⑸幕引き

 玄関を出た瞬間、見計らったようにタクシーが滑り込んだ。


 目的地を告げる間も無く、タクシーは急発進する。運転手は寡黙な男で、鋭い視線で和輝の質問を黙殺した。後ろに飛んで行く景色をぼんやりと見詰めながら、何故か世界が色鮮やかに見えて不思議に思った。


 人気の無い裏道を利用して、タクシーは一時間程掛けて空港近くに到着した。目的地までは一本道で、走れば十五分も掛からないだろう目と鼻の先だった。


 料金を徴収することなく、タクシーは逃げ出すようにして早々に消えて行った。


 重いリュックサックを背負い直して、目的地までの舗装されない砂利道を和輝は走った。足場の悪さと荷物の重さに息を切らし、古傷の右肩が疼くように痛かった。ジャケットの下がじわりと汗ばんでいる。それでも、足を止める事無く目的地まで駆け抜けた。


 忘れ去られた過去の遺物のように、その空き地は存在していた。錆びた倉庫の壁面、色褪せたコンテナの群れ、割れたコンクリート。だだっ広い倉庫の前に、黒塗りの車が停車している。夏場だというのにスーツをきっちりと着込んだ男が、和輝の姿を認めるとうっとりと微笑んだ。


 呼吸を整えながら、和輝は足を進める。男から2m程距離を置いて、真っ直ぐに向かい合った。




「翡翠は何処だ?」

「そんなに急がなくたって良いじゃないか」




 返答が母国の言葉だったので、和輝は驚いた。男は薄ら笑いを浮かべたまま、余裕の態度を崩さない。


 和輝は、無表情のまま問い掛けた。




「如何して、翡翠を誘拐したんだ。薬なら、返しただろう」

「やはり、薬のことを知っていたんだね」




 今のは、失言だっただろうか。

 和輝には解らない。


 けれど、自分に電話を掛けて来たことを考えると、彼等だって知っていた筈だ。無表情を貫き、和輝は主導権を奪われまいと問いを重ねる。




「口封じが目的かい? 翡翠は無事なのか?」

「無抵抗の人間を殺すのは、此方の流儀に反するんでね」

 



 何が流儀だ。犯罪者の癖に。

 内心で吐き捨て、和輝は目を細める。




「要求は何だ。何の為に俺を此処へ誘き出した?」

「話が早くて助かるよ。君に頼み事があるんだ」




 大したことじゃないと嘯いて、男は言った。




「君のお友達は空港にいる。十四時二十八分発、ロシア行きの飛行機に乗るんだ」

「ロシアに用は無い」

「従え」




 和輝は肩を竦めた。どちらにせよ、此処で断るという選択肢は存在すらしないのだ。




「解った。でも、証拠を見せろ。翡翠が生きているという証拠を」




 言うと、男は携帯電話を投げ渡した。大量生産されただろう陳腐な機種だ。画面には通話中を知らせる文字が浮かび上がっている。


 安っぽいスピーカーから、姿を消した友人の声がした。




『和輝……』




 聞き間違う筈の無い声だった。腹の底に力が籠り、和輝は弱り切った友達の声に応える。




「翡翠。必ず、助けてやる」




 時刻を確認する。飛行機の出発まで時間が無い。


 向こう側から通話は切られた。和輝は携帯電話を投げ渡し、余裕の笑みを浮かべる男を睨み付けた。挑発的な態度を崩さない男を一瞥し、和輝は背中を向ける。


 背中で、男が言った。




「絶望したかい?」




 和輝は弾かれるように答えた。




「絶望はしない」




 口角を釣り上げて、和輝はリュックサックを投げ捨てた。ついでに汗ばんだジャケットも脱ぎ捨てる。


 走り出す後ろで、男が高笑いしていた。後ろ指を差されることには、慣れている。


 空き地を飛び出して、来た道を辿るようにして空港を目指す。出発時刻は迫っていた。残り三十分程だが、すでに搭乗口は開いている筈だ。時間ギリギリでは入場出来ない。


 走りながら、和輝は考える。

 あの電話は、果たして機内から掛けて来たのだろうか?


 機内で携帯電話を掛ければ目立つ。翡翠が拘束されているのなら、猶更だ。近年はテロの影響で防犯意識も高く、不審なことがあればすぐにでも通報される。それでも、取引場所を飛行機にした理由は何だろう。危険を冒してまで、如何して?


 翡翠は本当に、機内にいるのだろうか?


