⑵賽の河原で手を伸ばす

 褪せたアスファルトの上、バスケットボールが野兎のように跳ねる。ボールは衝立の如く立ち塞ぐ男達の間を掻い潜り、小さな掌に吸い込まれた。


 掴むことの出来ないそれをアスファルトへ打ち付け、和輝は顔を上げた。

 305cmの高さにあるゴールリングは天を衝くように、その腕を広げている。和輝は膝の力を抜いて照準を合わせた。


 男の罵声が追い掛ける。左手を添え、右手はボールを発射した。大きく弧を描き、ボールが宙に浮かぶ。

 リバウンドに備えるプレイヤーの中、ボールはリングへ導かれた。


 小気味好い音が、夏の空に響き渡る。

 唖然と口を開けた男達、一瞬の沈黙。そして、華やかな歓声がどっと押し寄せた。


 ゴール。

 和輝は拳を掲げた。間抜け面の男達は、嘆息混じりに拍手を送る。それまで界隈の注目を一身に受けていたボールは、コートの外に転がされ、既に関心を失ってしまっている。

 視線の先は、一際小さなプレイヤーだった。


 惜しみない拍手の中で、和輝は一人、ボールを追い掛ける。通り過がりの他人は観客となり、その一部始終を見守っていたらしかった。


 勝負は決したのだ。

 和輝は額に浮かぶ汗を拭った。転がったボールを拾い上げようと手を伸ばした時、それは第三者によって阻まれた。


 烏のような漆黒の髪、小麦色の肌、宝石のような翠色の瞳の青年が立っていた。

 翡翠だ。

 Yシャツを着崩した翡翠は、挑発するようにボールを指先で回していた。


 アルバイトを定時で上がった後、和輝は駅近くにあるバスケットボールコートで時間を潰していた。

 所謂ストリートバスケは、定職を持たないティーンエイジャーに人気がある。

 和輝も手軽なスポーツとして、度々楽しむことがある。身体能力の差なのか、認知度の問題なのか、この国のバスケットボールはレベルが高い。


 自分よりもずっと大きなプレイヤーは立っているだけで威圧感がある。ゴールは遥か天空にあり、体格差は顕著だ。けれど、そんな彼等の隙間を抜けてゴールを決める高揚感は何にも代え難く、和輝はあっという間に夢中になっていた。


 翡翠が、それをアスファルトに打ち付ける。和輝は身構えた。

 等間隔にボールは地面を跳ねる。不気味な沈黙が膜のように降りて来て、緊張感が満ちて行くのが解った。和輝はボールをじっと見詰める。永遠にも似た沈黙、永い冷戦だった。――そして、それが来るならば、一瞬だ。


 茹だるような熱気を吸い込んだ刹那、翡翠は猛獣が獲物に飛び掛かるように勢いよく駆け出した。


 ほんの一瞬きだ。オレンジ色を目の端に捉え、和輝は手を伸ばした。爪先がボールを引っ掻く。それで止まる筈も無い。ゴールへ向かって駆ける翡翠を全力で追い掛け、立ち塞ぐように正面へ回り込んだ。


 翡翠が、驚いたように目を丸めて笑った。和輝も口角を釣り上げる。


 体重移動。翡翠の僅かな予備動作を見付け、和輝はボールへ手を伸ばす。指先が届く寸前、それは嘲笑うようにして躱された。


 一歩後退った翡翠が、シュートモーションに入る。それが放たれる瞬間、和輝は地面を蹴った。


 高く、まるで花火のような高弾道でボールは放たれた。和輝の手は届かない。

 触れることも無く、ボールはゴールリングへ飛び込んだ。


 わっと歓声が溢れ出て、和輝は深呼吸と共に膝へ手を突いた。ほんの僅かな運動のように思うのに、すっかり息が切れてしまっている。対する翡翠の頬にも汗の滴が光っていた。現実と体感時間は同調していないようだった。


 惜しみない拍手を送る観客へ、翡翠が応えるように愛想良く笑顔を見せる。和輝は呼吸を整えて、声を上げた。




「もう一回!」




 びりびりと空気が震えた。翡翠は綺麗な緑柱石の瞳を瞬かせて、悪戯っぽく笑った。




「嫌だよ、まだ仕事中だし」




 如何やら、翡翠はアルバイトの休憩中に遣って来たらしい。


 自分が定時で上がれたことを考え、今日はそれ程、客足も伸びていないようだった。太陽は傾き、風は冷えて夜の匂いを連れている。もうじき、日が暮れる。

 和輝は額の汗を袖で拭った。


 腹の底から苛立ちが上って来て、如何にも落ち着かない。悔しい。


 あとほんの数cmだった。第一関節が一つ分多ければ、届いたかも知れない。そんなことを思うけれど、関節が増えたら、それは事件だ。


 日陰のアスファルトへしゃがみ込み、和輝は噛み締めるように零した。




「ちくしょう」




 歯噛みする和輝を、翡翠は見下ろして笑っていた。無邪気で何処か幼い笑顔だった。


 もう一勝負は無いと悟ると、観客は散って、他のプレイヤー達がコートを支配し始めた。和輝は邪魔にならぬように端に避ける。翡翠も傍に来て、緑色のフェンスへ寄り掛かった。


 少年達は夢中でバスケットボールを追い掛けている。和輝はぼんやりと眺めながら、翡翠へ問い掛けた。




「バスケ、遣ってたのか?」

「何で?」

「何となく」




 答えると、翡翠は息を漏らすようにして笑った。和輝は顔を上げず、相変わらず他人の試合を眺めている。

 フェンスが軋んだ音を立てる。隣で翡翠は、視線を合わせるようにしてしゃがみ込んでいた。




「向こうにいた時、バスケ遣ってたんだ」




 何でも無いことのように思うけれど、翡翠の声は何処か固かった。それは彼のデリケートな部分なのだろう。和輝は適当な相槌を打って、追及はしなかった。

 けれど、和輝が黙ると翡翠が続けた。




「物心付いた時から、ずっとバスケ遣ってたんだ。小学校も、中学校も、高校もずーっとバスケ。碌に勉強なんてしなかったし、必要も無いと信じてた。卒業文集には必ず将来の夢はバスケットボールプレイヤーって書いてたよ」

「――何で、辞めたの?」




 なるべく、感情は載せずに和輝は問い掛けた。翡翠は乾いた声で言った。




「膝、壊しちゃったんだよ」




 ぽんぽん、と右膝を叩いて翡翠は笑ったようだった。和輝は何も返さなかった。


 身体部位の故障ならば、和輝も同じだった。学生時代に、右肩と肘を複雑骨折し、再起不能と診断されていた。それまで当たり前にあったものが突然奪われる理不尽ならば、和輝も知っている。

 翡翠は追及しない和輝に、力無く言った。




「和輝は優しいね」

「何で?」

「根掘り葉掘り、訊かないし」

「それは、お前が自意識過剰なだけだろ」




 本人が思う以上に、他人は興味を持っていない。そんなことを嘯く。

 翡翠が言った。




「バスケが楽しくて、好きだった。高校じゃ満足出来なくて、バスケの為に渡米したんだ。毎日毎日夢中だった。気付いたら、左膝を疲労骨折して、知らない内に庇っていたみたいで変な癖が付いて、右膝がおかしくなっちまったんだよ」

「もう、治らないの?」

「うん。もう、治らないって」




 ふうん。和輝は頷いて、問い掛けた。




「俺は選ばれた人間だと思っていた。お前みたいにね」

「うーん」




 メジャーリーグで活躍する兄を持つ弟としては、自分は出涸らしではないかと思う。

 卑屈っぽく思っていると、翡翠は皮肉っぽく嗤う。




「世界は冷たいな」

「そうかなあ」




 和輝が顔を上げると、緑色の瞳と交差した。

 澄んだ湖畔のように反射する瞳をじっと見詰め、自分へ言い聞かせるようにして和輝は強く思う。

 世界が残酷だなんて、始めから解っていたことだ。それでも、救いは必ずある。本当の絶望が無いように、希望が失われることは無い。それを信じたいし、証明したいと切に思う。


 フェンスの向こう、微かにバイクのエンジンの息遣いが聞こえた。霖雨が迎えに来たのだろう。

 和輝が立ち上がると、同じく翡翠も腰を上げた。

 そのまま翡翠は背中を向けて手を振って行ってしまったので、和輝は掛ける言葉を失ったままだった。










 14.ヒーローの消失

(2)賽の河原で手を伸ばす









 琥珀色の液体がグラスを満たしている。

 見事な球体を描く氷は、オレンジ色の室内灯を反射して静かに揺れていた。

 グラスの表面に張り付いて水滴は、つるりとカウンターへ落下した。声を上げる間も無い。和輝はそれを、何処か遠い世界のようにぼんやりと見ていた。


 時刻は既に午後10時を回っている。バイト上がりの翡翠を持たず、和輝は迎えに来た霖雨と共に帰宅した。必要最低限の買い物だけ済ませ、夕食を作る。遅くに起きて来た葵を捕まえて、3人で夕食を済ませた。食後のコーヒーを用意している頃に、翡翠からの連絡が入った。

 仕方が無いと嘆息を漏らして家を出ようとした和輝に、霖雨はまた「迎えに行く」と言った。断れば追及されそうな気迫だったので、和輝は笑顔でそれを受け入れた。


 バイト上がりの翡翠は、白いシンプルなシャツに、脛の見えるサルエルパンツを履いていた。黒いハットの影から此方を品定めするようにじっと見詰めた後、隣の席へ促した。


 他愛の無い世間話ばかりが、ディープな印象を漂わす店内の空気を上滑りしている。

 ころころと表情を変え、途切れる事無く話題を提供する翡翠はアルコールの為か、ほんのりと頬を紅潮させていた。穏やかに細められる緑柱玉の瞳が、張り詰めた糸のような緊張感を放っているような気がした。

 本題は何だろう。翡翠の話に相槌を打ちながら、携帯電話で時刻を確認する。余り遅くなると、心配した霖雨が此処へやって来てしまう。彼はトラブルに巻き込まれ易いのに、対抗手段を持たない。襲い来る脅威に対して無力なのだ。彼を巻き込む訳にはいかない。


 心此処に在らずといった調子の和輝を見抜いたのか、翡翠は突然話題を変えた。




「仲が良いんだね?」

「そうだね。優しい奴だから」




 だから、人を拒めない。

 霖雨は人を信じることが出来る。何の確証も無く、危険と解っていても、その身を呈して助けに来る。

 自分は如何だろう。人の嘘が覗けてしまう自分は、本当の意味で信じる事が出来ているのだろうか。何か行動を起こす時には、先に起こる事態を想定している。狡猾な計算だ。なんて、醜い。


 それきり黙った和輝に、翡翠がそっと言った。




「お前も優しいよ」




 夕方にも聞いた言葉だ。和輝は、否定の言葉を呑み込んだ。

 そんなこと無い。ーーでも、そうなれたら、良いな。

 強い人なりたいな。どんな逆境でも揺らがず前だけを見据えて、人に優しい人になりたいな。なれるかな。なれたら、良いな。


 和輝は答えず、曖昧に微笑んだ。

 翡翠が少し奇妙な顔をしたけれど、構わず本題を切り出した。




「要件は何だい? ゆっくり呑むのも嫌いじゃないけど、今は期末試験が控えているんだ。あんまり遅い時間になると、家庭教師が臍を曲げてしまう」




 冗談ぽく言えば、翡翠は困ったように少しだけ眉を寄せた。そのままウイスキーのロックを一気に飲み干して、グラスをカウンターへ叩き付けた。

 バーテンダーが訝しげな視線を送ったけれど、翡翠は気が付かなかったようだった。


 翡翠がソルティドッグを注文するので、和輝はシャンディガフを頼む。

 注文を受けたバーテンダーは背中を向け、ドリンクの用意に取り掛かった。翡翠はポケットから何かを取り出した。


 掌程のビニール袋だった。灰色の何かの錠剤が二つ転がっている。

 情報の無い和輝は、黙って説明を待っているしかない。

 翡翠が言った。




「バイト中、喫茶店で見付けたんだ。奥のボックス席のテーブルの裏に貼り付けられていた」

「警察に届けろよ」

「そのつもりだったんだけど、忙しくて忘れてしまったんだ」




 心底困ったみたいに翡翠が項垂れる。和輝としても責める権利は無いので、黙って話の先を促した。

 翡翠は弱った声で言った。




「電話が来たんだ」




 ぽつりと、そのまま消えてしまいそうな声だった。




「あの日、あの場所が取引の場所だったらしい。俺が見付けて持って帰ったのも何処かで見ていたらしくて、薬を持って港の倉庫まで来いって、知らない男から電話が掛かって来た」

「……それで?」

「時間と場所を指定されて……、それが明日の夜なんだ」




 大きな溜息を零して、翡翠はソルティドッグを煽った。

 半分程一気に飲み干し、翡翠は再び項垂れた。和輝は答えた。




「懇意にしているFBI捜査官がいるから、紹介するよ」

「駄目だ。警察に行ったら殺すって念を押されてる」




 和輝は腕を組んで唸る。

 このまま翡翠を送り出して良いのだろうか。そんなことを思う。

 意図せず犯罪に巻き込まれた彼は、自分の相似形だ。有り得た未来の一つだった。逆の立場だったとして、自分ならば如何するだろう。

 和輝は逡巡し、答えた。




「巻き込まれてやるよ」




 翡翠が、がばりと顔を上げた。信じられないものを見るみたいに、充血した目を見開いている。

 和輝は大きく息を吐き出した。




「乗り掛かった船だしな。その取引、俺も付いて行ってやる。危なくなったら、助けてやる。だから、ーーそんな顔をするな」




 自分よりも大きな翡翠の頭を掻き混ぜて、和輝は笑ってみせた。

 このまま翡翠を放って置くことは出来ない。自分の知らないところで友達が傷付くくらいなら、一緒に困難を乗り越えた方が良い。


 翡翠はグラスの水滴をじっと見詰め、何かを振り切るように頭を振った。




「お前だって、危ないんだぞ」

「一人よりは、二人だろう。大丈夫、きっと何とかなるさ」




 その薬が何かなんて知らない。相手が何者なのかなんて解らない。それでも、放って置けない。

 何でもかんでも救えると思うなよ、と葵は忠告していた。そんなことは、和輝だって解っている。


 それでも、目の前の一つは救えると信じたいじゃないか。


 胸の中で反論し、和輝はグラスに手を付けた。シャンディガフの泡は殆ど消え失せている。少し温くなったそれを口に含むと、炭酸が弾けて、ジンジャーの香りが広がった。


 カウンターに残された円形の水滴へ這わすように戻せば、翡翠が捨て犬みたいな目を向けていた。

 お前しかいないんだと、その目が訴え掛ける。




「明日、俺もその場所へ行く。何かあったら呼んでくれ」

「和輝……」




 見る内に、翡翠の瞳に水の膜が張って行く。それが溢れないようにと、和輝はその肩を叩いた。



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