⑶暗躍

「時間って、楽しい時はあっという間なのに、嫌だと思っていると中々経たないのは何でだろう」



 左手でシャーペンを回しながら、和輝は言った。目の前の机には、うんざりする程の紙の束が置かれている。


 期末試験の対策に、和輝は葵を駆り出していた。葵も、うんざりした顔をしていたので、和輝は最早笑うことも出来ない。


 葵は、和輝の手元のちっとも進まないレポートを取り上げながら答えた。




「時間経過に対して向けられる注意の度合いだな。地道にやって置かないから、ギリギリになって焦ることになる。詰めが甘いんだよ」




 それは、正論過ぎて反論の余地も無い。


 耳が痛いと、和輝はシャーペンを右手に持ち替えて、再び回し始めた。




「夏休みの課題も、残り一週間で片付けるからね」

「それで間に合っていたのか?」

「友達が、いつも助けてくれた」




 答えると、葵が態とらしく肩を竦めた。




「今と何も変わっていないじゃないか。人は学習する生き物だ。怠惰は進化に対する反逆行為だぞ」




 頭が痛い。反論の言葉を考えるけれど、脳は訳の解らない数学の公式に埋め尽くされて、ついにぐうの音も出なかった。


 黙った和輝に、張り合いが無いと葵が欠伸をする。


 期末試験の為に、和輝は明日の午前中には出立する。欧州までの機内で、どのくらい勉強が捗るだろう。せめて、暗記以外は片付けて置きたい。


 今夜は、港の倉庫へ行かなくてはならない。何かの犯罪に巻き込まれている翡翠に付き添うのだ。このことは誰にも告げていない。霖雨も葵も、良い顔はしないだろう。


 一人で解決出来ると驕るつもりは毛頭無いけれど、彼等を巻き込みたくはなかった。


 休憩を提案すると、葵は「どうぞ」と何でもないみたいに言った。休憩も何も、和輝が勝手に彼の部屋へ押し掛けて、一方的に課題の解らない点を質問しているだけだ。


 後回しにして来たツケが回って来たのだ。


 和輝は渋々とシャーペンを握る。黙って読書に勤しんでいた葵が、ほんの少しだけ視線を上げた。




「お前って、右利き?」

「そうだよ。左でも書けるけどな」




 ほら、と言って英文を筆記体で書いて見せる。自分でも驚くくらいの悪筆だったので、これは見せるべきでは無かったかも知れないと後悔した。




「汚い字だな。自分で読めるのか?」

「多分」




 自分で書いた文章を睨んでいると、葵が溜息を零した。

 これは呆れられても仕方無い。母国にいた頃も、友達がよくこんな顔をしていたなあと感慨深い。


 そんなことを思った時、和輝は雷に打たれたように硬直した。


 葵が、自分のことを友達だと言った。


 多少、自意識過剰かも知れない。けれど、そういう意味合いのことを口にした筈だ。


 葵を見れば相変わらず呆れたような憐憫の目を向けている。それでも葵の評価が嬉しくて、和輝の掌に力が宿る。


 休憩は未だ先だ。もう少し頑張ろう。


 粗方、大雑把に言えば、試験範囲は終わった。理解したか如何かは別の問題だ。


 復習は機内で行うことにしよう。

 机に広げた紙の束を掻き集め始める。翡翠との約束の時間が迫っていた。










 14.ヒーローの消失

(3)暗躍








 買い物に行くのを忘れていたので、夕食はラーメンだった。


 まさか麺から手作りする技術がある筈も無く、仕送りの品であるインスタントラーメンを茹でていたら葵が眉間に皺を寄せていた。そのまま猛烈な嫌味が始まったが、予想していた上に、自分に非があるので和輝は黙っていた。霖雨だけが「偶にはこんな日も良いじゃないか」と微笑んでいた。


 呑みに行くと言ったら、葵が塵を見るような目をした。勉強を教えてもらっている身で、途中ですっぽかして遊びに行くのだから、どんな叱責も当然だった。


 呆れたように葵が放逐したので、和輝は足音を立てないようにと家を出た。霖雨に見付かると、何か言われることは解っている。


 死んだように静まり返る街を抜け、約束の場所を目指す。すっかり通い慣れてしまった目的地である港の倉庫は人気も無く、薄気味悪かった。


 停泊する船がいる筈も無く、利用者もいないこの場所が、如何して存在しているのかなんて和輝には解らない。アンダーグラウンドで生きる人間には必要な場所なのだろう。そうして納得することにした。


