⑹予兆
葵が目を開けると、見慣れた天井が映った。
ゆっくりと身を起こす。枕元の携帯端末で日付を確認すると、同居人の死ぬ前日だった。如何やら、再び過去へ戻ったらしい。
熟、非科学的だ。
それでも状況に慣れつつあるのだから、人間とは図太い生き物だと思う。
とりあえず、ネットニュースを流し見る。取り立てて大きな事件は無かった。当然、旅客機の爆弾テロなんて載っていない。
旅客機の爆破――。
葵の瞼の裏には、嘗て友人を亡くした日の光景が蘇る。
爆破炎上する機体、出口を無くし逃げ惑う乗員乗客、近付かない消防隊、硝子越しに見ていた自分。まるで、対岸の火事だ。あの日も、そう思った。
肝心な時に、自分は何も出来ない。
本当は何か出来たのかも知れない。彼等を救えたのかも知れない。そんなことを思う度に、頭の何処かが腐敗して崩れ落ちて行くような気がした。
リビングから、ドアを蹴破るような騒音が聞こえた。霖雨の叫び声が続く。
怪訝そうな和輝の声が追い掛ける。ああ、帰って来た。ヒーローがまだ生きていた過去へ戻って来たのだ。
初回と変わらない遣り取りをしている二人に、ひっそりと溜息を吐く。
上手い仕組みだと、葵は誰にとも無く賞賛を送る。
世界のシステムは変わらない。結末も決まっている。それでも、此方の言動次第で登場キャラクターの発言が変化する。
一度や二度のプレイでは、無数に枝分かれするエンディングを回収出来ない。繰り返す内に慣れて飽きないように、変わらない結末に絶望しないように、登場キャラクターが様々に演出する。
プレイヤーは錯覚してしまう。
もしかしたら、次は届くかも知れない。次は変えられるかも知れない。――シナリオは変わらないのに。
控え目なノックの音が転がった。
和輝ならば、返事を待たずに開けていただろう。葵は、扉の向こうにいるだろう姿を思い浮かべながら、ドアノブを捻った。
扉の向こうにいたのは、意外にも和輝だった。
明日、都心の高層ビルから転落死するとは思えない健康そうな顔をしている。
そういえば、こいつは至って健康なのだ。自転車並の速度で何時間も動き回るくらいには、気力に満ちている。
和輝は伺うような上目遣いで、問い掛けた。
「おはよう。熱、下がったか?」
「はあ?」
「何だ、元気そうじゃないか」
胸を撫で下ろし、和輝が答える。
「昨日の夜に熱出したんだって? 霖雨が言ってた」
あいつ。
声にはせず、葵は内心で悪態吐く。
前回は霖雨を出しにしたが、結果は変わらなかった。今度は自分を出しにするつもりらしい。
霖雨の嘘に乗っても構わなかったが、葵は考える。元々、自分はこの日、外出の予定は無かった。自分が熱を出そうと変わらない筈だ。
面倒臭くなって、葵は好い加減に答えた。
「もう下がったよ」
「なら、良いんだけど」
疑うように、和輝が言う。
以前、葵が視力を失った時、和輝は安否確認の為にドアを蹴破った。同じ惨事を繰り返さなかった同居人の成長を喜ぶべきかも知れない。
否、和輝は惨事とも思っていないだろう。当然の選択どころか、蹴破って良かったとすら思っているかも知れない。
そもそも、自分が彼の成長を喜ぶ理由も無かった。
ふと思い付いて、葵は言った。
「――でも、喉が痛いから、暫くラーメンは食べたくない」
確か、この日の夕飯はラーメンだった。
特に深く考えたことでは無かったが、同じ結末を辿るのなら、試しても良いだろう。
和輝は驚いたように目を丸めて、――嬉しそうに微笑んだ。歪められた目が、春の日差しのようにきらきらと輝いて見えた。
「良いよ。じゃあ、何が食べたい?」
お粥にする?
