⑺蜘蛛の糸

 自宅は闇に沈んでいた。


 普段通りを装っている和輝を引き摺って帰ると、やはり霖雨はいなかった。

 好い加減不審に思うが、和輝に悟られる訳にもいかないので、葵は黙っていた。


 帰宅してすぐに、和輝はシャワーを浴びた。

 葵はキッチンの換気扇の下にしゃがみ込み、情報を整理する為に思考する。


 予兆は、あったのだ。

 自分が、気付かなかっただけた。


 そもそも、和輝が隠さなければ最悪の事態は免れた筈だ。如何して、黙っていたのだろう。

 巻き込みたくなかったのかも知れない。けれど、事態は深刻で和輝一人では解決出来ない程に悪化している。


 それでも、一切助けを求めなかった理由は何だろう。


 シャワーを浴びた和輝がバスルームから出て来る。烏の行水だ。冷水でも浴びて来たのか、唇は紫色に染まっていた。


 碌に髪も乾かさず、ぽたぽたと水滴を落としながら和輝は自室へ向かう。柄でも無いけれど、葵は壁掛けのフェイスタオルを引き抜いてその頭を拭いてやった。


 和輝は驚いたようだが、拒否しなかった。


 ぼんやりしている和輝は何も言わない。

 時刻は午後11時を過ぎている。葵は、乱暴にタオルで拭き取りながら、問い掛けた。




「お前、俺にして欲しいことあるか?」




 和輝は振り向いた。

 長い睫毛に彩られた瞳が、縋るように潤んでいる。和輝は、力無く微笑んだ。




「また、勉強を見てくれよ」

「いいよ」




 葵が返すと、和輝は擽ったそうに笑った。

 今、何かの言葉を呑み込んだ。葵には、そんな風に感じられた。


 こんな遣り取りを、以前もした。

 和輝を失った現実でのことだ。

 葵はこの時に、忠告した。それでも、和輝は頷かなかった。多分、危険もリスクも承知の上だ。

 和輝は、死んでも構わなかったのだろうか。

 そう思うと、自分達のしていることは、まるで意味が無いように感じられる。


 お前、死んでも良かったの?


 葵は、その問い掛けを呑み込んだ。幾ら馬鹿でも、何かを察する恐れがある。

 世界は筋書き通りに進む。世間を賑わせたハリウッド女優も、同じことを言っていた。

 神はサイコロを振らない。世界の事象は予め決まっている。予定調和の世界に抗うなんて、無意味かも知れない。


 それでも、この男なら、そのシナリオから抜け出せるのではないか。葵は、そう思ったのだ。だから、彼が死んだ時、この世に救いは無いと知った。


 和輝が欠伸をする。明日死ぬというのに、呑気な男だ。


 失っても、失っても、希望はある。

 だから、諦めたらいけない。

 最期の瞬間まで、抗ってみせろ。


 馬鹿な男がそんなことを言う。お前は、抗ったのか?

 死ぬ直前まで、生きようとしたか?


