⑵もう一つの世界
思い返すと、蜂谷和輝とは不思議な人間だった。
同じ国の出身で、身長は160cm程しか無いにも関わらず、其処にいるだけで強烈な存在感を放っていた。
母国では甲子園優勝を果たし、卒業式を待たず単身渡欧。自身の怪我からスポーツドクターを志して、NYの大学病院で働きながら欧州の大学に進学していた。
座学が壊滅的だという割には情報処理能力が異様に高く、トップアスリート並の身体能力を有し、様々なトラブルに介入してはその身一つで解決し、乗り越えて来た。
他人の痛みに敏感で、彼等が傷付けられると、まるで自分のことのように共感する。その癖に常軌を逸した自己犠牲主義者であり、縁も所縁も薄い他人の為に、自身の危険も顧みず助けに行く。
ピンチに颯爽と駆け付けて、あっという間に救ってみせるその様は、正にヒーローと呼ぶに相応しかった。
少年のような容貌をしていて、同性でもはっとする程に綺麗な顔をしていた。大きな双眸は星を鏤めたように煌めいていて、此方の心を見透かす鋭さを持ち合わせていた。
熱血かと言うと、意外にそうではなく、感情的になることは殆ど無かった。易々と挑発に乗らず、常に最善の道を探す冷静さを持ち、優しさと甘さを履き違えず、他人に優しく自分に厳しくという標語を地で行くような人間だった。けれど、手を伸ばされたら、それを離すことが出来ない御人好しでもあった。
どんな時も絶望はせず、前進することを諦めない。少年漫画の主人公みたいだった。
そんな彼が命を落とすことになるなんて、誰が予想出来ただろうか。
否、本当は解っていた筈だ。彼が命を落とすとしたら、それはきっと誰かの為なのだろう。
それでも、霖雨は、そんな彼が好きだった。
現実味を帯びない無慈悲で不条理な世界で、彼だけが確かな質量を持って存在していた。其処が光源だというように、何時だって闇に覆われる道を照らしていてくれたのは、和輝だった。
期末試験だと言って出て行った和輝は、行って来ますとは言わなかった。
じゃあね、と一言だけ残して、そのまま、消えた。
この家に、ヒーローはもう帰って来ない。
15.パラレルワールド
(2)もう一つの世界
遠く鐘の音が響いている。
夜中から降り出した雨は勢いを増し、天の底が抜けたような土砂降りになった。視界すら埋め尽くす水飛沫は、やがて路面を滑っては排水溝へ吸い込まれた。空は鈍色の雲が重く垂れ込み、太陽の光等、差し込む余地も無い。
行き交う人々は、自身が濡れることも厭わずに水溜まりへ足を踏み入れる。激しく泡立つ水面はモザイクガラスのようだった。烏のように漆黒の傘を傾け、人々がその頬を濡らしている。
霖雨は、教会の前に呆然と立っていた。
脳が現実を拒否し、情報がまるで処理されない。促されるままに参列し、霖雨は結局、置いてけ堀だった。
蜂谷和輝が死んだらしい。
あの光り輝くようなヒーローはもう、この世にはいないそうだ。
教会には、一般人の葬儀とは思えぬ程に大勢の人間が参列した。周囲を固める警官は威圧的な雰囲気を放ちながらも、故人を悼むように表情を強張らせている。それでも、人々は堪え切れず啜り泣き、或いは棺桶に縋りついて、もう戻っては来ない彼の名を呼んだ。
霖雨は、そっとその名を呼んだ。声にはならなかった。当然、返事も無い。
だが、一度口にすれば衝動は止められず、霖雨は何度も何度もその名を呼んだ。
和輝。和輝。和輝。和輝。
棺桶が運ばれる。喪に服した青年が、猫のような目を真っ赤にして寄り添っている。固く握られた拳からは血液が滲み、雨に濡れたアスファルトへ零れ落ちていた。
白崎匠だ。生まれた時から一緒に育ったというヒーローの相棒。幼馴染であり、親友であり、ライバルだった。何かを堪えるようにぎゅっと唇を結び、その口は何も吐き出しはしない。
和輝の父親だという、臨床心理会の権威が挨拶をする。既に五十歳を超えているとは思えない程、若々しい容姿をしていた。疲れ切った顔で、微笑もうとした彼は失敗したようだった。息子と同じ綺麗な双眸からは、一滴の涙が零れ落ちた。
傍には和輝の兄がいた。メジャーリーグで活躍する母国の英雄だった。どんな逆境でも、冷静さを失わない賢い青年は、感情を削ぎ落したような無表情だった。亡者のような瞳に光は無く、そのまま何処か昏いところへ消えてしまいそうだった。
和輝の幼馴染だという少女が、棺桶に縋り付いて泣き叫ぶ。現実を否定し、呪い、悲鳴を上げる。彼女を宥める手はあっても、この現実から救い上げるものは何処にも存在しない。