 息を切らして走っていると、空港の入り口が見えた。大勢の利用者が押し寄せている。家を出る前に見たテレビでは、長期休暇を利用して海外旅行する人が多いと報道していた。平日とはいえ、夏休みの期間だ。


 人込みを潜り抜け、目的の便の出立する搭乗口を目指す。チケットを持っていないのに、どのように潜り込むべきか逡巡する。自分がチケットを受け取り忘れたのか、それが無くとも搭乗するだろうと予想していたのか。


 搭乗口に向かう途中、何かが視界の端に映った。緑柱石の輝きを見た気がして、和輝は振り返る。当然、その先には誰もいない。それでも、何かが呼んでいる気がして、和輝は第六感に従って歩き出した。


 向かった先はトイレだった。男性用トイレには清掃中の札が立てられ、当然ながら利用者もいない。


 一番奥の個室の扉が閉まっている。和輝は息を殺して近付いた。――その時、内側からの衝撃に扉が揺れた。和輝は肩を跳ねさせる。そして、もう一度、何かが扉にぶつかった。


 微かな呻き声がする。


 此処だ――。


 直感し、和輝は扉を蹴破った。洋式便座の蓋の上、自由を奪われた翡翠が座らされていた。猿轡を噛まされ、翡翠は和輝を見付けると驚いたようだった。




「翡翠!」




 駆け寄った和輝は、自由を奪うロープを解く。外見上は、怪我もしていないようだった。目の下に刻み込まれた隈が、彼の疲労を物語っている。和輝は労わるように、翡翠の肩を撫でた。




「無事で、良かった……」




 翡翠が、息を詰めた。


 人質を救出した現在、和輝の行動を制限するものは何も無い。けれど、奇妙な胸騒ぎがしていた。


 見張りの一人も付けないで人質を押し込んで、和輝を飛行機に乗せようとした。何を目的としているのだろう。何の為に?


 彼等の目的は、自分なのだろうか。それとも、翡翠か。口封じを目的とするならば、このまま二人共殺されていてもおかしくは無い。それでも生きている理由は、何だろう。自分が幸運だったなんて驕るつもりも無い。


 何か、別の思惑がある。そしてそれは、自分達だけでは収まらない恐ろしい陰謀のように感じられた。


 飛び立つ飛行機を思い浮かべると、爆破炎上する姿が映る。和輝は、先日届いたエアメールを思い出している。葵の過去を記した警告という名の手紙には、彼の友人が自爆テロによって飛行機で命を落としたことが記されていた。もしかすると、同じことが起こるかも知れない。


 自爆テロ――。


 テレビに映っていた大勢の利用客が、凄まじい爆炎に呑み込まれる。阿鼻叫喚の地獄絵図だ。黒煙を昇らせる機体を消火することは出来ず、炎に呑まれる乗客を助ける術は無い。その炎の前、立ち尽くすばかりだった葵を思う。友人が悶え苦しむ様を、見ていることしか出来なかった葵。


 助けてくれと、叫ぶ声が聞こえている。何でもかんでも救えるとは思わない。それでも、目の前の一つくらいは、救えると信じたい。


 疲れ切った翡翠が項垂れている。和輝はその肩を掴んだ。




「翡翠。今すぐ、此処から離れろ」

「和輝は……?」

「やらなきゃいけないことがある」




 告げると、翡翠は目を細めた。少し見ない間に、随分と窶れたと思う。ゆっくり休ませて遣りたい。


 訝しむ様子の翡翠をそのままに、和輝はその場を離れた。


 飛行機の出立時刻は間も無くだ。和輝は搭乗口に立つ女性を押し退けて、強引に乗り込んだ。


 周囲の人々がざわめき、警備員が駆けて来る。後ろから羽交い絞めにしようとする警備員の力を往なし、地面へ叩き付ける。悲鳴が上がる。それでも、和輝は足を止めない。




「Don't move!」




 銃口を向け、警備員が叫ぶ。和輝は止まらない。


 丸腰の未成年に見える和輝を相手に、発砲して良いものか判断を出し倦ねているようだった。その間にも和輝はぐいぐいと進み、終には機内へ押し入った。


 空港のざわめきを感じ取ったらしく、乗客が混乱したまま視線を向ける。自分の生命の危機が訪れていても、行動一つ起こせない愚かな民衆だ。何かの冗談だろうと高を括っているのではない。関わりたくないから、そう思い込もうとしているだけだ。誰かに責任を押し付けて、被害者になれば楽だからだ。