 葵はその言葉を呑み込んだ。代わりに、意図せず言葉が溢れた。




「何処にも、いなくなるなよ」




 和輝は、返事をしなかった。

 聞いていなかったのか、それとも、約束出来ないから頷かなかったのか。


 髪を乾かし終えて、ついでにドライヤーも掛けて遣った。

 和輝はうとうとと船を漕いでいる。

 かくん、と力が抜けた。意識が途切れたらしい。寝落ちした頭部を支え、溜息を吐いた。


 眠ってしまった和輝をベッドへ運び、ついでに彼の部屋から電話帳を引っ張り出した。

 お世辞にも綺麗な文字とは言えなかったが、事細かに記録してある。携帯電話を持っている癖に、わざわざアナログで書き写したのだ。相当な手間だっただろう。


 この手間の訳を、予想する。


 多分、携帯電話に依存していないのだ。携帯電話を失った時のリスクを想定している。


 目当ての番号を探す。さ行の頁には無かったので、念の為、た行も確認する。


 あった。


 和輝の幼馴染で親友でライバルだと言う、白崎匠。


 葬儀の日、彼は目を真っ赤にして涙を堪えていた。握り締めた拳は軋み、爪は皮膚を破いて血液を溢れさせた。


 埋葬される瞬間まで、和輝の傍を離れなかった青年。


 時差を考えると、海の向こうは昼間だ。非常識な時間ではないので、繋がるだろう。


 番号をタップして、電話を掛ける。

 知らない番号だからか、中々繋がらなかった。けれど、二度三度と掛け続けると、観念したらしく通話は繋がった。




『もしもし』




 警戒を滲ませた、白崎匠の固い声がした。

 葵は応えた。




「神木葵です。覚えていますか」

『ああ、和輝とルームシェアしてる神木さん?』




 その認識で充分だ。葵が肯定すると、匠は僅かに警戒を解いたようだった。




『如何かしました? 和輝に何かありました?』




 彼等は同じ日に生まれ、互いを己の半身のように思い育って来た。しっかり者の匠は、和輝の保護者代わりなのだろう。


 彼等の重ねて来ただろう日々が想像出来て、葵は小さく笑った。電話の向こうで、匠は訝しむような声を出したけれど、葵は何でもないと返した。




「あの馬鹿は、如何してあんなに自己評価が低いんだ?」




 身体能力に優れ、判断力も人望もある。

 体格には恵まれなかったかも知れないが、容姿端麗で、何時でも人々の中心で見る者を惹き付けて来た。


 人の粗探しをする趣味は無いけれど、それを知らなければ前へ進めない。


 匠は、驚いた様子も無かった。

 覚悟を決めるように小さく息を吸い込んで、前置きした。



『あんたが、他人の過去を吹聴して回るような人間だと思わないから、言うけど』



 警戒の滲んでいた声は、囁くように潜められた。



『あいつ、母親の命と引き替えに生まれた子どもなんです』




 匠の声は、感情を消し去っていた。

 融通の利かなそうな男だと思っていたが、こんな声も出るのだな、と葵は密かに思った。




『家族はそれでも受け容れてくれたけど、一人だけ、違う人がいた。あいつの兄貴ーー祐輝君です』




 蜂谷祐輝――。

 和輝の二つ上の兄、母国の英雄。

 葬儀の日、自身が切り刻まれたような悲痛さを滲ませていた青年。知らず、葵の掌に力が篭った。




『未熟児として生まれた和輝は、家の中から出られなかった。狭い家の中が、あいつの世界だった。だから、血の繋がった兄貴から否定されて、自分の存在意義が培われなかったんだと思います』




 想像も出来ないでしょう?


 戯けるような匠の真意は解らない。葵は黙って先を促した。




『でも昔は、和輝のことを丸切り無視して、いないものみたいに扱ってた』




 正直、想像も出来ない。

 彼等は理想の兄弟像だ。世間の評価はそうだし、葵もそう思っていた。

 匠は、淡々と言った。




『あいつの根幹は、多分それです。家族――兄貴に、認めて欲しかったんだと思います。此処にいて良いよって、言って欲しかったんでしょうね』




 それで良いよ、と和輝は何度でも言った。

 それで良いよと言って欲しかったのは、他ならぬ和輝自身だったのだ。




『今はもう和解して、何の蟠りも無いみたいですけど、子どもの時に作られた価値観はそう簡単に変わりませんから』




 声は淡々としているのに、裏側に隠し切れない怒りが滲んでいる。

 匠は、和輝の絶対的な味方なのだ。其処にどんな理由や背景があったとしても、味方であることに変化は無い。和輝にとって、匠は唯一無二の親友で、理解者だ。それで良いよと言ってくれる、たった一つの逃げ場所だった。