霖雨は、何も出来なかった。何が正解なのか解らない。泣くべきなのだろう。――けれど、自分よりも泣きたいだろう人々が堪えているのに、自分が実行するのは間違っているように感じた。泣くという行為は、彼等の思いを否定しているような気がした。結局、声にせず、返事の無い彼の名を呼ぶだけだ。
傍に気配が一つあった。真っ黒なスーツに身を包んだ葵が、其処にいた。
「人は死ぬんだな」
ぽつりと、葵が言った。
返事を求めないそれは、独白だったのかも知れない。霖雨には解らない。
「あいつは、殺しても死なないと思っていたよ」
そんな筈無いのにな。
自嘲するように、葵が言う。
人は死ぬのだ。棺桶に収まっていたという、あの小さな少年の顔は見られなかった。曰く、人に見せられるような死に顔ではなかったらしい。
どんな顔でも、一目でも見たかった。
彼が其処にいたということを、証明して欲しかった。生きた証を、死んだ証を求めていた。宙ぶらりんなままでは、何処へも行けない。
教会の前、喪に服した青年が立っていた。
平均身長より低いその後ろ姿に、霖雨は既視感を覚えた。もういない筈のヒーローを重ね見て、思わずその肩を掴んだ。
和輝。
呼び掛けたつもりでも、声にはならなかった。振り返った青年は胡乱な眼差しで、他人行儀に会釈をする。
自分は何をしているのだろう。
霖雨が小さく謝罪すると、青年はそれを短く制した。母国の匂いを連れた顔立ちは、恐らく故人の知り合いなのだろう。目の下には隈が刻み込まれ、血の気の無い頰はげっそりと削げ落ちていた。
青年は、高槻と名乗った。和輝の高校時代の先輩らしい。
高槻は、霖雨の素性を知ると僅かに表情の強張りを解いた。
後輩の葬儀の為に、わざわざ母国から駆け付けたらしい。
自分の身が刻まれたように、青年は苦しそうに顔を歪ませている。ただの先輩後輩には見えなかった。
「昔、カモメのジョナサンという本を贈ったことがあります」
その言葉で、霖雨は彼の素性を知る。
和輝が今も大切にしていた文庫本だった。彼がこの世で一番尊敬していた先輩だ。けれど、ヒーローがそれ程に評価するような人間には見えない。何処にでもいるような、極普通の青年だった。
「和輝のことを、自分の弟だと思っていました」
弟のように、ではなく。
高槻は太陽の拝めない空を見上げ、大切な思い出を宝物の箱から取り出すように、静かに言う。
「救いようの無い馬鹿でしたが、良い奴でした」
高槻は、無表情だった。元々、表情豊かな性質ではないのだろう。それでも、纏う空気が張り詰めて、そのまま壊れてしまいそうだった。
胸を痛めている。否、心臓を砕かれたようだ。
「あいつの生きる世界は冷たくて、厳しい。それでも、誰かの為に何時も必死でした。きっと、人を救いたくて、認められたくて、自分自身を、受け入れられなかったんでしょうね」
それでも良いよと、ヒーローは何度でも言った。
それでも良いよ。ーーお前だって、それでも良かったんだよ。
今更になって、霖雨は思う。彼が何度でも手を差し伸べたように、自分も彼へ何度でも言って遣れば良かった。
「この世は冷静な天国だから」
何時か、和輝も言っていた。霖雨は過去を思い返して苦しくなった。
この世は冷静な天国で、祝福された地獄だ。彼はそれを希望の言葉みたいに言っていたけれど、本当にそうだったのだろうか。霖雨には、もう解らない。知る術も、存在していない。
高槻は会釈して、立ち去った。残された霖雨は、地面に縫い付けられたみたいに動けなかった。
隣で、葵が言った。
「あの馬鹿が随分評価していたから、どんな奴かと思っていたが、案外普通の男だったな」
その声は批判の色を帯びていない。
葵は返答を求めず、呼吸をするように言う。
「悪い奴ではないんだろう。多分、あの先輩ってのは、真面目な凡人なんだろうな。遣るべきことを熟し、文句も言わない。当たり前のことを当たり前に遣るから、尊敬する」
当たり前のことを熟すというのは、案外難しいことだ。
霖雨は思うが、口にはしなかった。葵は続けて言った。
「土俵の違いに気付いていなかったのは、あの馬鹿だけだ」
和輝と彼の生きる世界はきっと違う。
彼の生きる世界がイージーモードかは解らないが、それでも、和輝の世界は冷たく厳しかった。高槻はきっと、そのことに気付いている。
立ち尽くす霖雨の前、猫のような目をした青年が現れた。
白崎匠だった。
匠は、印象的な猫目を胡乱に彷徨わせながら、儀式的に言葉を紡いだ。
「参列してくれて、ありがとうございます」
