第3話

 それから何度も僕らは会った。僕は幸せだった。

 夏が終わって、秋が来て、冬が過ぎて、春になった。もうすぐ出会ってから一年になる。

「これは、何の音?」

「どの音?」

「ゴーっていってる」

「血が流れる音」

「どくんどくんっていうんでしょ?」

 彼女は自分の心臓に手を当ててこっちを見上げる。彼女はこういうところが無防備だ。

 僕は抱きしめたいのを我慢して、何もないふりをして笑う。

「それは心臓が脈打つ音。今のは心臓から送り出された血が血管をとおっていく音」

「ふうん。人っていろんな音が聞こえるのね」

「みんなじゃないけど」

 瞳だけでどういうこと?と彼女は問いかけてくる。音のない世界にいたせいか彼女の表情はとても読みやすい。

「僕には静寂がないっていったよね。ひっきりなしに音が聞こえるんだ。遠くでなく犬のこえは日常だし、たとえば今空の上で飛んでいる飛行機の音とか、普通の人は自然に取捨選択できる音が僕の耳にはすべて聞こえてくる」

「寝るときだけなのね」

「寝るときには心臓の音がうるさいんだ。ときどき本気で自分の心臓を止めたくなるくらいにね」

 それでも彼女に会える日を思えば、そんな毎日にも耐えられるようになった。

「じゃあずっと手をつないでよっか。そうすればあなたは静かに寝られるし、私は音のある世界を体験できるもの」

 彼女にはなんの思惑もないのはわかっている。だけど馬鹿な僕は彼女と一緒にベッドに横になっているのを思い浮かべてしまった。静かで、やわらかくて、優しくて、温かい。

 体が熱い。

「ね?」

 彼女は僕を覗き込んできた。だから僕の口は脳みそを通り越して言ってしまった。

「好きだ」

「え?」

 しまったと思ったけれどもう遅かった。彼女は僕の手を離した。

 ごーっと一気に音が入ってくる。

 自分一人なら絶対来ない場所のいくつもの音に思わずしゃがみこんでしまった。

「あ、ごめ」

 彼女はすまなさそうな顔をした。僕に手を伸ばしかけて、その手を引っ込めた。そうか、そういうことか。

 僕は音の渦の中、なんとか顔を上げた。

「大丈夫」

 本当は大丈夫なんかじゃなかった。吐きたいほどに気持ち悪かったけれど、友人だと思っていた男に突然告白されてしまった彼女にこれ以上負担をかけたくなかった。

 精一杯いつも通りに笑えば、彼女は「あの、じゃ、帰る」と帰っていった。

 どうやって家に帰ったのかは覚えていない。

 それでも死に物狂いで家に戻り、完全防音の部屋の鍵を閉め、ベッドの上に倒れこんでからも、僕は今日の彼女の言葉を反芻していた。

 きっともう会ってはくれないだろう。

 あまりに暗い僕に、親が「何かあったのか」と聞いてきた。失恋したのだと答えれば、親はそうか、といった後、「大丈夫だよ」といった。

 持っている親の「大丈夫」は僕を静かに絶望させた。

 僕はもうだれかを抱きしめることはないだろう。

 静寂の中での安らぎも、暗闇の中の静けさも、朝焼けの輝きも、もう何も感じないだろう。

 僕は一年ぶりにノイズキャンセリングのスイッチを入れた。

 人工的な静けさに僕は目を閉じた。

 朝なんて来なければいいのに、と思った。

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欠けている僕らの恋の話 雪野千夏 @hirakazu

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