⑶愚者に奇跡は起こせない
春馬は、ゲームのチュートリアルみたいに忠告した。
過去に戻るにあたっての注意事項。
改めて聞くと馬鹿みたいだけど、知らん顔して聞き流す訳にもいかないので霖雨は一言一句頭の中に叩き込んだ。
その一。これから戻る世界は、和輝が旅立つ前日である。
歴史は間違った方向へ進んでしまったけれど、歪みを正す為に改変が始まっている。死ぬ筈だった大勢の人間は、いずれ異なる悲劇によって失われる。時間軸がずれただけで、失われる命の必要数は変わりないのである。
その二。過去を改変することで、時間の逆説が起こる。
同時に並行世界が生まれるけれど、それは時の扉と呼ばれる時空へ吸い込まれ、世界そのものが消滅する。和輝を救えなかった場合、現時点の自分達は時空の狭間へ消えることになる。
その三。過去へ介入する行為は、所謂イレギュラーであって、未来の記憶を持った霖雨達はあってはならない存在である。
だから、未来のことを自分達以外に打ち明けることは許されない。特に、この時間の逆行の特異点である蜂谷和輝には、何一つ情報を零してはならない。彼が情報を得た時、未来は更に枝分かれし、世界そのものが消滅する可能性がある。或いは、現時点以上に最悪の結末が訪れるかも知れない。
コンティニューしますか?
→はい
いいえ
15.パラレルワールド
(3)愚者に奇跡は起こせない
霖雨が目を開けた其処は、見慣れたリビングだった。
穏やかな日差しが窓から降り注ぎ、室内は柔らかな光に満ちている。咄嗟に携帯電話で時計を見れば、それは和輝が死ぬ前日だった。八月十四日、午前十時半。キッチンから、香ばしい匂いが漂っている。
油の跳ねる音が聞こえ、霖雨はその方向へ目を向けた。対面キッチンの向こう、寝癖頭の青年が機嫌良さそうに菜箸を操っていた。
「――和輝!」
思わず声を上げると、和輝はカウンターの向こうで大きく肩を跳ねさせた。同時に油が跳ねたらしく、和輝は頬を押さえて短く悲鳴を上げた。
霖雨は転がるようにしてキッチンへ駆け、頬を押さえる和輝の顔を両手で掴んだ。
突然のことに声も出せないらしい和輝は、眼を白黒させている。
くっきりした二重瞼、長い睫に彩られた綺麗な瞳。寝癖の残る黒い短髪、少年期を抜け切らない幼い顔立ち。
蜂谷和輝が、其処にいた。
「和輝……」
生きている。
それまで見ていたのが、ただの悪い夢だったのではないかと、錯覚しそうになる。
和輝は、霖雨の両手をそっと外した。
「昼飯はまだだぞ。揚げ物しているんだから、急に入って来るなよ」
幼児を諭すように、和輝が眉を吊り上げる。
和輝だ。あの蜂谷和輝だ。霖雨は目を伏せる。目頭が熱くなって、鼻がつんと痛くなった。両目から熱が零れ落ちそうだった。
急に涙目になった霖雨に、和輝は大層驚いたらしく、慌ててコンロの火を止めた。
「如何した? そんなにお腹が空いていたのか?」
「いや、違うんだ……。何でもない」
「じゃあ、泣きそうな顔するなよ。びっくりするだろ」
壁に下げていたフェイスタオルを差し出して、和輝が困ったように眉を下げた。
霖雨が受け取ると、和輝は何度も其方を確認しながら、再びコンロへ体を向けた。
黒いバンドTシャツに、インディゴのジーパンを履いている。確かに、この日、和輝はこの服を着ていた。黒いTシャツに印刷されている世界的なバンドのロゴには見覚えがある。
和輝は、揚げ物用の鍋から掌程もある掻き揚げを取り出した。賽の目に切った薩摩芋と、桜海老の掻き揚げだ。夏バテしている葵は文句を言ったけれど、サクサクの掻き揚げを口にすると黙った。霖雨は和輝と目を見合わせて笑ったのだった。
急に記憶が蘇って来て、霖雨はリビングに戻ってテレビを点けた。あの日と同じニュースが報道されている。
高速道路の玉突き事故。市議会議員の汚職問題。脂汗を拭う小太りの議員の記者会見を、霖雨は確かに三人で見た。
葵が零す悪口を、和輝は何時ものように往なしていた。何も変わらない、穏やかな日常だった。
その時、葵の部屋の扉が開かれた。起き抜けの微睡んだ目ではなく、妙にしゃっきりとした精悍な顔をしていた。
「おはよう」
気付いた和輝が、キッチンから声を飛ばした。
