⑸ヘルタースケルター
「追い掛けるぞ!」
呆然と立ち尽くす霖雨の前に飛び出して、葵が叫んだ。蹴破る勢いで扉を開けた先、何も変わらない夏の日差しが降り注いでいる。
間髪入れずに飛び出したが、其処に彼はいなかった。長閑な街並みはひっそりと静まり返っている。
霖雨は、野生動物が周囲を探るように耳を澄ませていた。忽然と消え失せた和輝の気配は、もう何処にも無い。
葵は携帯端末を取り出した。
「タクシーに乗ったみたいだ」
玄関に設置してある防犯カメラ映像を映し、葵は舌打ちをする。
タクシーは、和輝が玄関を出たと同時に滑り込んだ。殆ど停車せずに発進している。予め行き先を告げていたのかも知れない。
霖雨は庭から愛車を運び出す。
狭い路地を抜けるのなら、間に合うかも知れない。
ヘルメットを投げ渡すと、葵は当たり前のようにそれを被った。
エンジンが唸る。排気管から勢いよく呼吸が溢れ、バイクは敷地を飛び出した。
事細かに葵は行き先を告げる。蛇行するように町を抜ける様は、まるで追っ手を振り切ろうとしているようだ。
町を抜け、高速道路に差し掛かる。方向的には空港へ向かっている。
和輝は渡欧する為に空港へ向かったのだ。何の不自然も無い。だが、得体の知れない焦燥感が背後より忍び寄り、今にも牙を突き立て襲い掛かるような気がした。
高速道路は酷い渋滞だった。
如何やら事故でも起こったらしい。一車線が封鎖され、バイク一台通れない。
葵が背中で言った。
「タクシーは渋滞を抜けているぞ」
「くそっ!」
悪態吐く霖雨の後ろで、葵が奇妙な声を出した。
「行き先は空港じゃない。近くの空き地へ向かっている」
「何で」
「知るか。でも、これじゃ間に合わないな」
そう言って、葵はバイクを降りた。
渋滞しているとは言え、危険行為だ。霖雨の訴えなど始めから聞く気も無いらしく、葵はヘルメットを脱いだ。
「俺は走っていく。お前はこのまま空港へ向かえ」
葵と二手に分かれた時に碌な試しは無いけれど、他に手段も無かった。現実は何時だって八方塞がりだ。
霖雨がこっくりと頷くと、葵はそのまま走って行った。
残された霖雨は、ちっとも進まない車の列を忌々しく思った。緊急車両だって進めないだろう酷い渋滞だ。まるで、姿の見えない巨大な力が自分等の前で立ち塞いでいるようだ。
だが、渋滞はある時を境に解散していった。
封鎖されていたもう一つの車線が解放されたのだ。こんがらがっていた糸がするすると解けるようだった。
霖雨はスピードメーターすら気にせずにバイクを飛ばす。こういう時にこそ警察に捕まるのだが、事故現場が近いとは思えない程にその気配は無かった。
空港の駐車場はほぼ満車だった。霖雨はバイクを強引にねじ込んで、賑わう空港へ駆けた。
葵から着信があったので、小さな背中を探しながら折り返す。
呼び出し音が鳴る前に、葵は着信に応じた。
『和輝が空港に向かったぞ』
「何があったんだ?」
『解らない。殆ど擦れ違いだった。空き地から黒塗りの車が出て来たから、何者かと会っていたみたいだけどな』
もうすぐ空港に到着するぞ。入り口を見張って置いてくれ。
相変わらず感情を読ませない淡々とした口調で、葵が言った。
移動速度が異様に速い。常人では追い付けないだろう。霖雨は、葵の到着は間に合わないと踏んで、指示通り入り口を見渡せる場所を探した。
正面の入り口は大きく分けて三つ。何処も人で溢れ返っている。和輝の来る方向から考えると、裏口を使用する確率は低い筈だ。
入り口全体見渡せる二階のテラスに立つ。二階はレストランフロアらしく、彼方此方から食欲そそる匂いが漂っていた。
迷子捜索のアナウンスが放送されている。入れ違うように、間も無く離陸する飛行機の搭乗口が解放されたことを知らせていた。
和輝はドイツへ向かう予定だった。彼の乗る筈の機体が到着したことを知らせるアナウンスが流れ、霖雨は一瞬意識を取られた。ーーその時、視線は東側の入口を潜る小さな青年へ惹き付けられた。強力な磁石みたいだった。
和輝だ。霖雨は身を乗り出した。
小さな青年は、ドイツ行きの搭乗口に向かわなかった。迷い無く別の搭乗口へ駆けて行く。彼の目的には検討も付かないが、見失うまいと霖雨は後を追った。