答えられない霖雨に代わり、葵が事務的に受け答えをする。匠は無表情だった。
葵は、予め吹き込まれていた台詞を読み上げるように、問い掛けた。
「何があったんだ」
「詳しいことは、捜査中だと聞いています。都心の高層ビルから転落したそうです。即死だったというのが、せめてもの救いです」
「……そうか。何か、トラブルにでも巻き込まれていたのかな。そういう予兆には、気付かなかった。悪かったな」
「あいつが必要と思って隠したなら、見破ることなんて出来ませんよ。そういう人間だから」
何処か諦めるようでありながら、彼を救えなかった自分を責めているようでもあった。
匠は、鉛色の雲を眺めて言った。
「あいつ、昔、自殺を図ったことがあったんです」
自殺未遂と聞いても、ぴんと来なかった。
あのヒーローみたいな青年が、命を自ら絶つような真似をするだろうか。
匠は力無く言った。
「或る事件に巻き込まれて、加害者でも無いのに、世間から痛烈なバッシングを受けていた頃です。自己評価が極端に低かったから、世界中から拒絶されるみたいな状況で限界が来たんでしょうね」
和輝が高校時代に巻き込まれたという事件を、霖雨は何となく聞いたことがある。
世間からの痛烈なバッシングを見た訳ではないが、彼の常人離れした強靭な神経が擦り切れてしまうような状況だ。現実は、霖雨が想像するよりも遥かに苛烈を極めたのだろう。
匠は、人形みたいな無表情だった。
「家で、自分の手首を切ったんです。衝動的な行為だったと思います。俺はその場所に居合わせたのに、止められなかった。あいつが其処まで追い詰められていることに気付けなかった。失い掛けてやっと、そのことに気付いた。――俺はもう二度と、あんな思いはしたくないって言ったんです」
目を伏せた匠の声が、震えていた。握り締めた拳から血液が滴り落ちる。
「何時か、こんな日が来ることは解っていたのに……」
すみません。
それだけ言って、匠は逃げるように去って行った。
その背中が雨の向こうへ消えた後、入れ違うようにして長身の青年が現れた。
「初めまして」
亡霊のようだった。だが、美しい相貌は故人と良く似ている。テレビで幾度と無く見て来た母国の英雄、蜂谷祐輝だった。
血の繋がった彼の兄は、憔悴した顔付きながら、しっかりした口調で、まず礼を述べた。
「参列頂き、ありがとうございます。――弟が、お世話になったそうですね」
葵は、何も言わなかった。霖雨も、何も言葉に出来ない。
口を開けば、もう返事をする筈の無い彼の名前を呼んでしまいそうだった。目の前にいる血の繋がった兄ですら堪えている名前を、自分が呼び掛ける訳にはいかない。
「馬鹿な弟でしたので、こんな日が来るかも知れないと思っていました」
「……じゃあ、如何して何の手段も講じなかった?」
責めるような物言いで、葵が訴える。霖雨は宥めることも出来ず、ただ、それを見ていた。
御門違いだと解っていても、誰かを責めなければ遣り切れない。何処かを逃げ場にしなければ、自分が堪えられない。
醜くて弱い、愚かで狡い。
けれど、ヒーローの兄は決して感情的にはならず、真っ直ぐに見詰め返した。透明度の高い湖みたいな綺麗な瞳のまま、祐輝は無表情で答えた。
「俺は何度、あいつを傍に縛り付けようとしたか解りません。自分の手の届くところに置きたかった。あいつの意思を殺してでもね」
祐輝はそっと目を伏せて、その綺麗な瞳を長い睫毛で隠した。
「俺は、今も解らないままです。でも、こんな結末を迎えるくらいなら、傍を離れるべきじゃなかった……」
目を伏せた祐輝は、泣いていなかった。
まるで、涙を零すことが許されないみたいな悲痛さを滲ませている。兄として、弟の選択した未来の責任を独りで背負おうとしているようだ。
その融通の利かない頑固な献身は、弟そっくりだった。
「試合のチケットを送ったんです。和輝に話したいことが沢山あって、聞いてやりたいことも沢山あった。幾ら後悔しても、まだ足りない。俺は、あいつに会いたかった……」
失礼します。
お手本みたいに綺麗な御辞儀をして、祐輝は静かに立ち去った。取り残された光の残骸だけが虚しく、雨の中に霧散している。彼は既にこの場所にいないと言うのに、それを嘆くように雨音ばかりが反響していた。
取り残されたまま、霖雨は顔を上げた。太陽の拝めない鉛色の雲の下、現実感を帯びず、指先は感覚を失っていた。不安定な足場で立っているように、平衡感覚が狂っている。体内時間も同じだ。今は一体、何時なのだろう?
