⑻翼

 結局、一睡もしないまま朝を迎えた。


 和輝は普段よりも少しだけ遅く起きて来て、朝食を作った。白米と焼き鮭、豆腐とワカメの味噌汁、沢庵。三度目のメニューだった。


 魚が食べたいと言ったから、鮭になったのだろうか。あの時の発言次第で、朝食に変化も起きるのだろうか。


 葵は欠伸を噛み殺し、ぼんやりと思った。

 ソファには、死人みたいな顔の霖雨がいる。低血圧で寝起きだからなんて言い訳も出来ないくらい、酷い顔色だ。

 流石に和輝も労わりの言葉を掛けている。


 揃って手を合わせ、食べ始める。


 此方の言動次第で、和輝の行動に影響がある。それは解ったが、余りにも微弱な変化だった。

 決定的な出来事に変化を齎すには、まだ足りない。

 その足りないものが何なのか、葵はまだ解らない。


 朝食を済ませると、和輝は片付けの為に立ち上がった。

 葵は壁掛けの時計を見上げ、部屋に戻る。


 前回の反省を活かして、朝の内に空港へ向かうつもりだった。

 同じ轍を踏むつもりは無い。このままなら、渋滞に巻き込まれて間に合わない。


 簡単に支度を整えてリビングへ行くと、和輝がいなかった。

 霖雨がそわそわと時計を確認している。




「好い加減にしろ。和輝が不審がっているぞ」




 霖雨の後頭部を軽く叩き、葵は溜息を吐いた。

 相変わらず酷い顔だ。笑う気も起きない。




「あいつ、何処行ったんだ? トイレか?」

「ポストを見に行ったよ」




 そういえば、彼の日課だった。

 葵には郵便を送って来る相手もいないので、ポストの存在をすっかり忘れていた。


 黙っていると、霖雨が据わった両目で見上げていた。




「何で、そんなに冷静でいられるんだ?」

「焦っても何の意味も無いから」

「誰だって、好きで焦ったり追い込まれたりする訳じゃない。――お前、ちょっと怖いよ」




 嘆くように、霖雨が言った。項垂れ、頭を抱えている。

 葵は、心臓の何処かが急速に冷えて行くような気がした。家の中にいるのに、木枯らしが吹き付けたように肌寒い。


 解っている。これは、追い込まれた霖雨の八つ当たりだ。気にすることじゃない。

 期待なんてしていなかっただろう。


 解っていたのに、葵は上手い返事が思い付かなかった。何か余計な言葉を口にしてしまうような気がして、逃げるように玄関へ向かった。


 ポストの前に和輝が立っている。此方に気付く様子も無く、一心不乱に手元の紙を見詰めている。


 脅迫状だろうか。

 葵がそっと回り込むと、和輝は勢い良く振り向いた。余計な勘が鋭く、面倒臭い。


 和輝の双眸が僅かに潤んでいた。

 何を見ていたのかと問う前に、和輝は一通のエアメールを見せた。


 それは、彼の兄からの手紙だった。

 異国で暮らす弟を気遣う、優しい兄からの手紙だ。

 白崎匠の言葉が無ければ、仲が良いのだと適当に流せた。けれど、彼等の背景を知った後に見ると、まるで兄の罪滅ぼしのようで滑稽だった。


 和輝は、泣き出しそうに微笑んだ。




「自慢の兄ちゃんなんだ」




 兄ちゃんと呼ぶ響きに陰は無い。兄からの手紙を、心の底から喜んでいる。そう感じられた。

 葵は問い掛けた。




「喧嘩とかしないの?」

「したこと無い」




 それも、不自然だ。

 二つ違いの兄弟で、喧嘩一つしないなんておかしい。葵にも嘗て兄がいたが、喧嘩ばかりしていた。流血沙汰になることもざらだった。

 彼等は、そうでは無かったのだろうか。




「俺、兄ちゃんが好きなんだよ。優しくて、格好良くて。兄ちゃんは、俺のヒーローなんだ」




 その兄は、嘗てお前を虐げた存在だろう。

 何で、そんなに純粋でいられるの。


 和輝が、言った。




「例え兄ちゃんがどう思っていても、俺にとっては兄ちゃんはヒーローなんだ。家族だから、兄弟だから、兄ちゃんが好きだから、俺はそれで良い」




 他には何もいらないと、和輝が泣きそうに笑う。

 過去を無かったことにするのではなく、糧として前に進む。当たり前みたいに、和輝が簡単に言う。


 なあ、葵。


 和輝が、嘘みたいに綺麗な顔で言った。頭上から降り注ぐ光が、その姿を朧に霞ませる。




「何でも救えるとは思っていないよ。それでも、目の前の一つは救えると信じたい」





 過去には無かった言葉だ。

