⑶差異

 蛍光灯の光を反射して、金属バットが振り上げられた。

 目は逸らさなかった。伸ばした手が届くようにと願い、祈るように顔を上げた。


 其処で、暗転。


 身体が引き千切られるような激痛と共に、意識は闇の中へ転がり落ちて行った。



 がくん。

 階段から転落するような浮遊感で、和輝は覚醒した。


 中天の日差しが差し込むリビングは、コーヒーの香りに包まれていた。


 心臓が激しく拍動し、視界が点滅する。水を被ったように全身に汗を掻いていた。

 右肩が燃えるように熱かった。室内はエアコンによって温度管理され、常に適温に保たれている。


 ソファに凭れ眠っていたらしい。テレビでは話題のアクション映画がBGMのように流れている。

 廃工場に乗り込んだ主人公が、悪漢に囲まれていた。囚われたヒロインが振り絞るように叫び声を上げる。丸腰の主人公は窮地だった。


 悪夢の原因を悟り、和輝は大きく息を吐き出した。時刻は午後二時を過ぎ、バイトの出勤時間が迫っていた。


 ヒロインに刃が振り上げられる。蛍光灯の下に光るそれは、白々しい程、薄っぺらに見えた。


 リビングに人気は無い。葵も霖雨も外出しているのだろう。テレビの電源を落とすと、部屋の中は死んだように静まり返った。


 闇に染まったディスプレイの向こうでは、きっと今頃、ヒーローが手に汗握るアクションを披露しているのだろう。ヒロインを救出し、悪党は退治される。勧善懲悪とハッピーエンドを謳う映画は、俳優の大立ち回りが話題になっていた筈だ。