小さな背中は、あっという間に人の波に呑み込まれた。
注意していたのに、見失ってしまった。
自分の失態を恥じる時間は無い。和輝の急いでいた様子を考えると、選択肢は限られる。彼の向かっていた場所は、ロシア行きの飛行機だった。
搭乗口は既に解放され、乗客は粗方乗り込んだらしい。予定の時間になれば、飛び立てる。準備万端の乗員を横に、霖雨は立ち尽くした。
搭乗口を越えることは出来ない。それに、霖雨は和輝が乗り込んだ姿を見ていない。
歯嚙みしていると、強烈な引力持つ青年が人混みの中から現れた。
家を出る時に来ていた薄手のジャケットも、大きな荷物も無い。額に汗の雫を貼り付けて、静かに呼吸を整えている。
その目は、声を掛けることすら躊躇してしまう程に真剣だった。空気が張り詰めて、少しのきっかけで粉々に砕けてしまいそうだ。
星を鏤めたように煌めく瞳はただ一点を睨み、逸らされる気配も無い。
読書をしている和輝は、時々こういう空気を放っていた。高次元の集中力とは、必要外の情報を一切遮断して、目の前のただ一つだけに備えるのだろう。和輝は今、その天才と呼ばれる集中力で、何かに備えている。
搭乗口のスタッフが、チケットの有無を確認する。和輝は、いきなりその腕を捻り上げた。
悲鳴が上がった。
がたいの良い警備員が数人駆けて来るが、和輝の目は飛び立つ時を待つ旅客機を睨んだままだった。
向かって来る警備員を、赤子の手を捻るように倒して行く。当然、周囲は動揺によってざわめいていた。
和輝は拳銃を向ける警備員に目もくれず、真っ直ぐに旅客機へ乗り込んで行った。
まるで、機械のようだ。こんな和輝を見たのは初めてだった。
霖雨に追い掛けるなんて芸当が出来る訳も無い。
不審者の侵入にサイレンが鳴り響き、人々は訳も知らぬまま逃げ惑う。
周囲から人が消え、霖雨はゲートを潜った。殆ど同じタイミングで、乗客がどっと押し寄せた。まるで、何かに恐ろしいものから逃げ出すような酷い顔色だった。
警備員の怒声が響く。
動くな。
手を挙げろ。
撃つぞ。
霖雨は押し寄せる乗客を掻き分けて、機内へ向かった。そして、その入口で和輝と鉢合わせた。
和輝は大きな目を真ん丸に見開き、酷く驚いたようだった。
霖雨も何故此処にいるのかと問われたら、答える自信が無い。和輝は目の前の現実を確かめるように霖雨を凝視した後、蕩けるような微笑みを浮かべた。
「此処にいてくれ」
ぽん、と肩を叩いて、和輝は横を擦り抜けた。
声を掛ける間も無く、その背中は小さくなっていた。
霖雨は慌てて携帯電話を取り出し、葵へ電話を掛ける。数秒としない間に、電話は繋がった。
「止められなかった……」
『役立たず』
酷い言い様だが、事実なので霖雨は黙った。
葵が言った。
『今、あいつの死んだ場所に向かっている』
和輝の死んだ場所ーー都心の高層ビル。
如何して和輝が空港から都心へ向かったのかは解らない。霖雨と葵が介入しても、世界は同じ道を進もうとしている。
嫌な予感がして、霖雨は喘ぐように訴えた。
「和輝を、守ってくれ」
掠れるような懇願を拾い上げて、葵が答えた。
『それが出来るなら、初めから遣っている』
その通りだ。霖雨は俯いた。
和輝の言う通りこの場所に残る訳にはいかない。彼は、霖雨を巻き込みたくないから、黙っていたのだ。そして、和輝は霖雨も葵も巻き込む事無く、自分一人の命だけで大勢の人間を救ってみせた。
通話の終わった携帯を見詰め、霖雨は空港を飛び出した。
強引に停めたせいで、バイクの前後は他の車両に塞がれていた。ボディは擦られたような後も残っていたけれど、この際、気にしない。
前後を塞ぐ車両の隙間を抜け、霖雨は再度バイクを吹かせた。
都心の高層ビルとは聞いているが、厳密な場所までは解らない。葵へ電話を掛けようと思ったが、今頃、携帯端末のGPSを使用していることを考えて、止めた。
代わりに、霖雨は双子の兄へ電話掛けてみた。恐らく、春馬は既にこの国へ到着している。人手は多いに越した事は無い。
先程の騒ぎにせいなのか、回線がパンクしているようで繋がらない。
霖雨は舌打ちを一つの零して、電源ボタンを押した。
