16.Amazing grace
⑴うさぎとかめ
There is a crack in everything, that's how the light gets in.
(どんな物にも、ひびがある。でも、光が差し込むのは、そこからなのさ)
Napoléon Bonaparte
ぽたり、と汗が滑り落ちる。
アスファルトに染み込んだそれは、極小さな黒点となり、やがては消えてしまった。
オレンジ色のボールが弾む。その息遣いすら聞こえるような気がして、霖雨は固唾を呑んで見詰めていた。
緊張の糸がきりきりと絞られる。対峙する二人の友人は、額に汗の雫を張り付かせている。互いの呼吸を読み込もうとする様は、まるで鏡のようだ。
拍動の如く弾むボールを飼い慣らし、和輝が身を低くする。対する翡翠は、挑発するように笑みを浮かべ、その予備動作を待っているようだった。
張り詰めた糸が切れるーー刹那、和輝が動いた。疾風の如くコートを駆け抜け、小さな影は弧を描いて突き進んだ。進行方向を捉えた翡翠が追い掛ける。
天空のゴールへ向けてボールを構え、和輝は膝を柔らかく曲げた。顔程もあるそれは花火のように打ち上げられる。
鈍い音が響いた。ボールは弾かれ、和輝の後方へと飛んで行く。
ゴールを阻んだ翡翠か笑う。対する和輝もまた、悔しそうに苦く笑った。
速攻。
ボールを叩き付けながら、翡翠が疾走する。追い掛ける和輝は影のように張り付いていた。
身長差は20cm近くある。体格差は歴然で、頭上に設置されたゴールからも遠い和輝は明らかに不利だった。
翡翠はゴールの手前で踏み切り、飛び上がった。右手に乗せられたボールが放たれる。その瞬間、後方より追い付いた和輝がそれを弾き飛ばす。
力で劣るのなら、速さを。
体格で負けるのなら、跳躍を。
始まる前から見えていた筈の勝敗を打ち消すように、ヒーローは何度でもその手を伸ばし、空を翔ける。
小さいながらも天才と呼ばれて来た身体能力を発揮し、和輝が追い縋る。霖雨は拳を握り、二人の勝負を見守った。
弾いたボールがコートの外に飛び出す寸前、導かれたようにそれは和輝の小さな掌へと吸い込まれた。
息吐く間も無く、和輝はゴールを目指して走り出す。再度、攻守は切り替わった。
「努力か才能かと屢議題に挙がるが」
霖雨の横で胡座を掻いていた葵が、伽藍堂の目で言った。
「全てとは言わないが、才能は必要なんだろう」
葵の話に脈絡が無いのは何時ものことなので、霖雨も取り立てて動揺はしない。
暫し言葉の意味を考え、霖雨は問い掛けた。
「葵の言う才能って何なの?」
「スタート地点の差だ。天才は凡人に比べ、遥かに先の地点からスタートしている。兎と亀だな。何の障害も無く競争すれば兎が勝つのは自明の理だ」
「兎が昼寝をしなければね」
「才能に胡座を掻くっていうのは、そういうことだろう」
葵が無感情に吐き捨てた。霖雨は苦笑いをするより他に無かった。
和輝が翡翠とストリートバスケをすると言うので、夏季休暇を持て余していた霖雨は葵を引き摺って観戦に乗り出していた。母国では天才と呼ばれ、アスリート並の身体能力を誇る和輝と、バスケだけで留学を決めたという翡翠の勝負だ。退屈凌ぎには持って来いの余興だった。
予想した以上に生の試合は迫力がある。霖雨は、すっかり食い入るように観戦していた。
体格差も経験の差も歴然なのに、優れた身体能力と勘で、和輝はその差を埋めて行く。彼の生きて来た道が見えるようだった。
決まるかと思えば、寸前で阻まれる。勝負は拮抗し、中々ゴールに至らない。
手に汗を握る試合展開は、見ている霖雨が神経を消耗してしまいそうだった。
レイアップシュートを阻んだ和輝が走っている。ゴールへ続く進路は既に翡翠に塞がれていた。
如何するーー?
