⑵断崖絶壁
掌から零れ落ちるように、希望が失われていく瞬間を覚えている。
霖雨は、手元に広げた真新しい書類の束をうんざりと眺めていた。
就職活動を始める頃合いだということは解っていた。身の置き場を確保しなければならないと知っていたのに、留学という大義名分を得て逃げ回っていたのだ。そのツケが回って来た。
履歴書には、自分の名前だけが記されている。
学歴を記すに当たり、自分を証明する書類の数々を用意した。しかし、記録を眺める度に打ちのめされる己の不甲斐無さに嫌気が差していた。
自室に籠もっていると気が滅入ってしまうように感じたので、筆記用具と必要書類を抱えてリビングへ移動する。ソファで和輝が体を丸めて読書に勤しんでいた。
余程暗い顔をしていたのか、顔を上げた和輝はコーヒーを淹れる為にキッチンへ向かった。
湯気の立ち昇るマグカップを両手に持って、和輝がことりと首を傾げた。霖雨の手にある履歴書を見付けると、合点がいったらしく同情的な声を漏らす。
労わるような和輝の態度に肩の力が抜け、霖雨はソファへ倒れ込んだ。
何をした訳でも無いが、和輝は「お疲れ様」と微笑んだ。
「目標はあるのかい?」
和輝の瞳に強い光が滲んでいたので、霖雨はまるで、人生の目標を訊かれているような気になった。
嘘を見抜く慧眼の前で下手な回答は誤解を招く。霖雨の困窮を悟った和輝が間髪入れずに問いを重ねた。
「目指している業界とかあるの?」
社会経験のある可哀想なフリーターだと思っていた和輝が、実は地盤固めの万全な学生であると判明してから、霖雨は如何しても卑屈になってしまう。
彼は就職活動に困ることなんて無いのだろう。引く手数多の天才だ。どの業界でも重宝され、誰にでも可愛がられるだろう。
問いには答えず、コーヒーを啜って誤魔化した。話を逸らすつもりで、霖雨は問い掛けた。
「和輝は?」
「俺? 俺は、スポーツが好きだから、その業界を目指しているよ」
「自分の売りはある?」
「小さい時から野球を続けて、高校ではチームのキャプテンで甲子園優勝した。中学時代なら陸上の大会で入賞したこともあるし、今は救命救急で多少現場経験も積んでいる。それなりにコネもあるし、過大評価をする気は無いけど、出来ることは遣っているつもりだよ」
素晴らしい計画性だ。霖雨は項垂れた。
訊くんじゃなかったと、数秒前の自分を恨む。和輝と比べたら、自分の留学経験なんて塵みたいなものだ。
積み重ねて来た時間が、彼の人となりを証明している。羨望を通り越して、尊敬の念すら抱く。
和輝は、訊き返さなかった。気を遣ったのか、興味が無くなったのかは解らない。どちらにせよ、有難かった。
「霖雨は、人の心に関わる仕事が合っている気がするよ」
「なんで」
なるべく平静を繕ったつもりだったが、声は隠しようも無く強張っていた。
母国にいた頃、霖雨は精神病の診断を受けていた。それを和輝が知っているのかは解らないが、触れられたくない過去だった。
和輝は気にする様子も無く、柔らかに微笑んだ。
「営利目的の医者ではなくて、ボランティアに近い感じの仕事が良いと思う。霖雨は優しいから、その優しさに救われる人が必ずいるよ」
和輝に言われると、そうなんじゃないかと思ってしまうから不思議だ。
なるほど、と思い掛けて否定する。待て、冷静になれ。量子力学を専攻した自分に需要がある筈無いだろう。
和輝はコーヒーに牛乳をたっぷりと注ぐ。闇の色をした液体は混沌と掻き混ぜられ、優しげなカフェオレに変身した。
「俺は高校生の頃に故障して、もう駄目だって思った時があったんだ。でも、その時に海外のスポーツドクターに救われた。だから、俺も同じように人を救いたい。その為に留学したんだ」