 このまま消えて無くなりそうな和輝が、強い意志を滲ませて信じると訴え掛ける。

 何かを返さなければ、と葵は強迫観念に囚われた。彼の向ける信頼に、応えなければならない。何故か、そんな風に思った。


 その時、和輝が携帯電話を取り出した。如何やら着信らしい。

 酷く慌てて、急き立てられるようにして着信に応じる。


 他人の会話を盗み聞く趣味は無いので、葵はそのまま立ち去ろうとした。




「What die request?」




 地を這うように低い声がした。

 思わず振り向くと、通話中の和輝が背中を向けている。

 穏やかでない言葉だ。和輝は一方的に向こうの言葉を受け入れて、通話を終えた。

 向けられた横顔は、糸が張り詰めたように真剣だった。触れれば壊れてしまいそうだ。


 如何かしたか、と尋ねると、和輝はいつもの顔で何でも無いと微笑んだ。

 先程の穏やかでない言葉や、結末を知っていなければ鵜呑みにしてしまいそうな笑顔だった。


 この場所で追及しても意味が無い。葵は曖昧に頷いて、家に戻って行く背中を見ていた。


 恐らく、先程の着信が脅迫電話だ。


 葵は手元の携帯電話を見る。ペアリングシステムを作動させていた筈が機能していない。これはルール違反なのだろう。

 舌打ちを一つして、葵は庭を飛び出した。

 間も無く、和輝も家を出る筈だ。向かう先は空港近く空き地。翡翠という友人を人質に、脅迫されているのだ。


 何処かでエンジンの音が聞こえる。タクシーが遣って来る。――やはり、このタイミングは不自然だ。

 何者かが、和輝を呼び出す為にタクシーを送り込んだに違いない。


 時刻を確認する。予定よりも早い。

 何故だ。何が影響している。

 このままじゃ、間に合わない。


 葵は踵を返した。家に戻ると、丁度、和輝が出掛けるところだった。

 玄関先で鉢合わせ、和輝が驚いたように目を丸める。廊下では霖雨が壁に寄り掛かり、相変わらず胡乱な目をしていた。




「忘れ物?」

「そう」




 葵が適当に返すと、和輝が可笑しそうに口角を釣り上げた。

 とても脅迫されているとは思えない穏やかさだ。この上っ面の良さが、彼が嘘吐きと呼ばれる所以なのだろう。




「行ってらっしゃい」




 蒼白な顔で、霖雨が言う。其処に意思は無く、まるで予め決められた台詞を口にしているようだった。

 行くな、という言葉は喉の奥に引っ掛かった。感情的な問題ではなく、物理的に口に出来なかったのだ。

 ルールに抵触するのだ。だから、口に出来ない。

 これまで、葵は和輝を言葉で繋ぎ留めようとはしなかった。だから、発言にすら制限が掛かるなんて知らなかった。


 霖雨は、気付いていたのだろうか。

 和輝を助ける為の言葉一つ許されないこの厳しいルールを知っていたのか。


 直接的な言葉はルール違反なのだ。

 ならば、何を口にすれば良い。シナリオは変えられない。ならば、何が。


 ピカピカの革靴を履き終えた和輝は、振り向かずに言った。




「じゃあね」




 玄関の扉が開き、小さな背中を連れて行ってしまう。

 伸ばした手は届かない。声すら出ない。

 扉が、閉じた。










 15.パラレルワールド

 ⑺翼









 葵はすぐさま扉を開けたが、和輝の姿は何処にも無かった。

 霖雨が後ろで呼んだ。振り返ると同時にヘルメットを投げ渡される。


 時間が早まっている。


 シナリオに変化は無いと思っていたが、こんなイレギュラーも起こり得るらしい。全く、不都合だ。

 霖雨は高速には乗らず、回り道を選択した。前回は事故によって足止めされたからだ。


 予想した通り、高速道路は事故が起きた。

 急がば回れと言うくらいだから、その選択は正しかったのだろう。けれど、選んだ道の先で工事が行われていたので、結局は大きく迂回することになった。


 選択の数だけ、未来は分岐する。それでも、筋書きは決まっていて覆せない。


 何度目かも解らない迂回の中で、葵はバイクを降りた。埒が明かない。

 霖雨は和輝を追い、葵は空港を目指す。


 葵は空港までの道程を走った。日常生活でもこんなに走ることがあるだろうかと、忌々しく思いながら汗を拭った。

 心臓が激しく拍動し、自分の体力の無さを恨む。途中、霖雨から電話があった。


 入れ違いになって、止められなかった。

 和輝の姿は既に無く、黒塗りの車が猛スピードで飛び出して来たらしい。