隣に立っている葵は、ヒーローの兄が立ち去った方向を真っ直ぐに睨み付けながら言った。
「行くぞ」
何かを切り捨てるような強さを孕んで、葵の言葉は足元へ散らばった。
帰路を辿る霖雨は、自分の視界が奇妙に狭まっていることに気付く。体中が鉛のように重かった。それでも、現実から逃避しようとする浅はかな精神は浮雲のように彷徨っている。足は一歩一歩と進んでいる筈なのに、意識はあの棺桶の中へ置いて来てしまったようだった。
傘を差していたというのに、全身ずぶ濡れだった。玄関の解錠をした葵を追い、霖雨も其処を潜った。
闇に染まる玄関は、センサーが作動して自動的に点灯した。今にも、和輝が遣って来て「おかえり」と微笑んでくれるような気がした。
葵は何も言わずに足を進める。真っ暗なリビングはがらんとして、当然のように沈黙を守っていた。
着替えを引っ掴んだ葵は、一度も振り返ることなくシャワールームへ向かった。水音が聞こえて来たので、霖雨もそれを合図に自分も着替えようと行動を起こす。
部屋に向かおうとして、もういない同居人の部屋を見る。何時だって施錠をしない和輝の部屋へ、霖雨は導かれるようにして足を進めていた。
意外に綺麗好きな性格だった。整理整頓された部屋は、まるで、死に装束のような静謐さを放っている。それでも、其処此処に残る彼の生きた証が、霖雨の胸へ、抜けることの無い楔のように突き刺さった。
ラックに飾られた学生時代のチームメイトとの集合写真。家族の肖像。汚れた硬球。使い込まれたサーフボード。皺一つ無いベッドカバー。固く閉ざされた暗幕。本棚に収められた医学書の数々。スポーツドクターを目指し、異国の地で孤軍奮闘を続けた彼の生きた証が、其処には確かにあった。
お前に生きていて欲しいんだよ。
振り絞るように訴えた彼の言葉が、まるでつい先程のことみたいに鮮明に脳裏へ蘇った。大きな瞳は、星を鏤めたように煌めいて、真っ直ぐに此方を見詰めていた。彼の声が何処かから降り注いだような気がして、霖雨はその場に膝を着いた。
「和輝……」
返事は無い。未来永劫、無いのだろう。
世界には、彼が必要だった。彼は希望で、救いだった。太陽のように地上を照らす和輝は、もう、この世にはいないのだ。
あの声も、笑顔も、言葉も、もう帰っては来ない。
理解した瞬間、底の見えない奈落へ突き落されたような絶望が襲い掛かった。
酷く寒い。ぐらりと視界が滲んで、霖雨はそのまま崩れるようにして蹲った。
「和輝……ッ」
この家を出て行った彼を、霖雨は出迎えるつもりだった。帰って来る時には、また、奇妙な土産を持って悪戯っぽく笑うのだ。何かのトラブルへ首を突っ込んでも、ハードルを飛び越えるように解決するのだ。そう信じていた。でも。
彼は、死んだのだ。
途端、殺し切れなかった嗚咽が喉の奥から漏れ出した。目頭が痛み、そのまま熱の塊が押し出された。
ぽたぽたと、冷たいフローリングの上に滴が零れ落ちる。握り締めた拳が軋むような音を立て、爪が皮膚を破いた。
何の希望も無いままに生きるには、この世界は冷た過ぎる。
失っても失っても、希望はある。だから、諦めてはいけない。
和輝は何時だってそう言って笑ったけれど、太陽を失った世界で何に希望を見出せばいいのだろう。このまま世界が終わってしまえばいい。彼一人を過去に残したまま進むくらいならば、明日なんて永久に来なくても良い。
何処か遠くでチャイムが鳴ったような気がした。夢かも知れない。霖雨にはもう、解らない。
バスルームから出たらしい葵が、玄関へ向かったようだった。
「霖雨はいますか?」
遠い昔に置いて来た筈の声がした。
耳は声を拾い上げるけれど、体が重くて動けない。やがて、二つ分の足音は扉の前まで遣って来た。