見事な起承転結だ。苦し紛れの嘘すら入り込む余地が無い。霖雨は、今更になって訊く相手を間違えたことに気付く。彼は模範解答過ぎて手本にならない。
霖雨が黙っていると、和輝はカフェオレを一口飲み下して取り繕うように笑った。
「葵にも訊いてみたら如何かな。あいつも就活生だろ」
確かに、霖雨と同い年の葵も当然、就職活動の真っ只中にいる筈だった。けれど、何故だか彼は和輝以上に参考にならないような気がして、頷くことは躊躇われた。
何より、霖雨は葵と顔を合わせ辛かった。
平行世界を旅した時に、酷い言葉を浴びせた自覚があった。
自分の余裕の無さから、葵に八つ当たりをした。普段の態度を崩さない彼を異常だと責めた。
葵は、何も言い返さなかった。彼が今、何を思っているのか解らない。初めから自分には何の期待も抱いていなかったかも知れないが、平行世界の終焉を迎えてから、彼の作る溝が深くなったような気がしていた。
こんな勝手な罪悪感を、和輝は笑うだろうか。葵は、笑ってくれるだろうか。
答えずにいると、和輝が尋ねた。
「お前等、喧嘩でもしたの?」
「そう見える?」
「なんか、距離があるような感じがするよ」
へらりと紙のように和輝が笑った。
喧嘩ならば良い。仲直りをすれば良いのだ。けれど、相手を一方的に傷付けて、責められもせず、一人で罪悪感を抱えている自分は如何したら良いのだろう。
「葵が怒ってるなら、俺が間に入っても良いんだけどさ、そうじゃないんだろ?」
「葵は悪くないよ」
「何が悪かったのか、解ってるみたいだね」
「うん……」
霖雨が頷くと、和輝は何でも無いことみたいに言った。
「じゃあ、謝ったら良いよ」
世の中は、そんな単純に出来ていない。霖雨は卑屈に思う。だが、和輝は嬉しそうに言った。
「大人になると、簡単なことが難しくなるって兄ちゃんが言ってたよ。賢くなって、意地とかプライドとか色々なものが積み重なって、ごめんねの一言が如何しても出て来ないって」
あの類稀な行動力を誇る母国の英雄にも、そんなことがあるのだろうか。霖雨は疑問に思う。
ややこしいものとは無縁そうな単純なその弟は、少しだけ難しい顔をした。
「自分が悪いと思っていても、謝る相手がいる内は良いじゃないか」
「まるで、体験談みたいだね」
和輝は苦く笑って言った。
「高校の頃、昔のチームメイトと仲違いしたんだ。自分が悪かったと思っていたけど、謝る機会も言葉も見付けられなくて、しんどい思いをしたことがある」
万能人間に見える和輝も、人並みに喧嘩をするのだなと、見当違いのところに感心をする。
どんな喧嘩をしたのだろう。下世話な興味が湧いて、黙って押し殺していると和輝が見透かしたように答えた。
「お互いに如何しても譲れないところがあって、歯噛みしている内に卒業しちゃったんだ。意地を張っていたのかもね。本当は、ごめんの一言で済んだ話だったのかも知れない」
「如何やって仲直りしたの?」
「結局、お互いに謝らなかった。最後はとことんぶつかり合った。その時間にも意味があったと思うけど、もっと早く仲直りしていたら、違った時間が過ごせたかも知れない」
何処か遠くを見詰めるように和輝は言う。それは二度と戻らない過去を見ているようだった。
16.Amazing grace
⑵断崖絶壁
就活センターに行くと言って、霖雨が出て行った。すると、見計らったように葵がリビングに現れた。
透明人間と呼ばれる葵は神出鬼没であるが、先程までの遣り取りを思い返すと、顔を合わせることを避けているようで可笑しかった。
温くなったカフェオレを飲み下し、和輝はリモコンを操作してテレビの電源を点けた。ふらりと現れた葵は、何も言わずに電源を落とした。
勝手な行動に腹を立てる程に細い神経はしていない。和輝は手持ち無沙汰になったので、渋々と再びカフェオレを口に含んだ。