和輝を救う代償を払えなかった。
あのスーパーマンみたいな和輝を止めることなんて、自分に出来るのだろうか。
そんなことを思うが、霖雨は慌てて頭を振ってその思考を追い出した。
遣るしかないのだ。
スピードメーターを振り切る勢いで疾走するが、相変わらず警察の気配は無い。まるで、無駄な足掻きだと運命が嘲笑っているようだった。
15.パラレルワールド
⑸ヘルタースケルター
葵から着信があった。
タクシーで現場へ急行していたところ、車両トラブルに遭遇して動けない。
幸い、葵はぴんぴんしているらしい。霖雨は都心へ向けてバイクを走らせていたが、高速に入る途中でその連絡を受けた。
葵を拾って遣ろうかと思ったが、状況は刻一刻を争う緊急事態だった。周囲は空港での事件を受けて緊急車両のサイレンが鳴り響いている。道路も何時封鎖されるか解らない。
仕方なく、霖雨は単独で現場へ向かった。和輝の移動手段は徒歩らしいが、裏道に精通している上、その身体能力は常人離れしている。バイクに乗っていても、追い付ける保証は何処にも無い。
神の見えざる手が、和輝を運命の元へ引き寄せているようだ。
午後2時16分。
霖雨は現場に到着した。
空を突くような高層ビルだ。生涯縁の無い場所だと思う。
葵の情報によると、既に和輝は到着しているらしかった。
清潔感の漂うエントランスホールに、犯罪の気配は無い。美しい受付嬢が退屈そうに爪を見詰めていた。
霖雨は魔王の棲む城へ挑む心地でその入口を潜ろうとした。ーーその時だった。
耳障りな鈍い音がした。まるで、何かがアスファルトに叩き付けられたような。
油の切れた発条人形のように、霖雨は首を軋ませて振り返る。
真っ赤な液体が、地面に飛び散っている。
短い黒髪が重力に従って流れ、人形みたいに人が倒れていた。
頭部から血液が溢れ、アスファルトに広がっている。
悲鳴が迸った。
穏やかな昼下がりは、凄惨な死体によって破壊された。
「和輝」
霖雨は、導かれるようにその名を呼んだ。
返事は無い。薄っすらと開かれた瞼の下、光を失った瞳が茫洋と空を仰いでいる。血の気の失せた美しい相貌は作り物のようだった。
ぴくりとも動かない和輝の側に、霖雨は膝を着いた。
嘘だろう。何かの冗談だろう。
葬儀で開示されなかった青年の死に顔が、其処には存在している。見せられるものじゃないと封印されたその顔は、今にも起き上がりそうな気配を漂わせていた。
葬儀で開示されなかった訳を、この時になって理解する。
まるで、生きているみたいだ。彼の死を受け入れられない人々の為に、愚かな希望を残さぬように、彼の遺族はその死に顔を隠したのだ。
遠くでサイレンが鳴り響く。霖雨は、僅かに開かれた掌を握った。死後硬直の始まらぬ掌は、生前の彼と同じく、温かかった。
ぐにゃりと、視界が歪んだ。
足元から金色の光が立ち上り、霖雨の世界は其処で途切れた。
そして、ゆっくりと目を開くと、真っ暗な世界で春馬が待っていた。
霖雨は膝を着いていた。目の前に、彼の死体は無い。
周囲は闇に沈み、足元から立ち上る金色の光が仄かに春馬と葵を照らしていた。
葵は、感情の無い人形みたいに硬直している。霖雨は春馬に支えられ、立ち上がった。
冷ややかな目をした葵が、独り言みたいに言った。
「情報を整理しよう」
酷く冷静な葵が、霖雨には信じられなかった。
呆然と顔を上げた霖雨は、頬が濡れていることに気付く。涙なのか、返り血なのかは解らなかった。
原稿を読み上げるように、葵はつらつらと続ける。
「あいつは死ぬ前日、誰かと会っていた。そして、当日、空港には行かずに、近くの空き地へ向かった。その後に直接空港に行って爆弾を解除しているから、恐らく、誰かと会って情報を入手したんだろう」
そう言って、葵は爪を噛んだ。
それまで黙っていた春馬が、思い出したように言った。
「彼が死ぬ直前に、都心で会った」
「何だって?」
初めて聞く情報だ。霖雨が責めるように問い質すと、春馬は困ったみたいに眉を下げた。
「黙っていた訳じゃ無いんだが、タイミングが無かった」
「あの馬鹿は、何をしていた」
「携帯電話を片手に、道に迷っていた」
