15.パラレルワールド

⑴訃報

 Hope never spreads her golden wings but in unfathomable sea.

(希望は底の深い海の上でなければ、決してその翼を広げない)


 Ralph Waldo Emerson







 赤と青に彩られた封筒が届いたので、霖雨はペーパーナイフを探していた。


 部屋の何処かで見たような気がして、目に付くところは粗方探した。何処にもその気配が見られなかったので、所有していたのは気のせいだっただろうかと首を傾げるばかりだった。


 差出人は霖雨の良く知る筈の人間だった。乱雑な開封が憚られる反面で、破いてでも今すぐに覗き込みたい心地だった。抽斗の奥に落ちたのかも知れないと想像して、思い切り引っ張ったのがいけなかった。


 抽斗は酷い物音を立てて、フローリングへ落下した。


 内部に収められていた物品は散乱し、角を打ち付けた床は小さな傷となった。


 額を押さえ、溜息を呑み込む。すぐさま、リビングから乾いたノックの音が転がった。




「大丈夫?」




 変声期を抜け切らぬようなボーイソプラノが聞こえた。


 霖雨は抽斗をそのままに、ドアの前で此方を窺っているだろう小さな青年の元へ向かった。


 ドアを開けると、和輝が不安そうに眉を寄せていた。触り心地の良い柔らかな頭髪に寝癖は残っていなかった。薄手のジャケットを羽織っているので、出掛ける直前なのかも知れない。




「うっかり、抽斗を引き抜いてしまったんだ」

「怪我しなかったか?」




 葵ならば、修理代の請求くらいしたかも知れない。


 何処までも御人好しな青年だ。小さな頭を撫でてやると、子ども扱いするなと不満げな視線が向けられた。


 霖雨の無事を確かめると、和輝は「気を付けろよ」と諭すように言って背中を向けた。リビングのソファには、膨れたリュックが転がっている。


 現実逃避するように、霖雨は部屋を後にした。リュックサックを背負い、和輝がBGMのようなテレビの電源を落とす。そのまま玄関へ向かったので、霖雨は特に意味も無いが、何となく付いて行った。




「何処へ行くんだ?」




 玄関で靴を履く背中に、問い掛ける。和輝は振り返らずに答えた。




「ちょっと、ドイツまで」

「はあ?」




 コンビニへ行くような手軽さだった。


 此処からドイツまで、飛行機で七時間半は掛かる。どのくらい滞在するのかは解らないが、余りに軽装なので意味が解らなかった。


 余所行きの革靴を履いた和輝が振り返る。高校球児だったという割には白い面で、眩いばかりの綺麗な微笑みを浮かべていた。


 霖雨は慌てて問い掛けた。




「何をしに行くんだ?」

「試験を受けに行くんだ」

「何の試験だよ」

「期末試験?」




 彼は、何の話をしているのだろう。会話が成り立っているのか、霖雨には解らない。


 和輝は現在、フリーターの筈だった。スポーツドクターを目指している元救急隊員で、今はまるで無関係の職種を転々として謎の人脈を築き、技術を体得している。そんな彼の受ける試験とは、一体何だろう。


 追及の言葉を失っている霖雨を前に、和輝は気にする素振りも無く玄関を出て行こうとしていた。説明する気は無いのだろう。霖雨は早々に諦め、壁へ凭れ掛かった。


 革靴は光沢を放ち、皺一つ無いジャケットは風に揺れる。夏の厳しい日差しを受けた和輝の横顔が、眩しさに歪んだ。


 異国へ旅立とうとする和輝の背中へ、霖雨は言った。




「行ってらっしゃい」




 日常的な挨拶だった。けれど、彼はこの言葉だけで酷く嬉しそうに笑う。

 弾けるような笑顔で、和輝は返す筈だ。行って来ます、と。


 その言葉を待っていると、和輝は振り返って言った。




「じゃあね」




 ひらりと手を振って、和輝はドアの向こうへ消えた。


 何かが喉の奥に閊えたような気がして、霖雨は眉を寄せた。魚の小骨のような違和感から喉を押さえるが、ドアの向こうにヒーローはもういない。ドアの施錠を施し、霖雨はリビングへ戻った。


