⑷「じゃあね」
午後九時を回ると、和輝は欠伸をしながら部屋へ戻って行った。
低身長を気にする我らがヒーローは、相変わらず就寝が早い。彼が自室へ戻ったので、霖雨と葵は顔を見合わせてそれぞれ部屋で息を殺して様子を窺った。一つ屋根の下にいながら、メールで連絡を取り合う。
一時間程、何も起こらなかった。本当に眠ったのかも知れない。
霖雨が欠伸を噛み殺していると、早速メールが届いた。葵からだった。
行くぞ。
如何したのだろうと、扉をそっと開けてみる。暗闇の中、幽霊みたいに葵が立っていた。
「うわ!」
声を上げた霖雨を、葵が憐れむように見下ろす。
「和輝はもう行ったぞ」
「え? 何時の間に」
「早く行くぞ」
さっさと背中を向けた葵を追い掛ける。室内は相変わらず闇に包まれているのに、葵は見えているみたいにすいすい進む。霖雨はソファの足に小指をぶつけて呻いた。
葵は振り向きもしないので、霖雨は涙目になりながら後を追った。
町は死んだように静まり返っている。どの家も既に就寝時刻なのだろう。街灯ばかりが明るく、住居の殆どは闇に沈んでいた。
葵は手元の携帯を見ながら、注意深く進んで行く。如何やら、GPSで和輝の行方を確認しているらしい。
彼は一般人だと言うけれど、霖雨にはそうは思えない。味方の内は頼もしいけれど、敵に回すと恐ろしいような気がした。
やがて到着したのは、見覚えのある港の倉庫だった。闇に響く潮騒が何とも不気味な雰囲気を漂わせている。犯罪者に度々悪用される此処は、嘗て和輝が拉致監禁された場所でもあった。こんな場所は早く取り壊して欲しい。
倉庫の入り口に、和輝が立っていた。闇の中にいても尚、その存在感は群を抜いている。意識しなくても視線が吸い寄せられるのだ。霖雨は一人佇む和輝を見詰める。
此処で気付かれる訳にはいかない。何が起こったのか真実を見失う恐れがあるし、如何してこの場所にいるのか問い質されたら誤魔化す自信が無い。物影に隠れて息を殺している霖雨の横で、葵は平然と和輝を見張っている。こういう時程、葵の透明人間みたいな存在感の希薄さが羨ましい。
離れたところで、砂利を踏み締める音がした。葵は口の前に指を立て、目配せした。
闇の向こうから、誰かが遣って来る。外灯に照らされたそれは、一人の青年のようだった。
「和輝」
呼び掛けた青年は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
和輝は大きな壁みたいな安心感に満ちた笑顔で、それを受け入れる。
「翡翠」
翡翠?
霖雨は胸の中で反芻する。何のことだろう。
青年は小走りに和輝の元へ行った。親しげな遣り取りをしているが、会話までは聞き取れない。
和輝は朗らかに笑って、青年を励ましているようだった。そして、会話が終わると、和輝はポケットから何かを取り出した。筒のようだった。
目を細めた葵が、静かに言った。
「発煙筒だな」
「何で?」
「知るかよ」
日常生活で、発煙筒を手にする機会は殆ど無い。疑問だらけの霖雨は二人の遣り取りを凝視するばかりだ。
けれど、二人はそれ以上の遣り取りはせず、最後に固く握手を交わして別れた。葵が焦ったように言った。
「急いで帰るぞ」
「え?」
「あの馬鹿より後に帰宅したら、怪しまれるだろうが」
それもそうか。
霖雨も急いで立ち上がる。
葵が妙に急ぐので、霖雨は何故だろうと疑問に思った。
「あいつ、馬鹿みたいに足速いぞ。スタミナお化けだし、走られたら追い付けない」
そういえば、彼の身体能力の高さは異常だった。
霖雨は帰路を急いだ。
15.パラレルワールド
(4)「じゃあね」
如何にか和輝よりも早く帰宅し、霖雨と葵はそれぞれ自室へ閉じ籠った。しかし、和輝は中々帰って来なかった。