和輝が尋ねる。よく解らない反応だったが、葵は病人でも無いのに粥など食べたくないので、答えた。
「魚が良い」
「解った」
今にも歌い出しそうな上機嫌で、和輝は歩いて行った。
よく解らない男だ。葵は首を捻った。
リビングに行くと、病人みたいな顔色をした霖雨がいた。
お前が病人の振りをした方が、信憑性があったんじゃないか。そんなことを思う。
キッチンから、天麩羅の載った大皿を持った和輝が出て来た。
選択することで未来は分岐する。春馬の言葉を思い出す。
昼食を作っていた時点の和輝に、自分達は介入していない。選択していないから、変わらないのだ。
相変わらず、質量保存の法則を覆すような勢いで和輝は食事を終えた。
此方の苦労も知らず、和輝は満足そうに腹を撫でる。解剖してやろうかと、葵は物騒なことを考える。
死なない程度に暴行して、家に縛り付けて置こうか。
それが一番手っ取り早いように思うけれど、この馬鹿な男のことだから、それでも同じ行動を起こすような気もした。瀕死の重傷で爆弾テロに挑まれたら、その場所でゲームオーバーかも知れない。
結末は決まっているのだ。
和輝が死んで、爆弾テロが防がれる。
けれど、何処かの時間軸で、助かった数と同じだけの人間が何らかの理由で死ぬ。
和輝が死んで、爆弾テロが決行される。
これは多分、最悪のパターンだ。所謂、バッドエンドだろう。
和輝が生きて、爆弾テロが決行される。
自分達の目指すゴールだ。このエンディングを迎える為には、救おうとしている本人ーー和輝を如何にかしないとならない。
どうせ、旅客機に載った300人近い乗員乗客は死ぬのだ。否、死ななければならない。この男が干渉しなければ、歴史は滞りなく進んだ筈だ。
余計なことをしやがって。
キッチンで洗い物をする和輝の脛を、通り過ぎざまに蹴って遣った。すぐに反撃があったけれど、足が短いので適当に往なして置いた。
煙草を吹かせながら、葵は考える。
今日の夜、和輝は港の倉庫に向かって知人と会う。其処で強姦に遭う。葵が間に合わなければ、無事では済まなかっただろう。
そういえば、あの強姦魔は何者だったのだろう。
何故か夜中に出掛けた和輝に気を取られて、すっかり失念していた。和輝の行動も謎だが、あの男も謎だ。
あの日、和輝は発煙筒を手渡していた。
和輝の行動が理解不能なのは今に始まったことでは無いので、気に留めていなかった。
あれは、発煙筒では無かったのだろうか。
そもそも、あの夜に会っていた相手は誰だ?
今は何処にいる?
和輝は死んだ日の朝、タクシーで移動していた。脳味噌筋肉の癖に、タクシーを呼び付ける知能があったとは驚きだ。
それに、タクシーに乗ったタイミングがおかしい。防犯カメラ映像では、タクシーは和輝が家を出た瞬間に滑り込んで来た。
空港へ向かわず、近くの空き地に行った理由は何だ?
旅客機の爆破テロを、和輝は何処で知った?
都心の高層ビルに向かった訳は?
何者かに呼び出されたとして、和輝が容易く突き落とされるだろうか。殺しても死ななそうな男だ――と考えて、実際、死んだのだったと思い出した。
改めて考えると、不透明な部分が余りに多い。
不透明な部分は恐らく、和輝が嘘を吐いていた部分だ。
この馬鹿が、身の丈に合わない嘘で隠した部分だ。
それでも、和輝を問い詰めるという選択肢は無いのだ。春馬の言うルールに抵触する可能性がある。物は試しだと思うけれど、タイムパラドックスが起こった時に、如何なるか解らない。
難易度が高い割に、制約が多過ぎる。これがゲームならば、葵はとっくに媒体を分解してデータ解析をしているところだ。
馬鹿の癖に余計なことをしやがって。
葵は苛立って、煙草を灰皿に押し付けた。
15.パラレルワールド
⑹予兆
「辞書を引けよ」
葵が吐き捨てると、和輝は不満を全面に押し出して文句を言った。
試験前だと言う和輝の面倒を見て遣っている。問題以前に文章が理解出来ないらしい。
この分じゃ、どうせ追試だ。
