⑷闇に蠢くもの
訳の解らない葵の忠告が耳の奥に残っている。
霖雨はバイクを駅前に滑り込ませた。
到着と同時に和輝が飛び降りて、背中を向けて礼を言った。
バイト先である喫茶店へ一直線の背中を見詰め、霖雨は溜息を一つ零して後を追った。葵の忠告が蘇る。こういう時の葵の忠告は外れたことが無い。
如何やら出勤時刻ぎりぎりだったらしい。
ヘルメットで潰れたぺっちゃんこの頭で、着替えた和輝がフロアに現れた。
店内は相変わらず賑わっている。和輝が弾丸のように飛び込んだ様を見ていたらしい客から、からかいの言葉が飛び交う。
苦笑いを浮かべ、和輝はエプロンの皺を伸ばしていた。カウンターには常連らしい老年の男が陣取り、店主の淹れた拘りのコーヒーを啜っている。
和輝が親しげに、親父さんと呼ぶので、この男が噂に聞いていた世界的貿易企業の社長なのだと悟る。
なるほど、一見すると何処にでもいそうな男だ。周囲の客も、まさか大企業の社長がこんなところにいるとは夢にも思わないだろう。
店主に促されてカウンター席に座る。頼んでもいないのに、和輝がアイスコーヒーを運んで来た。
送ってくれたお礼、と言って幾つかのクッキーを皿に乗せて持って来てくれた。ココア生地にナッツがごろごろと入っている。喉を潤してから口に含むと、ココアの柔らかな風味とナッツの香ばしさが広がった。
店内に変わりは無い。和輝は常連客と談笑しながらも真面目に働いている。店長は相変わらずの仏頂面でコーヒーを淹れ、何て事無い日常が此処にある。
葵は、何を警戒していたのだろう。
和輝は少し目を離すととんでもないことを仕出かすので、霖雨はカウンターに就活資料を広げた。
就職活動は順調とは言えなかった。何しろ、自分が何をしたいのかが全く解らないのだ。適当な安全企業を狙おうと思っていたけれど、すぐ側に自分の道を信じて進んでいる和輝のような人間がいると、まるで自分が臆病者みたいに感じてしまう。別に、和輝のようになりたい訳では無いけれど。
フロアを縦横無尽に動き回っていた和輝がカウンターへ引っ込む。ボウルやら撹拌器やらを取り出したので、調理に入るらしい。
最近、和輝はタルト作りに凝っている。
ぼんやりとその様を見ていると、和輝が手元の林檎に目を落としながら言った。
「就活はどんな感じ?」
林檎の皮はするすると剥かれ、足元に帯状に広がる。等間隔のそれはまるで、リボンのようだ。器用なものだ。
「まだ迷ってる」
素直に答えると、皮を剥き終えた和輝が手を伸ばした。小さな掌は未処理の林檎を拾い、更に皮剥きを続ける。
「霖雨はさ、何で留学したの?」
「勉強したい分野があったから」
「それは、如何して?」
和輝の声は柔らく、労わるような色を帯びていた。
霖雨は考える。量子力学の世界に傾倒したのは、自分が平行世界にいるのでは無いかと不安に駆られたからだ。結局、それも自分の弱さだ。
救われたかったのかも知れない。
此処に自分が確かに存在すると証明したかった。
「こんなことを言うと嫌な気分になるかも知れないけど」
丸裸になった林檎を置き、和輝は顔を上げた。
「霖雨は辛い思いをして来た人だから、同じ立場の人の気持ちが解る。助けを求める人の声に耳を傾けることが出来る。そういう人を助けている間に、きっと霖雨自身が救われるんじゃないかな」
和輝が余りに優しく微笑むので、霖雨は一瞬、その通りなのかも知れないと思ってしまう。けれど、直ぐに正気に戻った。
人は受けた苦痛を忘れない。機会があれば、仕返しをしようと目論む。霖雨も同じ人間だ。その機会さえあれば、遣り返したかも知れない。
霖雨には、ただその機会が無かっただけだ。
劣等感を発条に出来る人間は少数派だ。そして、和輝はそういった特殊な例なのだろう。
助けて欲しいと願った時に、助けてくれた誰かがいたのだ。体験として知っているから、人に優しく出来る。霖雨には、いなかった。きっと、葵にもいなかった。
俯けば現実が迫っている。蛍光灯を遮って書類には薄い影が落ちていた。それが己の心を表しているようで、酷く虚しい。
俺とお前は違うよ。
その言葉を、ひっそりと吞み込む。
林檎を全て剥き終えた和輝は、それをスライスする。切り離された種子は流し台の三角コーナーへ落とされた。
そのまま鍋を取り出した和輝がコンロに向かう。薄く小さな背中を見ていると、バックヤードの扉が開いた。
大欠伸を隠しもせず、皺だらけのシャツを纏った翡翠が現れた。