 数年前、和輝は母国でマスコミの悪質な報道によって日常生活を脅かされた。一年近く続いた地獄の日々は、主に何も知らない一般人から与えられたものだった。


 縁も無い他人だ。それでも、――突き放せない。


 機内の中央まで進むと、無人の席に大きな荷物が一つだけ置かれていた。利用客はいない。出立間近でありながら、不自然だった。


 背中に警備員の威嚇や好奇の眼差しを受けながら、和輝はバッグを開ける。


 夥しい量のコードの奥、筒状の爆薬がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。




「Hold up!」




 警備員が叫ぶ。このまま発砲されて引火したら、全て台無しだ。和輝はバッグを掲げて見せる。見た目以上に重く、右肩が痛かった。


 それが爆弾だと知ると、乗客は悲鳴を上げて逃げ惑った。警備員も顔を蒼白にして、逃げるべきか踏み止まるべきか立ち尽くしている。客席はあっという間に無人になった。


 和輝は中身を確認する。時限爆弾だ。遠隔操作機能は、付いていない。古臭く、簡素な作りだった。


 タイマーで引火し、爆発する。幾つものコードが露骨に出ているので、がっかりする程に解り易い。タイマーと爆薬を繋ぐコードを切り離してしまえば、一先ず安心だ。


 駅で車両整備士の見習いをしていた頃、テロに備えて爆弾の解除方法を学んだことがある。人生は何があるか解らないな、なんて遠くで思いながら、和輝は懐から薄っぺらい刃を取り出した。


 折れたカッターの刃だった。何時か、葵が殺人を犯しそうになった時に、咄嗟に折った刃だ。警察に見付かれば何かを問われると思って、拾って隠したのだ。証拠隠滅行為だが、自分が罪に問われるよりも、葵が責められることの方が堪えられなかった。


 コードを切断すると、警備員が様子を窺うように声を掛けて来た。


 和輝は無表情に答えた。




「一先ずは安心だよ。警察を呼んでくれ」




 警備員が、慌てて駆けて行く。和輝は大勢の犠牲者を出しただろう爆弾を見下ろす。


 ダイナマイトを開発したのは、アルフレッド・ノーベル(Alfred Bernhard Nobel)だという。彼は平和の為にこれを開発したけれど、多く利用されたのは戦場だったという。世紀の発明が人殺しの道具となり下がった時、彼は何を思っただろう。


 大量の爆薬を見詰めていると、携帯電話が震えた。和輝はポケットからそれを取り出した。ディスプレイには非通知と表示されていたが、構わず耳へ押し当てる。




『爆弾の解除が出来るとは、恐れ入ったよ』




 忌々しく吐き捨てた声に、覚えがあった。先程別れたあの男だ。


 和輝は眉一つ動かさない。これで、計画は御破算だ。何を目的としていたかは解らないが、兎に角、彼等の陰謀は此処で御終いだ。


 高笑いでもするべきなのだろうか。それとも、決め台詞でも?


 和輝は何も言わなかった。何かが胸の中に引っ掛かっている。スピーカーの向こうで、男が言った。




『でも、詰めが甘いねえ』




 何かを含む物言いをする男に、和輝は眉を寄せる。

 雑音が紛れた。その奥で、声がした。




『――和輝、逃げろ』

「翡翠」




 詰めが甘いねえ。――全く、その通りだ。


 奥歯を噛み締め、逃がした筈の友人の姿を思い浮かべる。事実、自分は翡翠の安全を確認しないまま、この場所へ来てしまった。見張り一つ付けずに不用心だなと思ったけれど、結局、確かめはしなかった。




『Let's make up, Mr.Hero』




 望むところだとは、言えなかった。


 終始黙ったまま、和輝は通話を終えた。すぐに、メールが届いた。URLが添付され、開くと地図が表示された。指定された場所は、一生縁の無いだろう都心の高層ビルだった。


 携帯電話をポケットへ捻じ込み、引き留める警備員を躱して和輝は空港を後にした。







 


 14.ヒーローの消失

(5)幕引き











 平日の昼下がり、街は人で溢れ返っている。


 世界経済の中心地だ。同じ国でも、田舎でひっそりと暮らす自分には縁の無い場所だった。和輝は指定されたビルを探し、早々に途方に暮れた。


 高層ビルといっても、同じような建物が無数にある。携帯電話で地図アプリを起動するが、現在地が既に解らない。けれど、位置情報を通知して自分の動向を知られる訳にはいかない。GPSで追跡されるのは明白だった。


