⑸恩送り

 水盤から跳ねた水が頬に散った。

 和輝は蛇口を閉め、頬を拭う。


 夕食の時、霖雨が挙動不審だった。まるで、自分に何か隠し事をしているようだった。

 如何したと問えば、何でも無いと返って来る。暴くまでも無く嘘だと解った。葵は普段の調子と変わらなかったので、自分にだけ隠し事をしているのだと思った。


 人を出し抜こうだなんて、夢にも思わない優しい人間だ。霖雨が隠し事をしているのなら、それはきっと、自分の為だ。


 換気扇の下には葵がしゃがみ込んでいる。その指には何本目とも解らない煙草が挟まれていた。


 今朝の続きを話さなければならない。

 皿洗いを済ませ、和輝はタオルで手を拭った。

 葵は一向に話を切り出す様子が無い。もしかしたら、今朝の話はもう終わっているのだろうか。ならば、今更掘り下げる必要も無い。

 ただ、霖雨に気を遣わせたままでいると心苦しいので、早めに切り上げて置きたい。




「葵」




 呼び掛けると、葵が顔を上げた。

 如何した、と言わんばかりの顔をしていたので、和輝から切り出した。




「今朝の話なんだけど、翡翠と何かあった?」

「何の接点も無いぞ」

「じゃあ、如何して翡翠を警戒するんだ?」




 翡翠は悪い人間ではないと思う。だが、現時点で罪を犯していないというだけで、その予兆があるのかも知れない。

 犯罪予備軍と呼ばれる人々は悪人なのだろうか。では、悪と称するその定義とは何だろう。


 頭がこんがらがって来たので、和輝は思考を放棄した。葵はぼんやりと紫煙を燻らせている。


 煙草の灰を落とし、葵が言った。




「お前は善人と悪人をどのように定義するんだ?」




 此方の思考を読まれているようで、居心地が悪くなる。和輝は答えた。




「解らない」

「曖昧なままに生きているから、トラブルに巻き込まれるんだ。身の丈に合わない事柄には介入するべきじゃない。死にたくないのなら」

「遣ってみなければ、出来るか如何かなんて解らない。登ってみなければ、山の高さは解らないだろう」

「先人の功績を活かせよ。山なんて登らなくても、高さや景色を知る方法は幾らでもある。自分の達成感を優先するのなら、それは自己満足だ。命を懸けるなら、お前を生かそうとした人間の願いを踏み躙ることになるぞ」




