけていると言う気持ちなど、毛頭持ち合わせていないからだ。道理と佐久間がのたまう。
「俺らもそうだが、夜行で行くため席を取りたいと願うのは尤もだ」
そのために、誰もが我先に新宿駅へと来る。午後十一時五十五分の列車に乗るために、早い奴らは五時頃から集まり出す。そう言う我らも六時過ぎには来ているのだが、一番にはなれない。すでに列が出来て、皆、ザックを置いて何処かへと散らばっているのだ。午後八時を廻わる頃には、山行のために集まった人で長い列となっている。
駅側にしても、そんな多くの山男らがホームを占領し、大きなザックを置かれては、苦情が多発しかねない。だから一般客に迷惑が及ばぬよう、別の場所に集合させるという寸法だ。
それこそ指定席を取ればコンコースに並び席取りする必要がないから話は別だ。しかし、山男らが指定席など取るわけがない。何故なら、共通して金がないからだ。それは、我らとて同様である。
早く行く理由は分かったが、では早く駅へ行き、如何するのかと問われれば、常識的には時間を持て余すことになろう。しからば、たとえ席取りという目的で早く行ったとしても、出発までの間を如何に過ごすのかということになる。いくら山行だからとて、退屈で時間を潰すのが容易でないと考えるのが普通であろう。
「俺もそう思うし、誰に問うても、そういう答えが返ってくる」
佐久間が至極当然と頷く。
それを疑う余地はない。
我らも今回の山行で冬季の八ヶ岳入山は初めてではない。二回目である。そして今回も前回と同様、午後六時には新宿駅へと来ていた。阿部、村越、そして俺の三人だ。
よくもそんなことしていると訝るだろうが、事実、前と同じことをしている。それこそ、いざ現実になると、紛れもなくそのように行動しているのだ。
それでは、出発までの約六時間が退屈ではないかというと、決してそうではない。苦にならないし、改めようとも思わない。いや、むしろ、今回に限らず、これからも同様であろうと思う。
従って、そのこと自体深く考えることがないのが現実である。冬季八ヶ岳登山は、基本的にそうするに決めているからだ。だから、なんの疑問も湧かないし、不平不満も生じない。皆、納得しているからだ。
まあ、不思議なものである。それは、俺だけの思いじゃない。阿部や村越とて同じだ。ただ、次回以降同メンバーで行くとは限らぬが、たとえ他のメンバーとでも変わらんだろう。
それでは、何故苦にならないのか紐解くため、これから彼らの趣に耳を傾けてみましょうか。
阿部が真面目顔で曰く。
「そりゃ、そうだろう。俺なんか、こんなに早く新宿駅に来たって、まったく苦にならんぜ。だって、こうして早く来れば、寝て行けるだろうからな。そうすりゃ、体力が温存できるだろう。立っていちゃ寝られねえ。勿論、こうして早く着ていれば、車内で寝る場所が取れると確信しているがな。それによ、俺らにはたっぷり時間がある。それなら早く来て、いち早く山行ムードに浸っていたいからよ」
得意気に顔を緩ます。
「これがまた、たまんねえんだ。この新宿駅で待つ雰囲気がよ。まあ、仮に座席が確保出来なくても、通路に座ることは最低限出来るんじゃねえか。そうすれば、座席の下だって潜り込めるぜ」
そこまで講釈すると、佐久間が割り込む。
「そうだよ。このくらいの時間に来て先頭集団に並べれば、そこら辺のことが優位に立てるし、過去の経験が役立つ。それに手馴れたもんだ。早く来れば、それだけ寝場所が確保出来る確率が高いんだ」
すると、すかさず村越が口を挟む。
「まったくだ。ザックを持ってホームへ移動する時には、すでに心構えを整え移動するんだ。ただ馬鹿っ面して列について歩けばいいと言うもんじゃない。俺らは幾度も経験しているから、こんなこと手馴れたもんだぜ」