何をしているのだろう。
霖雨は連絡を取ろうと葵へメールを送信する。返事は無かった。
それから数十分後、玄関から酷い物音がした。
扉を薄っすら開いて様子を伺うと、葵に肩を借りながら和輝が帰宅していた。
衣服が乱れていた。ーーまるで、乱暴でもされたような。
隠れていたことも忘れて霖雨は飛び出した。
驚いたらしい和輝が目を丸めるけれど、曖昧に笑って何も答えなかった。
和輝は手洗い嗽を済ませると、真っ直ぐバスルームへ向かった。
霖雨は幽霊のようにぼんやりしている葵を見た。
「何があったんだ」
努めて冷静に問い掛けると、葵は感情を押し殺したような淡々とした声で答えた。
「強姦され掛けていたんだよ」
霖雨は、言葉を失った。
例え和輝に尾行が暴露たとしても、置いて行くべきでは無かった。
苦い後悔が喉の奥を焼く。沈黙する霖雨へ、葵は言った。
「未遂だったよ。――ああ、でも、あの日も同じだったな」
独り言みたいに零して、葵はそれ以来、口を噤んだ。
バスルームから出て来た和輝は、何事も無かったかのように、二人を見ると微笑んだ。
まだ起きていたのか。
そんなことを言って、和輝は部屋へ消えた。
そして、そのまま朝まで出て来なかった。
少しでも、目を離すべきでは無かった。霖雨は苦しくなる。もう一度でも、彼の動向を見逃すものか。固く決心をした。
――そんな和輝を見張っていたので、霖雨は寝不足だった。
葵は何時もの青白い顔で、珍しく早朝に部屋を出て来た。八月十五日、午前七時二十分。キッチンからは焼き魚の匂いが漂っている。
和輝の死んだ日だった。今日、和輝は渡欧する為に空港へ向かい、何故かUターンして都心の高層ビルへ遣って来て、転落死したのだ。何があったのかは全く解らない。ただ、和輝は今日、悲惨な自爆テロから旅客機を救ったのだった。
今日一日は何としても寝る訳にはいかない。霖雨は目を覚ます為に顔を洗う。
夏休みの早朝に、予定がある訳でも無いのに三人で集合する状態がまずおかしい。特に、葵。
案の定、和輝は、葵が部屋から出て来ると目を疑ったようだった。
如何した。熱があるのか。ラーメンで胃がもたれたのか。そんなことを矢継ぎ早に言うので、葵は苛立ったらしくその後頭部を叩いた。
焼き鮭、豆腐とワカメの味噌汁。白米と沢庵。近年では見掛けないような和朝食だ。
三人でテーブルを囲む状況は既に不可解だった。それでも、和輝は何事も無かったような顔をして手を合わせた。
過去を変えなければ、これが三人で食べる最後の食事だった。一口一口を噛み締めていると、葵が言った。
「お前、今日は何時に出るの?」
「十一時くらいかな」
「帰国は何時?」
「うーん。追試が無ければ、一週間以内で帰って来れる」
何とも頼りにならない返答だ。
嘘を吐いているようには見えない。というか、こんなことで嘘を吐いても仕方無いように思う。
「試験は何時? 間に合うの?」
「大丈夫。試験に合わせて、飛行機選んだから」
得意げに言う和輝には悪いが、普通は余裕を持って行動するんじゃないだろうか。
つまり、飛行機の日程を遅らせることは出来ないということだった。霖雨が歯噛みしていると、和輝は不思議そうに言った。
「随分、気にするなあ。今日、何かあるの?」
「別に」
葵は素っ気なく言い捨てた。既に興味を失ったような態度は、普段と変わりない。
この日、悲惨な自爆テロが起こる。霖雨は其処で、疑問を抱いた。テロに巻き込まれた旅客機は、和輝の搭乗する機体なのだろうか。それとも、無関係なのだろうか。
テロを未然に防いだらしいが、それは和輝が積極的に行動した結果なのだろうか。それとも、偶々なのだろうか。
手元にある情報が余りにも少ない。和輝の死亡時刻が迫っている。霖雨は焦った。
「試験、頑張れよ」
