⑼繋ぐ
霖雨が目を開くと、葵が立っていた。幾分か顔色が悪い。
周囲は闇に満ち、足元からは金色の光が立ち昇る。
戻って来た。
霖雨は、それを理解した。
春馬がそっと肩を撫でた。労わるようで、距離感を測っているようでもあった。
「あと少し」
囁くように、葵が言った。
もう一回。
今度は届くかも知れない。
懇願の響きを帯びた言葉に、霖雨は力無く頷いた。
元より他に道は無い。
春馬はその言葉に従って、新たな世界へ導いた。
二人はシナリオを繰り返す。
和輝が天麩羅饂飩を作っている。夜にはラーメンを茹でる。そして、呑みに出掛ける。翡翠が拉致され、和輝は暴漢に襲われる。
翡翠を人質に取られ、和輝が空港へ向かう。爆弾を解除し、都心の高層ビルに行く。そして、転落死。
互いの役割を変えてみても、タイミングをずらしてみても、シナリオは変わらない。
一度、翡翠を殺すシナリオも試してみた。近江に依頼して暗殺してもらったが、和輝が転落死するシナリオは変わらなかった。
先回りしようとすれば、渋滞に巻き込まれて間に合わない。
和輝を縛り付けても、それを巧みに突破してしまう。
何百回目――。
霖雨は、闇に染まった空間で頭を抱えた。
自分は、何百回、友達の死に様を見たのだろう。屋上に辿り着いても、あとほんの少しが届かない。
目の前にいても、あと一歩が足りない。
ぐらりと視界が歪み、霖雨は立っていられなかった。
次は届くかも知れない。次は、今度こそ。
そう思いながら、どのくらい、希望が打ち砕かれて来ただろう。
可能性を吟味する内、まるで、霖雨は和輝を実験台に使っているような心地になった。
和輝を救おうとしているのか、それとも、自己満足の為に死なせているだけなのか。
喉の奥から何かが込み上げて、霖雨は首を押さえた。言葉も吐瀉物も出ては来ない。
それでも、何かを叫びたかった。
「もう、嫌だ……」
可能性を虱潰しに探す葵と春馬が、血の気の失せた面を向けた。最早、誰も正気ではない。
葵は、興味も無さそうに目を背けた。
もう一回。
葵が言う。
霖雨は叫んだ。胸に溜まった淀が、喉の奥から零れ落ちた。
「もう嫌だ! これ以上、和輝の死ぬところを見たくない……」
屋上に辿り着けるのは、霖雨だけだ。
葵では如何足掻いても、到達出来ない。それが葵の導き出した結論だった。
そして、消去法として、飛行機で和輝を止めるのは葵しかいない。
其処まで解っても、シナリオは変わらない。
それでも、葵は止まらない。
幽霊のような希薄な存在感で、何度目かも解らない、もう一回を求める。
何故だ。
如何して、諦めない。可能性なんてもう残っていない。
一体、何を原動力に動いているのだ。
霖雨には理解出来ない。
崩れ落ちるように膝を着き、霖雨は蹲る。
頭がおかしくなりそうだ。永遠にこの世界から抜け出せないような気さえしていた。
歴史は改変が始まっている。
和輝を諦めてしまえば、この世界は終わって新しい明日が来る。
何が正解なのか解らない。このまま和輝が死ねば、300人近い人間が助かる。
その為に諦めても、和輝は責めないだろう。それどころか、一人の犠牲で大勢が助かるのなら、正当な理由にすら思えた。
蹲る霖雨の隣、そっと膝を着く気配があった。顔を上げる気力すら無かった。
葵の声がした。
「お前、それでいいの」
本当に?