翡翠は生理的な涙で緑柱玉の瞳を潤ませ、真っ直ぐにコーヒーメーカーに向かった。通り過ぎ様に和輝の肩を軽く叩いて行った。間髪入れず、和輝が蹴り付ける。客席からは見えないじゃれ合いみたいな攻防は、親しい間柄なのだと傍目にも解った。
真っ白なマグカップにコーヒーを注ぎ、翡翠は踵を返そうとした。自宅のような勝手さに呆れて見ていると、翡翠と目が合った。
「いらっしゃいませ」
冗談ぽく、翡翠が言った。霖雨は小さく会釈する。
翡翠はカウンターに肘を突き、にっこりと微笑んだ。
「今日はお客さんなんだな」
「まあね」
「うちのコーヒー美味いだろ。和輝の作るデザートが看板メニューになってから、客足は伸びる一方だ。忙しくて、猫の手も借りたいくらいだよ」
そう言いながら、翡翠は勤務時間ではないからか退屈そうに見えた。
店長は手際が良く、和輝も要領が良い。人手不足とは思えない。
翡翠は、霖雨が手元に広げていた書類を見て問い掛けた。
「就活?」
「そう。君も?」
「翡翠で良いよ」
そう言って、翡翠は笑う。
「俺は違うよ」
「そう言えば、大学生なんだよね。何処の大学で、何年生なの?」
世間話の一環で問い掛けると、翡翠は口元に指を立てた。
内緒、と密やかに翡翠は言った。それは冗談のようで、見てはならない闇の片鱗のようでもあった。緊張感が満ちて、霖雨は背中に冷たいものが伝うのが解った。
「霖雨君は、全ての人と解り合えると思う?」
「は?」
「それとも、全ての人と解り合いたいと思う?」
少し考えて、霖雨は答えた。
「思わないよ」
翡翠は意味深に頷いた。
「じゃあ、蜂谷和輝と解り合えると思う?」
固有名称が出て来たので、霖雨は面食らった。件の和輝は、背中を向けて林檎を煮ているらしかった。
霖雨は答えた。
「思わないよ」
「神木葵は?」
「同じだよ」
「じゃあ、何で一緒にいるの?」
「解り合えなくたって、一緒にいたいと思うよ。むしろ、解り合えないから、面白いんじゃないか」
霖雨が言うと、翡翠は驚いたような顔をした。
その時、和輝がやって来た。鍋はコンロに掛けられてコトコトと音を立てている。翡翠を見て、不満そうに口を尖らせた。
「さっさと引っ込めよ。お客さんが見たら、不審に思うだろうが」
はいはい、と適当な返事をして翡翠は歩き出した。
バックヤードに戻る刹那、翡翠は振り向いた。
「またね」
そう言って、翡翠は消えて行った。
16.Amazing grace
⑶闇に蠢くもの
結局、コーヒーのお代わりを五度していた。
一向に進まない書類を眺め、霖雨は何度目とも解らない溜息を吐き出した。
その内に勤務を終えた和輝が遣って来て、隣に座った。進んでいない履歴書を見て苦笑いを零すので、霖雨は鏡のようにそれを返した。
紙の束をファイルにしまい込み、会計を済ませる。長時間居座っていたにも関わらず嫌な顔一つしなかった手練れの店主は、相変わらずの仏頂面でコーヒー一杯分のだけの料金を受け取った。
和輝が勤務を終えた代わりに、翡翠が出勤していた。夜型人間らしい彼はしゃっきりとして、長閑な店内で明るく振舞っている。
和輝を連れて喫茶店を後にする。
和輝の手には白い箱が下げられていたので、恐らく葵への土産の品なのだろう。
駅前の駐輪場からバイクを引っ張り出し、霖雨はヘルメットを被った。背中ではすっかり慣れた調子で和輝が自分の物のようにヘルメットを被っている。
真夏だと言うのに、和輝は長袖のシャツを着ていた。彼の手首には傷がある。それを隠しているのだと気付いたのは最近になってからだった。霖雨の腕も傷だらけなので、その気持ちは良く解る。ただ、幾らでも言い訳の立ちそうな霖雨に比べて、和輝の傷は明らかにそれと解る部位に存在していた。
話題にする必要も無いので、霖雨は気付かなかった振りをしてバイクに跨った。
後部に乗った和輝をサイドミラーで確認した時、霖雨はぎくりと動きを止めた。
白く細い首に、赤い指の跡が残っている。まるで、後方から首を絞められたかのような跡だった。
和輝が不審そうな声を掛けたので、霖雨は黙ってバイクを発車した。
心臓が、嫌な音を立てている。
葵の忠告が脳裏を過って、如何にも落ち着かない。内心の動揺を悟られないように、霖雨は安全運転を心掛けて帰路を辿った。
帰宅すると、葵はリビングで読書していた。
この家の人間は大抵読書をしている。真面目なのか、閉鎖的なのか判断の難しいところだ。
手洗いと嗽を済ませた和輝が直様キッチンに入る。夕飯の準備を始めたらしい。仕事が終わったら真っ直ぐに帰宅して家事を始めるのだから、所帯染みていると思う。
霖雨は洗面台に向かった。