「ベストを尽くすよ」
「こんなに説得力の無い台詞も中々無いな」
皮肉っぽく吐き捨てる葵はそのままに、和輝は早々に朝食を済ませて手を合わせた。
和輝の死亡時刻は、春馬が来ていた時刻だ。午後二時過ぎ。
ふと、思い出す。――春馬は、如何したのだろう。予定では、この家を訪れる筈だ。
そういえば、自分は友人からの手紙を受け取って、ペーパーナイフを探していたのだ。手紙は届いたのだろうか。果たして、春馬は遣って来るのだろうか。空港に到着して真っ直ぐこの場所へ来たとしたなら、今頃は飛行機の中かも知れない。彼が恐ろしいテロに巻き込まれる危険だってある。
急に心臓が激しく拍動した。痛みすら覚え、胸元を握り締める。
既に和輝は席を立ち、歯を磨きに洗面台へ向かっていた。
午後十時頃まで、和輝はリビングで試験勉強に勤しんでいた。普段、彼が勉強するところを見たことは無い。隠していたのだろうか。霖雨に知られてしまったので、隠す気も無くなったのかも知れない。
単語帳を必死に捲る和輝の横顔に、異常は無い。勉強に対する焦りが大きいので、霖雨には解らない。
何の勉強をしているのだろう。こっそり後ろから覗き込むと、英語の単語だった。凡そ中学時代習うような初歩的な単語も混ざっていたので、座学が壊滅的というのは事実なのだろうと悟った。
そして、出発の時間が迫ると和輝は立ち上がった。部屋から大きく膨れたリュックサックを背負って、和輝は戻って来た。
リュックサックをソファの隅へ置く。――その場所が、過去と全く同じ場所だったので、霖雨はぞっとした。
神の見えざる手が、和輝を運命の濁流へと引き摺り込んで行くような気がした。
そのまま玄関へ向かった和輝は、幾つかの郵便物を抱えて戻って来た。見覚えのある赤と青に彩られたエアメールがある。受け取った霖雨は差出人の名前を確認する。あの日と、同じだ。
ペーパーナイフを探していたのだ。霖雨は、封筒を破くべきか逡巡する。あの日、霖雨がペーパーナイフを探している間に和輝は仕度を整え、旅立って行った。そして、二度と戻っては来なかった。
「如何した、霖雨。何だか、そわそわしているね。デートかい?」
白い歯を見せ、和輝が笑う。霖雨は何と返したら良いのか解らなかった。
和輝の死まで、あと四時間。
何時の間に換気扇の下へ移動していたのか、火の点いた煙草を指先に挟んで葵が言った。
「昼飯は如何するんだ」
「空港で適当に食べるよ」
ジャケットを羽織りながら、和輝が言う。あの日と同じ、薄手のジャケットだった。
葵は煙を吐き出しながら口を尖らせる。
「お前の昼飯じゃねーよ。俺の昼飯だ」
「そんなの、自分で如何にかしろよ」
困ったように、和輝が笑った。
其処で微かな違和感があった。葵もそれを感じ取ったらしかった。けれど、結局、互いに口にすることは出来ない。この違和感を何と言えば良いのだろう。
「じゃあ、俺、行くよ」
「あ、うん」
霖雨は手紙を置いて、立ち上がった。
リュックサックを背負った和輝は振り返らない。何かに導かれるようにして、淀みなく進んで行く。従うようにして、霖雨は追い掛けることしか出来ない。
行くな、とは言えなかった。
待ってくれ、とも言えなかった。
ピカピカに磨かれた革靴を履いて、和輝が立ち上がる。玄関の扉を開けて、和輝が出て行く。霖雨は、喘ぐようにして一言だけ伝えた。
「行ってらっしゃい」
扉を閉める寸前、和輝が目を上げた。透明な光を宿した瞳は、霖雨を映して輝きを放つ。
そのまま消えてしまいそうな儚い笑みで、和輝が言った。
「じゃあね」
じゃあね。――ばいばい。さよなら、しようね。
扉が、閉じた。
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