 無人のリビングに音は無い。家主である葵は部屋に籠っているのか、相変わらず気配が無かった。


 部屋に散乱した物品を思い返すとうんざりした気持ちになる。それでも放置する訳にも行かず、霖雨は自室へ戻った。


 抽斗の抜けたデスクの上には、開封されないエアメールが置かれている。何だか面倒臭くなってしまって、霖雨は物品を適当に抽斗へ納め、封筒を破いた。


 差出人は、母国に残して来た唯一無二の親友だった。


 型に嵌ったように角ばった丁寧な文字に懐かしさが込み上げる。手紙の内容に目を落とす。霖雨の様子を気遣い、近況報告を済ませる簡潔な文章だった。そして、追記という形で、兄が近日この場所を訪問する旨が記されていた。


 霖雨は母国で大学卒業後、単身で渡米した。此方へ住み着いてから凡そ三年の月日が流れた。脳裏に浮かぶ双子の兄の姿は、三年前のものだ。その間、一度として帰国したことは無い。勉学に追われていると言っている反面で、本当は、彼等に会うことが恐ろしかったのかも知れない。


 何が現実で、何が夢なのか、霖雨には判別が出来ない。自分の体験した過去すら懐疑的な霖雨にとって、留学は逃避の一つだった。母国の体験を全て放棄し、この地で新たな生活を始めたのだ。それでも、双子の兄や、唯一無二の友達の存在を捨て去ることは出来ず、宙ぶらりんのまま呼吸を繰り返している。


 兄弟の仲は良好だ。兄の春馬は、弟の霖雨から見ても良く出来た人格者だった。彼を疎む理由は一つも無い。


 霖雨は手紙を机の上に戻し、パソコン用のチェアへ深く腰を掛けた。このまま眠ってしまいたかった。


 その時、リビングから他人の談笑が聞こえた。それがテレビの雑音と気付き、霖雨の意識は急浮上する。誰かがリビングにいるのだ。先程、出掛けて行った和輝を除けば、気配の正体は一つしか無かった。


 ゆっくりと身を起こし、霖雨は再びドアを開けた。

 テレビの前、陽炎のように空気が滲む。霖雨は呼び掛けた。




「葵」




 呼んでも、振り返らない。


 霖雨はその横に回り、今にも消えて無くなりそうな青年の横顔を見下ろした。




「今頃、起きて来たのか」

「お前に関係無いだろ」




 大欠伸をして、葵が吐き捨てる。反論する余地も無く正論だったので、霖雨は黙ってソファに座った。


 葵はぼんやりとテレビへ目を向けていた。ワイドショーが嫌いだと零す割に、葵はテレビを見ていることが多い。きっと、内容に興味は無くて、ただ雑音を求めているだけなのだろう。


 何をする訳でも無く、二人で肩を並べてテレビを見ている。夏休みだというのに、空しい気分になって霖雨は口を開いた。




「和輝、ドイツに行くって言ってたぞ」

「期末試験だろ。御蔭で寝不足だ」




 何の驚きも無く返した葵に、霖雨はまるで、自分だけが蚊帳の外にいたような気持ちになった。




「知っていたのか?」

「あの馬鹿の試験勉強に、付き合わされていたからな」

「試験勉強って、何のことだ」

「ドイツの大学の医学部だよ。通信を利用して就学しているんだ」

「はあ? フリーターじゃなかったのか?」




 すると、葵は憐れむような目を向けた。




「高校卒業してから渡欧したんだよ。現場経験を積めるからって、そのまま渡米したんだ。今もアルバイトしながら、向こうの大学に通っている」

「本当か?」

「俺が虚偽を申告する理由も無いが、疑いたいなら好きにすれば良い」




 嘘を言っているようにも見えない――事実、葵が此処で嘘を吐く理由も無かった。


 和輝は隠し事が多い。必要でなければ口にしない。けれど、何となく寂しいと思う。




「何時、帰って来るんだろう」

「一週間は帰って来ないだろうね」




 一週間とは、長いのか短いのか解らない。


 相対性理論が脳裏を掠めたが、霖雨は首を振って打ち消した。


 一週間もあれば、人間は堕落する。生活能力が皆無の葵が、身の回りの殆どを依存している和輝を無しに何処まで堕落するのかと考えると頭が痛かった。兎も角、朝食にしよう。


 珍しく、和輝は食事の用意をして行かなかったようだ。余程、追い込まれていたのかも知れない。


 最近は冷蔵庫の中身も把握していなかったので、自分も和輝に依存していたことに気付かされた。霖雨は依存を断ち切るべく、キッチンへ向かった。









 15.パラレルワールド

(1)訃報









 時間の逆説(Time Paradox)とは、タイムトラベルに伴う矛盾や変化のことだ。


 例えば、時間を旅行した過去で、相対的未来に存在する事象を改変した場合、その事象における過去と現在の存在や状況、因果関係の不一致という逆説が生じる。過去へ戻り、自分を産んだ母親を殺害した場合、その時点に存在する自己は何処へ行くのだろう。SF作品ではポピュラーとなって来た思考実験を、葵は文章の中で体感する。


 本を閉ざすと、空気の塊が顔面へ迫った。片手に持っていたせいか、酷く肩が痛かった。


 関節を回しながら大きく背伸びをする。漏れた欠伸を噛み殺しながら、葵はキッチンへ向かう。存在感の塊のようなヒーローが飛び立ってから、まだ数時間。人間はどんなに劣悪な環境にいても慣れる生き物だ。生活習慣の殆どを賄っていた和輝がいなくても、世界は回るし、時間は進む。


 和輝の淹れるコーヒーは、日によって味わいが違う。恐らく、彼の気分に応じて変化しているのだろう。痘痕も靨と言うくらいで、ころころ変わる味わいも慣れて来るとそれなりに良いものだった。


 そんな和輝がいないので、葵は手間を惜しんでインスタントコーヒーばかりを飲んでいる。喉をさらりと流れて行く薄いコーヒーは、反比例して添加物が山のように入っているらしい。


 ファーストフードの添加物が人体に及ぼす影響というテーマで、和輝がパワーポイントを使ってプレゼンしたことがある。生々しい臓器の変色具合や、平均寿命の長短を写真を用いて紹介していたが、もしかすると、それは大学の課題の一部だったのかも知れない。


 調理人が不在なので、仕方なく葵は昼食を作ることにする。和輝がいなくなると、冷凍庫の中は途端に冷凍食品で満たされる。妙に色鮮やかなドリアを電子レンジに入れ、葵は首をぐるりと回した。


 解凍まで三分程掛かるので、リビングへ戻ってテレビの電源を点ける。今日も代わり映えしない退屈なニュースばかりだった。奇妙なマスコットが巷を賑わせているらしい。猫だか熊だか解らないキャラクターが薄ら笑いを浮かべていた。若い女性の間で人気沸騰中らしいが、葵には理解出来ない。けれど、そのキャラクターを最近何処かで見たような気がして、頭が痛くなる。ファルクトレのようなピクニックで、和輝が持って来たレジャーシートに無数にプリントされていたキャラクターだった。意外にメジャーだったらしい。


 母国の英雄、蜂谷祐輝がメジャーリーグで活躍している。昨夜の試合では、強敵を無失点に抑えたそうだ。彼の一族は頭がおかしい。地上を大洪水が襲ったなら、ノアは彼の一族をその箱舟へ乗せるだろう。


 次のニュースです。


 化粧の濃い女アナウンサーが、人形のような無表情で言った。


 国際犯罪組織が、旅客機を狙って自爆テロを企てていた。間一髪のところで阻止され、乗客乗員ともに無事であった。


 窮地から救われた乗客が、自分の身に起こっていたことが信じられないと顔を綻ばせる。大勢の乗客は無事保護され、犯人グループは逃走し、現在は国際的な指名手配中である。


 退屈なニュースだ。葵はチャンネルを変えようとして、動きを止めた。アナウンサーは、ディスプレイの向こうでつらつらと原稿を読み続ける。




『この奇跡の救出劇の裏側で、一人の勇敢な若者が亡くなりました』




 呼吸すら出来ない葵の後ろで、霖雨は扉を開けた。


 穏やかな日常を迎える為に、過剰な程の睡眠をとって、怠そうに欠伸をする。キッチンから電子音が響き、ドリアの完成を告げていた。それでも、葵は動けなかった。




『彼は、たった一人でこの凶悪なテロへ挑み、見事乗員乗客全てを救ったのです』




 画面の右上に、ワイプが抜き出される。


 澄み渡るような青空を背景に、酷く綺麗な顔をした青年が笑っていた。荒れた画像の中でも、その青年の瞳の美しさは群を抜いている。


 冬眠から目覚めた熊のように、緩慢な動作で霖雨は葵の隣に座った。


 葵が画面を食い入るように見詰めていることに気付き、霖雨もまた、其方へ目を向ける。




「和輝?」




 霖雨が、言った。葵の脳は、それを瞬時に否定していた。


 学生時代の写真だろうか。今と比べても大差無いが、白いYシャツにブレザーを纏っている。輝くような笑顔で、此方へ大きく手を振っているようだった。


 映っていたのは、蜂谷和輝だった。




『彼は英雄です』




 絞り出すような涙声で、アナウンサーが言った。


 命を救われた大勢の乗客が、口々に感謝の言葉と冥福を祈る。ぼろぼろと大粒の涙を零し、弾けるような笑顔を浮かべ、家族と無事を確かめ合う。拍手が起こる。歓声が追い掛ける。彼をヒーローだと、見知らぬ大勢の他人が褒め称える。


 何が起こっているのだ。


 視界がぐにゃりと歪んだような気がした。そのまま消滅してしまえば良いのに、残酷な世界は逃避を許さない。


 葵の隣、霖雨が震える声で言った。




「性質の悪い冗談だ」




 今日はエイプリルフールかな。


 霖雨が柄でも無い性質の悪い冗談を嘯くので、葵の脳は再び回転を始めた。


 呆然とディスプレイを見詰める霖雨はそのままに、葵は携帯電話を取り出す。脳に刻み込まれた11桁の電話番号をタップし、耳へ押し当てる。すぐに応答があった。




『この番号は、現在使われておりません』




 葵は、静かに通話を切った。


 聞こえていたのか、霖雨が凍り付いたみたいな無表情で此方を見た。




「何が起こっているんだ?」




 そんなこと、葵にだって解らない。


 テレビの向こうでは、相変わらずヒーローを称える声がしている。感謝の言葉は途切れず、彼の写真を持って涙ながらに喜びを語る。アナウンサーは美談だと訴え、若者達はヒーローに続けとばかりに義憤に燃えている。


 狂気だ。其処には、静かに燃え広がる狂気がある。


 霖雨もまた、携帯電話を取り出した。如何やら、着信があったらしい。




「はい、もしもし――」




 母国の言葉で語り掛けた霖雨は、死人のような顔色をしていた。




「そんな筈ありません。あいつは今、期末試験を受ける為にドイツへ向かっている筈です」




 電話の向こう、聞き覚えのある声が静かに返した。




『死んだんだよ。今日、飛行機に乗ることも無く』




 誰だっただろうかと考える間も無く、葵の記憶は声の主を探り当てていた。


 ヒーローの相棒、白崎匠の声だった。国際電話を掛けて来た彼は、電話越しでも解る程に声を震わせていた。


 歓声が聞こえる。犯罪組織を許すな。敵を討て。今こそ立ち上がる時だ。雄叫びが響き渡る。津波のように拍手は押し寄せて、地上を洗い流す。


 まるで、対岸の火事だ。葵は思った。


 通話を終えた霖雨が、ごっそりと感情を削ぎ落したような顔で言った。




「死んだって」

「うん」

「和輝が、死んだって」




 嘘だろう。


 ぽつりと呟いて、霖雨は携帯電話を取り落とした。フローリングへ落下したそれは、硬質な音を立てて、何処かへ転がり落ちて行った。


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