 頭が痛かった。眉間を揉んでいると、悪夢の断片が走馬灯のように脳裏に蘇る。

 学生時代に遭遇した傷害事件だった。その中で和輝は右肩と腕を再起不能になるまでに破壊され、今も後遺症を背負っている。

 振り上げられた凶器は金属バットだった。野球を続けて来た和輝にとっては、切り離せない慣れ親しんだ用具だった。


 生憎、過去に囚われるような細い神経はしていない。全ては決着がついている。引き摺るものは、何一つ無い。ただ、身体が覚えているだけだ。

 女々しいと思うし、不甲斐無いと情けなくなる。それでも、時は止まらず進み続けるのだ。だから、立ち止まっていれば置いて行かれてしまう。


 簡単に支度を整えて家を出た。

 玄関先、庭の垣根に凭れるようにして人影が丸くなっていた。


 それは和輝に気付くと、顔を上げた。名前の通りの緑柱玉の瞳に、柔らかな光が滲む。


 翡翠。

 名を呼ぶと、翡翠は口の端に笑みを浮かべた。




「良いところに住んでいるんだな」

「まあね」




 如何して翡翠が此処にいるのだろう。

 和輝は問い掛けようとして、口を噤んだ。翡翠が、人差し指を立てて悪戯を思い付いた悪童のような笑みを浮かべている。




「退屈なんだ。一緒に遊ぼうぜ」

「これからバイトだよ」

「知ってる」




 翡翠が笑う。和輝は毒気抜かれた心地で、肩を落とした。

 和輝と翡翠のバイト先は同じで、シフトは殆ど入れ違いだ。自分が出勤ならば、必然的に翡翠は欠勤となる。そんなこと、解っている筈だ。




「学校は夏休みなのか?」

「そうだよ。お蔭でバイト三昧さ」

「学生の本分は勉強だろ」




 そう言えば、翡翠は何処の大学に通っていて、どんなことを学んでいるのだろう。大学生ということは知っているが、年齢までは知らない。

 翡翠と知り合って長くはないが、それなりに親しくしている。けれど、彼のプライベートを殆ど知らないことに気付く。


 今更訊くのもおかしい気がして、和輝は結局黙っていた。

 翡翠は他愛の無い世間話を始める。和輝は適当な相槌を打ちながら、その横顔を見ていた。




「ルームメイトは今日は留守なのか?」

「そうみたいだね。転寝をしてしまって、起きたら誰もいなかった」

「お互いに信頼しているんだな」

「そうかな」




 独り身の男のルームメイトなんて、そんなものだろう。和輝は思った。

 翡翠は楽しそうに言う。




「お前の友達って、良い奴が多そうだよな」

「そうだね。良い奴ばかりだよ。俺が好い加減だから、世話焼きが多いかも」

「放って置けないんだね。お前のことが、大切なんだ」

「そう思ってくれていたら、嬉しいな」

「謙虚だねえ」




 それきり翡翠の言葉は続かなかった。

 口笛を吹き、踊り出しそうな上機嫌で翡翠が進む。

 バイト先までは徒歩で30分程掛かる。歩く速度が人よりも速い自覚があるので、家を出る時刻はギリギリだ。翡翠を連れ立って行けば遅れるかも知れない。


 翡翠の道楽に付き合うつもりは無い。

 彼が何も言わない以上、此方側から追及することは憚られる。




「なあ、和輝」




 歩調を早めようとした手前、和輝はたたらを踏む。振り返ると、斜め後ろの翡翠が笑っている。




「人を殺したいと思ったことはあるかい?」

「ーーは?」




 余りに間抜けな声が出たので、和輝は思わず自分の口元を押さえた。

 気を悪くした風も無く翡翠は此方を見ている。和輝は彼の言葉を振り返り、自身の反応に言い訳をする。

 如何いう質問だ。穏やかではない。少なくとも、昼下がりの街中で飛び交う話題ではないように思う。


 和輝が黙っても、翡翠は質問を撤回しなかった。返答を促すように、うっとりと微笑んで黙っている。


 困惑を隠せない和輝は、眉を顰めてやっとの事で返した。




「無いよ」




 死にたいと思ったことは、あるけれど。

 胸の内に吐き捨て、和輝は翡翠に向き直った。緑柱玉の瞳に、動揺した自分の顔が映っている。




「それは何故?」

「理由が無いってことが、理由だよ」

「なるほど」




 お前は?

 お前は、如何なの?


 和輝は言葉を呑み込んだ。その答えを聞いてはならないような気がした。


 翡翠は幼い頃からバスケットボールを続けて来た。そのプレイだけで留学を決める程に将来を期待されたプレイヤーだった。だが、熱心な練習の為に膝を故障し、未来は突然に絶たれた。


 同じバイト先で、年齢も近いことから親しくなった。スポーツ好きの共通点から、一緒にサーフィンやストリートバスケを興じることもある。


 苦しい過去を微塵も感じさせない明るく優しい人間だ。ーー否、そう思い込んでいただけなのだろうか。




「俺とお前、何が違うんだろう」




 不思議そうに、翡翠が言う。


 奇しくも、和輝と翡翠の過去には共通点がある。それが親しくなった一因だと、和輝は思っている。


 翡翠は違うのだろうか。

 首を傾げる翡翠に悪意は無い。其処に嘘偽りがあれば、自分には解る。だが、和輝はその意味を既に知っている。


 悪意の無い殺意というものが、この世には存在する。

 父の記した臨床心理学のレポートの文章が、和輝の脳裏には鮮明に蘇る。

 理解し合うことは出来ない。異なる種族と認識する必要がある。ーーそれでも、理解したいと思ったのだ。


 何が違う。

 生まれか、育ちか。


 和輝が黙っていると、翡翠がふと顔を上げた。その視線は目の前の自分ではなく、後方を見ている。

 誘われるように振り向けば、陽炎のように空気が歪んで見えた。その存在は夏の日差しに霞むけれど、決して目の錯覚ではない。透明人間が、其処に立っている。




「何をしているんだ」




 答えようとして、葵の視線が自分を捉えていないことに気付く。

 葵は片手に、古びた本を紐で括ってぶら下げていた。買い物にでも行っていたのだろうか。和輝には解らない。


 嫌な沈黙が、膜のように周囲を包み込む。和輝は答えに困窮した。

 葵は、両目をすっと細めると、いきなり和輝の肩へ正面から腕を回した。

 葵から接触を受けたのは初めてのことだった。和輝は咄嗟に反応出来ず体勢を崩した。そのまま後方に倒れ込む寸前、葵に掴まれ支えられる。


 状況に付いて行けない。自分がこんなに応用力の無い人間とは思わなかった。

 尻餅を着かずに済んだ和輝は、不安定な体勢を整えようと両足に力を入れた。


 振り向いた和輝の目に、見たことの無い翡翠の笑顔が映った。三日月のように口角を吊り上げ、美しい緑柱玉の瞳は愉悦に歪む。

 冷たいものが背筋に落ちる。




「行くぞ」




 頭の上から、葵の硬質な声が聞こえた。

 和輝は返答出来ず、そのまま引き摺られ、道を引き返す。

 嫌な汗が流れ落ち、言葉を繋げない。心臓がやけに騒ぎ立て、正常な判断が出来ない。

 如何にか顔を上げる。視界が点滅し、鈍痛が頭の中に響く。


  翡翠が、満面の笑みで手を振っていた。










 16.Amazing grace

 ⑶差異









 玄関の扉を開けた葵は、和輝の首根っこを引っ掴むと、そのまま投げ倒した。流石にトップアスリート並みの身体能力を有しているだけあって、転倒には至らなかった。


 これが霖雨ならば、今頃尻餅を着いて患部を摩っていたところだ。


 葵は不愉快そうに舌打ちをして、吐き捨てるように言った。




「あいつには、関わるな」




 罪を宣告する裁判官のように、葵は冷淡に告げた。和輝はその意味を捉え切れず、問い掛けた。




「なんで」

「いいから、黙って従え」

「嫌だ」




 元来、負けず嫌いなので、上から抑え付けるような葵の言葉にはつい反抗したくなる。


 葵は苛立ったように柳眉を跳ね上げたが、言葉にはしなかった。その代わりに、大きく溜息を吐き出して、その場に座り込んでしまった。




「翡翠が、如何かしたのか?」

「お前には、あの男が何に見える?」




 質問を質問で返されて不満に思うが、和輝は答えた。




「友達だよ」




 それ以外の形容の仕方が無い。

 葵は顔を伏せたまま言った。




「無駄だと思うけど、一応忠告して置く。世界は優しくて綺麗なものばかりじゃない」




 和輝は肯定も否定もしなかった。

 解っていると言い返せば、それは誰かの存在を否定してしまっているように思う。かと言って否定すれば、葵の忠告を跳ね除けることになる。


 儘ならぬものだ。何より、和輝は葵の忠告の核心が解らない。黙って先を待つしかない。




「お前は手を伸ばされたら拒めない。それを否定するつもりは今更無いが、覚えて置け。お前に助けを求めて手を伸ばす奴がいれば、お前を救いたくて手を差し出す奴もいるだろう。だが、中にはお前を奈落の底に引き摺り込もうと手を引く奴もいる」




 葵が柄にも無く、諭すように穏やかに言うので和輝は反論の言葉を見失っていた。




「死神が薄汚い格好をして、路地裏に潜んでいるとは限らない」

「ーー翡翠のことを、言っているの?」




 此処まで来れば、和輝にだって解る。

 葵は、きょとんと首を傾げた和輝に、再度舌打ちを零した。




「お前の目には、あの男がただの一般人に見えるのか?」

「少なくとも、罪に問われるような犯罪は起こしていないし、俺を騙してもいない。悪い奴じゃない」

「John=Smithの時も、言っていたな」




 大勢の幼児を虐殺した猟奇殺人犯は、普段は患者に慕われる気の良いスポーツドクターだった。

 二つの顔を持った嘗ての同僚の凶行に、和輝は気付けなかった。当然だ。John=Smithは、嘘を吐いていなかった。


 悪人が嘘を吐くとは限らない。

 そして、最も恐ろしいのは、悪意の無い殺意なのだ。


 言い返せない和輝は、俯いていた。

 その頭に向かって、葵は言う。




「殺意なんて有り触れた感情だ。人が人を殺すことに必要なのは動機ではなく、きっかけだ。殺意は通りものと一緒で、何時、誰の元に来るのか解らない」




 俯いていた和輝が顔を上げる。

 寄せられた眉に、解り易く不満が表れている。




「葵の言っていること、解らないよ。噛み砕いてくれたのかも知れないけど」

「お前に理解出来るように言っている。だから、それは理解したくないと感情が拒否しているに過ぎない」




 和輝は腕を組んで、唸った。

 言っていることは、解る。葵は翡翠を警戒して、近付くなと警告しているのだ。翡翠が異なる生き物であると告げている。


 和輝が唸っていると、玄関の扉がゆっくりと開いた。葵は背中を向け、外の日差しが取り込まれる様を無表情に見ている。


 扉の向こうには、陰気な顔をした霖雨がいた。

 就活センターに行くと言っていたけれど、経過は芳しくないのだろう。

 霖雨は玄関に仁王立ちする葵と、対峙する和輝を見て酷く驚いたようだった。びくりと肩を跳ねさせて、ただいまの一言すら出て来ない。


 帰宅した霖雨を見て、和輝もはっとする。

 自分は、バイトに向かっていたのだ。慌てて時刻を確認するが、走っても間に合わない。


 ぼんやりした霖雨の肩を引っ掴み、和輝はバイクを出してくれと叫ぶ。

 鬼気迫る様子に圧倒されたらしい霖雨が、動揺を隠せないまま頷いた。


 霖雨の背中を押して玄関を出る直前、和輝は振り返った。




「難しい話は解らないけど、ちゃんと聞くから。続きは、夜にでも聞かせてくれ」




 白い歯を見せて和輝は笑った。葵は相変わらずの無表情だった。

 何が何だか解らないままの霖雨は、後方より突き刺さる声に立ち止まった。




「その馬鹿を、頼むぞ」




 扉が、閉じた。

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