馬鹿馬鹿しくなるけれど、文章が理解出来た時には正しい解答を導き出せるのだ。安易に無下に出来ないところが、腹立たしい。
集中力のスイッチが入っていない和輝は、本当に面倒だ。同じところで何度も躓く。
それはさっき教えただろ。何で学習しないんだ。
葵が言うと、和輝が口を尖らせる。
それでも文句を呑み込んで、机に向かう。
勉強の為だと言って、何時の間にか葵の部屋に入り浸っている。絆されている自分に気付いて、葵は忌々しく思う。
人の懐に潜り込むのが上手いのだ。此方の引いた予防線を、簡単に踏み越えて来る。
その癖に、此方が拒絶するぎりぎりを避けるところが狡いと思う。
蒼い顔をしていた和輝がちらちらと時計を見る。そういえば、友人と呑みに行くと言っていた。
人に勉強を教えてもらっている癖に、良い御身分じゃないか。
案の定、和輝は呑みに行くと言った。展開は予想出来ていたが、一応、抵抗してみる。
「落第するぞ」
「息抜きも必要だろ。その方が、効率が上がる」
「馬鹿の癖に、効率なんて言葉をよく知っていたな」
「うるせーよ」
からりと、和輝が笑った。
「帰りに買い物も済ませないと、夕飯が作れない」
ふうん、と聞き流し掛けて、ふと気付く。
これは過去に無かった言葉だ。和輝は買い物を忘れて帰って、夕飯にラーメンを茹でるのだ。
何かがきっかけで、過去が変わっている。原因に覚えが無かったので、葵はとりあえず訊いてみた。
「買い物のこと、忘れていると思ったよ」
ストレート過ぎて怪しまれるかと思うが、和輝は気にする様子も無く答えた。
「だって、魚、買って来ないといけないだろ?」
嬉しそうな和輝に、葵は呆れた。
多少ボロが出ても、和輝は気にしないし、気付かないのかも知れない。
ならば、救う対象に知られてはいけないというルールは、意外と難しくないのかも知れない。
それでも、野生の勘というのも馬鹿に出来ないので、石橋は叩いて置く。
じゃあ、行って来る。
和輝はそう言って、部屋を出た。
霖雨は情報収集をすると言って、朝から家にいない。どうせ、この時点で出来ることは殆ど無い。
恐らく、このChapterに霖雨の出番は無いのだ。霖雨は介入出来ない。そういう風に出来ている。
葵は少しずつ、世界の仕組みを理解していた。
朝食兼、昼食は天麩羅饂飩。
和輝は夜に友人と呑みに行くと嘘を吐いて、港の倉庫へ向かう。
其処で強姦に遭い掛けて、葵に助けられる。
そのまま買い物を忘れて、夕食はラーメンになる。
これまでと変わらない道程を辿っている。
出掛ける和輝を、玄関で見送った。
「行ってらっしゃい」
「うん。行って来ます」
輝くような笑顔で、和輝は出掛けて行った。
この返答から考えると、和輝は帰って来る意思があるのだ。明日、命を落とすことになるなんて思ってもいない。
葵はすぐさま支度をして、後を追った。
この日の和輝は何かがおかしかった。
否、この日だけじゃない。もう少し前から、違和感を覚えさせた。――まるで、彼こそが予防線を張っているような。
だから、この日、葵は後を付けたのだ。
途中で見失ったけれど、後を追って良かったと思う。まさか、成人男性の同居人が強姦被害に遭うなんて思いもしなかった。
闇に染まっている街中で、和輝はジョギングを兼ねているのか小走りだった。本人は小走りのつもりなのだろうが、速過ぎる。葵が見失った理由だ。
目的地が解っているので、葵は携帯端末からGPSを確認しつつ追い掛ける。
霖雨が追い付いて来ないので、意外だった。
心配して、頼んでもいないのに遣って来ると思っていた。どちらにせよ、霖雨はまだ登場する場面ではない。
港の倉庫に到着した。
闇に沈む空き地の側、誰かが柱に寄り掛かっている。その影は、和輝の姿を認めると小走りに遣って来た。
「翡翠」
和輝が言った。
意味が解らなかった。この言葉を、前回も聞いた。理解しないまま通り過ぎてしまったけれど、これはキーワードの一つだったのかも知れない。
そして、一つの可能性に行き着く。
翡翠とは、彼の名前ではないか?
その答えを示すように、青年は微笑んだ。
彼が、翡翠だ。
浅黒い肌に、東洋の顔立ち、双眸は名を示すような美しい翠色をしている。
和輝が死ぬ前日、自分達に嘘を吐いてまで会っていた友人。
陰りを帯びた顔の翡翠に、和輝は励ますように何かを言っていた。そして、一本の発煙筒を手渡す。
この発煙筒の正体は不明のままだ。
だが、和輝が何かを言って、翡翠は嬉しそうに口元を綻ばせた。
二人はそのまま別れ、和輝は踵を返す。
前回――和輝はこの後で強姦に遭う。葵はそのことを帰宅してから思い出して、慌てて戻って来たのだ。間一髪間に合ったけれど、間に合わなかったら、如何なっていたのだろう。
結末には影響無く、胸糞悪くなるだけかも知れない。
踵を返した筈の和輝が、コンテナの裏へ回り込む。葵の知らないシーンだ。
草叢の影に隠れたので、葵はその様子をじっと見詰めた。
何かを見ている。――視線の先、倉庫前で翡翠が立っていた。誰かを、待っているようだった。
がさりと、茂みが揺れる。
大きな黒い影が、突如として和輝の背後より襲い掛かったのだ。
興奮し、獣のような息遣いで男が和輝を押さえ付ける。不意を突かれた和輝はそのまま倒され、手首をロープで拘束された。
和輝の口には布が突っ込まれ、悲鳴も助けを求める声も上げられない。
男の太い指が服の下に潜り込んで、好き勝手に這っている。
ベルトの金具がカチャカチャと耳障りに鳴る。荒い息遣いのまま、男は血走った眼で和輝をうっとりと見下ろしていた。
和輝は顔面を歪めて、必死に抵抗していた。顔が真っ青だ。体格差は歴然で、和輝の抵抗等、何の意味も無かった。
葵は、男を蹴飛ばしたい衝動を必死に呑み込んだ。
まだだ。
倉庫の前、怪しげな黒塗りの車が滑り込む。
現れた男へ、翡翠が何かを手渡す。そして、ーーそのまま銃口を突き付けられた。
車に押し込まれた翡翠の悲鳴は、和輝には届かない。
車が急発進する。
男の手が和輝のズボンを下ろし、大腿を撫でる。和輝は呆然と見開いていた目を、固く閉ざした。
葵は、地面を蹴った。
上半身を捻り、渾身の力を込めて、右足を振り切った。側頭部を捉えた一撃に、夢中だった男が弾け飛ぶ。
酷い顔をした和輝が、葵を見上げていた。
「何をしてんだよ、馬鹿」
和輝は酷い有様だった。それでも、葵の姿を認めると泣き出しそうに笑った。
何かの言葉を、呑み込んだ。葵には、そんな風に見えた。
手首の拘束を解いて遣ると、和輝は慌てて衣服を整えた。汚れた姿は如何にも暴行されましたと言っているようだった。
「何で、此処にいるの」
葵は少し考えて、答えた。
「買い物、忘れてんじゃないかって思ったから」
そういえば、一応自分は病み上がりという設定なのだった。
嘘が破綻していたが、和輝は気にしていないようだった。
助け起こすと、和輝が言った。
「ありがとう」
「別に」
本当は、もっと早く助けられた。
後ろめたさもあって適当に答えたが、和輝は、気付く様子も無く顔面を何度も擦っていた。
そして、和輝は、はっとしたように顔を上げた。勢いよく起き上がると、コンテナの影から飛び出す。
其処にはもう、誰もいない。
葵は、冷静にそれを見ていた。
「如何した」
「いや、――親玉を、取り逃がしてしまった」
何時もの顔で、和輝が答えた。
その男に吐かせれば良い。葵は無表情に言った。和輝は何でもないみたいな顔をして、曖昧に頷いた。
あの日のことが鮮明に蘇って、葵は酷く冷静な気持ちになる。
予兆は、あったのだ。
自分が気付かなかっただけで、彼はヒントを落としていた。
「帰るぞ」
動きの鈍った和輝を引っ張って、帰路へ着く。
和輝の顔色が酷く悪い。その訳を、葵はもう、知っている。
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