⑽希望の狼煙〈後半〉

 霖雨は、暴力が嫌いだ。


 其処にどのような崇高な理念があったとしても、他の選択肢が許されなかったとしても、相手に外傷を与える行為を奨励することは無い。


 拳で解り合おうとする一昔前の少年漫画も嫌いだ。アクション映画も嫌いだ。パンチ一発で物事を解決するヒーローも嫌いだ。


 人間には言語がある。文明は発達している筈なのに、原始時代の習わしに従う人間の愚かさには呆れるばかりだ。


 葵は、人を傷付けることに躊躇しない。害虫は殺しても良いのに、如何して人間だと咎められるのか解らないらしい。だから、平気で人を殺そうとする。


 和輝は、自分の意思を貫く為なら暴力も辞さない。誰かが道を誤るのなら、殴ってでも正そうとする。危害を加える人間には手加減をしない。


 葵に言わせれば、殺すか殺さないかの違いらしい。そして、エゴで他人を生かそうとする和輝の方が始末に終えず、残酷なのだそうだ。


 暴力を奨励するつもりは毛頭無いけれど、手段を選ばない彼等に幾度と無く助けられて来た。不本意だが、暴力でしか変えられないものがあることも理解している。

 それでも、霖雨自身が拳を振り上げることは無いと思っていた。――今日、この瞬間までは。


 閉ざされたエレベーターの扉を睨み、腹の底から沸々と怒りが込み上げた。全ては、巻き込みたくないと言った馬鹿な男のせいだ。

 全て終わったら、ぶん殴ってやる。


 怯えた目を向ける受付嬢に、自分の素性を告げれば一応は納得したらしい。警備員も訝しげに見ていたが、霖雨は無視して拘束から逃れた。


 沈黙を守る扉の横、丁度到着したエレベーターに飛び乗る。目的地は幾度と無く希望を打ち砕かれて来た屋上だった。

 浮遊感の中で、霖雨は口汚く舌打ちを零した。酷く焦っていた筈なのに、すっかり苛立ちに変わっている。


 この場所に翡翠はいない。そんなことは始めから解っている。これは、回避出来た筈の脅威なのだ。


 これじゃあ、飛んで火に入る夏の虫じゃないか。


 最上階に到達し、扉はゆっくりと開いた。

 踊り場を抜け、霖雨は屋上に続く扉を蹴破った。同時に、破裂音が響き渡った。


 黒服の男が拳銃を向けていた。蒼穹に小さな青年が投げ出される。霖雨は声を上げた。


 届かない。

 男の指先は、再度引き金に掛けられる。


 その瞬間、宙に浮かぶ右足が、男の掌を狙って振り切られた。

 微かな呻き声が上がり、拳銃が弾き飛ばされる。和輝の身体は欄干に衝突し、そのまま天空へ投げ出されていた。


 霖雨は駆け出した。

 切り裂くような強風が吹き付け、踏み出す一歩すら阻もうとする。掌を蹴り付けられた男が忌々しく顔を歪めた。


 和輝が、転落の刹那、欄干を掴んだ。

 右手だった。学生時代に故障し、古傷のある右腕だ。重力を受け、自重すら支えられず、その手は滑り落ちる。

 間一髪のところで、屋上の縁を掴んだ。霖雨の視界には、縋り付く和輝の指先しか見えなかった。


 あと一歩、あと一歩で良い。

 だから、堪えてくれ。


 拳銃を拾った男は、突然の侵入者である筈の霖雨等眼中に無いようだった。その照準は変わらず、死に掛けのヒーローに定められている。


 手を伸ばす、手を伸ばす。

 届かなかった指先が、空気を切り裂く感覚が生々しく残っている。


 あとほんの少しで良い。あと数秒で良い。

 縁を掴んだ指先が滑り落ちる。




「和輝!」




 霖雨が叫んだ。その声は、夜明けを告げる鐘の音のように響き渡った。


 人は死の瞬間に走馬灯を見るという。

 和輝の脳内には、生きて来た記憶が電気信号となって目まぐるしく伝達された。それは一瞬だったのかも知れない。永遠にも似た時間だったのかも知れない。