ノックも無く、扉は開かれた。縋るように目を向けると、相変わらず生気の無い顔をした葵が立っている。そして、その後ろには、自分と同じ顔をした別人がいた。
「春馬」
縋るように、霖雨は言った。ついに顔を上げた霖雨は、其処にいる双子の兄の存在を証明出来ない。
再会を喜ぶべきなのか、懐かしむべきなのか、慈しむべきなのか、どれもが正解で不正解のような気がした。
沈黙が流れた。耳が痛くなる程の静寂だった。春馬は蹲る霖雨の傍に膝を着き、背中を撫でた。
「仲の良い友達だったんだな」
此方を労わるような優しい声で、春馬が言った。記憶の中の彼に比べ、頬が扱けて精悍な顔付きになっていた。兄も自分も、大人になったのだ。
霖雨は、鼻を啜った。少しばかり首を縦に振って肯定を示す。
「大事な、友達だった……!」
仲が良かったのだろうか。顔の広い和輝にとっては、霖雨は数多い知人の一人だったかも知れない。けれど、霖雨にとっては代替の利かない唯一無二の友達だった。
「俺は、あいつを失いたくなかった……」
和輝を送り出した日のことばかりが蘇る。慣れないジャケットを羽織った和輝は、膨れたリュックサックを背負って、笑顔を浮かべて出て行った。――行って来ますとは、言わなかった。
奇妙な違和感を覚えて、霖雨は動きを止めた。
そうだ。
あいつは、行って来ますと言わなかった。
顔を上げ、部屋の中を見渡す。綺麗に整理整頓された部屋は、まるで死地へ赴く者が身辺整理を行った後に似ている。出掛ける前に和輝が浮かべた奇妙な微笑みが、確かに霖雨の胸に引っ掛かっていた。
彼は、何かの危険――死ぬかも知れないと予期して、この場所を出て行ったのではないか?
巧みに嘘を吐く和輝が零した、ほんの僅かな綻び。その予兆に、気付いていた筈だった。
「あいつは、死を覚悟してこの場所を出て行ったんだ」
「如何いうことだ?」
「なあ、春馬」
漸く顔を上げた霖雨の頬には、透明な滴が一つ張り付いていた。
春馬の問い掛けを無視して、霖雨は縋るように言った。
「俺は、この世界が並行世界だと思っているんだよ」
「……知ってる」
「自分も、春馬も、友達も皆、並行世界に存在する別人なんじゃないかって、思っていた」
自分は、並行世界に迷い込んでしまった。霖雨はその考えに囚われていた。
異世界に住んでいる彼等は、自分の知る友人ではないのかも知れない。双子の兄である春馬すら、別人なのかも知れない。ずっとそうした疑心暗鬼に陥っていた。
けれど、霖雨はこの国に来て、絶対に揺らぐことのない存在と出会った。それが、蜂谷和輝だ。霖雨にとって、和輝は不安定な世界と自分を結び付ける唯一の希望だった。
「和輝がいたから、俺は今日までこの国で生きていられたんだよ……」
疑心暗鬼に囚われて、一寸先すら見えない闇の中でも、彼が笑って手を引いてくれた。自己の存在証明を、他人に依存している。それが間違っていると思えないくらい、和輝は強い引力で導いてくれた。
重力を失えば、地上のあらゆるものは宇宙の彼方へ吹き飛ばされるだろう。ならば、和輝を失った世界は滞りなく未来へ進むことが出来るのだろうか。
黙って聞いていた春馬は、酷く冷静な目をして問い掛けた。
「彼を助けたいか?」
何かを予期した、強い覚悟の滲む目だった。
霖雨の選ぶ答えは、一つしか無い。
「助けたい。何が、あっても」
答えると、春馬はそっと目を伏せた。
付いて来い。
そうして背中を向ける春馬を、霖雨は追い掛けた。
リビングに戻ると、春馬は壁掛けのホワイトボードを取り外してテーブルへ置いた。
シャワーを浴びて来た筈の葵は、顔を蒼白にしたまま幽霊のように立っている。霖雨は、マジックを手にした春馬の横に座った。
春馬はホワイトボードの左端に円を書き込む。
