14.ヒーローの消失

⑴翡翠

 That despair is the sickness unto death.

(絶望とは、死に至る病である)


 Søren Aabye Kierkegaard












 赤と青に彩られた封筒が二通届いていた。

 母国の匂いを連れたそれに郷愁を抱き、和輝は無意識に頬を綻ばせた。宛先はこの住居だが、届け先が同居人だったので、少しだけ落胆する。


 常盤春馬ときわ はるまと、記されていた。恐らく、母国残して来たという霖雨の双子の兄だろう。

 もう一通は、知らぬ名前だった。万年筆の文字はお手本のように美しい。差出人は知らぬ名前の女性だった。宛先が自分だったので、僅かに不安を覚えた。わざわざ異国にいる自分へエアメールを寄越す見知らぬ女性に、容易く喜べるような素直さは、とうの昔に捨てて来てしまった。


 静かに心臓が騒ぎ出す。和輝は封筒を破った。

 何の変哲も無い大量生産されただろう便箋に、印刷されたような血の気の通わない文字が羅列されている。屋外だということも忘れて、和輝は文章の解読に没頭した。


 読み終えた和輝は、雲ひとつ無い空を仰いだ。

 雨の気配は無い。影送りのように、友人の顔が浮かんだ。顳顬を殴られたような鈍痛が襲い、平衡感覚が揺さぶられる。据え付けられたポストに身を預け、頭痛が去るのをじっと待っていた。


 幾つかのダイレクトメールと、霖雨宛ての封書を持って家へ戻った。

 リビングでは、テレビが虚しく騒いでいる。ソファでは、霖雨がぼんやりと座っていた。正面へ回り込むと、視線を動かした霖雨がそっと笑みを浮かべた。




「何か届いていたかい?」



 紙束を持って戻った和輝は、一番上に載せていた封書を手渡した。

 受け取った霖雨は、差出人を見て眉を跳ねさせた。母国からの便りに、霖雨が奇妙な顔をした。和輝は尋ねるべきか逡巡し、結局、口を噤んだ。何も言わないのなら、追及するべきではない。

 そのまま朝食の用意をする為にキッチンへ向かう。踵を返すと、背中に霖雨の声が聞こえた。




「ペーパーナイフを持っていないか?」




 先程の奇妙な顔は、物の所在を尋ねる為だったのだろうか。

 和輝は、口にはせずに首を振る。半身で振り返ると、封書へ目を落とす霖雨の姿が見えた。




「持っていないよ。破きたくないなら、冷凍庫に入れると良い。急ぐなら、アイロンのスチームを当てても良い」

「いや、其処までしなくて良いんだけど」




 困ったように、霖雨が笑った。




「家族からの手紙なんだ」

「そっか。良かったね」




 頷いた霖雨が、微笑む。ーー嘘だ。和輝は脳内でそれを否定する。

 純粋な歓喜ではない。これまで培って来た第六感が、それを告げる。

 けれど、嘘を見抜いたところで、和輝に指摘する権利は無い。何時もそうだ。嘘だと解っていても、怖くてその意味を問い掛けることが出来ない。

 曖昧に濁して、和輝は再度キッチンへ向かった。


 冷蔵庫には、昨夜の残り物のポテトサラダが入っていた。

 ミキサーに掛けて、スープにしよう。ミキサーの押し込まれている棚へ手を伸ばし掛けて、和輝は動きを止める。物理的な距離が届かなかったのだ。

 ちっぽけなプライドで、背伸びをする振りをして誤魔化す。カウンターの向こうの霖雨と目が合った。




「取ってやろうか?」




 霖雨が悪戯っぽく笑っていた。和輝は即答した。




「大丈夫」




 キッチンの隅へ追い遣られていた踏み台を引き摺り出す。霖雨が声を殺して笑っているので、和輝は舌打ちを零したくなった。


 和輝の身長は160cmで、二十歳を超えてから伸びる気配を失っていた。170cmを超えている霖雨や葵には、この苦悩が解らないだろう。葵は常々、この踏み台を邪険にしているくらいだった。


 棚からミキサーを取り出す。真新しい電化製品は、碌に料理をしない癖に葵が買い込んだものだ。

 朝食はスープとトースト、冷凍していたウインナーがあるので、焼いておこう。

 リビングで、霖雨が言った。




「味噌汁が飲みたいな。なめこの味噌汁」




 和輝は少し考えて、ミキサーを棚へ戻した。

 霖雨のリクエストは珍しい。これが葵ならば、無視しても良かった。

 ミキサーを戻す様子を見ていたらしい霖雨が口元を綻ばせた。




「ありがとう」

「良いよ、このくらい」




 それで霖雨が笑ってくれるなら、お安い御用だ。

 味噌汁ならば、朝食は和食だろう。ポテトサラダはコロッケにして、弁当にでも入れて処分しよう。

 そんなことを考えながら、和輝は冷蔵庫を覗いた。










 14.ヒーローの消失

 ⑴翡翠










 今日は朝からアルバイトだ。

 バイト先の喫茶店まで、和輝は徒歩で向かう。駅一つ分くらいあるけれど、大した距離じゃない。

 着替えを済ませ、時間があったので水を付けて寝癖を直して置く。洗面台で鏡を見ていると、背後に気配があった。

 幽霊みたいに、葵が立っていた。




「明日は雨かな」

「何でだよ」

「猫を洗うと雨になると言うじゃないか」

「誰が猫だ」




 葵を押し退けて、和輝は洗面所を出た。

 壁掛けの時計を見上げると、出勤時刻が迫っていた。気分転換に寄り道をしたかったけれど、其処までの余裕は無い。


 ソファへ投げ出していたキャップを掴み、軽く被る。今日も日差しが強い。熱中症対策のつもりだったが、髪の毛がぺたんこになったので、先程の手間は何だったのかと虚しく思った。


 まだソファに座っていた霖雨が、何か悪戯を思い付いたみたいな顔をした。




「送ってやるよ」




 これは何か、裏があるな。

 霖雨がそんな顔をしていたけれど、和輝は頷いた。




「ありがとう」




 告げると、霖雨が満足そうに笑った。

 一度部屋に戻った霖雨が、ヘルメットを抱えて出て来た。軽く投げ渡されたそれを受け取り、和輝は玄関へ向かう。


 予想した通り、外は厳しい日差しが降り注いでいた。

 眩しさに目を細める。バイクを押して来た霖雨が声を掛けたので、和輝はキャップを脱いでヘルメットを被った。


 エンジンが鼓動のように唸る。

 滑らかなシルバーボディが日光を反射していた。

 霖雨の後ろに跨ると、バイクは道路へと滑り出した。


 頬を風が撫でる。周りの景色が勢い良く後方へ飛んで行く。和輝は霖雨の腰に抱き付きながら、流れる景色を見ていた。


 バイクが信号で停まると、霖雨が背中を向けたまま言った。




「葵の過去を知っているかい」




 それは疑問の形ではなかった。否定を許さない強さを滲ませていたので、和輝は答えた。




「知っているよ」




 答えると同時に信号が変わり、会話は一時途切れた。

 再びバイクは走り出した。その間、会話は無かった。和輝は続いただろう言葉の先を予測し、答えを考える。

 バイクはそのままバイト先まで停まらなかった。見慣れた喫茶店へ到着したので、和輝はバイクを飛び降りる。

 振り向くと、バイクに跨ったままの霖雨がエンジンを止めていた。

 ヘルメットを脱ぐと、霖雨の綺麗な面が晒される。

 霖雨は線の細い綺麗な顔をしている。和輝はヘルメットを脱ぎ、押し付けるようにして、霖雨へ預けた。

 受け取った霖雨に表情は無かった。




「葵のこと、教えて欲しい」

「何で、俺に訊くの? 他人の過去を詮索するなんて、下世話な人間のすることだよ」




 言えば、霖雨は困ったように眉を寄せた。




「俺は、お前等みたいな情報通の友達を持っていないからね」




 嘘だ。和輝は直感する。

 霖雨には、多分、情報を得る術がある。それでも此処で訊くのは、和輝の口から何かを聞き出したいからだ。




「脛に傷の無い人間なんていない」

「嫌なんだよ」




 間髪入れず、綺麗な顔を歪ませて、霖雨が絞り出すように言った。




「もう、嫌なんだよ。俺だけ蚊帳の外にいるのは」

「俺だって、霖雨を巻き込むことは本望じゃない」

「だから、遠ざけるのか? それで良いの?」




 畳み掛けるような霖雨の詰問に、和輝はさらりと答えた。




「解らないよ」




 それは嘘偽りの無い、本心だった。




「正解か不正解かは解らないよ。でも、それで良いと思ってる」

「如何して?」

「黙っているなら、それが答えだ」




 人は、信じたいものしか信じない。

 確証バイアスだ。和輝は全てを煙に巻くつもりで、うっとりと微笑んでみせた。




「送ってくれて、ありがとう。帰りは夕飯の買い物をして行くよ」

「じゃあ、迎えに行くよ」




 さらりと霖雨が言ったので、和輝はぱちりと瞠目する。

 此方を真っ直ぐに射抜く霖雨の強い視線とぶつかった。口を破るまで譲らないという、揺るぎない意志が滲んでいた。


 このまま受け流すことも一つの手段だ。

 けれど、ーー和輝はこういう目が好きだ。

 挑発に容易く乗るような神経はしていない。だから、これは和輝の好みの問題だ。絆されているとも言う。




「待っているよ」





 答えると、霖雨が嬉しそうに頷いた。


 ヘルメットを被って、バイクを唸らせる。街の雑踏に消える霖雨を、和輝は最後まで見送った。

 喫茶店の扉を潜ると、風鈴の涼やかな音がした。カウンターの店主は、和輝の存在を認めると風鈴のような静かな声で挨拶をした。

 その奥から、一人の青年が現れる。

 烏みたいな真っ黒の髪と、健康的に日焼けしたバイト仲間だった。





「おはよう、和輝」




 眠そうな眼は、緑柱石のようだった。

 彼は同じ国の出身で、同い年の友達だった。和輝は彼の名を呼んだ。




「翡翠」




 翡翠は、大欠伸を嚙み殺して微笑んだ。

 翡翠はこの辺りに住んでいる大学生で、高校卒業と共に留学したらしい。物理学を専攻しているそうだが、まともに通学していない和輝は、彼と学校の話をしたことが無い。


 元々はサーフィン仲間だった。バイト先を探しているという相談を受けて、店長に掛け合ったところ、この場所を紹介することとなったのだ。


 朝には弱いが、遅刻も欠勤もしない翡翠は真面目なアルバイト仲間となった。器用貧乏だと宣うだけあって、要領良く何でも熟している。


 大抵は逆のシフトに入ることが多い。和輝が朝型の生活なので、翡翠は必然的に昼頃からの出勤だ。

 時計は午前9時を指し示している。まだ午前だから、翡翠が此処にいるのは不可解だ。


 自分が時間を間違えたのだろうか。和輝は記憶を探る。

 側から見ていた店長が、囁くように言った。




「翡翠は昨日から泊まっていたんだよ」

「なんだ」




 いや、何で、と尋ねるべきだった。和輝はすぐに思った。

 如何して、アルバイト先で寝泊まりしているのだろう。

 和輝の沈黙を見て、翡翠が弁解するように答えた。




「ちょっと、込み入った事情があってね」

「どうせ、一々出勤するのが面倒だったんだろう」




 和輝が言うと、翡翠はわざとらしく肩を竦めた。

 元来、物臭な性格だ。普段から携帯ゲームに熱中して、約束の時間に遅刻するような奴だった。とは言え、和輝も大概遅刻魔なので、二人で待ち合わせすると15分程約束が後ろにずれてしまう。

 霖雨は約束の5分前には待っているので、何時も頭の下がる思いだ。


 バックヤードに下がり、制服に着替える。

 アイロンを掛けた白いYシャツに黒いスラックス、黒い前掛けを装着して和輝は姿見の前に立った。


 鏡を見ることが嫌いだ。自意識過剰な人間は馬鹿らしいと思うし、自分が仲間入りするのも御免だった。そして、何より、和輝は自分のことが嫌いだった。


 鏡を見る度に思う。

 伸びない背も、中性的な顔立ちも、変声し切らぬ高い声も、小さな掌も、細い腕も、ーー自分の無力さを思い知らしめる。


 不可能を幾つも抱え、大切なものを幾つも取り零し、助けを求める声を聞き逃して来た。


 自分が嫌いだ。


 バックヤードの扉が軋んで、朝日が溢れ落ちる。

 寝惚け眼の翡翠が鏡に映り込んで、此方を見て微笑んだ。





「よう、色男」




 その軽口に意味は無い。それでも、翡翠が受容するように微笑むので、和輝は泣きたくなる。

 卑小で、卑屈で、無力な自分が嫌いだ。このまま空気に溶けてしまえばいいのに。


 翡翠は馴れ馴れしく肩へ腕を回して、それでいいじゃないかと受け入れる。

 甘美な誘いだ。これでいいのかも知れない。諦めて受け入れるしかないんだよ。けれど、和輝は突っ撥ねるようにして腕を外した。


 店内は閑散としている。ボックス席にカップルが収まって、互い以外は存在しないようにうっとりと見つめ合っていた。

 男が手を上げて呼び掛けたので、和輝は掌にメモ帳を収めて向かった。


 ブレンドコーヒーが二つ。

 相変わらず語学に疎いので、メモは母国の言葉で埋め尽くされている。

 注文を受け、カウンターの向こうでグラスを磨いている店主へ声を上げる。髭を蓄えた店主は微かに首を上下させ、コーヒーを入れる為に動き出した。


 追加の注文で、女がチーズケーキを頼んだ。

 これは和輝の手作りの品だ。昨晩作って冷蔵庫に寝かして置いたものだった。

 コーヒーが完成するタイミングに合わせて切り分け、ブルーベリーのソースを掛ける。ミントの葉を添え、シルバーを整えていると店主から声が掛かった。


 注文の品を届けると、女は此方を見て口元に笑みを浮かべた。男が面白く無さそうに口を尖らせる。

 席から離れそうとする刹那、男の足が通路へ伸びた。足元に突き出された長い足を躱すと、男は舌打ちを零した。嫌味のつもりで微笑みを返すと、男はすぐに目を背けた。

 そして、ボックス席は再び二人だけの世界になった。


 コーヒーとケーキを運んだトレイを持って戻ると、カウンター席には翡翠が座っていた。机にはアメリカンコーヒーが行儀良く置かれている。


 此方を見て、翡翠はにやにやと締まりの無い顔をした。

 彼が何処までの遣り取りを見ていたのかは知らないが、追及する必要も無い。

 トレイを指定の場所へ戻し、和輝は調理台の前に立った。


 デザート類の調理は、和輝の仕事だった。それまで、この店にはデザート類はアイスクリームくらいしか無かったらしい。


 ボウルを取り出し、薄力粉を振るって置く。

 柔らかな薄力粉はそのままに、別のボウルへバターを入れる。ゴムベラでクリーム状に練り込み、溶き卵と砂糖を投入する。其処へ薄力粉をさっくりと混ぜ合わせ、一纏めにして冷蔵庫へ仕舞い込む。

 冷蔵庫の中には、昨晩寝かして置いた生地が冷え固まっていた。


 生地を取り出して綿棒で伸ばしていると、背中に視線を感じた。ふと目を向けると、翡翠が此方を見ていた。




「手慣れているねえ」

「そうかな」

「計量すらしないんだから」




 調理台の隅に、忘れ去られた秤が置かれている。

 そういえば、そんなものもあったな。和輝はぼんやりと思った。


 和輝は秤を使わない。以前、葵に、コーヒーの味にばらつきがあると指摘された。こういうずぼらさが原因なのだろう。


 翡翠には特に何も言わず、和輝はタルト台を取り出した。伸ばした生地をタルト台に合わせる。今日は何のタルトにしよう。

 スポンジケーキも嫌いではないが、最近はタルトに凝っている。


 型に収まった生地を見ていると、何故だか急にタルトタタンが作りたくなった。

 衝動を飲み込みつつ、和輝は生地をオーブンへ押し込んだ。


 やっぱり、タルトタタンが作りたい。

 冷蔵庫の中から林檎を取り出し、するすると皮を剥いていく。皮はリボンみたいに足元まで伸びていく。


 カウンターで、翡翠が思い出したような唐突さで言った。




「試験勉強は順調?」




 翡翠には、和輝が欧州の大学に通信を利用して通学していることを告げてある。

 急に現実へ引き戻されたような気がして、林檎の帯は途切れた。足元へ落下したそれを拾ってダストボックスへ投げ入れる。和輝は答えた。




「まあ、留年しない程度には」

「頼りない答えだな」

「家庭教師がいるから、多分大丈夫」




 葵のことだ。通学していることを彼に知られてからは、家庭教師のように勉強を見てもらっている。面倒臭いと取り合ってもらえないが、意外と泣き落としに弱い。其処へ漬け込む自分はずるい人間だ。

 翡翠は首を竦めて、嬉々として問い掛ける。




「彼女でも出来たか?」




 随分と久しい単語だ。

 林檎を薄切りにしながら、和輝は考える。

 葵が彼女だなんてぞっとする。

 和輝の沈黙をどのように捉えたのか、翡翠は身を乗り出した。




「面白い話があるなら、聞かせろよな」

「彼女なんていないし、面白い話なんてねーよ」




 興奮気味の翡翠を躱して答えると、先程のボックス席から男の罵声が上がった。

 朝っぱらから痴話喧嘩か。呆れて目を向けると、男の射抜くような剥き出しの憎悪とぶつかった。果たして、自分は何かをしただろうか。




「Slut!!」




 尻軽女。男は捨て台詞と共に席を立った。

 カウンターまで遣って来ると、紙幣を叩き付ける。




「Asshole」




 忌々しげに男は和輝を睨んで言った。

 そのまま、男は荒々しく扉を開けて出て行ってしまった。置いて行かれた女が慌てて追い掛ける。カウンターに一度立ち寄った女は、申し訳無さそうに一言謝罪すると、紙切れを一枚手渡して来た。

 男を追い掛けて女が消える。店内は静寂に支配された。

 呆気に取られながら紙切れへ目を落とす。横から翡翠が覗き込んだ。

 女の連絡先が記されていた。


 翡翠は目を細めた。




「やるねえ、色男」

「それで客同士が喧嘩しているんじゃ、何の意味も無いんだけど」





 溜め息を零して、和輝はボックス席へ向かう。掃除をしなければならない。





「今日、バイトが終わった後、予定ある?」





 普段通りの態を装いながら、コーヒーカップを片手に翡翠が問い掛ける。

 和輝は振り向かずに答えた。




「買い物に行くよ」

「誰と?」

「霖雨」




 翡翠には、霖雨の話をしたことがある。

 4歳年上の同居人で、大学院へ通う優しい友達だと伝えていた。

 翡翠はその名前を復唱すると、少しだけ残念そうに眉を寄せた。コーヒーカップをソーサーへ置く冷たい音がした。




「サーフィンに誘おうと思っていたんだけど」

「お前だって、バイトだろうが」

「5時過ぎには終わる予定だから、間に合うだろ」




 夏の日の入りは遅い。5時を回っていても、周囲はまだ明るかった。

 和輝は、迎えに来てくれるという霖雨を思い出す。直前に交わした会話を思い出すと、気が重いのも事実だった。買い物を済ませたら、出掛けてしまおうか。態とらしいかも知れない。

 頭の隅では既に言い訳を考え始めている。和輝はその思考を放逐するようにダスターを握った。




「夜の海は危険だ」

「じゃあ、飲みに行こうぜ」




 翡翠がころりと掌を返すので、和輝は振り返る。緑柱石の瞳が、捨てられた子犬のように潤んでいた。まるで、お前しかいないんだと訴え掛けるようだ。

 生憎、和輝は慈悲深い人間ではない。翡翠の表情は特別心動かされるものでは無かった。

 懇願する翡翠を見詰め、和輝は嘆息を漏らした。




「何を企んでいるんだ」

「企んでいる訳じゃないよ」

「ふうん?」




 翡翠の瞳をじっと見詰める。どうやら、嘘は無いようだ。

 良い予感はしないけれど、このまま捨て置くのも寝覚めが悪い。ーー何より、翡翠の瞳に映る正体不明の翳りが、胸を騒がせる。

 何か、恐ろしいことが起こるかも知れない。そんな予感があった。


 霖雨の姿が脳裏を掠める。

 葵が視力を失って、和輝が単独で敵の本拠地へ乗り込もうとした時、霖雨は危険だからと身を呈して止めようとした。このことを知られたら、また、巻き込んでしまうかも知れない。

 拳銃を携えて助けに来た霖雨を覚えている。ーー彼に、銃を握らせるつもりなんて、これっぽっちも無かった。




「いいよ」




 可能性を吟味し、言い訳を考えるよりも先に言葉が溢れた。

 それを知覚した時には、既に翡翠が嬉しそうな声を上げていた。


 入り口で風鈴が鳴る。来店だ。

 和輝はダスターを握ったまま、客を出迎える為に顔を上げた。

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