 あわや衝突というところだったと、霖雨は困憊した様子で言った。


 役立たずと罵りたいところだったが、葵も同じ場面で逃してしまっていたので、口を噤んだ。


 頬を伝う汗を拭い、葵は利用客でごった返す空港を見上げた。

 空港に来たのは久しぶりだった。この地に来た時、そして、友人を迎えに来た日以来だった。


 そういえば、あの日も旅客機は爆破炎上したのだ。巨大な機体も、乗員乗客もすべて呑み込んで喰らい尽くした。

 熟、自分は空に運が無いらしい。


 和輝を救う為には、爆弾テロで生き残った300人近い人間を殺さなければならない。本来の目的は、其方なのだ。和輝を助けるというのは、歴史を正す為の手段に過ぎない。


 ロシア行きの飛行機だと、霖雨が言っていた。その彼は空港には向かわず、都心の高層ビルへ行くらしい。

 前回とそっくりそのまま配役が代わっただけだ。シナリオを知っているのに、悉く後手に回っていることが腹立たしい。


 人混みを掻き分けて、和輝が遣って来た。一切の感情を削ぎ落とした無表情だった。

 一際小さな体格でありながら、一瞬にして周囲の目を惹き付ける。衆目を集めながら、和輝は真っ直ぐに機体搭乗口に向かった。


 行き先が解っていたので、葵は先回りをする。僅かな時間のロスがあったものの、和輝は情報通りに遣って来た。


 鬼気迫る形相の和輝に、周囲の人々は潮が引くように退いて行く。無人の帯が搭乗口まで伸びる。葵は、和輝の前に躍り出た。


 和輝は酷く驚いたようだった。しかし、意思は揺るがないらしく真っ直ぐに向かって来る。

 葵の存在を知覚しない警備員が、異常事態に気付いて威嚇した。携帯していた銃を構え、声を張り上げる。

 和輝は眉一つ動かさない。まるで、人形のようだ。綺麗な相貌がその冷血そうな印象に拍車を掛ける。




「葵、今すぐ此処から離れろ」

「その言葉、そっくりそのまま返して遣るよ」




 お前が退け。二人は対峙した。

 互いに一歩も譲らない。

 和輝は何かを諦めるように、視線を落とした。葵の視線は反射的に引っ張られた。――その刹那、一瞬にして距離を詰めた和輝が葵の横を擦り抜けた。


 葵は咄嗟にその腕を掴んだ。和輝の身体は急ブレーキを掛けられたように停止した。

 凍り付いた顔が振り返る。葵は、掴んでいた腕を捻り上げた。


 地面に叩き付けたつもりだったが、小さな身体は猫のように着地した。

 和輝は起き上がる反動で、葵の拘束を外した。


 警備員が威嚇射撃をした。

 耳を劈く破裂音が響き渡り、甲高い悲鳴が空間を切り裂く。蜘蛛の子を散らすように利用客が一斉に逃げ出した。

 津波のように搭乗口からは乗客が逃げ出し、葵は舌打ちを漏らす。


 動転する最中、和輝は何事も無かったかのように前進を始めた。

 威嚇する警備員を物ともせず、赤子の手を捻るが如く突き進んで行く。


 悪魔のようだ。

 葵は薙ぎ倒された警備員を避けながら和輝を追い掛ける。

 旅客機からは既に乗客が避難している。無人となった機体は不気味に静まり返っていた。


 死ぬべき人間は生き残ってしまった。

 無人の機体等、最早用も無い筈だ。それでも、和輝は迷わず乗り込んで行く。


 葵は、背中に無数の銃口を感じながら呼び掛けた。




「もう、全員避難したぞ」




 和輝が、振り向いた。




「うん、解ってる」

「こんな機体、放って置けよ」

「うん、でも、駄目なんだ」




 くるりと背を向け、和輝は歩き出した。

 そして、一つの座席の元へ辿り着くと、しゃがみ込んだ。


 大きなボストンバッグを拾い上げ、和輝は警備員達に向かって声を上げた。




「今すぐ警察を呼んでくれ。――爆弾だ」




 警備員がざわめいた。その言葉を疑う声も上がるけれど、掲げられたボストンバッグには事実、時限装置の起動した爆弾があった。


 応援を呼ぶ中で、和輝は何でも無いみたいに爆弾を解除した。正確には、時限装置と爆弾を繋ぐコードを切り離したのだ。


 そういえば、以前停電した家の電工盤の修理をしていた。車両整備士の経験も持ち合わせているから、知識があるのだろう。

 それでも、一つ間違えば爆発するそれに手を出す様は豪胆というか、無謀だ。


 和輝は時限装置の止まった爆弾を置き、歩き出した。


 今の彼を突き動かすものは何だろう。

 乗客は避難した。爆弾も解除した。ならば、何の為に?