 倉庫の傍にある駐車場で、人影が一つあった。緑柱石の瞳を手元に落とし、面は携帯電話のブルーライトに照らされている。オレンジ色の外灯と重なりながらも、その顔色は死人のように青白かった。和輝は歩調を早め、翡翠の元へ向かう。


 翡翠は、和輝の姿を認めると何処か安心したように表情を綻ばせた。これから犯罪者と取引に応じるのだから、緊張も当然のことだった。彼を励ますつもりで、努めて明るく振舞う。




「全部終わったら、また1on1しよう。今度は俺が勝つ」

「止めろよ、死亡フラグだぞ」

「俺としては、ペップトークのつもりだったんだけど」




 和輝が言うと、翡翠も力無く笑った。


 遠く潮騒が聞こえている。碌な明かりも無いこの場所は、犯罪組織にとって都合の良い場所なのだろう。嘗て、自分もこの場所で犯罪に巻き込まれたことがある。和輝は倉庫の群れを見遣り、まるで墓石のようだと思った。


 薬は?


 和輝が問い掛けると、翡翠はポケットから梱包された錠剤を取り出した。


 喫茶店の机の裏に張り付けられていたという品だ。確かに、危ない雰囲気ではあるが、うっかり持ち帰ってしまうのも無理ないようだった。


 灰色の薄気味悪い錠剤だ。見覚えの無いそれに、言いようの無い不安を覚える。違法薬物といえば、何時か、霖雨が拉致された時に投与された。三日も掛からず常人を中毒者にする、従来とは段違いの依存性を持つ違法ドラッグ。犯罪組織御用達の品として、界隈ではその紛い物が出回っているらしい。


 何処で情報を仕入れているのか、葵が言っていた。これが、霖雨の投与された違法ドラッグ。けれど、回収に奔走する様を思うと、紛い物ではないのかも知れない。そんなことを思う。


 黙って薬を見詰めている和輝を不審に思ったのか、翡翠が頼りない声で呼び掛けた。意識は急浮上し、和輝はへらりと笑った。


 今日の取引は、この薬を返すだけだ。翡翠が口封じとして、何らかの犯罪に巻き込まれる恐れがある。それは警察に通報したところで変わりない。自分の役目は、彼の命を守ることだ。


 不安そうな翡翠を見て、和輝はポケットを探った。金属製の筒だ。突き付けると、翡翠は不思議そうに目を丸めた。




「これ、何?」

「発煙筒」

「何で?」




 和輝は肩を竦めた。




「助けて欲しい時は、これで助けを呼べよ。そうしたら、必ず俺が助けてやるから」

「ペップトークを意識しているなら、ネガティブな状況を想像するような台詞を言うなよな」

「ああ、そっか。じゃあ、」




 和輝は咳払いを一つしてから、宣言した。




「これは、希望の狼煙だ。この狼煙が上がる時、お前は希望を掴んでいる。何故なら、俺が何に代えても救ってみせるからだ」




 如何かな。

 和輝が悪戯っぽく言うと、翡翠も表情を崩した。




「及第点かな」




 赤点で追試常連の自分にとっては、十分だ。


 辛気臭い翡翠の背中を力強く叩き、和輝は彼を送り出した。


 闇の中を進んで行く翡翠の姿を見詰めながら、自分も後を追う。取引現場に彼だけを送り出す訳にはいかない。薬を渡した直後に発砲されるなんてことも、有り得ない訳じゃない。


 放置されたコンテナの影に身を潜め、和輝は翡翠の動向を見守る。何かが起こった時、すぐに駆け付けられるように臨戦態勢は決して解かない。


 翡翠が約束の場所に到達すると、闇の向こうから二つの影が現れた。顔は見えないが、体格の良い男だった。長身の翡翠がモヤシに見える程、筋肉質な二人組だ。肉弾戦になったら、自分も翡翠も適わないだろう。


 一瞬の隙も見逃さないつもりで両足に力を入れる。二人組が何かを言っているが、潮騒に掻き消されて聞こえない。薬を要求しているのか、一人の男が掌を翳す。武器を向ける素振りは無いけれど、丸腰である筈も無い。


