⑽希望の狼煙〈前編〉
和輝がポストを覗くと、幾つかのダイレクトメールの他に、エアメールが二通届いていた。
宛先は霖雨だ。如何やら、母国の友人からの手紙らしい。
先程の弱り切った霖雨の姿を思い出す。
この一通の手紙が、彼の励みになったら良いな。そんなことを思いながら、和輝はそっと表を撫でた。
もう一通は自分の兄からの手紙だった。
待ち切れずその場で開封する。異国で暮らす自分を労わり、心配ばかりする兄の四角い文字が定規で測ったような正確さで、便箋にきっちりと収まっていた。
便箋の下から二枚のチケットが現れる。
試合と、飛行機のチケットだった。テレビ越しに見て来た兄の雄姿を観戦する権利だ。
何故だか泣きたくなって、和輝は俯いた。
会いたいと、強く思う。
その時だった。
碌に携帯もしていない電話が、ポケットの中で震えた。和輝は慌てて目元を強く擦った。
携帯電話が呼び続けるので、和輝は慌てて応答した。
相手も確認しなかった。
『和輝』
酷く懐かしい声が聞こえた気がして、和輝は耳を疑った。
着信、蜂谷祐輝。
和輝は突然の電話に、咄嗟に言葉を見失った。けれど、祐輝は此方の返事を待たずに言った。
『和輝、今すぐ会いに行くからな』
「――はあ?」
和輝は素っ頓狂な声を上げた。
自分の兄は突然何を言っているのだろう。だが、電話の向こうにいる兄の切羽詰まった様子に、和輝は酷く狼狽していた。
「何で、如何して」
『俺がお前に、会いたいからだよ』
当たり前みたいに、兄が言う。
今は大切な時期だ。メジャーリーグで活躍しているけれど、それは綺麗な経歴故だ。少しでも隙を見せたらマスコミの餌食になる。ましてや、兄を鳴り物入りの色物投手だなんて馬鹿げた評価をしている人間もいるくらいだ。
自分は、兄の足を引っ張りたい訳じゃない。兄の傷になりたい訳じゃない。
玄関の扉が開いて、葵が飛び出して来た。
何かを言い返そうとする和輝に、祐輝が被せるように言う。
『兄が弟を大切に想うことに、理由なんているか。お前が大切なんだ。お前に生きていて欲しいんだ。ただ、それだけだ』
視界が滲み、歪んで行く。
それで良いよ。
当たり前みたいに、兄が言う。
和輝は鼻を啜った。
声が震えないように、腹に力を込める。
「チケット、送ってくれただろ」
『うん』
「試合、見に行く。俺が会いに行く。兄ちゃんの一番格好良いところ、一番近くで見たいから」
電話の向こうで、兄は笑ったようだった。
『待っているよ』
15.パラレルワールド
⑽希望の狼煙〈前編〉
葵は、小さな通話機器越しに会話する二人の兄弟を見ていた。
お前が必要だと、お前じゃなきゃ駄目なんだと、照れや怯え躊躇も無く口にする。黙っていても届かないと解っているからだ。
彼が本当に欲しかった言葉を、簡単に口にするものだ。
通話を終えた和輝は俯いている。右腕で顔を覆い、背中を震わせていた。
噛み殺した嗚咽が聞こえる。薄手のジャケットの袖が、涙を吸い込んで染まって行く。
ぽたりぽたりと、透明な滴が芝生に吸い込まれた。
まだ、二十一歳だ。
その行動力と冷静さに何時も引き摺られるけれど、まだたったの二十一歳。死を覚悟するには、早過ぎる。
友人を救う為に、命すら危険に晒そうとした。自分のことが嫌いで、認められなくて、許せなかったからだ。
それで良いよと言ってくれる人がいる。お前が必要だと言葉にして伝えてくれる。
今なら、届くかも知れない。
葵は、問い掛けた。
「なあ、お前、俺にして欲しいことあるか?」
「また、勉強を教えてくれよ」
「いいよ」
鼻の頭を赤くした和輝が、にっこりと微笑んでいる。葵は肯定しながら、一言一句間違うまいと、はっきりと言った。
「その代わり、何処へもいなくなるなよ」
和輝は困った顔をした。何と返したら良いのか迷っているようだった。
約束出来ないから、困っているのだ。
彼は巧みに嘘を吐くけれど、根は正直者だ。人を傷付ける嘘を吐けないお人好しだ。