「その通りだ。列車に入り、如何陣取るか。座席が確保された時は、いち早くザックを網棚に載せれば完了だ。それまでやれば、あとはゆっくり座って眠りに就けばいい」
阿部が添えた。
「だがよ。万が一、三人の座席が確保できず、取れない時は如何するか。ここのところが重要なんだな。だって、取れねえ奴が茅野まで立ってられねえからよ。そこで経験と言うか、要領なんだよな。ぐずぐずしていたら駄目だ。いち早くその時如何するかだな」
これまた同様に村越が胸を張り、得意気に加える。
「そん時にはだな。すし詰になる前に、座っている奴らを気にせず座席の間、もしくは通路に寝場所を一人分確保する。二人分座席を確保していれば、それで終了。だが、残りの一人が座れない場合、如何するかと言うと、深夜の鈍行列車なんて設備が貧弱だ。座席の下が空洞になっている。そうさ、すかさずそこに潜り込む。そうすりゃ、三人分の寝場所が確保出来るというもんだ。如何だ、いいアイディアだろう。こうすれば寝られるじゃねえか。まあ、こんな具合で、三人ともゆっくり茅野まで寝て行けるという寸法さ」
「そうだよな。まったく、その通り。要領よくやれば普通料金で寝台列車並みの待遇で山行が出来ることになる」
阿部が頷きつつ応じる。
「でもよ、快適とまではいかんな。だって座席の下で寝てみろ。朝起きた時には鼻の穴が真っ黒だ。それに車輪の振動がすげえんだよ。まったく半端じゃねえ。本当に揺り籠どころじゃないぜ」
「村越、そうは言うけど、立ってなんかいられねえ。それを思えば、寝られるだけ幸せと言うもんだ」
「しかしよ。こんな分捕り合戦に不慣れな奴や、要領の悪い奴らを見てみろ、座席の取っ手に掴まり立っている者が沢山いるからよ。それに比べりゃ、よしとせにゃならん」
佐久間が己らの行動を評価した。
「まったくだ。俺もそう思うよ。これも経験を重ねた結果だものな。始めの頃は立って行ったこともあったから。それを思えば、最近は随分要領よくなったな。他の山男らに遠慮することなく、要領よく寝床を確保しているからな」
阿部が回想した。すると、意地悪そうに嘯く。
「そうだよな。だけどそれが積み重なって、今の狡賢く行動するお前がいるんじゃねえか。他人に嫌われることを、阿部は平気でやってのけるからな」
「なにを言う、この野郎。それを言うなら、俺じゃなく、村越自身だろう。お前なんぞ、それでなくても他人のことなんかお構いなしに、自分本位に行動しているからな」
興奮気味に、無責任さを擦り付け合った。
すると、佐久間が仲立ちする。
「まあ、まあ、二人とも、お互い様だなんだから、そうカリカリするな。八ヶ岳へ入る時は、まあ、こんなやり方でやらなきゃしょうがないぜ。如何せ俺らがそうしなけりゃ、他の奴らがするんだからよ。それにあぶれた奴は、仕方なく立って寝てもらうんだ。これも、この世界じゃ道理というもんだぜ」
「いやあ、すげえこと言うな、佐久間は!」
「まったくだ。俺らに比べたら、血も涙もねえ冷血人間みたいだ」
「なにを言う、そんなことあるか。お前だって陣取って、鼾かいて寝ているじゃねえか。特に村越、お前の鼾には閉口するぞ」
「それに、臭え屁もするし迷惑千万だ!」
「いや、知らねえな。俺はおとなしく座席の下で眠ている心算だけどな。それに、屁と言うものはところ嫌わずで、出来物と同じなんだ。しゃあねえだろう、目をつぶってくれ。寝ている俺には、まったく分からんことでもあるしよ」
「まったくお前は、これだからな。人様に対する気配りがないといわれんだ。ずうずうしいにも程がある。まったくもってよ」
呆れ顔で嘯いた。すると佐久間が返す。
「阿部、お前だって寝ている時の歯ぎしりがすごいぞ。あの不気味な音、如何すりゃ出るのか不思議なくらいだ」
「いいや、気がつかねえな。もしそうだとすれば、それは悪かった」