 ――そんなもの、一つしか無い。

 友人の為だ。和輝は、翡翠を救っていない。


 他の何を救えなくても、目の前の一つは救えると信じたい。和輝は幾度と無く口にした。答えは何時だって単純で、目の前にあるのだ。




「俺も行く」




 葵が言うと、和輝は泣き出しそうに笑った。




「駄目だ。巻き込みたく無い」

「一人で如何にかなると、本気で思っているのか?」




 事実、彼はこの後、死ぬのだ。


 行かせる訳にはいかない。


 葵は再度、その前を立ち塞いだ。和輝は真っ直ぐに見返した。その瞳は美しく輝いている。散り際の花火に似ている。滲むのは強い覚悟だ。


 謙虚さとは異なる自己肯定感の希薄さ。葵はその意味を噛み締める。彼を繋ぎ留める術を、自分は持っていない。




「ごめん」




 一切の干渉を拒絶する強さを滲ませて、和輝は押し通ろうとした。葵はその肩を掴んだ。途端、服越しに感じる熱に驚く。


 発火しそうに熱い。


 古傷があるのだ。無茶をしたから、ぶり返したのだろう。

 葵が何かを言うより早く、和輝は知恵の輪を解くように拘束から擦り抜けた。


 動揺する警備員を流し目で凍らせ、和輝は機体から降りて行った。


 葵は、暫し呆然としていたことに気付く。酷い失態だった。


 携帯電話が震えている。葵が掴むと、ディスプレイには霖雨の名前が表示されていた。

 応答を待つそれに応えれば、切羽詰まった霖雨の声がした。




「そっちに行ったぞ」




 それだけを伝え、葵は通話を強引に叩き切った。


 きっと、この世界も失敗だ。


 葵は青空の拝めない天を仰ぐ。狭い機内は、凄まじく回転する世界から置いて行かれたように静かだった。


 携帯が震えている。

 霖雨だろうか。このまま電源を落として遣ろうかと投げ遣りにディスプレイを覗けば、非通知からの着信だった。

 もしや、と思って応答する。スピーカーから、聞き覚えのある声がした。




『神木葵君、こんにちは』




 間の抜けた呑気な挨拶だ。

 誰だっただろう。錆び付いた思考回路は、答えを導き出す出せない。

 応えない葵に、スピーカーの向こうの人物はさらりと名乗った。




『近江です』




 近江哲哉――。

 母国で伝説と語られる、最速のヒットマンだ。

 彼がこの番号を知っていたことよりも、電話が掛けられたことに驚く。


 近江は、酷く呑気な調子で言った。




『おたくのヒーロー、ピンチじゃないか』




 何故、それを知っている。

 葵の疑問等置いてけ堀に、近江は続けた。




『手を貸そうか』

「何故だ」

『こんなところでヒーローを失うのは、余りに惜しい』




 葵は、近江の言葉に頭が急速に冷えて行くのが解った。


 事態は何も変わっていない。悪化の一途を辿っている。それでも、何か希望を見付けたような錯覚を起こす。


 巻き込みたくないと、和輝は幾度と無く言った。だから、葵も思い込んでしまった。周囲の人間を巻き込んではならない、と。


 違うのだろうか。手を伸ばしたら、それを取ってくれる誰かが、和輝の他にもいたのだろうか。


 近江は葵の返答を聞かず、一方的に言った。




『盗聴していたんだが、如何やら友達を人質に取られて、都心に向かっているね』

「そうだ。都心の高層ビルから、あいつは転落死する」




 断言した葵に、近江は驚いたようだった。

 そして、近江は言った。