 和輝は唸った。

 葵は捲し立てるような早口だ。理解までに時間差が生じる。其処から反論を築くとなると、会話のテンポが乱れてしまう。




「でも、切り捨てることは出来ない」

「何故だ」

「俺が俺である為に、だ」




 これが自己満足であることなんて、始めから解っている。


 和輝が言うと、葵は灰皿へ煙草を押し付けた。冬眠明けの熊のように、ゆっくりと立ち上がる。

 踏み出した一歩がコマ送りに見えた。和輝は思考するより早く、右腕を持ち上げて防御姿勢を取っていた。


 葵の足が振り上げられる。次の瞬間、鈍器で殴られたような衝撃が右腕を襲った。


 咄嗟のことに堪え切れず、和輝は後方に体勢を崩した。水盤が背中にぶつかった。そのまま葵は腕を振り上げた。


 視界がフラッシュした。


 和輝の身体は壁に衝突した。受け身一つ取れず、背中を打ち付け衝撃に噎せ返る。数秒遅れて頬に熱さを感じ、殴られたことに漸く気付いた。


 葵は無表情だった。




「土俵の違いに、好い加減気付け」




 絶対零度の声が降り注ぎ、和輝はゆるゆると顔を上げる。葵の姿が陽炎のように霞んでいた。

 口内に鉄の味が広がっている。口の端から溢れる液体が、驚くくらい赤かった。現状を正しく理解していない脳が、急激に冷静さを取り戻す。

 頬の熱と空気の冷たさに目眩がした。


 葵。

 呼び掛けた声は掠れていた。




「お前の物差しで全てを計ろうとするな」

「全てを理解出来るとは、思っていない」




 何が葵の琴線に触れたのか解らない。彼の心の敏感な部位だったのかも知れない。

 此処には境界線がある。絶対に越えることの出来ない断崖絶壁がある。


 それでも、譲れない。




「何度言えば解る」

「何度言えば伝わる」




 お前が大切だと、あと何回訴えたら届く。


 酷い物音を聞き付けて、霖雨が部屋を飛び出して来た。口の端から出血している和輝に気付くと、狼狽して駆け寄った。

 葵はその様を冷ややかに見下ろし、背中を向けた。









 16.Amazing grace

 ⑸恩送り









 二人が酷い喧嘩をした。

 元々相容れない性格だとは思っていたが、まさか流血沙汰の喧嘩をするとまでは思わなかった。


 頬を腫らした和輝の手当てをしながら、霖雨は肩を落とした。

 どんな理由があっても、先に手を出した方が悪い。霖雨はそう思っている。だが、和輝も頑固で空気を読まないところがあるので、結局はお互い様なのかも知れない。


 葵は部屋に篭り、出て来る気配も無い。

 リビングに取り残された和輝は、一向に喧嘩の理由を話そうとはしない。今晩中には解決しないだろう。




「ごめんねの一言で解決するんじゃなかったのか?」




 茶化すように言うと、和輝が力無く笑った。




「譲れない生き方の問題だ」

「全ての人と解り合える訳じゃないよ」

「解り合えないなら、とことんぶつかるしか無い」




 こういう頑固なところが、葵の勘に障るのだろう。

 霖雨は思ったが、口にはしなかった。

 腫れた頬に湿布を貼ると、傷口に障ったのか和輝が顔を歪めた。無鉄砲な彼には良い薬だ。霖雨は苦笑する。


 手当を終えると、和輝は急き立てられるように立ち上がった。




「葵に会わないと」

「今日はもう無理だよ」




 天岩戸の如く閉ざされた扉を見遣り、霖雨は言った。

 それを悟ったらしい和輝が、力無くソファへ倒れ込む。今夜は彼に代わってコーヒーを淹れて遣ろうと、霖雨はキッチンへ向かった。


 和輝は意気消沈しているようではない。反省の色も無く、この結果を予期していたような諦念が感じられた。

 壁を見付けると体当たりする馬鹿だと、何時か葵は言っていた。

 葵の作る境界線をそのままにする性格でもないだろう。解り合えないのなら、そのままで良いのにと思う。否、それでも譲れない問題だったのだろうか。


 冷蔵庫を開けると、牛乳パックが二本入っていた。就寝時刻も近いので、ホットミルクにシフトチェンジする。

 牛乳を注いだマグカップを二つ、電子レンジに入れる。重低音の中、白い陶器が暖色に照らされていた。




「明日になれば、頭も冷えるだろ。お前も、葵も」

「明日が来る保証なんて何処にも無い」

「明日は来るよ。明けない夜も、止まない雨も無い」




 霖雨が言うと、和輝が微笑んだ。それは今にも消えてしまいそうに儚い笑みだった。

 この顔を見る度に、霖雨は思う。彼の独善も身勝手も無謀も、全てを許して遣りたくなる。

 柔らかな湯気の昇るマグカップを差し出すと、和輝が小さな声で礼を言った。きっとそれは、自分を許すことの出来ない彼の弱音だった。


 霖雨が目を覚ますと、家の中は無人だった。

 バイトに行って来ると書き置きがあった。テーブルの上にはラップの掛けられた朝食が用意されている。

 一人分の皿が水盤で水に漬けられていたので、葵が食べて行ったのだと解った。


 朝食を済ませ、霖雨は家を出た。大学の就活センターに行こうと思っていた。

 不意に昨夜の和輝が脳裏に蘇った。悄げていたあの後頭部を撫でくり回して遣りたい衝動に駆られ、大学に行く前に喫茶店へ寄ることにした。


 駅前は相変わらず賑わっている。喫茶店の前に立て置きの看板があったので見てみると、可愛らしいタルトタタンの写真が貼られていた。文字通り、看板メニューになっている。


 扉を押し開ければ、清涼な風鈴の音と共に冷房の風が霖雨を包み込んだ。涼を求めて避難する客も多いことだろう。以前は隠れ家的な喫茶店だったのに、今ではすっかり人気の店だ。その時、女性客やカップルで賑わう店内から、まるで寿司屋のような威勢のある声が轟いた。


 翡翠が立っていた。

 おや、と違和感を覚える。和輝と翡翠のシフトは入れ違いの筈だ。


 入り口で立ち止まっていると、心を読み取ったように翡翠が言った。




「和輝なら、奥で寝てるよ」

「具合でも悪いのか?」

「朝来たら真っ青だったから、急遽交代したんだ。お蔭で今日はフルシフトだ」




 翡翠は肩を竦めた。

 昨夜は流血沙汰の喧嘩をするくらい元気だった筈だ。葵との喧嘩が余程堪えたのだろうかと心配になる。


 入るかいと尋ねられ、霖雨は迷った。

 疲れているのなら、寝かせて置こうか。そんな結論を出し掛けた時、背後から風が吹き抜けた気がした。




「今すぐ、あの馬鹿のところに連れて行け」




 傲慢な声が降って来て、霖雨は翡翠と肩を跳ねさせた。

 透明人間ーー神木葵が立っている。


 何時の間に来たのだろう。

 驚愕に声の出せない霖雨はそのままに、葵は翡翠を睨んでいた。




「いるんだろ?」

「ああ、バックヤードで寝ているよ」



 それを訊くと、葵は翡翠の横を擦り抜けてバックヤードへ行こうとした。

 翡翠が、するりと立ち塞いだ。従業員以外が出入り出来る筈も無い。しかし、葵は頑として譲らない。




「退け」

「従業員専用だよ」

「霖雨は良くて、俺は駄目なのか?」

「あんたは駄目だ。和輝にとって、毒でしか無い」




 そう言って、翡翠が目を鋭くした。

 毒とは、酷い言い様だ。霖雨も流石に黙っていられず、反論した。




「そんなこと、如何して解る。お前に何の関係があるんだ」

「和輝が真っ青になって、此処に駆け込んで来た。青痣が頬に残っていたし、口の端も切れていた。殴られたんだろ」




 霖雨は閉口した。

 只の口喧嘩が発展してしまっただけだ。霖雨は言おうとして、それが言い訳でしか無いことに気付く。怪我は事実だ。そして、霖雨はその諍いの理由を知らない。


 黙っていた葵は、猫のように目を細めた。




「お前に関係があるか?」




 温度の無い声だった。

 取り付く島も無い拒絶が滲んでいる。




「寝ているなら好都合だ。連れて帰る」




 葵は風のように翡翠の横を抜け、自宅のような慣れた動きでカウンターの向こうへと入って行った。

 慌てて霖雨が追い掛けると、コーヒーを淹れていた店主が小さく会釈した。咎める様子は無い。翡翠は前髪をくしゃりと掻き混ぜて、うんざりとした顔で見ていた。


 薄暗い通路は、左右がラックに挟まれ圧迫感があった。ぎゅうぎゅうに雑品が詰め込まれているが、分類し整理されていることが解る。

 店内は整然と片付いていたので、その見返りのようだと思った。

 通路の先から、白々しい蛍光灯の明かりが漏れている。黙って進み続ける葵は振り返らないまま、半開きの扉を押し開けた。


 休憩室らしい小さな部屋には、木目の美しい机が置かれていた。光沢を放つ其処に、寝癖頭の青年が突っ伏している。

 葵はその首筋に触れ、脈を取り始めた。

 小さな面には不釣り合いな湿布が貼ってあった。霖雨は、葵の動向をじっと見詰めていた。


 葵が、手を上げた結果だ。

 相手を暴力で従わせようとした報いだ。

 暴力を嫌う霖雨は、皮肉っぽく思った。葵は脈を取り終えると、無造作にその肩を支えて持ち上げた。和輝が起きる様子は、無い。




「寝ているのか?」

「起きているように見えるか?」




 霖雨は首を振った。

 葵は和輝を支えたまま、勝手知ったるとばかりに裏口へ向かっていた。

 寝汚くない和輝が珍しい。余程疲れていたのだろう。霖雨は狭い通路を抜ける二人の背中を見ていた。


 裏口から出ると、夏の厳しい日差しが降り注いだ。光に目が眩み、霖雨は暫し立ち尽くした。

 葵の歩調は淀みなく、駅へ向かっている。




「如何して、そんなに拘る?」




 後ろから声が追い掛けて来た。振り返ると、扉に凭れるようにして、翡翠が腕を組んで此方を見ていた。




「どうせ、解り合えない。ーーそう思わないか?」




 葵は答えなかった。聞こえなかったみたいに背中を向けて、ぐいぐいと前へ進んで行った。


 目がチカチカする。霖雨は両目を擦りながら、その背中に問い掛けた。




「昨日、何で喧嘩したんだ」

「喧嘩じゃない。俺が苛立って、殴っただけだ」




 葵は、言い訳をしない。自分を正当化しない。

 何時か、和輝が言っていた。葵は、仙人掌に似ている。

 触れる者を皆傷付ける棘だらけの表皮の下は、柔らかな内部が広がっている。棘の下は、無防備なのだ。




「何で殴った」

「こいつがあんまり馬鹿だから」

「何を解って欲しかったの?」

「この馬鹿が、言っていなかったのか?」




 立ち止まり、葵が振り返る。

 その相貌には微かに疑念が滲んでいた。

 霖雨は答えた。




「何も言っていなかったよ。解り合えないなら、とことんぶつかるしかないって言っていた」

「ふうん」

「知っていただろう。こいつは、手を伸ばされたら離さない。少なくとも、和輝は葵の手を掴んだと思っているよ」




 霖雨が言うと、葵は背中を向けて歩き出した。

 駅に向かう葵を知覚する通行人はいない。肩を支えて歩く姿は目に見えるのに、誰にも気付かれない。


 其処にいるのに、誰にも気付いてもらえない。苦しくても、助けを求める先すら解らない。

 一寸先すら見えない闇の中で、たった一人で蹲ることしか許されない。それならば、何故存在しているのだろう。誰にも必要とされないのなら、それは死んでいるも同然だ。


 葵が言った。




「この世界は冷たい。そして、残酷だ。俺はずっとそう思って来た」

「うん」

「救いなんて無い。人は皆、孤独だ。そう信じて来たんだ。この国に来ても、考えは変わらなかった。ーーお前等に、会うまでは」




 ぽつりと、雨粒が染み入るように葵の声が届いた。胸が軋むように痛んで、霖雨は目を伏せる。

 見えない糸で引っ張られるように、葵は進んで行く。




「この馬鹿は何度でも手を伸ばすだろう」

「うん」

「それが取り返しの付かないことになると、この前、解った」




 霖雨は、其処で理解した。

 葵が手を上げた意味、和輝が譲らない理由。


 葵は忠告したのだ。暴力に訴えてでも、それを伝えなければならなかった。




「こんな馬鹿だけど、俺にとっては多分、最大で最後の希望なんだよ」




 失う訳にはいかない。

 強い覚悟を滲ませて、葵が言った。


 彼等は、気付いているだろうか。


 葵の振り上げた拳や向けられた背中。

 和輝の無鉄砲や頑固さ。

 それは全て、相手への許しであり、祈りであり、信頼なのだと、知っているだろうか。


 サイコパスと差別化された葵、天才と敬遠された和輝。歪で異質な存在だ。彼等の世界は冷たく厳しい。けれど、正反対の二人は知らぬ間に支え合っている。


 お前が大切だと、手段は異なるが、強く訴え掛けている。


 彼等は何時か、その変えようの無い価値観や考え方の違いから、対峙するのかも知れない。


 ならば、自分が二人を繋ごう。これ以上、闇に沈まぬように、光に消える前に、彼等をこの場所に繋ぎ留めよう。


 どうか、世界が優しいものでありますように。

 和輝の親友の願いが遠くで聞こえたような気がした。霖雨の口からは、解け落ちるように言葉が零れた。




「酷いこと言って、ごめん」

「はあ?」




 葵が振り返る。本当に意味が解っていないのか、惚けているのかは解らない。霖雨は笑った。




「言って置きたかっただけなんだ」

「自己満足か」

「そう、自己満足」




 立ち止まった葵は、何かを考えるように空を見上げた。

 突き抜けるような蒼穹に雨の気配は無い。


 葵が、言った。




「良いよ」




 たった一つの言葉が、清涼な風を連れて吹き抜けたようだ。

 幾千幾万の美しい文章より、科学技術の粋を集めた兵器より、こんな有り触れた許しの言葉が人を救うのだ。


 ありがとう。

 霖雨は囁くように、返した。

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