その足が止まった瞬間、和輝の双眸はゴールを捉えていた。
翡翠が声を上げる。
ボールは撃ち放たれ、壁の如く塞ぐ翡翠の掌を擦り抜けた。小気味い音が響き渡り、ボールはリングの中へ吸い込まれていた。
3Pシュートだ。
思わず霖雨が立ち上がると、和輝が会心の笑みを浮かべた。
讃えるべき健闘も霖雨には無いけれど、向けられた拳に応える。血の通った温かい拳をぶつけ、和輝はアスファルトに倒れ込んだ。
ボールを拾った翡翠が、悔しそうに、けれど、笑みを殺し切れずに遣って来た。
「すげえな」
素直な賞賛に、和輝は子供のような笑みで返した。
ボールが投げ渡される。寝転んだまま受け取った和輝は、腹筋を使って勢い良く起き上がった。反対に翡翠が座り込む。
和輝は指先だけで器用にボールを回転させ、霖雨を見て不敵に笑った。
「来いよ」
挑発するように手招きし、和輝が言う。
この小さな獣と渡り合えるとは思えないが、見ていると何と無く身体が疼いて仕方無かった。
霖雨は立ち上がり、コートに向かって歩き出した。
16.Amazing grace
⑴うさぎとかめ
「兎と亀の話が聞こえたんだけど」
頬を伝う汗を拭い、翡翠が言った。
退屈に胡座を掻いていた葵は、視線を其方へ遣った。
翡翠とは殆ど初対面だった。
あの平行世界の時間が全て夢や幻の類ならば、葵は翡翠と面識すら無かった。和輝が介入しなければ、翡翠は犯罪組織の違法取引に巻き込まれた憐れな一般人として死亡したのだろう。
和輝さえ、介入しなければ。
あの日、犯罪組織に拉致された翡翠を救出したのは葵だ。拘束され、仔兎のように震えていた翡翠は、葵を化物のように凝視していた。
彼を見殺しにしたことのある葵にとって、翡翠は奇妙な存在だった。
生きているものなのか、死んでいるものなのか判断に悩むところがある。
そんな境界線の青年は、葵を見て言った。
「兎と亀の物語には二種類あるって知っているかい?」
葵は返事をしなかった。単純に面倒だったのだ。
しかし、翡翠は反応を意に介さずに続けた。
「競争の途中に昼寝をした兎を亀が抜かした話の他に、亀が策略を巡らせていたという話があるんだ。亀は姿を隠して、兎と正々堂々と競争する振りをするんだ。実際は藪に隠れて、途中で別の亀が走っているように見せ掛ける。兎がゴールした時には、亀はもうゴールにいるんだ」
それは、何というか相手を馬鹿にしているような話だ。
亀の狡賢さに感心するべきなのか、馬鹿正直な兎を憐れむべきなのか。
葵が何も言わないと、翡翠は顔を覗き込んで問い掛けた。
「和輝の友達なんだって?」
「友達になったつもりは無い」
相手にする気は無かったが、沈黙を肯定と取られるのも不本意なので、葵は一応否定の言葉を告げた。
翡翠はからりと笑った。
「友達なんて、なろうとしてなるもんじゃないだろ。何時の間にかなっているもんだ」
「俺とあいつは、家主と店子だよ」
「でもまあ、仲が良くなきゃ、一緒に生活なんて出来ないだろ」
此方の返答を聞かない勝手なところが、苦手だと素直に思った。他人の土俵に上がらないというよりも、人の話を聞いていないような印象を受ける。
話を聞かない人間は嫌いだ。
葵は生理的な嫌悪を呑み込み、一応は話を聞く態度を取る。
「和輝の友達だって聞いて、良い奴なんだろうなって思っていたよ」
否定の言葉は、受け取らなかったらしい。都合の良い耳を持っているようだ。
葵は、面倒になって視線をコートへ移した。
先程の白熱した勝負とは打って変わり、コートは幼児のバスケットボール教室の様相を呈している。
霖雨が、フリーでレイアップシュートを外した。和輝が邪気無く励ましている。
翡翠はそれを見ながら言った。
「あいつ、結構我儘だし、頑固だろ。自分の意見を曲げないし、融通も利かない。それが、良い方に捉えられたら良いんだけど」
翡翠が溜息を一つ零す。
それは、この世の不幸を嘆くモラトリアムのようでもあった。
「自分の意見を通す為に、手段を選ばないとこあるよな。それが相手の為になってるか如何かって主観でしかないんだよ。物事を俯瞰していても、全然、客観視出来てないし。余計な御世話ってことも、割とあるだろ」
黙って聞いていた葵は、顔を上げた。
概ね同意見だが、他人に言われると腹の据わりが悪い。
「まあね」
葵は肯定した。
「客観視出来てるか如何かってのは、結果論なんだよ。余計な御世話だって思うのに、結果を見るとそれが正解なんだ」
忌々しいね。
葵は鼻を鳴らした。
此方が迷って悩んで苦しんで出した答えを簡単に退けて、後から出て来て正解を選び取る。ーーそれなら、最初からお前が答えを選んでくれよと思う。いっそ、馬鹿馬鹿しくなる。凡人の苦悩は無意味になってしまう。
それでも、彼は悩んだ時間にも意味があると謳うのだ。鬼畜の所業だ。無意味にしたのはお前だろうと、お前が言うなと、ぶん殴りたくなる。
卑屈っぽい考え方は好みでは無いが、葵は零すように続けた。
「それを鼻に掛けないところがまた、人によっては勘に障る。結局、あいつの周りに集まるのは、打算のある奴ばかりだ。脚光のお零れ目当てのハイエナだ。だから、本当の意味で信頼出来る人は、少ないだろうね」
和輝が得意げにシュートを決める。ボールを片手に、ほら簡単だろ、と微笑む。霖雨は苦笑いするばかりだった。
凡人にとっては、簡単じゃないんだよ。
葵が言うと、翡翠は肩を竦めた。
「よく解っているね。其処まで解っていて、如何してそれでも一緒にいるんだ?」
問い掛けられて、葵は考える。
和輝が自分勝手で我儘だなんて知っている。
ただ、そういう人間がいても良いと思うようになっただけだ。
利己主義な犯罪者がいるのだから、自己犠牲的なヒーローがいたって良いのだろう。
絆されているのかも知れない。
「多分、あんたと同じ」
翡翠が首を傾げた。
見様見真似で、霖雨がロボットのようにレイアップシュートを放った。
ボールはリングに衝突した。ぐるりとその周囲を回転すると、風に吹かれたように中心へ落下した。
ゴールだ。
和輝と霖雨が手を取り合って喜んでいる。
こんなものは偶然で、次に入る保証は無い。確率の問題で、運が良かっただけだ。それでも、二人は声を上げて喜んでいる。
馬鹿だなあ。
葵は呟き、疑問に首を傾げる翡翠に答えた。
「退屈なんだよ」
これはただの暇潰しだ。
口角を釣り上げると、翡翠が驚いたように目を丸めた。
そうだね。そうかも知れないね。
曖昧な肯定を示して、翡翠が笑った。何処か幼い笑顔は、ヒーローとよく似ていた。
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