『何の希望も無く生きるには、世界は冷た過ぎる。だからこそ、ヒーローがいるんだろう』




 失っても、失っても、希望はある。だから、諦めたらいけない。


 何の縁も所縁も無い筈の殺し屋が、ヒーローの言葉を当然みたいに言う。弱肉強食が自然の摂理であるように、希望があると訴え掛ける。




『悪いが、現場には間に合わない。何か出来ないか?』




 現場にいない殺し屋に出来ることは何だろう。

 空港にいる自分、現場にいない殺し屋。

 霖雨は今、何処にいるのだろう。今更になって、叩き切ってしまった通話を悔やむ。


 葵は、言った。




「あの馬鹿が一人で転落するとは思えない。誰かが、現場にいる筈だ。だから、そいつを」

『狙撃するんだな。解った』




 目の端で、何かが光っている。

 希望だ。希望の残照だ。此処を去ったヒーローが残した僅かな希望が、確かな質量を持って輝いている。


 通話を終えた葵は、すぐさま霖雨へ電話を掛けた。しかし、この騒ぎが原因なのか回線がパンクして繋がらない。


 葵は舌を打ち、走り出した。





 葵からの通話は一方的に切られた。折り返しても、繋がらない。


 霖雨は、自分が突然独りきりになったような絶望感に包まれた。まるで、この世界には自分しか存在していないような酷い孤独感だった。


 目的の高層ビルに、霖雨は先回りすることに成功した。干渉出来ないと思っていたシナリオには、抜け道があるのかも知れない。

 丁度、和輝が走って来た。暫し逡巡し、入口を潜る。霖雨はバイクを乗り捨てて後を追った。


 受付嬢に呼び止められたが、和輝の連れだと言うと通された。やはり、霖雨の知らない謎の思惑が蠢いてるようだ。


 屋上に向かっているらしい。

 和輝の乗ったエレベータの隣に滑り込み、屋上へ向かう。

 浮遊感の中、心臓が早鐘を打つ。あと少し、あと少しだ。


 ランプが点灯する。エレベータは一度も停まらず、屋上まで到達した。

 上手く行き過ぎている。そんな予感はあったが、霖雨は止まらなかった。


 扉が開く。光に満ちた踊り場を抜け、扉を蹴破った。

 同時に、破裂音が鼓膜を震わせた。


 雲一つ無い蒼穹を背景に、小さな身体が浮かんでいた。

 黒光りする鉄の塊を構えた男が、口角を釣り上げて笑っている。


 小さな身体が、欄干の向こうに滑り落ちる。霖雨には、それがコマ送りに見えた。

 和輝の手が伸ばされる。その手が欄干を掴む。男は尚も銃口を向けていた。




「お終いだよ、Mr.Hero」




 指先に力が込められる。霖雨は声を上げた。

 けれど、霖雨の声は男の言葉に掻き消された。




「お友達は、死んだよ」




 それが合図だったかのように。

 銃弾が放たれた。――しかし、それは男の掌からでは無かった。何処かからの銃撃だ。膝をピンポイントで狙った一発の弾丸は貫通した。


 男が呻き声を上げ、血液が迸った。

 倒れ込む男の奥、欄干を掴んでいた和輝の手が滑り落ちる。霖雨は腕を伸ばした。


 あと、少し。

 身を乗り出した霖雨の目に、和輝の顔が映った。長い睫毛の先まで、鮮明に見えた。

 焦点を失った瞳に、残酷なくらい澄んだ青空が映り込む。


 指先は、和輝の掌を掠めた。


 伸ばした指先が虚空を切り裂く。

 ヒーローは、地上へ吸い込まれて行った。





 其処で暗転、霖雨の意識は途切れた。




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