道に迷う和輝の姿を思い浮かべて、霖雨は溜息を吐き出した。
死ぬ直前に、何をしているのだろう。ますますこんがらがる霖雨の横で、葵が納得したように頷いた。
「迷っていたということは、訪れたことが無かったってことだろう。携帯電話を持っていたのなら、道を調べていたか、或いは、誰かと連絡を取っていたか」
冷静に思考する葵の存在は助かるけれど、霖雨は今は何も考えたくなかった。
死んだヒーローの掌の感触がこびり付いている。彼の死に顔を見ていないから、冷静でいられるのだ。
卑屈っぽくなる霖雨は御構い無しに、葵は思考を停めない。
春馬が言った。
「あの日、道に迷っていた彼の道案内をした。困っている様子だったのに、すぐに助けを求めようとはしなかった。謙虚な人間なんだろうと思ったが、違ったんだな」
「助けを求められない状況だったんだろう。多分、脅迫されていた」
「如何してそう思う?」
「無鉄砲ではあるが、脳味噌が無い訳じゃない。それでもこれだけ振り回されて、剰え命を落としているんだ。あの馬鹿の行動理念は何時だって他人の為だからな、人質でも取られていたんじゃないか? 他に説明のしようも無い」
その通りだ。そんなことは、初めから解っている。
彼は誰かの為に命を投げ出した。ーー誰の為に?
和輝は、誰を救おうとしたのだろう。
葵が、くしゃりと前髪を掻き混ぜた。
「情報が足りていない。もっと重要な何かを、俺達は見落としているんだ」
思考を停めない葵が信じられない。瞼の裏にヒーローの死に際が焼き付いていて、霖雨はこのまま蹲ってしまいたかった。彼には感情が無いのだろうか。そんな筈が無いと思っていても、霖雨には理解出来ない。
葵は、黙っている春馬へ目を向けた。
「あいつが死んだ瞬間、ゲームオーバーなんだな」
「歴史はもう改変を始めている。彼が死んでも不都合が生じないようにね」
「具体的には?」
「時間軸がずれて、何処かで大量の命が失われる」
犬死だな。
葵は笑ったようだった。その目は氷のように冷たかった。
「この世界にいる限り、未来で判明しただろう真実を知ることは出来ないのか。和輝が死んだ後、現場に行って犯人の顔を拝むことは出来ないってことか」
「そうだ。俺達は、通り過ぎた過去からしか情報を掬い取れない」
「だが、過去は筋書きが決まっていて、変えることは出来ない」
春馬がこっくりと頷いた。霖雨は頭痛を覚えた。
意味が解らない。この二人は何の話をしているのだろう。
黙ったままの霖雨に気付いた春馬が、丁寧に言った。
「彼を救って過去を変えるというのは、あくまで緊急処置なんだ。彼の命を救う最小限の行動以外、俺達は動けない」
「解らない」
「ーー制限があるんだよ」
当たり前みたいに葵が言った。
「タイムパラドックス起こすようなことは出来ないってことだ」
「お前等、わざと解り難く言っていないか?」
言うと、葵が憐れむような目をした。
春馬は咳払いを一つして、切り替えるように言う。
「事件が起きる前に、葵君は空港に連絡をしたんだよ。ヒーローの先回りをしようとしたんだ」
「繋がらなかったけどな。それに、現場に先回りしようとしたが、原因不明の車両トラブルだ。あいつの携帯電話に盗聴器を仕掛けようともしたが、上手くいかない」
それは、霖雨にも覚えがある。まるで、神の見えざる手が運命の元に導いているようだった。
タイムパラドックスを起こさぬように、最小限の手数しか許されていないのだ。
霖雨は、現実の厳しさに打ちひしがれるよりも、自分以上に行動を起こした葵に驚いた。彼がそんなに積極的に行動することも珍しい。
「もう一回」
顔を上げた葵が言った。
春馬は少しだけ驚いたように目を見張った。霖雨は、迷い無く訴える葵に釣られて顔を上げた。
もう一回。
「解った。ーーじゃあ、二週目だ」
金色の光が、周囲を包み込む。その光が視界を埋め尽くす刹那、霖雨は葵を見た。
感情を窺わせない無表情だ。研ぎ澄まされた刃のような鋭さで、何かを覚悟するような強さを滲ませて葵は遠くを見ていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます