⑷天秤
時刻は午後十一時を過ぎていた。
和輝は、葵に引き摺られる形で帰宅した。霖雨は自室に戻っているらしく、二人が帰宅しても顔を見せなかった。もうすでに眠っているのかも知れない。
なるべく物音を立てないように、和輝はシャワーを浴びた。手首の擦過傷がシャンプーに染みて、自分の不甲斐なさも重なって泣きたくなった。
翡翠は、何処にいるのだろう。
携帯に連絡は無い。けれど、葵の前で連絡を入れれば勘付かれる。葵を巻き込んでも、翡翠の無事を確かめるべきかも知れない。だが、和輝は先日届いたエアメールを思い出していた。
母国から届いたエアメールは、差出人不明だった。ダイレクトメールの一種かと思ったが、わざわざ異国にいる自分の元まで送る理由に思い当たらなかった。血の通わない機械のような美しい文字が、淡々と刻み込まれていた。読む度に眩暈を起こし、それでも止められないそれは麻薬と同じだと思った。だから、和輝はそれを早急に処分した。
これは、神木葵に関わる貴方への警告です――。
手紙は、そんな文章から始まっていた。和輝は、頭に浮かぶ文章を打ち消すようにしてシャワーのコックを捻った。冷水が頭の上から降り注ぎ、愚鈍な神経を冷静にしてくれる。
葵のアルバイト先で出会った老人も、同じことを言っていた。神木葵はサイコパスで、人間と同じ姿をしているが、化物だと述べた。彼に感情は無いと言った。和輝は、ぐっと奥歯を噛み締めた。
人は、信じたいものしか信じない。確証バイアスだ。そんなことは、解っている。
葵も、巻き込めない。
そんなことを、強く思う。
シャワーを浴びてリビングへ出ると、葵が換気扇の下で煙草を吸っていた。
和輝は目を伏せたまま、自室へ向かった。その背中に、葵の声が突き刺さる。
「お前、俺にして欲しいことあるか?」
この問いを、以前も聞いた。和輝は目を伏せた。
返事は、変わらない。真実を口にする程、和輝はもう、子どもではなくなってしまった。
「また、勉強を教えてくれよ」
「いいよ」
どんな反応をするかと思えば、葵は何でもないことみたいに答えた。
彼は、何時もそうだった。捻くれていて、容易く自分のことを語ろうとはしない。皮肉屋で、毒舌で、厭世家だ。けれど、本当の意味で人を突き離せない御人好しで、絶対に自分を見捨てない。
退屈そうな顔をして、葵が言う。
「お前、自己犠牲が過ぎるぞ。何でもかんでも一人で出来ると思っているなら、それは傲慢だ」
姿を消した友人、翡翠の笑顔が脳裏に蘇る。
生きる意味を失った翡翠は、今も闇の中にいる。何か一つを目的にして生きる姿は美しいけれど、酷く脆い。目的を失ってしまえば、それでお終いだ。葵も、そんなことを言っていた。
それでも、失っても失っても希望はある。泣きたくなるくらいに、逃げたくなるくらいに、世界は残酷だ。
パンドラの箱に残されたのは希望だという。神々は人間へ、簡単に諦めることが出来ない希望という災厄を残した。
絶望が救いならば、希望は断罪だ。
和輝は目を伏せる。
「何でも出来るとは思っていない。でも、目の前のたった一つは救えると、信じたいじゃないか」
他の何を失っても、目の前で手を伸ばすもの一つくらいなら、救えたって良いじゃないか。
生きる意味を見失った翡翠にだって、一つくらい救いが残されたって良いじゃないか。
意地になったように、和輝は目の前の葵へ訴え掛ける。葵は、侮蔑するようにすっと目を細めた。
「お前、疲れない?」
呆れるように、労わるように葵が言った。
和輝は返す言葉を持たなかった。
酷く疲れているような気もするけれど、言い訳のような気もする。こんなところで尻尾を巻いて逃げるくらいなら、始めから背負いはしない。
「何でもかんでも背負い込んで、重たくない?」
「重くたって良いのさ。足跡が、深く残る」
人生とは、重き荷を負いて往くが如し。そんなことを言った母国の英雄がいた。
和輝が笑うと、葵はつまらなそうに鼻を鳴らした。
これ以上の会話は、ボロが出る可能性がある。
和輝は早々に会話を切り上げ、自室へ向かって歩き出した。施錠すらしていない扉を開け、振り返らずに言う。
「おやすみ」
突き刺さるような視線を感じながら、和輝は部屋へ戻った。
ヒーローの消失
(4)天秤
朝食は焼き魚だ。
冷凍していた鮭の切り身を焼いていると、欠伸を噛み殺しながら霖雨が遣って来た。カウンターの向こうに見える霖雨は顔を洗う為に洗面所へ向かうところだった。
鮭が焼けるまでの間に味噌汁を作って置く。今朝の具は豆腐とワカメだ。葵は文句を言わないけれど、多分、余り豆腐が好きではないようだった。眉一つ動かさずに咀嚼する様が、和輝にはむしろ違和感となっていた。
今日も、どうせ葵は何も言わないだろう。彼が豆腐を好まないというのも勝手な思い込みかも知れないが、何時か、理由を訊いてみたいとぼんやり思った。
鮭の切り身にこんがりと焼き目が付き、味噌汁が煮えて来た。和輝は冷蔵庫から漬物を載せた小皿を取り出し、リビングのテーブルへ運んだ。炊き立ての白米をよそっていると、何故か葵が部屋から出て来た。
朝に弱い葵が現れたことに、霖雨も驚いたらしい。何か二人がごちゃごちゃ言い合っている。
何も無い夏休みの朝に、三人で顔を合わせる状況が珍しい。柔らかな湯気の昇る味噌汁をテーブルへ置くと、葵は冷ややかな目を向けただけで何も言わなかった。
黙って食卓に座った葵へ、和輝は心配になって問い掛ける。
「如何した? 熱でもあるのか? ラーメンで胃がもたれたのか?」
矢継ぎ早に詰問すると、苛立ったらしい葵が後頭部を叩いて来た。
焼き鮭、豆腐とワカメの味噌汁。白米と沢庵。近年では見掛けないような素朴な和朝食だ。色味が足りないような気がしたので、今更になって卵でも焼けば良かったと後悔する。
夏休みの朝に、何故か三人で顔を突き合わせて朝食をとる。不可解な状況だが、和輝は知らん顔をして手を合わせた。
寝起きでぼんやりしているらしい霖雨は、焦点の定まらない目でテレビを見ている。昨夜、自分が帰宅した時には既に霖雨は部屋に籠っていたけれど、寝ていなかったのかも知れない。訊いてみようかと思ったが、口は災いの元とも言うし、隠し事をしている状況を考えると余計なことは口にするべきではない。
テレビでは、仰々しくアナウンサーが何かを捲し立てている。霖雨に倣って、和輝も大型のディスプレイへ目を向けた。
旅行のシーズンなだけあって、人気リゾートの特集をしている。長期休暇に胸を躍らせる街の人々が、自分の行先をアナウンサーに告げて微笑んでいた。
霖雨が、思い出したように言った。
「今日、客が来るんだ」
沈黙。葵は興味が無いらしく、相槌すら打たない。
和輝は取り繕うように問い掛けた。
「友達?」
「いや、兄が」
霖雨は、別段喜ばしいことでもないように、淡々と答えた。和輝は反応に迷い、結局、何も言わなかった。
霖雨には、双子の兄がいるらしい。この顔は複製可能なのかと疑問に思うけれど、実在しているのだから仕方無い。和輝は時計を見遣る。
「何時頃来るの?」
「予定では、午後一時くらいに飛行機が到着するから、此処に着くのは二時過ぎかな」
「そうか」
じゃあ、自分は会えないな。
和輝はそんなことを思う。
今日は、期末試験の為に渡欧する日だ。十一時頃には家を出る。霖雨の兄が此処へ到着する頃には、入れ違うようにして飛び立っている筈だ。
現在、午前八時。出立時刻は迫っている。
朝食を済ませると、葵は早々に部屋へ戻って行った。彼が食事の為だけに顔を見せるとは思えないので、和輝は聊か不審に思う。
霖雨はソファに座って、相変わらずぼんやりとテレビを見ていた。ディスプレイの向こうでは、自分の長期休暇の過ごし方が如何に有意義であるかと他人が力説している。
皿を洗いながら、和輝は霖雨の横顔を見ていた。故郷に残して来た兄に会えるというのに、嬉しくないのだろうか。
自分は親友に会えると思ったら、堪らず御馳走を用意して出迎えようとする。でも、霖雨は違うのかも知れない。人の抱える事情は様々なので、介入する権利も無い和輝は、問い掛けようとは思わなかった。
心此処に在らずといった調子の霖雨は心配だが、葵がいるなら、まあ、如何にかなるだろう。
無責任なことを考えながら、和輝は試験勉強に勤しむ。頭の隅には翡翠のことが引っ掛かっている。連絡は未だに無い。とは言え、一人暮らしの翡翠の生活は不規則なので、違和感と呼ぶのは難しかった。ただ、此方から幾ら掛けても繋がらない上に、今朝まで待っても折り返しの電話一つ無いことが気に掛かる。
二人きりのリビングはしんと静まり返っている。居心地が悪いとは思わないけれど、和輝は何と無く立ち上がって玄関を出た。勉強から逃避したい訳ではないと自分に言い聞かせて、郵便物が無いものか覗き込む。
二通のエアメールが届いていた。一つは霖雨宛のものだった。もう一通は和輝に宛てられた、兄からの手紙だった。
玄関先で封筒を破って、手紙の内容へ目を落とす。心配性で過保護気味の兄が、此方の生活を尋ねている。別に電話でも良いだろうと思うが、手紙には手紙の良さがある。生真面目な兄の、枠に収まるような角ばった文字を見て、和輝は知らずの内に口元を綻ばせた。
元気にしているか?
ちゃんと飯、食ってるか?
辛いことはないか?
苦しいことはないか?
メジャーリーグで活躍する兄に比べて、自分はきっと出涸らしだ。劣等感は無いけれど、比較対象にされるとぐうの音も出ない。世界を舞台に活躍する兄に比べたら、微温湯のような生活なのだろう。それでも、兄は昔と同じように此方ばかりを労わってくれる。
元気だよ。
辛いことも、苦しいこともあるけれど、それでも前を向いて生きているよ。
兄ちゃんは?
兄ちゃんは、元気?
随分と兄に会っていないような気がして、急に寂しくなる。世間が何を言ったって、和輝にとって兄は世界でたった一人だけだ。会いたいな、と無性に思う。
兄ちゃん、俺、友達が出来たよ。
ちょっと変わっているけど、すごく良い奴等だよ。
あいつ等が如何思っているか知らないけど、俺にとっては大切な友達なんだ。
もうすぐ期末試験なんだ。
勉強は苦手だけど、友達が面倒を見てくれるよ。
俺のことを何時も気に掛けてくれるんだ。
優しい友達なんだよ。
ねえ、兄ちゃん、聞いてくれる?
兄ちゃんの話も、聞かせてくれる?
話したいことが、沢山あるんだ。
会いたいよ。
手紙には、メジャーリーグのチケットが一枚同封されていた。飛行機のチケットまで入っているのだから、用意周到なものだ。世界中からの応援を背中に、世界で活躍する兄の姿が間近に見られるかも知れない。
こんな弟でも良いと言ってくれる兄が、照れ臭そうに笑う姿が瞼の裏に浮かび上がった。チケットを封筒へ戻し、和輝はぎゅっと握り締めた。其処から勇気が送られて来るような気がした。
ポケットに押し込んでいた携帯電話が震えた。和輝は知らず涙ぐんでいたことに気付いて、慌てて両目を袖で擦った。
小さなディスプレイには、翡翠の名前が表示されていた。和輝は慌ててタップし、耳へ押し当てる。
耳に飛び込んできたのは、ノイズのような雑音だった。少しの沈黙を挟んで、電話の向こうで声がした。
『Are you Mr.Hachiya?』
聞き覚えの無い、地を這うように低い男の声だった。
和輝は掌に力を籠める。翡翠の電話から、知らぬ誰かが自分へ電話を掛けて来ている。和輝は何も答えず、沈黙することで肯定した。
『Friends are entrusted.』
「What die request?」
通話機器の向こうで、乾いた笑い声がした。
お前の命と引き換えだよ。死刑宣告をするように、男が冷たい声で言った。和輝はそっと目を閉じる。何が起こっているのか解らないが、こんなところで死ぬつもりは毛頭無い。
今から言う場所へ来い。そうして告げられた場所を脳に刻み込み、和輝は時刻を思い出す。
通話は向こう側から一方的に切られた。和輝は携帯電話を呆然を見詰めていた。
手紙を持ってリビングへ戻ると、霖雨がいなかった。部屋に戻ったらしい。
霖雨宛の郵便物があったので、彼の部屋をノックする。ひょいと顔を覗かせた霖雨の表情がやけに強張って見えた。
気付かなかった振りをして、和輝は手紙を渡す。受け取った霖雨は、差出人を見て驚いたように目を丸めていた。
「ありがとう」
母国から届いた手紙だ。唯一の肉親である兄の手紙とは、まるで違う反応を見せるものだから、和輝は苦笑いを浮かべるしかない。
そのまま扉を閉じて、地図帳を開く。指定された場所は、空港近くの空き地だった。これから飛行機に乗ろうとしている自分の行動を見透かしているのかと不気味に思った。
その時、霖雨の部屋から大きな音がした。何かを落としたらしい。そのまま音沙汰無いので、和輝は心配になって地図帳を元の場所へ戻し、再び霖雨の部屋の扉を叩いた。返事を待たずに扉を開けると、床にしゃがみ込んだ霖雨と目が合った。
「大丈夫?」
霖雨は苦笑いをした。
「うっかり、抽斗を引き抜いてしまったんだ」
「怪我、しなかったか?」
霖雨の無事を確かめ、和輝は「気を付けろよ」と苦言を呈す。
和輝はそのまま扉を閉じた。部屋の片付けをするものと思っていたが、霖雨は放置してリビングへ戻って来た。
入れ違うようにして、自室へ戻る。昨晩の内に用意していたYシャツと薄手のジャケットに着替え、リュックサックを運び出す。一週間程の滞在を想定して、荷物は大きく膨れていた。ソファの隅へ置いて、時計を見上げる。午前十時半。ぐずぐずしている時間は無い。
置いたばかりのリュックサックを背負い、和輝は玄関へ向かって歩き出す。幾らか表情の和らいだ霖雨が、出掛ける気配を察して見送りに付いて来る。
「何処へ行くんだ?」
霖雨の問い掛けに、和輝は少し迷った。
嘘は、真実の中に紛れ込ませるものだという。振り返らずに、和輝はピカピカに磨いた革靴へ足を通した。
「ちょっと、ドイツまで」
「はあ?」
声を上げた霖雨はそのままに、靴を履いて具合を確かめてから、和輝は振り返った。
霖雨が慌てて問い掛ける。
「何をしに行くんだ?」
「試験を受けに行くんだ」
「何の試験だよ」
「期末試験?」
大層驚いたらしい霖雨は、二の句が継げずにいる。和輝は綺麗な笑みを浮かべて、何事も無かったように出て行こうとした。
お前の命と引き換えだよ。
男の声が、耳の奥に残っている。翡翠の笑顔が瞼の裏に焼き付いて、和輝は胸が軋むように痛んだ。
こんなところで死ぬつもりは毛頭無い。けれど、翡翠を死地へ送り出したのは自分だ。彼が消えたその時に、なりふり構わず捜索しなかった自分の責任だった。後悔ばかりが押し寄せて、和輝は息苦しくなる。
自分は、翡翠と、霖雨と葵を天秤に掛けたのだ。だけど、簡単に切り捨てられないから、こんなに苦しい。
扉を開けると、夏の厳しい日差しが照り付けていた。ぐらりと視界が歪むのを堪えて、和輝は足を踏み出す。
何に代えても、友達を助けなければならない。
夢を失い、失意の中にいた翡翠。必ず助けると、約束した。その為なら、どんな危険が待っていたとしても構わなかった。それが例え、命を危険に晒したとしても。
追及の言葉を失くした霖雨が、壁に凭れ掛かっていた。出て行く和輝を眩しそうに見詰め、何でも無いことみたいに言った。
「行ってらっしゃい」
他愛の無い、日常的な挨拶だ。和輝は両手を握り、声が震えないように腹に力を入れる。
和輝は振り返った。
「じゃあね」
果たせないかも知れない約束は出来ない。
霖雨が奇妙な顔をした。勘付かれたかも知れない。それでも、自分は彼等を巻き込めない。
和輝は黙って、扉を閉じた。
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