「過去の選択により、未来は分岐する。だが、選ぶことで他の未来は消滅した訳ではなく、並行世界として存在する。これが、所謂パラレルワールドだ」
端に描かれた円から、一直線が伸ばされる。その上下に矢印が伸び、ホワイトボードを真横に切り裂く太線と平行線となって並んだ。
「例えば朝食に、白米かパンか、どちらかを選ぶ。白米を選んだ時、同時にパンを選んだ世界が生まれる。パンを選んだ未来は別次元にあるから、知覚することは出来ない。当然、介入することも出来ない」
春馬の言葉に、霖雨は苦く頷いた。
葵は胡散臭そうに冷ややかな眼差しを向けているが、春馬は気にすることも無く続けた。
「並行世界は、現実世界と同じように未来へ進む。だが、ある一定の基準を超えた時、並行世界は現実世界へ影響を齎す。その影響を抑える術があるとしたら、如何思う?」
「何の話をしているんだ?」
口を挟んだ葵が、訝しむように眉を寄せた。疑問は尤もだった。
けれど、春馬は平然と答えた。
「ある一定の基準を超えた並行世界へ、介入する術がある」
「何の基準だ」
「生と死のバランスが崩れることだ。この世は陽と陰が相互に作用し成り立っている。これが崩れる時、世界は混沌と化す」
「オカルトは嫌いなんだが」
「化学だよ。質量保存の法則と同じだ。死者の数だけ、生者が存在しなければならない。だが、どんなことにも誤作動は起こる。現在は、このバランスが崩れた状態なんだ」
お手上げとばかりに、葵は肩を竦めた。
霖雨とて理解出来ているとは言えなかったが、此処にしか縋るものが無いのも事実だった。顎をしゃくって話の続きを促せば、春馬はマジックの蓋を締めて口を開いた。
「基準を超えた世界は、正常値を取り戻す為に、ある場所へ収容される。次元の狭間、忘却の彼方、――俺達は、これを時の扉と呼んでいる」
春馬の話は荒唐無稽だった。けれど、冗談を好む性質ではない春馬が、酷く真面目な顔で言うので、霖雨は反応に思い悩む。
葵は、胡乱な目を細めて言った。
「要するに、俺達のいる現時点は誤作動が起きていて、それを修復する為の作用が働く可能性があるってことか?」
「話が早くて助かるよ」
悪戯っぽく笑う春馬に、葵は鼻を鳴らした。理解は出来ても、納得は出来ないと言っているようだった。
理解も納得も程遠い霖雨は、彼等の情報を掻い摘んで、必要事項だけを問い掛ける。
「和輝を助ける方法があるってことか?」
すると、春馬と葵が揃って此方を見た。縦に振られた頭は、しかと肯定を示している。
霖雨は、闇の中に一筋の希望を見た気がした。現時点は何も変わっていないというのに、何故だか体中に力が漲っていた。
葵はホワイトボードに目を落とし、唸るように言う。
「まずは、原因究明だな。あの馬鹿は、何で死んだんだ」
「都心の高層ビルから転落して、即死って」
和輝の親友の悲痛な横顔が思い浮かんで、霖雨は胸が軋むように痛んだ。
生まれた時から一緒に育った、己の半身とも呼べる存在の喪失だ。即死という診断から、死に際が一瞬であったことが救いだと彼は言った。親友の死に際にしか希望を見出せなかった彼は、どれ程に打ちのめされていたのだろう。涙すら堪えて気丈に振舞う様が、痛々しい。
葵が言った。
「何でそんなところにいたんだ?」
「現在、調査中らしい」
「あいつが自分で向かったのか、連れ去られたのか、其処が問題だ。あいつは、自殺したのか? それとも、殺されたのか?」
その疑問は尤もだった。どちらであったとしても、霖雨には受け入れられない現実だった。
「あいつが行動を起こすとしたら、一つだろ。誰かを救う為だ」
霖雨が言うと、葵が眉を寄せた。
解り切っていたことだ。自己犠牲の過ぎる彼が死ぬとしたら、それはきっと自身ではなく誰かの為だ。
ならば、彼は誰を救おうとしたのだろう?