詫びを入れ、矛先を変える。
「それじゃ、佐々間は如何なんだ。紳士面しているけどよ。あっ、そうだった。お前だって、鼾はかくし屁はこくし、俺らと同じじゃねえか、変わりはしないぜ」
「あっ、そうか?俺は静かに寝ている、ずっと思っていたがよ。そうだったかな」
平然と澄ますと、二人して、その惚け顔を見て虚仮下す。
「まったく、これだからな。図太い神経しているよ」
三人共々顔を見合わせて、一斉に高笑いとなった。
一呼吸置いて、佐久間が改める。
「三人とも、どっちもどっちだぜ。皆、図太い神経の持ち主だ。まあ、これじゃなければ冬の八ヶには入れんわな。それによ。俺らはいいけど、それで周りの奴やらがどれだけ迷惑しているか、考えたこともなかったな。これから少しは気を使うとするか。それじゃなければ同じ運賃で申しわけねえしよ。でも、翌日からの入山のことを考えれば、出来るだけ寝ておかねえときついし、そこのところは割り切らせてもらうことするか」
都合のいいように締めくくった。
新宿駅の東口を出て、歌舞伎町の繁華街のラーメン店「喜らく」の二階に陣取って、ビールを飲み飯を食いながら時間の経つのを忘れ、楽しそうに語り合っていた。佐久間が続ける。
「あっ、そうだ。もう一つ話しておくことがあった。ついと、忘れるところだったが、俺らが乗る鈍行の出発時間まで随分あるが、そんなに早く新宿駅に来て、退屈しないのかということだったけっな。
まあ、さっき言ったけど、そんなこと考えたことないからな。如何してそうなのかって。そりゃ、決まっているだろう。理由は簡単なことさ。列車内で寝場所を確保する目的と、それに山行は家を出た時から始まっているということだ」
更に続けて、
「従って、六時頃駅に着いたって、すでに気持ちは山行の行程に入っていると言うことになる。それが証拠に、毎回同じことをやっていても、ちっとも飽きないし、退屈だなんて思ったことはない。大体そんなこと考えねえ。現に今日だって、こうやって出発までの待ち時間を過ごしているが、楽しいというか、わくわくする気持ちで、山の話しに興が入り、出発までこうしていられる気がしているよ。
実際そうだよな。これこそ、すでに八ヶ岳山行のプログラムへに入っているということなんだ。だから退屈だとか、つまらんなどという思いは、更々ならねえんだよ。そうさ、現に俺ら三人とも同じ心持ちでいるからよ。
こんな説明で理解できたかな。ううん、ちょっと分からねえか。そうか、それならあまり深く考えなくていい。これは山好きの俺らなら理屈抜きで感じていることだから、それでいいじゃないか?
まあ、理屈捏ねていてもしゃあねえや。楽しんだからいいやな。それに、退屈しないから、放っておいてくれねえか。俺らみたいな山男にゃ、これくらいの説明しか出来ねえからよ。なあ、阿部」
「おお、その通りだ。とにかく理屈じゃ上手く言えねえ。だって早い話しが、山行きの計画段階からすでに始まっているんだ。そのことから思えば、当日新宿駅に早くから来ても山行の一ページであることに変わりはない。なあ、村越。そうだろ?」
「ああ、阿部の言う通りだぜ。山男にとり新宿駅に来たと言うことは、すでに戦闘モードに突入していると言うことだ。並みの山男にゃ、こんな感じで表現して正解と言っていい。だが、俺みたいな山のエキスパートにゃ、理屈なんていらねえんだ。まあ、素人さんにはこの良さが分からねえだろうがな」
「それによ。とにかく、今のやり方を変える心算もないし、他にいい方法がないかと詮索する心算もねえんだ。まあ、そんなところで宜しいか?」
佐久間が己も含め、二人の言い分を総括するように結論づけた。
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