 地図を見ながら眉を寄せていると、背中から声が掛かった。




「Can I help you?」




 落ち着いた青年の声だった。和輝は振り返り、其処にいる人間に驚いた。


 霖雨だ。如何して此処にいるのかと、言葉を失った和輝に、青年は訝しむように目を細めた。


 まるで他人のような振舞いだ。じっと青年を見詰める。顔の造作は、霖雨と酷似している。けれど、纏う雰囲気の違いから、別人であることを悟る。


 他人の顔面を凝視し、和輝はある可能性に行き着いた。




「春馬さん?」




 呼べば、青年は綺麗な眼を真ん丸にした。霖雨と同じような反応だ。




「何処かで、お会いしましたか?」

「いえ、友人に良く似ていたので、つい」




 状況も忘れて答えると、春馬は意志の強そうな眉を寄せた。警戒心を解かない様は、霖雨とはまるで違う。


 融通が利かなそうだな、と何となく思う。春馬は此方の内心を透かしていたのか、低い声で問い掛ける。




「失礼ですが、貴方のお名前は?」

「蜂谷和輝です」

「ああ、貴方が」




 何か納得した様子で、春馬は表情を崩した。笑顔は、霖雨にそっくりだった。


 改めて見ると、霖雨と似ているけれど、違う顔だと気付く。意思の強そうな眉や、切れ長な二重瞼、精悍な顔付きは、柔和な印象の霖雨とは真逆だ。血を分けた双子と言っていたけれど、性格は違うのかも知れない。


 春馬は、和輝の手元にある携帯電話を見た。




「何か、困っていますか? 俺で助けになれますか?」

「ええと」




 下手に出ているようで、ぐいぐいと懐へ入り込んで来る。霖雨も大概腰が低いと思うけれど、無関係の他人に積極的に干渉しようとはしない。そういうところが、似ていないと思う。


 和輝は友人の兄という春馬に強く出られない。地図アプリを起動したままの画面を覗かれ、仕方無く迷っていたことを告げる。


 春馬もこの地に来て日が浅い筈だ。和輝は、画面を覗く春馬を見ていた。すると、春馬はさらりと答えた。




「此処の交差点を左に曲がって、大通りを真っ直ぐに進んで、右手に見えますよ」




 迷い無く答えた春馬に、和輝は驚く。


 春馬は、何に驚かれているのか解らないようだった。和輝は、もしかしたら、道が複雑で、春馬に土地勘があるのではなく、自分が単純に方向音痴なのではないかという可能性に思い至る。だが、今は気にすることでは無い。




「ありがとう」




 和輝は笑った。春馬は、何かを逡巡するように黙って、初めて会った時と同じ言葉を投げ掛けた。




「Can I help you?」




 和輝は、微笑んだ。




「No, thank you」




 そのまま、何事も無かったように背中を向けた。突き刺さるような視線を感じたけれど、構わなかった。


 春馬の指示に従って、目的地を目指す。指定された高層ビルが、右手に見えた。商業ビルらしく、受付には女性が背筋を伸ばして座っていた。マネキンのような完璧な笑顔を浮かべて、用件を問う。何と答えたら良いものか解らず、和輝はしどろもどろになる。けれど、女性は和輝の顔をじっと見詰めると、美しい笑顔を浮かべたまま、屋上へと促した。


 天を突くような高層ビルだ。何をしたら世界経済の中心地に、こんなビルを建てられるのかなんて解らない。あの日、薬の取引をした相手が想像以上に強大であったことは、後悔するしかない。