葵は驚いたように目を真ん丸にして、和輝を見ている。
気にする様子も無く、和輝は鼻歌交じりに調理を続けていた。葵は足音も無く霖雨の傍に遣って来ると、ソファに座った。
「本当に、過去へ戻って来たのか?」
霖雨は頷いて、テレビを顎でしゃくった。
葵は大型のディスプレイを吟味するように見詰め、風船の空気が抜けるみたいな大きな溜息を零した。
「嘘みたいだな……」
嘆くように葵は言った。理解不能の現実に、既に疲れているようだった。
理解出来ているのかと問われれば、霖雨も首を横に振るだろう。けれど、此処が過去である以上、目的を果たすしか無いのだ。カウンターの向こうで、呑気な顔で調理する和輝に問い掛ける。
「機嫌が良いね。今日は出掛けるの?」
「呑みに行くよ」
嬉しそうに答えた和輝は、そのまま歌い出しそうな上機嫌だった。――よもや、翌日に都心の高層ビルから転落死するようには見えない。
彼の身に何が起こったのだろう。
それにしても、と霖雨は疑問に思った。何故、和輝が死ぬ前日なのだろう。もっと猶予があれば、救う確率は上がる筈だ。それとも、この日に何か、きっかけがあったのだろうか。彼の死の予兆を、見逃していたのだろうか。
霖雨が考え込んでいると、葵が空気を切り裂くように言った。
「今日は止めとけば」
すると、和輝が不思議そうに小首を傾げた。
これは、過去に介入する上でセーフな言動なのだろうか。
ルールに縛られて思うように声を掛けられない霖雨の横で、葵はファウルプレーも辞さないというようにつらつら言葉を紡ぐ。
「お前、期末試験近いんだろ。遊んでる場合じゃないだろ」
「息抜きだよ。その方が効率が上がる」
そう言って、和輝は微笑む。この時、霖雨は和輝の期末試験を知らなかった。彼が大学に通っていたことも知らなかった筈だ。
歴史は少しずつ変わっている。けれど、葵は気にしないようだった。
「明日、渡欧するんだろう。わざわざ疲れに行く必要無いんじゃないか?」
「疲労は結果であって、目的じゃないだろ……」
呆れたように和輝が言った。
調理が終わったらしく、和輝は山盛りの天麩羅を載せた大皿を抱えて出て来た。大葉と竹輪、蓮根と茄子、薩摩芋と桜海老の掻き揚げが柔らかな湯気を昇らせている。皿をテーブルに置いた和輝はキッチンへ戻り、一人一皿の冷やし饂飩を運んで来た。
あの日と同じメニューだった。置く場所も、同じだ。葵が時計を見上げたので、霖雨も顔を上げる。十時四十分。
「さあ、昼ご飯にしようぜ」
いただきます。
豪快に挨拶した和輝は、真っ先に掻き揚げへ手を伸ばした。
葵は何か納得いかないようだったが、和輝に倣って手を合わせる。霖雨もまた、挨拶をした。
質量保存の法則を覆すように、和輝が凄まじい勢いで天麩羅と饂飩を咀嚼して行く。相変わらず気持ちの良い食べっぷりだ。この姿も、もう見られなくなるのかと思うと、息が苦しくなった。
泣きそうになって、霖雨は隠すように俯いた。和輝がそれで騙される筈も無く、すぐさま「如何した?」と問い掛けた。
何でも無いと放逐するように手を振るけれど、和輝の探るような目は変わらなかった。嫌な沈黙が流れる前に、葵が口を挟む。
「体調、悪いんじゃないか」
急に何を言い出すのかと、霖雨は反論しようとした。けれど、和輝は箸を置いて部屋から体温計を持ち出した。
病人にするように、検温を始める。アラームが鳴ったが、当然ながら、発熱している筈も無く、平熱だった。和輝は訝しむように眉を寄せる。
葵が、良いことを思い付いたみたいに喜々として提案した。
「今日はこいつの看病でもしてやれば?」
固辞しようとして、霖雨は黙った。これは、好都合だった。
和輝が命を落とす事件のきっかけが今日ならば、物理的にこの家から出られないようにしてしまえば良い。明日を乗り越えるまで、いっそ縛り付けて置けばいいのではないか。
少しばかり物騒なことを考えていると、和輝が言った。
「いいよ。しょうがないな、霖雨は」
幼児の我儘を受容するように、和輝が微笑む。
作戦は成功だ。霖雨は、葵とそっと視線を交わして笑った。
昼食後、和輝は片付けを終えると早々に霖雨をベッドへ押し込んだ。労わられる必要も無いくらい健康体であるが、和輝を此処に縛り付けて置く必要があるので病人の振りをしなければならなかった。
空咳をする度に和輝が心配そうな顔をするので、霖雨は罪悪感を覚えた。だが、背に腹は代えられないのだ。
「面倒掛けてごめんな。呑みに行く予定だったんだろ?」
「いいよ、このくらい。夏バテかも知れないな。何か食べたいものがあれば、作るよ」
言われて、霖雨は思い返す。この日の夕飯は、確か、ラーメンだった。
和輝は、買い物に行くことを忘れていたのだ。仕送りの品の一つであるインスタントラーメンを煮て、葵に文句を言われていた。
その未来も、変わるのだろうか。このままなら、買い物に行かない和輝はラーメンを作る筈だ。
霖雨は早鐘のような鼓動の音を聞きながら、布団の下で拳を握る。
「さっぱりしたものが食べたいな」
「いいよ。何にしようかな」
さらりと答えて、和輝は笑った。そして、思い出したように続けた。
「あ、買い物に行っていないんだった。ちょっと行って来る。葵を残しておくから、何かあったら遠慮無く言えよ」
母親のようだな、と霖雨は笑った。
部屋を出て行った和輝に、相変わらず死の予兆は無い。普通に考えれば、彼が都心の高層ビルに行く必要も無いのだ。
いざとなったら、体調不良の振りをして明日まで和輝に看病を頼もう。試験の日程次第では、旅立つ日を変更してくれるかも知れない。
扉の外で、和輝は葵と鉢合わせたらしい。出掛けると言う和輝に、葵が何かを言っていた。
「出掛ける用があるから、ついでに済ませて来てやるよ」
普段なら絶対に言わないだろう言葉が聞こえて、霖雨が耳を疑った。それは和輝も同じようで、激しく動揺していた。
扉の向こうで起こっているということが歯痒い。どんな顔でその言葉を言ったのだろう。親切な葵なんて想像も付かない。
結局、和輝は押し切られる形で葵に買い物を頼んだようだった。
玄関の閉じる音が遠くで聞こえた。
殆ど同時に、霖雨の携帯電話にメールが届いた。
和輝のことを見張って置くように、という葵からの忠告だった。
言われるまでも無いけれど、確かに目を離す訳にはいかなかった。異常に行動力のある男だから、いざとなったら何をするか解らない。霖雨も葵も、和輝が如何して高層ビルにいたのかという根本的な原因を見付けられていない。
ベッドから抜け出して、霖雨はリビングへ戻った。和輝がソファで本を読んでいた。
「あれ、寝ていなくていいの?」
きょとんと首を傾げた和輝に、霖雨は平静を装って答える。
「流石に、こんな時間から寝られないよ。退屈だから、俺も読書する」
「そっか、そうだよな。じゃあ、蜂蜜レモンティーでも淹れてやるよ」
そんなことを言って、和輝はキッチンへ向かう。
何事も無く、平和な日常だ。これから恐ろしい未来が訪れるなんて、思えない。
キッチンへ入った和輝が、ぴたりと動きを止めた。尻ポケットを探り、携帯電話を取り出す。如何やら、電話が掛かって来たらしい。霖雨は気付かれないように耳を澄ませた。
プライバシーなんて関係無いと宣う和輝は、場所を変えることもせずに、そのまま喋り出した。
「ああ、うん。大丈夫だよ。大丈夫だから、――今夜、待っていてくれ」
聞き逃せない単語が、あった。
今夜、和輝は誰かと会う用事があったのだ。加えて、会話は英語では無かった。相手は母国の人間だろうか。
「お前に渡すものがあるんだ。……うん、それは、お楽しみって奴だろ?」
悪戯っぽく笑って、和輝が言う。
ものの数十秒で通話は終わった。和輝は何事も無かったかのようにキッチンで、グラスを三つ取り出していた。
瓶で漬けられた蜂蜜レモンを取り出し、振り分ける。電気ケトルは唸りながら湯を沸かしていた。
霖雨は気付かれないように、体で隠しながら携帯電話を操作した。メール作成、送信相手は葵だった。和輝が今夜、誰かと約束していたことを報告したのだ。
何故か、自分が心の狭い束縛彼氏のような心地になる。何が悲しくて、同年代の男を監視しなければならないのだろう。
沸騰した湯で紅茶を作っている和輝を見遣るが、何の変化も無い。
彼に、何があったのだろう?
葵が帰宅したのは、夕方五時を過ぎた頃だった。大きな茶色の紙袋を抱えていたので、本当に買い物を済ませて来たことに霖雨は少しばかり感動した。葵が買い物というのは何だかシュールな気もするけれど、口にはしなかった。
出迎えた和輝は荷物を受け取って、早速キッチンへ入った。こうして観察していると、和輝は殆どキッチンにいることに気付く。掃除や洗濯は兎も角、この家の料理は和輝が一手に引き受けているのだ。
偶には自分も料理をしようと、遠いところで霖雨は決心する。
買い物袋を預けた葵は、帰宅して真っ直ぐ換気扇下の喫煙所へ向かうかと思いきや、霖雨のいるソファへ遣って来た。
余りに一直線に来たので、霖雨も戸惑ってしまう。葵は気にすることなく、声を潜めて言った。
「ネットで、情報収集をして来た」
「如何だった?」
「収穫は無しだ。件の自爆テロについても、何の予兆も無い。――あの馬鹿が、高層ビルに行く理由も見当たらない」
葵の情報網をもってしても、何の収穫も無いのか。霖雨は絶望し掛けるが、彼が自称一般人であることを思い出して、首を振った。一応一般人だ。国家規模のテロの情報なんて、そうそう掴めるものじゃない。
悪口が聞こえたらしく、キッチンで和輝が手洗いと嗽をするように叫んだ。
重い腰を上げ、葵は洗面所へ向かう。途中、キッチンに立ち寄って軽く和輝を蹴って行った。足元で小競り合いみたいな攻防があったが、特に何事も無かったので割愛する。
手洗いと嗽を済ませて来たらしい葵は再びソファへ座った。霖雨は、早速先程の電話の件を相談する。
「あの電話のことなんだが、止めるべきかな」
「いや、泳がせよう。何があったのか知る方が先決だ。どちらにせよ、あいつが死ぬのは明日なんだろ。今晩、何かが起こる訳じゃない」
怪しいことに違いは無いけどな。
そう言って、葵は立ち上がった。煙草を吸いに、換気扇下へ向かったのだ。キッチンへ入った葵が、コンロの前に立つ和輝を見て何か驚いたように声を上げた。
「どういうことだ?」
嫌な予感がして、霖雨もキッチンへ急いだ。
コンロに向かう和輝は、湯を沸かしている。その近くには五人分はあろうかという生麺のビニールが置かれていた。
「ラーメン?」
「え、駄目だった?」
和輝が目を丸める。
確かに、この日の夕食はラーメンだった。霖雨の一言によって回避された筈の未来は、虎視眈々と獲物を狙う魔獣のように大口を開けていたのだ。抗う余地なんて、欠片も無いと言うように。
葵と霖雨が、信じられないものを見るように揃って鍋を覗く。和輝は流石に居心地が悪くなったのか、言い訳するように小声で言った。
「仕送りの段ボールに、生麺が沢山入っていたんだよ。賞味期限もあるし……」
「病人だって言っただろ」
葵が責めるように言うと、和輝が肩を竦めた。
「喉通りの良いものなら、大丈夫かなって思ったんだよ」
「夏バテかも知れないから、さっぱりしたものが良いって言ったじゃないか」
「だから、ほら」
塩ラーメン。
和輝は何処か懐かしいパッケージを見せて、悪戯っぽく笑った。
この男は、相変わらずどうしようもない。
こんな男が死ぬ筈無い。
霖雨は呆れて、リビングへ戻った。
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