葵が、問い掛ける。
「もう、駄目か? 立ち上がれないか? 此処で諦めていいのか?」
突き刺さるような、真摯な声だった。
霖雨は導かれるように顔を上げた。葵はぎゅっと眉を寄せて言った。
「ヒーローは絶望なんてないと言っていたぞ。失っても失っても希望はある。だから、どんなに苦しくても前へ進まなければならない」
消失したヒーローの言葉を、葵が噛み締めるように言った。まるで、それだけが救いだと言うみたいに、祈るように、縋るように言う。
もう一回。葵が言う。
「あと一回で良い。もう、頑張れないか?」
次は届くかも知れない。否、次こそ、届く。
何の確証も無いのに、葵が言った。
人は信じたいものしか信じない。それでも、信じるしかないのだ。
霖雨はゆっくりと立ち上がり、頷いた。
見下ろしていた春馬が、冷静な声で言った。
「この世界も、もう限界だ。次が最後の世界だろう」
「――充分だ」
顔を上げ、葵が言った。
立ち昇る金色の粒子がその頬を照らす。春馬は応えるように、少しだけ笑った。
「これが最後だ。――今度こそ、ヒーローを救って遣ってくれ」
命を削り輝く蛍のように、金色の光が滲む。春馬の言う通り、終焉は近いのだろう。
光が広がり、暗闇を包み込む。確かな覚悟を宿した葵が天を仰ぐ。まるで、此処にいないヒーローのようだった。
光に目が眩み、霖雨は目を閉じた。
15.パラレルワールド
⑼繋ぐ
「――霖雨?」
霖雨が目を開けた先、和輝がいた。
しゃがみ込む霖雨を労わるように、優しく肩を撫でている。
この世界が最後だ。
今度こそ、和輝を救わなければならない。けれど、霖雨にはもう、その手段が解らないのだ。
和輝はマグカップを持っていた。自分がどの時点にいるのか解らず、霖雨は混乱した。
慌ててポケットから携帯電話を取り出した。
和輝の死んだ日の朝だった。
これまで戻って来た世界は、前日だった。
春馬の言うように、限界なのだろう。最後の世界だって言うのに、異常事態が起こっている。
当日の朝ということは、翡翠は既に拉致されているのか。
マグカップを持つ和輝の後ろ、ソファには丸く膨らんだ鞄が投げ出されている。
出立の朝だ。
霖雨は目眩がした。
テレビの向こう、何も知らない人間達が長期休暇に胸を躍らせている。明るい笑顔に、霖雨は酷く責められているような気がした。
自分は、彼等を殺す選択をした。たった一人を救う為に。
残酷な選択だ。けれど、何も知らず笑う人々が、まるで和輝の死を喜んでいるようだった。
罪悪感なのか、義憤なのか、憎悪なのか、もう、霖雨にも解らない。何が夢で現実なのか、何が正解で不正解なのか。もう解らない。
目の前には、意思を揺るがせないヒーローがいる。霖雨は、喘ぐようにその名を呼んだ。
なあ、和輝。
呼べば、和輝はことりと首を傾げる。霖雨は問い掛けた。
「例えば、どんなに足掻いても無意味で、何回遣っても実現不可能で、目の前すら見えない絶望があったとしたら、如何する?」
理解不能の問い掛けに、和輝は、きょとんと瞠目していた。構わず、霖雨は、縋るようにその手を握った。
「失敗が目に見えていて、遣るだけ無駄で、誰からも認められないような未来しか残されていないとしたら、如何する?」
解っている。これは、弱音だ。
弱音も泣き言も零さない和輝や葵に比べ、なんて自分は弱いのだろう。
自分の無力さに、涙が滲む。泣き顔を見られるまいと、顔を伏せる。眼窩から熱が込み上げて、零れ落ちてしまいそうだった。
和輝は、掌を掴み返した。陽だまりのように温かい掌だった。
「解んね」
でも。
和輝が覗き込むようにして、言った。
「――でも、俺ならきっと、それでも諦められないんじゃないかな」
霖雨は、導かれるように顔を上げた。目の前に、透き通る綺麗な瞳が煌めいていた。
「たった一度や二度の挑戦で結果が解るなら、誰も命を懸けようなんて思わない」
その痩躯や柔和な笑顔からは想像も出来ない力強さで、惑星のような強烈な引力を放ちながら和輝が言う。
「諦められないんだろ? なら、足掻けよ。もう駄目だって嘆いている内は、まだ希望がある。言ったじゃないか」
言い聞かせるように、説き伏せるように、一言一句間違うことの無いように、闇の中で一筋の光を辿るように、ゆっくりと和輝が言う。
「失っても失っても、希望はある。だから、前を向いて生きるしかないんだよ」
それは絶望ではなく、希望の言葉なのだ。
和輝が何度でも、訴える。
希望がある、希望がある、希望がある。
足掻け、諦めるな、信じろ。
何度でも!
目の奥から、熱が込み上げる。鼻の奥がつんと痛み、霖雨は奥歯を噛み締めた。
その時、葵の部屋の扉が勢い良く開いた。
血の気の無い顔をして、葵が真っ直ぐに和輝を睨んでいる。其処にいつものような希薄な存在感は無い。
透明人間ではない。確かな質量を持って、葵が立っている。
驚いたらしい和輝は肩を跳ねさせた。何時に無い葵の剣幕に、気圧されている。
葵は霖雨の首根っこを捕まえると、そのまま自分の部屋に引き摺りんだ。和輝は呆然と目を丸くしていた。
部屋の鍵を閉めると、葵が言った。
「イレギュラーが起こっている」
「ああ。前日はスキップされて、当日の朝になっている。時間が無い」
「充分だよ。可能性の尻尾を捕まえたんだ」
「可能性?」
「始めから俺達だけじゃ届かなかったんだ。協力者が必要だ」
霖雨は眉を寄せた。
「でも、近江さんじゃ間に合わないし、春馬は飛行機が到着するまで来れない。他に、誰が」
「あの馬鹿本人だよ」
当然のような顔で、葵が言う。霖雨は、その言葉が理解出来なかった。
救うべき張本人である和輝には、悟られてはならない。すれば、タイムパラドックスが起こり、世界そのものが崩壊する可能性がある。だからこそ、自分達は表立って行動することが出来なかった筈だ。
それでも、葵は表情を変えなかった。
「俺達が変えるべきだったのは、和輝の意思そのものだ」
じゃあね、と言って出立した和輝は、死を覚悟していた。友人を救う為に、自分の危険も厭わなかった。
和輝の意思を変えることは、可能なのだろうか。
「ただ、俺達には、その方法が解らない。あの馬鹿の意思を変える手段が無い」
「じゃあ、如何するんだ」
「訊く。あの馬鹿の専門家がいるだろう」
葵は携帯電話を取り出した。そのまま電話を掛け始めたので、霖雨も驚いた。
僅かな呼び出しの後、相手はすぐに応じた。
『はい、もしもし』
聞き覚えのある声だ。
和輝の理解者、幼馴染で親友――白崎匠だ。
葵が名乗ると、匠はすぐさま切り返した。
『和輝に何かありました?』
此方の事情等、何一つ知らない筈なのに。
葵は、匠が解っていることを、解っているようだった。
「和輝が命懸けで、友人を救おうとしている。このままじゃ、あいつが死ぬ。何か、一つでいい。あいつを繋ぎ留める方法を教えて欲しい」
聞いたことも無いような真剣な声で葵が言う。只事ではないと、電話の向こうの匠も悟ったようだった。
匠が唸る。刻一刻と時間は過ぎ去り、ヒーローの死ぬ時が近付いている。
スピーカーの奥で、匠が力無く言った。
『俺の手が届くなら、ぶん殴ってやるんですけどね』
「全部終わったら、存分に遣ってやれ」
『そうします。ああ、そうだ。あいつを繋ぎ留める方法がありますよ』
葵の肩に力が入る。
匠は、事も無げに言った。
『未来の約束を交わすことです。明日の夕飯でも良い、出掛ける予定でも良い。好い加減に見えて、結構義理堅いから』
霖雨は拍子抜けした。
口約束。それが、この終わりの無い世界にピリオドを打つキーワード。俄かには信じ難い。
率先して否定すると思われた葵が、真面目に聞いているのが意外だった。それだけ、彼も追い詰められているのかも知れない。
『まだ死ぬ訳にはいかない。生きなきゃいけない。そう思わせて遣ることです。お前がいないと駄目なんだって、何度でも言い聞かせて遣って下さい』
言葉一つで如何にかなるのなら、始めから遣っている。
霖雨は思うけれど、救う張本人である和輝に、話すことは禁忌であると思い込んでいた。其処が抜け道だったのかも知れない。
匠は、迷いの無いはっきりした声で続けた。
『昔、自殺を図ったあいつを繋ぎ留めたのは、昏睡状態の先輩と交わした約束だった』
一筋の光が差し込んだ気がした。それは、希望と呼ぶには余りにか細く、悲しい光だった。
追い込まれて、ボロボロに傷付いて、如何しようも無くなった当時の和輝は、衝動的とは言え、自らの命を絶つ選択をした。
それを留めたのは、家族や親友の存在ではなく、返事すら出来ない昏睡状態の他人だった。
彼の家族や白崎匠は、どれ程、無力さを痛感しただろう。一番近くにいたのに、助けを求めて手を伸ばすこともしなかった和輝をどのように受け止めたのだろう。
そして、どんな気持ちで今も彼の帰りを待っているのだろう。
霖雨は、そんなことを思う。
お願いします。
血を吐くように、匠が言った。側にいられない自分を責めるようだった。
『俺は傍に行けない。でも、如何にかして、あいつを繋ぎ留めてみせる。だから、傍にいるあんた達が、救って遣って下さい』
葵は、その声をしかと受け止めた。
通話が終わると、葵は部屋を飛び出した。
慌てて霖雨が追い掛けると、葵は和輝の部屋を蹴破ったところだった。
他人の部屋に勝手に入るなんて、とは今更思わない。ただ、ヒーローを救う一筋の希望を探す。
家の中に和輝はいない。シナリオ通りならば、今はポストへ行っている筈だ。其処で脅迫電話を受け、和輝はこの家を出て行く。
葵は棚から電話帳を引っ張り出した。
和輝の築いて来た人との繋がりが、其処には克明に記録されている。
目的の番号を見付けたらしい葵が電話を掛け始めた。
呼び出し音。中々繋がらず、葵が舌を打つ。
ぷつりと、コールが途切れた。
『――どちら様ですか』
固い声だった。警戒と緊張を押し出したような低い声だ。
けれど、確かに聞き覚えのある声だ。
葵は、彼の名を呼んだ。
「蜂谷祐輝君ですね。和輝の住居のオーナーをしている、神木葵と申します」
蜂谷祐輝――、和輝の兄だ。
メジャーリーグで活躍する母国の英雄。ヒーローの兄。
葬儀の日、涙一つ零さずに、弟の選択と責任を独りで背負った青年。
霖雨は、呆然と葵を見守った。
「貴方の弟がピンチですよ」
『はあ』
「このままじゃ、死にます」
まるで下手な詐欺師だ。もう少しまともな言い方は無かったのだろうかと、霖雨は頭が痛くなる。
だが、祐輝は静かに返した。
『解りました。今すぐ、会いに行きます』
「――はあ?」
言い出した癖に、葵が妙な声を上げる。それでも、祐輝ははっきりと言った。
『大事な弟なので』
「あんた、今、リーグ中だろう。試合は」
『弟の一大事なんでしょう?』
一度決めたら揺るがない。その頑固さは、弟と同じだった。
『和輝の為に俺が必要だって言うなら、他の何を犠牲にしたって其処に行きます。俺はあいつの兄なので』
電話の向こうで、祐輝は此方へ来る支度を始めたらしい。チームメイトの動揺する声が聞こえるが、祐輝は止まる気なんて欠片も無いようだった。
「あんた、大丈夫なのか?」
『さあ?』
呆気に取られる葵はそのままに、恐ろしい程の行動力を発揮して祐輝が言った。
『地位も名誉も、弟の命と天秤には掛けられませんよ。例え全部失ったって、家族がいれば、其処から始められる』
最早、拍手を送りたいくらいの自信だ。選ばれる者とそうではない者の違いを見せ付けられたようだった。
葵は柄にも無く、慌てて言った。
「それじゃあ、間に合わないんだよ」
『遣ってみなくちゃ解らないでしょう』
「解るんだ。俺達が欲しいのは、今、あいつを現実に繋ぎ留める方法だ。死を覚悟したあいつに、生きようとする意思を持たせなくちゃならない」
『誰かの為に、命懸けで何かをしようとしてるんですね』
お見通しとばかりに、祐輝が言う。
白崎匠も、蜂谷祐輝も、如何してそんなに簡単に状況を呑み込めるのだ。自分達は、ヒーローが隠した真実に辿り着くまでにどのくらいの時間が掛かっただろう。
嘘を吐くのは上手いけれど、思考回路が単純だから解り易い。
ヒーローの親友の言葉が蘇る。
祐輝は、まるで調子を崩さずに言った。
『じゃあ、電話します。今すぐ駆け付けることは出来なくても、声は届くでしょう。大丈夫、絶対に守ってみせます』
だから、後は頼みます。
祐輝は電話の向こうで笑ったようだった。
ああ、和輝の兄だ。
霖雨は当たり前のことに感動した。
彼等は血を分けた兄弟で、一つ屋根の下に暮らした家族なのだ。世間からの逆風も、運命の濁流も、その関係性だけで乗り越えて来た。
彼等の生きて来た道が、見えるような気がした。
彼等は支え合いながら、生きて来たのだ。
通話は途切れた。葵は携帯電話をぼんやりと見詰め、独り言みたいに零した。
「この兄にして、あの弟ありって感じだな。真夏の直射日光を浴び続けた気分だ」
目眩がする。
そんなことを言った葵は、生気に満ちた目をしていた。
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