バイト先の店長程に深い味わいは未だ出せない。悔しいと思うけれど、それは伸び代があるということだ。
葵は、これ見よがしに大きな溜息を零してソファに座った。何か用でもあるのだろうか。
葵が中々口火を切らないので、和輝は退屈になってキッチンへ向かおうとした。沈黙は苦にならないが、コーヒーの一杯でも淹れて遣ろうと思ったのだ。
腰を浮かせ掛けた時、葵が漸く口を開いた。
「ブラックで」
「良いよ」
機嫌が良いのかも知れない。何となく、そんな気がした。
注文に従って、和輝はキッチンで湯を沸かす。コーヒーの消費率が高いので電気ケトルの購入を迷っている。電気ケトルは多忙を極めて、先日故障したばかりだった。電化製品の好きな葵ならば、その内に買って来るかも知れない。そう思っていて既に数ヶ月が経過しているが、やかんでも事足りるので、敢えて口にしたことは無い。
やかんにたっぷりのミネラルウォーターを入れて、コンロへ掛ける。
湯が沸くまでの間、結局、退屈になる。
ふと視線を上げると、カウンターの向こうで葵が人形みたいに此方を見ていた。
「お前のオトモダチも、身体部位を故障したんだな」
その言葉が揶揄の色を帯びていたので、和輝は腹の据わりが悪くなる。葵の知る和輝のオトモダチと言うと、翡翠のことだろう。
しかし、頷くと彼の心の敏感な部位を知らせているような気がして、和輝は答えなかった。
葵は、和輝の沈黙をじっくりと見詰めてから言った。
「前に、カモメのジョナサンの話をしただろう」
「うん」
「何か一つを目的に生きる様は一見すると潔く美しいかも知れない。だが、反面でそれは脆く、一つを失えば絶望だ」
「そう思うかい?」
何度この問答をしたところで、和輝は同じ答えを導き出す。そして、葵も考えを変えはしない。議論は平行線だ。
和輝は残ったカフェオレを流し込む。柔らかなミルクの風味が口一杯に広がる。
葵は言った。
「何時かは可能性を見出せる日が来るかも知れない。だが、それまでの日々を無為に過ごす様はまるで亡霊のようじゃないか」
「葵みたいに?」
言われてばかりは癪なので、和輝は遣り返すつもりで言った。葵は無表情だった。
その表情からは、何の感情の機微も窺い知れない。
「そうだね」
うっとりと、葵が微笑んだ。その美しい面に、背筋が凍る。薄氷の上を裸足で歩いているような心地になり、落ち着かない。
微笑みを浮かべたまま、葵は沈黙している。得体の知れない何かが、じわじわと足元から立ち昇るようだ。
この顔を見る度に思う。
自分は、彼の本質を知らない。この距離は縮まっていない。此処には溝がある。神木葵の築いた断崖絶壁は、未だ埋まっていない。
嫌な緊張感が張り詰める中、やかんが高く笛を吹いた。和輝は動揺を押し殺して、何食わぬ顔でコーヒーを淹れる。
一滴一滴を丁寧に、この場を打ち崩す一筋の光を探す。
神木葵は、透明人間だ。質量を持った亡霊だ。
其処にいるのに、誰にも知覚されない。彼の周囲は地雷原で、近付くことすら困難だ。張り巡らされたアンテナに引っ掛かるものは、悉く拒絶され、遠ざけられる。鋼鉄の鎧を纏う彼の心に触れることは出来ない。
けれど、逆境に燃えるのは性分だ。
コーヒーを淹れ終えた和輝は問い掛ける。
「それでいいの?」
「何が?」
「何時か訪れるかも知れない救いを待っているだけでいいの?」
言うと、葵は溜息を吐いた。
溜息を零すと、幸福が逃げるという。彼の吐いた溜息で逃げた幸福は、どんなものだろう。和輝には解らない。
「お前には解らないよ」
「でも、俺は解りたい」
「お前は親切のつもりなのだろうが、大きなお世話だ。下世話な野次馬と何が違う。手を伸ばしたら救えると思っているのなら、それは傲慢だ。結果が無ければ、何一つ証明出来ない」