葵は、逃がさないとばかりに畳み掛ける。
「絶対に、いなくならないと誓え」
「何だよ、急に」
「俺は、これでもお前の作る飯が気に入っているんだから」
和輝は、照れ臭そうに微笑んだ。
「ありがとう」
「期末試験が終わったら、チーズケーキを焼いてくれよ」
「何でまたチーズケーキ?」
ことり、と和輝が首を傾げる。葵は、目を伏せた。
「俺の好物なんだよ」
答えると、和輝は驚いたみたいに目を丸めた。そして、次の瞬間には、くしゃりと顔を歪ませて笑った。
「――うん、解った。覚えておく。絶対に、忘れない」
嬉しそうに、和輝が言う。
最後の世界だ。イレギュラーも起こっている。けれど、これまでの世界と何かが違う。
其処此処に光が溢れている。何度繋いでも断ち切られた希望が、一筋の光となって輝いている。
和輝の携帯電話に、再び電話が掛かって来た。脅迫電話だ。
さっと顔色を変えた和輝に、葵はそれを悟る。
この場で嘘を看破することは出来ない。和輝が不審に思い、タイムパラドックスが起こる可能性がある。
しかし、彼の後を追跡しても間に合わない。
如何する。葵は爪を噛んだ。
通話を終えた和輝は、紙のような白い顔をしていた。友人が拉致されたことを知ったのだ。
如何する。
その時、続け様に携帯電話が呼んだ。固い表情でディスプレイを見た和輝は、驚いたように目を丸めた。
「匠?」
母国に残して来た親友の名前を、和輝が呼んだ。葵は、白崎匠の言葉を思い出す。
如何にかして、和輝を繋ぎ留めてみせる。
あの言葉は嘘ではない。
応答した和輝は驚きを隠せないようだった。聞き取れないが、白崎匠の不機嫌そうな低い声が何かを言っている。不満をぶつけているようでもあり、叱り付けているようでもあり、励ましているようでもあった。
「待ってろって、言っただろ。必ず帰るから、待っていて」
約束、三つ目――。
葵と霖雨だけでは変えられなかった和輝の意思が、確かに変化して行く。水中から浮かび上がる気泡のように、希望が湧き上がって来る。
通話を終えた和輝は、葵を見て泣きそうに微笑んだ。けれど、それは悲愴ではない。
「帰って来たら、美味いチーズケーキ食わせてやるから、楽しみにしてろ」
身を翻すように、和輝は葵の側を通り抜けた。
玄関の扉が開かれる。何が変わった訳でも無いけれど、何かが確かに変わっている。
葵はそのまま歩き出した。時間が、無い。
霖雨はリビングで、戻らない二人を考えて浮き足立っていた。殴り合いの喧嘩でも始めていたら、自分では止められない。
実際、過去の世界で、葵は和輝を止める為に手を上げた。当然、和輝も黙っていなかったので、二人は殴り合いになった。
体格と経験の差で葵が勝った。けれど、和輝は怪我をしたまま拘束を解いて出て行ってしまったのだ。結局、結果は変わらなかった。
扉が突然開け放たれたので、霖雨は肩を跳ねさせた。酷く真剣な顔をした和輝が立っていた。
反応出来ない霖雨はそのままに、和輝は大股で距離を詰めた。ソファに座っている霖雨を見下ろし、和輝は一通の手紙を差し出した。
そういえば、友人から手紙が届くのだった。
小さな声で礼をすると、明朗な声で「どういたしまして」と返って来た。
そのまま和輝が立ち去らなかったので、霖雨は開封を止めた。
如何した、と問い掛けるより早く、和輝が言った。
「一緒に、泥舟に乗ってくれないか」
何のことだ。霖雨は首を捻る。けれど、真剣な和輝の眼差しに、雷に打たれたような衝撃と共に理解した。
これは、この言葉は、和輝の助けを求める声だ。これまで、たったの一度も助けを求めず、一人で全部背負って死んだヒーローの声なのだ。
和輝は一見平然としているけれど、握り締めた拳が微かに震えていた。
霖雨はそうっと顔を上げ、答えた。
「良いよ。その言葉を、ずっと待っていた」
和輝が驚いたような顔をした。