 その時、葵の不貞腐れたような横顔が鮮明に蘇った。


――期末試験が終わったら、チーズケーキを焼いてくれよ


 葵の声が聞こえた気がした。何でも無いことみたいに告げられた言葉に、心臓が軋むように痛んだ。


 初めて葵の好物を知った。それが、心を開いてくれている証拠みたいで、嬉しかった。

 それはきっかけだ。和輝が理解すると同時に、無数の言葉が雨の如く降り注いだ。


 待ってるからな。

 約束だぞ。

 必ず帰って来いよ。

 行ってらっしゃい。


 兄が、匠が、葵が、霖雨が言った。

 記憶が津波のように押し寄せ、和輝は浮遊感とは異なる目眩を覚えた。記憶の濁流の中、和輝は楔を打ち込まれたように、唐突に思い出した。


 自分はまだ、ただいまを言っていない。

 約束を果たしていない。


 自分が嫌いだ。弱い自分を認められない。愚かな自分を許せない。だから、誰かに必要とされないと生きられない。


 だけど、それでも良いのだろうか。


 こんな自分でも、許されるのだろうか。必要としてくれているのだろうか。


 待っている人がいる。――こんなところで、死ねない。


 生きたい。


 思考の全てを塗り潰す程の強烈な欲求だった。

 汗の滲む掌に力が篭る。 古傷が熱を帯びて骨を軋ませても、強風が容赦無く吹き付けても、その手を離せなかった。


 霖雨が手を伸ばしている。

 和輝は、手を伸ばされたら拒めない。それが、自分に助けを求めるものであっても、自分を助けようとするものであっても、離せない。

 例え、転落すると解っていても、離すことが出来ない。


 道連れにする為に、連れて来た訳じゃない。

 衝動を呑み込もうとした和輝は、痺れと共に手を滑らせた。悲鳴を上げる間も無く、身体は重力に従って落下した。――だが、それは霖雨の掌に阻まれた。




「届いたぞ……!」




 それは、真夜中に虹が架かるような奇跡だ。


 幾度と無く断ち切られて来た希望の残照。今にも死にそうな顔をして、霖雨が絞り出すように言った。

 和輝は宙ぶらりんのまま、頭上の霖雨を見上げた。


 その後ろに、銃口を構える男が見えた。

 このままでは、自分も、霖雨も死んでしまう。


 和輝は腕を振り解こうとした。だが、男の後ろ――蒼穹に一筋の緑色の帯が浮かんでいることに気付いた。


 天へ昇る龍にも似たそれが何かなんて、和輝が誰よりも知っている。それは、発煙筒だ。


 脅威に晒された友人を救う為の目印。希望の狼煙。この狼煙が上がる時、必ず助けに行くと約束した。


 翡翠は、生きている。


 拉致されていた翡翠が一人で脱出出来るとは思えない。誰かが、助けに行ったのだ。

 この事態を知っていて、尚且つ、行動可能な人間。和輝には、一人しか思い付かない。


 葵。


 透明人間と呼ばれる青年。彼が生きている。何の確証も無いのに、和輝はそれを確信した。


 翡翠は生きている。葵も無事だ。霖雨が腕を取っている。

 銃口を構える男が笑みを浮かべている。和輝は弾かれるように叫んだ。




「霖雨、逃げろ!」




 逃げろと叫んでも、和輝は掴んだ手を離せない。霖雨は振り返りもしなかった。


 破裂音が響き渡った。

 脳漿を吹き出した男の身体が、陽炎のようにぐらりと揺らぐ。そのまま横転する向こう、翡翠色の龍を背負った影が立っていた。


 銃口を向けて、日輪に似た金色の瞳で男が笑う。

 目の下には、今にも羽ばたこうとする群青の鷹が、太陽を守るように浮かんでいた。


 最速のヒットマン、ハヤブサ。


 漆黒のスーツに身を包んだ近江が、にっこりと微笑んだ。




「届いたじゃないか」




 霖雨は和輝を引き上げた。


 和輝は平均身長を大きく下回る子どものような体格だ。霖雨一人で十分に引き上げられる。

 それでも、掌に確かに残る重さに泣き出したくなる。


 殴って遣ろうと思っていたのに。


 和輝を引き戻し、霖雨はその痩躯を抱き締めた。


 心臓の音がうるさい。汗がしっとりと滲む。彼は、生きている。

 圧し潰すように抱き締める霖雨の肩で、和輝が喘ぐように言った。




「ただいま」




 何でも無いことみたいに、和輝が笑う。


 そのたった一言の為に手を伸ばし、その度に絶望した。それでも、諦められなかった。


 何度も運命の濁流が彼を呑み込もうとして、幾度となく希望は打ち砕かれて、それでも、――諦めなくて、良かった。









 15.パラレルワールド

 ⑽希望の狼煙〈後編〉










 旅客機の爆破テロが、世間を震撼させている――。


 死傷者は300名を超え、猛火は丸一日消えず、被害者の骨すら焼き尽くしたという。

 国のトップは宗教組織によるテロと断定し、徹底抗戦を掲げた。賛同する人々は狂気を帯び、やがて国境を越えた戦争へ発展することは明白だった。


 霖雨は、ワイドショーを賑わす事件映像をぼんやりと見ている。


 和輝を救出した後、近江は幻の如く消え失せた。組織が追撃して来なかったところを見るに、ハヤブサが暗躍したのだろうと霖雨は思う。


 すぐに葵から連絡があった。

 翡翠を救出したと、やはり感情の無い声で言った。


 世界は、大勢の死者を悼み涙を流している。テロを憎み、血で血を洗おうとしている。それを不毛だと、霖雨はもう笑えない。


 霖雨は選んだのだ。300名を超える命と引き換えに、たった一人の友達を選んだ。同じ選択を提示されても、霖雨は何度だって同じ選択を下しただろう。


 葵も、何も言わなかった。

 空港で、爆弾の存在を知りながら目を瞑ったのは葵だ。人の痛みに共感する能力が欠如しているようではあるが、恐らく最も泥を被ったのは彼だった。


 葵が何も言わないので、霖雨はあの世界が夢だったのでは無いかと錯覚しそうになる。

 過去が変わることで、未来も変化しているのだ。


 旅客機の爆破テロが起こったことで、他の便は運行を見合わせた。結果、春馬の乗った飛行機の到着は一週間近く遅れることになった。

 和輝が生きているから、春馬は過去を廻る必要が無い。あのような世界に迷い込む理由も無かった。


 翡翠は警察に保護され、無事、日常生活を送っている。

 少なくとも、霖雨の周りは穏やかな日常に戻った。


 リビングでぼうっとしていると、自室に籠もっていた葵が現れた。

 霖雨には目もくれず、真っ直ぐにキッチンへ向かう。

 煙草でも吸いに行くのだろう。用も無かったが、霖雨は何となくそれを目の端で追った。

 葵は換気扇の下には向かわず、冷蔵庫を開けた。取り出した一枚の平皿に、ホールケーキが載っている。


 チーズケーキだ。

 雪のように真っ白なチーズが、タルト生地の上に積まれていた。中央にはラズベリーとブルーベリーがミントの葉と共に添えられている。

 店にでも並びそうな品だが、それは和輝の手作りだった。葵との約束の品だと、朝早くからキッチンに籠もっていたのだ。




「客が来るんだから、御茶菓子に残して置いてくれよ」




 霖雨が声を掛けると、葵は露骨に嫌そうな顔をした。




「これは俺の報酬だ。他人にくれて遣る理由も無い」

「はいはい」




 和輝がいれば、別の菓子を用意してくれたかも知れない。そんなことを考えて、霖雨は溜息を零した。


 件のヒーロー、和輝はこの家にいない。

 空港が再開されてすぐに、この国を立った。兄から送られた試合のチケットに間に合わないと言って慌てて出て行ったのだ。其処に翡翠も付いて行ったらしい。


 和輝の兄、祐輝はチャリティ試合を行っている。テロの被害者を悼む為だ。

 彼等がどのくらい事態を理解しているのかは解らない。何も知らなくて当然だ。


 和輝は友人を救う為に奔走し、周囲から励まされ、助けを借り、事態を解決したのだ。その事実以外の記憶は抹消されている。


 否、選んだことで、未来が分岐したのだ。

 今も何処かの世界は、ヒーローを消失した絶望のままに進んでいる。


 幸福な未来にいる自分の代わりに、誰かがそのツケを払っている。

 食物連鎖と同じだ。代償は常に付き纏う。


 罪の重さに膝を着きそうになる。けれど、和輝がいたなら、きっとこう言っただろう。


 希望がある、希望がある、希望がある、と。

 この世は弱肉強食だ。自然の摂理には逆らえない。だからこそ、乗り熟すのだ。


 波を滑るように、運命の濁流すらも乗り熟せ!


 そんなことを言って笑う和輝が容易に想像出来て、霖雨は泣き出したくなる。


 誰からも認められないような未来しか残っていなくても、それでも信じて足掻く。諦めるなと、ヒーローが何度でも言う。


 チーズケーキをテーブルまで運んだ葵は、フォークを差し出した。その行為の意味するところが解らず、霖雨は首を傾げる。

 葵は口を尖らせて言った。




「分けてやるよ」

「良いのか」

「良いも悪いも、釘を刺されている」




 葵は一枚のカードレターを取り出した。

 蚯蚓ののたくったような汚い文字が記されていた。


 霖雨と一緒に食べるんだぞ。

 分け合った方が美味いんだから。


 母親のような気遣いに、霖雨は喉の奥から込み上げて来る笑いを殺し切れなかった。


 続きがあるぞ。

 葵が言った。指差す先、カードレターを裏返すと母国の言葉が刻まれていた。


 ”行ってきます”




「ムカつくな」

「ああ。――同感だ」




 共感を示し、葵はケーキを切り分け始めた。

 タルト生地はサクサクで、チーズは柔らかく崩れてしまいそうだった。珍しく葵が苦戦しているので、何故だか貴重なものを見たような気がして凝視してしまう。


 もうじき、来客がある筈だ。

 チャイムを鳴らすであろう兄――春馬の姿を思い浮かべ、霖雨は口元を綻ばせる。


 これが夢か現実かなんて証明出来ない。けれど、それでも良いと思った。人は信じたいものしか信じない。ならば、自分はヒーローの守った世界を信じよう。


 如何にかケーキを切り分けた葵が、一仕事終えたみたいに息を吐く。感情を表に出さない彼の内面が透けていて、霖雨は嬉しくなった。


 そういえば――。


 霖雨は思い出し、問い掛けた。




「和輝の期末試験は大丈夫だったのか?」




 飛行機の運行見直しで、日程は考慮されただろう。だが、通常に戻った今は如何なったのだろうか。

 霖雨が問い掛けると、フォークの落ちる音がした。


 何だろうと目を向けると、葵がフォークを取り落としたところだった。

 珍しいと思いながらフォークを拾う。葵の手が震えていたので、霖雨は状況を理解した。


 ヒーローも葵も、すっかり忘れていたらしい。



 怒りの収まらない葵がソファを蹴り付る。そして、何食わぬ顔をした春馬がチャイムを鳴らすまで、あと数秒――。

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