 翡翠が慎重に距離を縮める。大きな掌に、薬を載せる――その時、和輝は背後からの強襲によって地面へ縫い付けられた。


 暗闇の中、獣のような息遣いが聞こえる。物凄い力で押さえ付けられ、和輝は身動きが出来なかった。手首は頭の上で固定され、口元は覆い隠される。獲物を前にした猛獣のように、ギラギラした両目が和輝を映していた。


 慣れた手付きで、男は縫い付けた両手首をロープで固定した。そのまま、何かの布が口に押し込まれる。叫び声は布へ吸い込まれ、くぐもった呻き声だけが微かに漏れた。


 この目を、知っている。


 和輝の背筋に、冷たい何かが走った。暗闇の中で、恍惚に自分を見ていた男を知っている。嘗ての同僚John=smithの姿が克明に蘇る。自分を性的対象と見做し、数多の未成年を手に掛けた猟奇殺人犯。彼と、同じ目をしている。


 何かが、胸の底から湧き上がる。それは気道を逆流し、口から零れそうになる。叫びたい衝動は、詰め込まれた布によって阻まれた。闇の中にいるというのに、視界は激しく明暗して意識を保っていられない。


 拍動が、潮騒が、男の息遣いが聴覚を侵して行く。和輝は両手を握り締めた。


 誰か、誰か、――。


 自分が何を叫ぼうとしているのか、解らない。コンテナの向こう、翡翠は銃を突き付けられているかも知れない。視界は点滅し、聴覚は麻痺している。外界を知る術の無いまま、和輝は必死に抵抗した。明らかな体格差はびくともしない。


 こんな時こそ、強く思う。大きな身体が欲しい。力強い腕が欲しい。逞しい足が欲しい。せめて、自分の身くらい、守れるようになりたい。


 男の太い指が、和輝のベルトを性急に外そうとする。金具がかちゃかちゃと耳障りな音を立てる。チャックが下ろされ、冷えた夜風が太腿を撫でる。もう、駄目だ。



 がつん。

 骨を打ち付けるような、鈍い音がした。


 興奮に染まっていた男の両目は何処か遠くへ弾き飛ばされ、和輝は圧し掛かる強大な重力から解放された。


 生理的な嫌悪からか、和輝の両目は熱を帯びていた。潤む視界の奥、陽炎のように空気が歪む。




「何してんだよ、馬鹿」




 心底呆れたみたいに、葵が言った。


 振り上げた左足を下ろし、葵は和輝の傍にしゃがみ込む。手首を拘束していたロープを解き、背中に手を添えて身体を起こさせる。和輝は口に詰め込まれた布を吐き出した。


 悲鳴も嗚咽も吸い込んだ布は、唾液でぐっしょりと湿っていた。和輝はロープの痕の残る手首を摩りながら、苛立った調子の葵へ問い掛ける。




「何で、此処にいるの」

「暇だったからね。――嘘の一つも吐けなくなった馬鹿の顔を、拝んでやろうと思っただけだ」




 口調も態度も素っ気無いけれど、自分を心配して来てくれたのだ。和輝は目を伏せた。


 霖雨ばかりを注視していた。葵は他人に興味が無いと思っていたけれど、その認識は間違っていたらしい。嘘で躱すならば、二人一緒でなければ駄目だ。


 それでも、助けられたことは事実なので、和輝は素直に礼をする。




「ありがとう」

「別に」




 本当に、何とも思っていないような乾いた声だった。和輝は苦笑する。乱れた衣服を整えながら、ゆっくりと立ち上がった。――そして、自分が何故此処にいるのかを唐突に思い出した。


 アスファルトの上で昏倒している男はそのままに、和輝はコンテナの影から飛び出す。薬の遣り取りをしていた彼等の姿は、もう何処にも無かった。


 取引は終わったのだろうか。それとも、何かが起こったのだろうか。


 和輝には解らない。嫌な汗が掌に滲む。心臓が激しく拍動する。背後から、葵が不審そうに問い掛けた。




「何かあったのか?」




 葵は、和輝が此処に来た理由を知らない。


 知らないのならば、そのままで良い。知らせる必要も無い。助けられた手前、心苦しいけれど、巻き込むことは本望じゃない。


 和輝は振り向いて、表情を繕った。




「――親玉を、逃しちまった」




 言うと、葵は納得したようだった。そして、昏倒している男を顎でしゃくる。




「そいつに吐かせれば良い」




 そうだね。そうしよう。

 和輝は、拳を握ったまま、笑って答えた。



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