霖雨が立ち上がると、和輝はくしゃりと笑った。久しく見なかった、彼の本当の笑顔だった。
友人が拉致されたと、和輝は言った。脅迫電話を受けて、空港近くの空き地に呼び出されている。一人では救えない。だから、力を貸してくれ。
一息に言った和輝は、ソファに投げ出していた鞄を引っ掴んだ。
事件の概要は知っている。けれど、それを彼の口から聞くのは初めてだ。
可能性という名の希望が光っているのが解る。好機は、今到来しているのだ。
庭先にバイクを引っ張り出し、追って来ていた和輝にヘルメットを投げて渡した。
迷い無く後部座席に座った和輝が酷く懐かしい気がした。
和輝を乗せて高速道路を走る。事故も渋滞も工事も存在せず、バイクは滑らかに走った。法定速度を上回る猛スピードでも、警察の気配すら感じられない。
シナリオから脱出出来たのだろうか。上手く行き過ぎている気もする。
空港には行かず、手前の廃倉庫前の空き地に向かう。到着すると同時に、和輝はひらりとバイクを降りた。
被っていたヘルメットを投げ渡し、此処で待っていてくれ、なんて微笑んだ。
霖雨が制止する間も無く、和輝は走って行った。
バイクを停め、慌てて追い掛ける。その時、発砲音が響き渡った。
駆け付けてみれば、アスファルトには男が一人、倒れ込んでいた。気絶しているのだと説明した和輝は、頬に出来た一筋の擦過傷を親指で軽く擦った。
この場所に翡翠はいない。空港だ。
そう言って、和輝は再びバイクの元へ向かう。
相変わらず無敵のヒーローだ。彼が健在ならば、容易く死ぬ筈も無い。
これまでの世界では、後手に回り続けた。タクシーで運ばれて行く和輝を追い掛けていた。だが、今は違う。この手で運命を手繰り寄せている。
霖雨は、サーフィンをしている和輝の姿を思い出していた。波の上を自在に滑る和輝。抑え付けるのではなく、乗り熟す。嘗て見たヒーローの姿に似ている。
空港へ向けて走り出そうとした手前、霖雨の携帯電話がバイブレーションを響かせた。着信、神木葵。
先回りをしているだろう葵は、空港にいるのだろうか。それとも、都心の高層ビル?
霖雨が応答すると、葵は何時もの感情の無い機械みたいな声で言った。
『翡翠は生きているよ』
端的に、葵が言う。
『間に合わず、連れ去られたところだった。恐らく、黒幕のところだろう。其処の馬鹿に、伝えてくれ。決着を付けて来いと』
頬をぴったりと付けるようにして聞き耳を立てていた和輝は、神妙な顔付きになって問い掛けた。
「何で葵が、翡翠のことを知っているんだ」
事態は良い方向に向かっている筈なのに、些細なきっかけが綻びとなる。和輝に未来のことを悟られてはならないのだ。
こんな時くらい、軽く流してくれよ。
霖雨は嘆いた。
電話の向こう、声が聞こえていたのか、葵はさらりと答えた。
『お前の浅知恵なんか、お見通しなんだよ』
「俺の嘘が、見破れる筈無い。大体、朝から葵は変だった。まるで――、全ての展開が解っているみたいだ」
霖雨は息を呑んだ。
これまで慎重に行動を選んで来たのに、こんなところで。
和輝が言った。
「今すぐ、空港から離れろ」
『言われなくても』
和輝は追及しなかった。
霖雨がほっと胸を撫で下ろすと、和輝は苦く顔を歪めて言った。
「俺は、誰も巻き込みたくなかったんだ」
知っている。そんなことは、解っている。
そして、霖雨は理解する。これは疑念ではなく、不甲斐ない自分への苛立ちなのだ。葵に悟られたことを、後悔している。
行こう。
霖雨は立ち尽くす和輝の背中を叩いた。
丁度Uターンする形で、バイクは走り出す。都心の高層ビルは、これまで何百と通って来た道程だった。
希望を載せている。安全運転を肝に銘じるが、周囲は不審な程に渋滞も事故も存在しない。
高速道路を抜ける。丁度、その時だった。
地を揺るがすような轟音が鳴り響き、地盤諸共、空気が激しく振動した。