鏡に映る自分の顔が疲れているような気がして、それをぼうっと見ていた。ふっと視線をずらすと、後方に葵が立っていた。
幽霊のようで一瞬驚くが、存在感の希薄な彼にも好い加減慣れた。霖雨は無視して蛇口を捻った。
「あいつの首」
抑揚の無い声で葵が言った。
やはり、気付いたか。霖雨は観念して答えた。
「帰りに気付いた。朝は無かったように思うんだけど」
「無かったよ」
葵は断言した。
和輝は何も言っていなかった。鏡を見ない性質だから、気付いていないのかも知れない。解っているのなら、きっと隠している。
ポンプ式の手洗い洗剤は、押すだけで泡になる。葵が手洗いを面倒がるので、和輝が買って来たのだ。
隣には消毒用のアルコールが置かれていた。此方は、和輝が胃腸炎になった時に葵が用意した。
霖雨は丁寧に手を洗う。
目に見えない病原菌が立ち昇って来ているようで、何となく恐ろしかった。
葵はそれ以上は何も言わず、洗面所を出て行った。肩透かしを食らったような心地で、霖雨はさっさと嗽を済ませた。
リビングにはカレーの匂いが漂っている。
今晩はカレーかとキッチンを覗くと、カウンターの向こうで和輝が鶏肉を焼いていた。単にカレー風味らしかった。
俎板の上には銀色のボウルが置かれ、中には胡瓜とキャベツ、わかめの酢漬けが入っている。食欲唆られるが、量がおかしい。
それでも、和輝が残飯を殆ど処理してしまうので、霖雨が何かを言う必要は無い。
手伝いを申し出ようとした手前、換気扇の下にある喫煙所に葵が陣取ったので、キッチンは満員だった。
わざとだろうか。霖雨は渋々ソファへ移動した。
キッチンから、葵の声がした。
「何があった」
それは、フライパンを握る和輝に向けられている。
鶏肉を焼いていた和輝は、目も向けずに答えた。
「何が?」
意味が解らないと首を傾げている。其処にあった指の跡は薄っすらと残っているが、間も無く消えてしまうだろう。
気付いていないのか、否か。
彼の嘘を見抜くことは難しい。
霖雨ならば、この後の言葉は紡げなかっただろう。聞き耳を立てながら、葵の出方を伺った。
しかし、葵もまた、それ以上は何も言わなかった。
和輝は着々と夕飯の支度を終え、栄養のバランスがとれた和食を並べ始めた。
葵が唐突に言った。
「風呂掃除してないぞ」
「えっ」
すると、和輝はバタバタとシャワールームへ駆け出した。
短い悲鳴が上がって、顔だけ現した和輝が文句を言う。葵は柳に風と適当に受け流していた。それからすぐに水音が聞こえたので、掃除を始めたのだと解った。
家にいたのなら、掃除くらいして置けば良いのに、と霖雨は思った。完成している夕飯の食欲唆る匂いが漂って、目の前でお預け状態は辛い。
霖雨がじっと夕飯を眺めていると、葵が囁くような小さな声で言った。
「あの馬鹿が旅客機の爆破テロに巻き込まれた時」
声を潜めて葵は言う。
「奇妙だと思わなかったか」
「何が」
「あの翡翠って男のこと」
奇妙と言われても、具体的に例を挙げてくれないと霖雨には解らない。
それを察したのか、葵が言った。
「如何してあの男が生きているんだ?」
「助けたのは、お前だろ」
「そういうことじゃない。拉致した組織は旅客機を爆破するような過激派だ。邪魔になる人質は、さっさと殺すだろう」
「和輝を呼び出す為じゃないか?」
「生かしておく必要があったか?」
言われてみると、違和感があるような気もした。平行世界にいた時には、余裕が無くて頭が回らなかった。
和輝を救う為に翡翠を死なせても、その死は回避出来なかったのだ。和輝を守る為には、翡翠が生きていなければならなかった。でも、本当は、逆だったのだろうか。
予定調和のように死んだ和輝。まるで、神の見えざる手が運命の濁流へと導いているようだった。
だが、本当にそうなのだろうか。
誰かの掌の上で、踊らされていたのではないか。
緑柱玉の瞳が背後から射抜いたような気がして、霖雨は勢いよく振り返った。当然、其処には誰もいない。死んだ目をした葵が胡乱に此方を眺めていた。
張り詰めた緊張が切れる刹那、シャワールームから和輝が飛び出して来た。霖雨は肩を跳ねさせた。
和輝は、ほんのりと頬を紅潮させ、髪から水滴を落として現れた。
掃除のついでに、シャワーを浴びて来たらしい。相変わらずの烏の行水だ。
「さあ、夕飯にしよう」
碌に髪も乾かさず、和輝がいそいそと着席する。葵は素知らぬ顔をして、手を合わせていた。
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