 促されるままエレベータに乗り込み、最上階を目指す。足元から浮遊感が立ち上る。和輝は、ガラス張りの室内から街を一望する。


 もしも、あのまま飛行機が飛び立って墜落していたら、どのくらいの犠牲者が出たのだろう。空港で爆破したとしても、乗客乗員は助からなかっただろう。


 悔しいと、強く思う。


 人の命は代替出来る代物だ。そんなことは解っている。人口なんて数字でしかない。それでも、生きている。無関係の他人だからといって、見なかった振りは出来ない。


 目の前の一人を救う為に、満身創痍だ。けれど、世界から見れば小さな犠牲なのだろう。


 エレベータは屋上へ到達した。和輝は鉄箱から降りた。小さな踊り場の外、吹き曝しの屋上へ出ると、暴力的な強風が襲い掛かった。


 目の前には、あの男がいる。和輝の到着を知ると、仰々しく両手を広げて出迎えた。




「待っていたよ」

「うん。――翡翠は?」




 友達のように問い掛けると、男は携帯電話を取り出した。


 その小さな通話機器に、こんなにも翻弄されるとは予想もしていなかった。


 和輝は、携帯電話が嫌いだ。現代では必需品と呼ばれるけれど、まるで其処に人間の価値があるように主張する通話機器が大嫌いだ。


 大嫌いな通話機器の向こうで、翡翠の悲鳴が聞こえる。




『和輝、逃げろ!』




 何か争う声が聞こえていたので、翡翠が抵抗しているのだと解る。


 自分だって窮地の癖に、弱り切っていた癖に、逃げろなんてよく言うよ。和輝は皮肉っぽく思った。


 口元に笑みを浮かべた和輝を、男は理解出来ないものを見るように怪訝そうに見詰めている。


 そして、男は懐から銃を取り出した。照準を合わせるそれに、和輝は身構えた。トカレフTT-33だ。装弾数は8発、銃口初速は秒速420m、有効射程は50m。安全装置すら省略した徹底単純化設計で、弾丸の貫通力にも優れた凶器だった。覚えたくも無かった情報を反芻し、それを避ける準備をする。


 どんな時にも、絶望はしない。最期の一瞬まで目は閉じないし、諦めない。失っても失っても、希望はある。徹底抗戦のつもりで、和輝は目の前の男を睨んだ。




「翡翠を解放しろ。あいつは、関係無い」

「そうはいかない。お前はもう、生かして置く訳にはいかない」




 爆弾で、自分も翡翠も始末するつもりだったのだろう。計画通りにならなかったからと言って盤上を引っ繰り返すのは、幼児と同じだ。


 引き金に指を掛けた男が、力を込める。刹那、和輝は地面を蹴った。


 身を低くして駆け抜ける和輝の頭上、銃弾が空間を切り裂いた。後方の扉に衝突し、硝子が酷い音を立てて割れ落ちる。和輝は男の目の前で急停止し、右足を振り抜いた。


 爪先が男の頭部を捉えている。遠心力を加え、足を振り抜いた瞬間――、銃声が尾を引いて響き渡った。


 左足から力が抜け、和輝はそのまま体勢を崩した。身体は欄干に衝突した。視界がぐるりと一転し、和輝は高層ビルの外へ投げ出されていた。


 咄嗟に右腕を伸ばし、欄干を掴む。重力を受けた身体は落下し、全体重が右腕に伸し掛かった。


 男が、息も絶え絶えに見下ろしている。最初に出会った時の余裕は、無い。




「なんて奴だ」




 携帯電話の向こう、仲間と遣り取りをしているらしい。


 如何やら、自分は何処かから狙撃されたのだ。


 お前、詰めが甘いんだよ。

 何処か遠くで葵が笑った気がした。


 欄干の向こうから、男が銃口を向ける。和輝は右手に力を込めた。こんなところで死ぬつもりは無い。古傷が痛んで、既に感覚は無い。汗が滲む。足元は空中に浮かび、引っ掻ける場所も無い。


 翡翠を、助けなければならない。約束したんだ。必ず、救ってみせると。


 和輝は銃口を睨んだ。抵抗の手段が無くたって、最期の一瞬まで諦めない。


 男が、携帯電話を見せた。




「御終いだよ、Mr.Hero」




 スピーカーの向こうで、銃声が轟いた。返り血を浴びたような気がして、和輝は感情を一瞬失った。


 ノイズ交じりのスピーカーの奥、知らない男の声がする。




『人質は始末しました』




 始末? 如何いう意味だろう。

 呆然としていると、男は嗤った。




「お友達は、死んだよ」




 お前は、救えなかったんだ。


 銃口は、欄干を掴む右手に向けられている。


 ぽつりと、雨が降ったような気がした。高層ビルに投げ出されているという事実以上に、現実感の無い言葉だった。


 死んだ?

 誰が?

 翡翠が、死んだの?

 何で?


 状況に付いて行けない。掌から力が抜けて行く。男の指先が、その引き金を引いた。


 銃弾が放たれた。和輝の掌は、既に空を掴んでいた。人が蟻みたいに見える遥か上空、和輝の体は宙に投げ出された。


 和輝の脳裏に、母国に残して来た親友の姿が浮かぶ。

 そして、エアメールに添付されたメジャーリーグのチケットが蘇った。


 試合、見に行きたかったよ。

 会いたかったよ。

 嘘じゃない、本当だよ。



 ごめん。



 最期の瞬間、そんなことを思った。

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