「原因究明が先だな」
葵はそう言って、ノートPCを開く。指先は高速でキーボードを叩き始め、今にも消えてしまいそうな横顔をブルーライトが淡く照らしていた。横から顔を覗かせた霖雨は、浮かび上がっては消えて行く無数のウインドウと文字の羅列に目が回った。凄まじい情報量を、葵は一瞬にして読み込んで処理している。
現代人の脳容量は平均して1350cc程で、天才と呼ばれる人間も凡人も其処に大差は無い。けれど、同じ容量でありながらも、霖雨は葵と脳の構造の違いを感じずにはいられなかった。
葵がキーボードを叩いていたのは、数秒だったのかも知れない。数分だったのかも知れない。時間の感覚が狂っている霖雨には最早判別が出来なかった。顔を上げた葵は無表情で、真っ直ぐに霖雨を見ていた。
「GPSで、あいつが死ぬ前の行動範囲が解ったよ」
「それで?」
「此処から真っ直ぐに空港へ行って、そのままUターンして、都心の高層ビルに向かっている。パスポートの使用履歴も無いから、飛行機には乗っていないな」
「空港で何があったんだ」
「爆弾テロを防いだらしいぞ」
ディスプレイを睨み、葵が苦々しく言った。
「空港で爆弾を解除して、何故か都心の高層ビルに向かっている。移動手段は徒歩か? 自転車並の速度だな」
「爆弾を解除って……」
如何いう技術を持っているのだ、と霖雨は密かに思う。
兎に角、和輝は死ぬ前に空港へ向かい、飛行機には乗らず、Uターンして都心の高層ビル――事故現場に向かったのだ。明らかに不審だった。
何かを逡巡するように俯いていた春馬が、顔を上げた。
「追われていたんじゃないか?」
「誰に?」
「誰かに。警察が捜査しているんだろう。何か手掛かりくらい、掴んでいるんじゃないか」
春馬はそう言うけれど、警察が民間人に捜査内容を容易く打ち明けるとは思えない。
件のヒーローはFBI捜査官と懇意にしていたけれど、生憎、彼はこの世にいない。霖雨は自分の不甲斐なさに歯噛みするばかりだった。
ふと、霖雨は思い付く。
彼ならば、知っているかも知れない。或いは、情報を掴めるかも知れない。
「近江さんに、聞いてみないか」
「近江?」
春馬が問い掛ける横で、葵は驚いたように目を丸めた。
左目を眼帯で覆い隠した、ハヤブサと呼ばれる最速の殺し屋だ。裏稼業の代表格とも言える殺し屋ながら、酷く気さくな男だった。
民間人の自分達よりは、余程、裏世界に精通している。
霖雨は思い付くまま、何故か交換した連絡先に電話を掛ける。そもそも、彼が現在この国にいるのかすら疑問だったが、藁にも縋る思いだった。
数回の呼び出し音が鳴った。
ぶつりと途切れた音の後、雑音の中で押し殺したような、――起き抜けのような低い声がした。
『近江です』
殺し屋の第一声とは思えない。霖雨は頭が痛くなる。
事態は深刻で、殺し屋を介入させようとしているのに、彼は何時もそうだ。意識が現実から乖離し、緊張感を壊してしまう。
「お久しぶりです。常盤霖雨と申します。――覚えていますか?」
『うーん。依頼人と懇意にする趣味は無いので』
「依頼した覚えは無い」
思わず霖雨が言い返すと、電話の向こうで近江が明るい声を出した。
『ああ! もしかして、人類最弱の雑魚の霖雨君?』
如何いう覚え方をしているのだろう。霖雨は、訳の解らない紹介をしただろう葵を睨んだ。葵は退屈そうに眼を背けた。
電話の向こう、近江は呑気な調子で言った。
『君のところのヒーロー君、救世主だね。名誉の死だ。引き際を良く心得ている。ヒーローの鑑じゃないか』
故人である和輝を褒めちぎる近江は、既に事情を知っているようだった。
携帯電話を掴む手に力が籠る。自分一人で情報を聞き入れる余裕は無かったので、通話をスピーカーに切り替えて携帯をローテーブルへ置いた。
机の上にある携帯電話が喋り出すというのは、中々にシュールな光景だった。
親しい友人が原因不明の死を遂げて、彼を救う為に奔走しているというのが嘘みたいに思えた。真面目にやれと言いたい反面で、この明るさが霖雨を救っているのも事実だった。
結局、霖雨は和輝の死を受け入れられていないのだ。
「如何いう意味だ?」
『彼は自分の命と引き換えに、大勢の人間を救ったんだよ。国家絡みで情報操作されているけれど、君達だけは、彼が犬死した訳では無いと知っているべきだ』
近江は、和輝の死の真相を知っている。
大勢の人間、国家絡みの情報操作。何やら話は物騒な方向へ向かっている。
葵は携帯電話を見下ろしながら、言った。
「何があった」
『旅客機を狙った自爆テロだよ。300人――いや、墜落する場所によってはそれ以上の死者が出たかも知れない。ヒーローは、自分の命と引き換えにそれだけ多くの人間を守ったのさ』
近江の言葉を聞いた葵は、頭痛を堪えるみたいに額を押さえた。
隣で、春馬ばかりが納得したように言う。
「それが原因だな」
「何が」
「本来死ぬべきだった数百人が生き残ってしまったんだ。たった一人の命と引き換えにね」