畳み掛けるように、葵が早口になる。
和輝は殊更ゆっくりとコーヒーを注ぎ、それを葵の元へと届けた。
「結果の出ていない現在をどのように証明する? 何の確証も無く信用を得ることは出来ない。世の中、そんなに甘くは無いぞ」
「確証が欲しいのかい?」
確証バイアスだと再三言って置きながら、儘ならぬものだ。和輝は葵の隣に腰を下ろし、マグカップをテーブルに置いた。
結局、証拠が欲しいのだ。
人の心は目に見えない。法的な拘束力の無い人間の意志なんて浮雲のようなものだ。
人の心は変わる。未来の証明なんて誰にも出来はしない。未来が不確定ならば、過去なんて何の意味も無いだろう。積み重ねた記憶が何も証明しないのなら、此処にいる自分だって透明人間だ。
だから、何処かで線を引かなければならない。人は信じたいものしか信じないのなら、自分の信じるものを、信じたいようにするしかない。
自分は、葵や霖雨を信じたい。こんなことで揺らぐような覚悟で、手を伸ばしはしない。
「本当に大切なものは、目に見えない。だから、人は不安になる。それでも、全ての真実が目に見えると思うのなら、それこそ傲慢じゃないか」
「誰にでも言える安いきれいごとが、何を救えると言うんだ」
「言葉で伝わらないのなら、態度で、行動で示すしかない。振り払われても、拒絶されても、何度でも手を伸ばす」
マグカップを撫で、和輝は逸らさぬように葵を見詰めた。
この断崖絶壁を越える覚悟なら、とうに出来ている。彼が手を伸ばした時から、その思いは変わらない。葵が掌を返したとしても、自分は絶対に離さない。
無力な自分が嫌いだ。弱い自分が許せない。人を救えない自分を認められない。だけど、それでも良いと言ってくれた人がいる。
神様が彼を救わないと言うのなら、自分が救ってみせる。
足掻け、躊躇うな、抵抗しろ。
自分が自分であるということを証明してみせろ!
「お前の価値観を、他人に押し付けるな。だから、孤独なんだろ」
マグカップを持ち上げ、葵が吐き棄てる。和輝は眉を寄せた。
何を言っても伝わらない。平行線。この壁に質量があるのなら、自分はどんな手段を講じたとしても打ち壊しただろう。
目に見えないものは、証明出来ない。
ブラックコーヒーを飲み下した葵が顔を顰めた。丁寧に淹れたつもりが、濃過ぎたのかも知れない。
ミルクポットを差し出すと、葵は無表情でそれを受け取った。
コーヒーとミルクが混ざり合って、マグカップの中に広がるエントロピー。葵は苦味を薄めた液体を喉の奥へ流し込む。
孤独。
言われてみて、和輝は首を傾げる。自分は孤独だろうか。自問してすぐに否定する。孤独とは、一切の救いが無く、目の前すら見えない底知れない闇の中で、頼るべきものも無く膝を抱えている様だ。
透明人間と呼ばれる神木葵には、頼るべき血の繋がりは存在しない。以前、眼病で入院した時には、その身分証すら無いことに驚いた。彼は社会的に存在していないのだ。
他人は自己を映す鏡だと言う。葵は、自分を通して自己を投影したのではないだろうか。
「口では何とでも言える。出来るというのなら、証明して見せろ」
コーヒーを飲み込んだ葵が、挑発的に笑った。凍り付くような無表情が崩されたというのに、何故だかその笑みは、和輝の目に酷く哀しく映った。
如何したら、目の前の彼を救えるのだろう。
和輝には解らない。それでも、解りたいと願うから苦しい。
存在すら不確定な透明人間。和輝は、彼がこのまま消えてしまわぬように願いながら、言った。
「何度でも」
遠く、歓声が響いている。
テレビはバスケットボールの試合中継を映している。和輝には、命を削り振り絞るような夏の声に聞こえた。
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