『何時、掌を返されるのか、不安なんじゃないですかね。否定されると、生きていてはいけないみたいに思うんですよ。卑屈でしょ?』




 困ったみたいに、匠が言った。

 此方の事情も何も知らない筈なのに、和輝のことだからと簡単に看破して見せる。そして、親友を救う為ならどんなリスクも厭わない。

 信頼関係。きっとこの青年の存在が、和輝を何度でも救って来た。




『だから、もしもあんたがあいつを大切な友達だと思ってくれるなら、何度でも言って遣って下さい。それで良いよって、生きていて良いんだよって』




 いない人間のことを悪く言いたくはないが、経緯には理解が出来た。


 祐輝だって、幼い頃に母親を失ったのだ。まだ、二歳だ。代わりに現れた弟を受け入れられなかった時期もあるだろう。ましてや、末っ子として何も知らず、家族に受け入れられて可愛がられる存在だ。疎ましく思ったこともあるだろう。


 けれど、狭い家の中で、家族に否定されて生きるのは、どんな気持ちなのだろうと思った。

 世界から拒絶されて、それでも生きられるのだろうか。


 きっと、彼を繋ぎ留めていたのは、この親友の存在だったのだろう。

 彼が望んでくれるから、言葉にして証明してくれるから、和輝は生きていられた。


 今、この場所に匠はいない。

 和輝を繋ぎ留めるものは何も無い。


 お願いします。

 酷く真剣な声で、匠が言った。それきり、通話は終わっていた。








 15.パラレルワールド

 ⑺蜘蛛の糸







 扉の向こうに気配があったので、葵はベッドから身を起こした。


 情報を整理して色々と考え込んでいる間に、睡魔は何処かへ行ってしまった。窓の向こうは未だ夜だ。


 扉を開けると、無表情で霖雨が立っていた。


 情報収集に当たると、霖雨は朝から出掛けていた。何か収穫でもあったのだろうか。

 期待はしない。野生動物みたいな同居人に気付かれる訳にもいかないので、とりあえず部屋へ招き入れた。持て成す義理も無いので放って置いたら、霖雨は床に胡座を掻いて座った。

 葵はベッドに腰掛け、机に付いたランプを灯した。暖色の明かりが、ぼうっと周囲を仄かに照らす。


 血の気の無い面で、霖雨が言った。




「あいつのバイト先に行って来た」




 あいつ――和輝のアルバイト先は、駅前の喫茶店だ。

 それで、と葵が促すと、霖雨は続けた。




「従業員の一人と連絡先が取れないらしい」

「知り合いか?」

「俺は面識が無いよ。多分、葵も。――でも、和輝と仲が良かったらしい」




 霖雨は、ポケットから小さなメモ帳を取り出した。アナログだな、と思ったが、ネットに繋がる携帯端末に記録するのは、漏洩の危険が付き纏う。

 その慎重さが、霖雨の必死さに値する。




「早川翡翠、23歳、男性。高校卒業後、バスケットボールでスポーツ留学したが二年前に右膝を故障して断念。一年間浪人をして、現在は、アルバイトをしながら大学に通っている」




 似ているな、と葵は思う。

 高校時代に右肩と腕を故障して、スポーツの道を断念した和輝と、似ている。


 だからこそ、放って置けなかったのだろう。



 