霖雨には良く解らなかった。和輝の死を肯定することは出来ないけれど、それは許されないことなのだろうか。
春馬は、その疑問を読み取ったように答えた。
「その場所で死ななければならない人間が、数百人も生き残ってしまったとしたら如何なると思う? 世界は運命と呼ばれる線路の上を走っている。多少、線路が歪んだところで列車は停まりはしない。けれど、線路が壊れてしまえば如何なる。脱線? 横転? 世界そのものが壊れてしまうぞ」
「ややこしくなって来た」
白旗を振るように肩を竦め、霖雨は言った。
「話を纏めさせてくれ。……和輝は、その旅客機を狙った自爆テロを防ごうとして空港に行った。結果、テロは未然に防がれたが、和輝は代償として死んだ。そういうことだな?」
「空港から高層ビルへ行った理由が解らないな。それに、自爆テロを察知していたとして、一人でそれを止められると思うか? どんな馬鹿でも、警察に通報するだろう」
葵の言葉は尤もで、霖雨も唸るばかりだった。
春馬は場の空気を切り替えるように言った。
「じゃあ、その答えを探すしかないな」
そうして、春馬は掌をテーブルに翳した。
蛍光灯の照らす室内に、ふつり、ふつりと金色の光が浮かび上がる。蛍にも似た、流星にも似た淡い光だった。シャボン玉のように浮かび上がっては消えて行く。春馬は金色の光に照らされながら、固く目を閉じていた。
幻想的な光景だった。けれど、非科学的でもあった。
葵が「プラズマだ」と訝しむように光を凝視する。霖雨は浮かび上がる光の粒子を呆然と見ていた。――霖雨は、この光を知っている。
高校時代、自分が並行世界に迷い込む時に幾度と無く見て来た金色の光だった。
瞼を下ろす春馬に表情は無く、その感情は読み取れない。彼が何を考えているのか、霖雨には解らない。
常盤春馬は、本当に自分の双子の兄なのだろうか。孤独に怯えた自分が作り出した妄想の産物ではないのか。そんなことを未だに考えている。
やがて、金色の光は空間を埋め尽くした。視界が一瞬、フラッシュした。
眩しさに目を閉じる。次の瞬間、其処は住み慣れた我が家ではなくなっていた。
周囲は真夜中のように闇に満ちている。足元から浮かび上がる無数の光の粒子が、仄かに互いの姿を浮かび上がらせた。霖雨の右には葵が、左には春馬がいる。互いに直立不動で前を見詰めていた。
「まるで、SFだな……」
マネキンのように硬直していた葵が、くしゃりと前髪を掻き上げた。
現状を正しく理解することなんて不可能ではないだろうか。これは所謂超常現象だ。否、これは現実から逃避した霖雨の作り上げた妄想なのかも知れない。そんなことは解らない。
漸く目を開けた春馬が、茫洋とした瞳で言った。
「これは、狂ってしまった歴史を取り戻す為の緊急措置だ。蜂谷和輝を救うというのは、あくまでも手段に過ぎない」
「まどろっこしい言い方をするなよ」
「重要なことだから、言っている」
霖雨は黙った。春馬は、まるで感情を何処かへ置き去りにしてしまった人形のようだった。
此処にいるのは、本当に自分の兄なのだろうか。
「過去を変えることで未来は分岐する。けれど、その未来が無かったことになる訳じゃない。救われなかった未来はそのまま存在する」
「要するに、成功した時に現時点の俺達は和輝を救えるが、並行する何処かの世界は絶望のまま進んで行くってことだろ」
興味も無さそうに、葵は言った。けれど、春馬は頷かなかった。
「蜂谷和輝の死んだ未来は、歴史の歪みだ。あってはならない未来だ。それは時の扉の中へ封印される」
「封印って?」
「其処で世界が停止するんだ。封印された並行世界は隠滅される」
「自然界の掟っていうのは、常として非情だ」
葵が言った。
世界の停止、隠滅。霖雨はその意味を考える。
自分のエゴで過去を変えた結果、何処かの世界が不幸になる。――それでも、このまま和輝を失うくらいなら、何処かの世界が絶望に満ちても構わないと思った。
例え過去は未来へ復讐するとしても、自分は和輝を切り捨てられない。
「和輝を救うってことはね、自爆テロで助かった数百人を殺すってことだよ?」
殊更優しく、春馬が語り掛ける。
数百人を救う為に、和輝は自分の命を差し出した。霖雨は、和輝を救う為に、数百人を犠牲にしようとしている。
それでも、諦められないものがある。霖雨には、自己犠牲や正義なんてものは無い。数学的に考えて、天秤の傾く一方を選ぶことなんて出来ない。感情が如何しても追い掛けて来る。
「それでも、俺は和輝の生きる未来を捨てられない」
霖雨は目を伏せた。
右隣で葵が、既に冷静な声を出した。
「名誉の死なんて、柄じゃないだろ。人を救って死んだなんて満足な顔されても腹立つしな。これが夢でも妄想でも、足掻いてみる価値はある」
そうして、葵は少しだけ笑ったようだった。
覚悟は決まった。春馬は二人の顔を見遣り、そっと肩を落とす。
そして、次の瞬間、世界は真っ白になった。
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