操縦を喪った自動車が急ブレーキを掛け、玉突き事故が起こった。霖雨のバイクの前、中型のトラックが横転して突っ込んで来た。
咄嗟に大きくハンドルを切った。バイクは間一髪で衝突を免れたが、霖雨は和輝と共に路上へ投げ出された。
頭を抱え、霖雨の身体はアスファルトを滑った。勢いよく消音壁に衝突し、一瞬、呼吸を忘れて激しく噎せ返った。
生理的な涙に潤む視界に、小さな背中が映った。和輝が、東の空を見詰めている。
空港の方角だ。空には禍々しい黒煙が立ち登り、蒼穹を覆い尽くさんばかりの勢いで広がっている。
辺りからは悲鳴と動揺の声が上がる。緊急車両のサイレンが遠く響いていた。
旅客機が、爆破されたのだ。
霖雨は直感した。
救世主である筈のヒーローが此処にいる。選ばれなかった人々は、猛火に包まれ苦しみ死んで行く。きっと、誰も助からない。
そのまま走り出しそうな和輝の腕を掴んだ。それは溺れる者が藁に縋る様に似ている。振り向いた和輝は、泣き出しそうに顔を歪めていた。
「葵は、」
「大丈夫だ、きっと」
被せるように告げ、霖雨は携帯電話を取り出した。葵の安否を確認しなければならなかった。
殺しても死なないだろう人間だとは思う。
だが、同様の人種である筈の和輝ですら、死んだのだ。楽観はしない。
この騒ぎの為なのか、通信回線はパンクして繋がらなかった。
泣き出しそうな和輝を励ませるだけの情報は無い。
空港へ向かおう。
絞り出すように、和輝が言った。それは、翡翠を捨てることと同義だった。
葵と翡翠を天秤に掛けて、和輝は選んだのだ。今にも涙が零れ落ちそうであるのに、その双眸には決して揺るがない確固たる意思が滲んでいた。
霖雨は考える。展開の先は予測出来ない。
これまでの世界とは違う。異常事態も起きているし、失敗したら取り返しが付かない。
翡翠を捨てたことは何度もある。和輝を救う為だと、幾度と無く切り捨てて来た。
霖雨は、縁も所縁も無い翡翠を切り捨てても構わない。それで和輝が助かるのなら、他のことは如何なっても良かった。
だが、その試みは全て失敗に終わった。和輝が、翡翠を捨て切れなかったからだ。
翡翠が生きていなければ、和輝を救えない。
だが、このまま葵を置いて行く訳にはいかない。如何する――。
霖雨は言った。
「葵は大丈夫だ。信じろ」
此方の動揺は、欠片でも悟られてはならない。
声が震えないように腹に力を込めた。
このヒーローは、人の嘘が解る。霖雨の言葉が如何に危ういものであるのか、解るだろう。
それでも、信じろと言われたら、和輝はそれを拒絶出来ない。彼の優しさ故の甘さだ。漬け込むような真似は卑怯かも知れない。だが、和輝は確かに頷いた。
バイクの側面は派手に擦り剥けていたが、運転には支障が無かった。倒れていた車体を起こして跨ると、すぐさま和輝が飛び乗った。
時間が無いのだと、急いで欲しいと暗に伝えている。
弾丸のように道を駆け抜けた。目的地に到達するまでの約20分間、一度も言葉を発さなかった。
高層ビルは、何も知らずに聳え立っている。その様が、まるで、お前達のしていることは無駄だと訴えているようだった。
バイクを飛び降りた和輝が、葵に連絡をしてくれと言った。言われるまでも無かったが、霖雨は了承した。
履歴から番号を呼び出し、電話を掛ける。やはり、繋がらない。
嘆息を漏らし、結果を伝えようと顔を上げる。――其処に、和輝はいなかった。
「和輝!」
小さな青年は、今まさに、エレベーターに乗ったところだった。
追い掛けようとした霖雨は、入口を守る警備員に阻まれた。エレベーターの扉が閉まる刹那、和輝が微笑んだ。
それは、別れを告げて出て行ったあの日と同じ顔だった。
俺は、誰も巻き込みたく無かったんだ。
和輝の声が、何処かから聞こえた気がした。
霖雨の伸ばした手は届かず、和輝の姿は視界から消え失せた。
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