「和輝とはよくサーフィンやストリートバスケをしているらしい。死ぬ前の夜、和輝の会っていた相手だ」

「ああ」

「――気付いていたのか?」




 葵の反応に、霖雨が目を細めた。

 霖雨の苛立ちが、手に取るように解る。葵は、挑発するように笑ってみせた。




「昨日の夜、取引現場で見た。どうやら、拉致されたみたいだよ」

「お前、」




 何かを言おうとして、霖雨は黙った。

 責められる謂れもないが、葵は一応説明する。




「そいつが拉致された時、和輝は暴漢に襲われていたんだ」

「だから、助けられなかったのか」




 葵は、肩を竦めた。

 あの夜、暴漢に襲われている和輝をぎりぎりまで助けなかったことは言わなかった。言う必要も無いし、余計な軋轢を生む意味も無い。


 霖雨は何かを考え込んでいるようだった。

 葵は、あの日行われた取引の内容を想像する。


 結局、和輝を襲った暴漢は無関係だった。偶々、ターゲットを見付け、誘われるように手を出したのだ。有益な情報は何も出ては来なかった。


 何の取引だったのだろう。和輝が犯罪に巻き込まれている予兆は無かったように思うが、見落としているだけなのだろうか。


 その時、ぽつりと霖雨が言った。




「その友人、切り捨てることは出来ないかな」



 葵は、咄嗟に反応出来なかった。目の前にいる霖雨の言葉が理解出来なかったのだ。

 霖雨は言った。




「その翡翠って奴がいなければ、和輝は命を落とすことも無かった」




 霖雨の目が据わっている。眼球が落ち窪んだように、酷い隈があった。青白い顔は能面のようで、不気味だった。


 確かに、それも一つの手段のように思う。

 だが、少なくとも、この世界ではもう手遅れだ。翡翠は拉致され、和輝はその事実に勘付いている。


 提案の先を促すと、霖雨は凍り付いたような、冷たい声で言う。




「俺は、和輝が死ぬくらいなら、他人が幾ら死んでも構わない」




 覚悟なのだろうか。決意なのか。或いは、狂気なのか。葵には、解らない。

 平時の霖雨ならば、絶対に言わないだろう言葉だ。


 ――いや、如何かな。


 葵は、少し考えて否定する。

 霖雨は元々、そういう人間だ。懐に入れた人間には甘いけれど、他人には興味すら無い。彼に干渉して来た他人は、何時も勝手な期待を持って害を与えて来た。だから、境界線の外にいる人間を敵と見做している。


 味方を守る為なら、幾ら敵が死んでも構わない。そういうことだ。

 加えて、霖雨は和輝の死を二度体感している。二度目は、目の前だった。直前に会話したのに、すぐ側で死んだのだ。


 霖雨の双眸に、青白い炎が見える。

 狂気だ。鬼火にも似た狂気の炎が、霖雨の双眸で燃えている。


 葵は、答えた。




「それを、あの馬鹿が許すかな」




 翡翠を見殺しにしても良い。旅客機が爆破されても良い。犯罪が蔓延っても良い。ただ、それをあのヒーローが許すとは思えない。


 霖雨は少し考え込むように唸って、言った。




「近江さんに、依頼するのは如何かな」

「――正気か?」




 ごめん、忘れてくれ。

 霖雨は、苦く笑った。


 何でも無いことのように、霖雨が悪魔の提案をした。

 拉致された翡翠を、殺し屋の手で暗殺させようと言うのだ。そうすれば、和輝の行動起因は無くなる。


 葵は溜息を吐いた。ただでさえ訳の解らない状況なのに、正気を失った人間の面倒まで見ていられない。


 霖雨の提案は聞かなかったことにして、葵は言った。




「明日、和輝は空港近くの空き地に向かう。多分、俺は干渉出来ない」

「うん」

「俺が空港に行くから、お前はバイクで其処に行ってみてくれ。如何やら、この世界には一定のルールがある。干渉するタイミングによっては、未来を変えられる可能性がある」

「何か、確証でもあるのかい?」




 胡乱な目で、霖雨が言った。

 葵は答える。




「此方の受け答え次第で、和輝の言動に僅かな変化がある。その小さな変化を重ねて行けば、未来が変わるかも知れない」




 そういえば、夕飯を食べていない。

 葵が魚を食べたいと言ったから、和輝はラーメンを茹でなかったのだ。帰宅してみたら夕食を用意する気力も無かったらしいが、確かに未来は変わっている。


 霖雨は納得していないようだったが、他に手段も無いのだろう。不本意そうに、渋々と頷いた。


 和輝は空港に行くと言って、空き地に向かった。何故だろう。

 この事態の根底に、翡翠という友人の拉致事件があるのなら、その引き渡し場所は何処だったのだろう。


 現時点の和輝は、友人が誘拐されたことを知らない。何時、何処で知ったのだろう。

 気付いたのか、知らされたのか。


 少しずつ不明瞭だった背景が照らされているが、反比例して霖雨は正気を失っているような気がする。


 こういう時、和輝がいたら良かったと思う。


 葵は考えを打ち消すように首を振った。

 亡霊のように、霖雨が窓の外を見ている。絶望の朝が、迫っている。

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