⑷希望の残照
「昔話は好きかい?」
優雅に足を組みながら、男が嬉しそうに言った。和輝は霞む視界の奥で、その一挙一動を見逃すまいと両目に力を籠める。
白煙によって和輝は意識を失っていた。再度、その目を開けた時、両腕は後ろで拘束され、安っぽいパイプ椅子に縛り付けられていた。
窓の無い部屋は、無機質なコンクリートで囲まれている。換気扇の稼働音が獣の唸りのように響いていた。
質問に、和輝は答えなかった。それでも、男は余裕の笑みを浮かべたまま続けた。
「昔々、或る処に、二人の夫婦がおりました。彼等は警官でした。その息子もまた、警官でした。国家の為の犠牲となることが、彼等の正義でした」
和輝は口を挟まない。拘束が解けないものかと力を振り絞るが、ロープが手首に食い込むだけだった。
「夫婦は殉職し、二階級特進しました。名誉の死です。その息子も殉職しました。一家の犠牲と引き換えに、国は平和を保ちました。けれど、その一家にはもう一人、息子がいたのです。彼は透明人間でした。これは、生まれた時から犠牲となることを望まれた透明人間のお話です」
透明人間。
和輝は、その単語に浮かび上がる人物を打ち消すように首を振った。
男は喜々として話し続ける。
「常人から知覚されない程に存在感の無い彼は、人の姿をした化物です。何しろ、彼に心はありません。両親が死んだ時も、涙一つ見せませんでした。兄が死んで天涯孤独となった時も、何ら変わりなく生活を送っていました」
拘束は解けない。和輝はロープを軋ませながら、男の言葉を黙って享受する。
「兄を殺したのは、透明人間だったのです」
「――違う!」
和輝は叫んだ。何の確証が無くても、和輝はそれを否定しなければならなかった。
男は愉悦に口元を歪めている。
「透明人間は、兄を殺す為に、一芝居打ちました。異常者に狙われている振りをして助けを求め、兄を死地へ導いたのです」
「違う!」
「結果、兄は殺されました。首を切り落とされて、殉職しました。透明人間が助けを求めなければ、兄は死にませんでした。未必の故意だなんて言い訳は通用しません。事実、兄は死んだのです。兄を殺した異常者は、法律によって死刑です。彼は、自らの手を汚すことなく、二人の人間を殺すことに成功したのです」
この話を、和輝は知っている。同居人、神木葵の生い立ちを、和輝は既に知っていた。
警官の家系に生まれた神木葵は、生まれながらにして希薄な存在感で、周囲の人間から知覚され難かった。けれど、或る特定の人間に対して認知され、異常な執着を与えた。サイコパスと呼ばれる異常者を、神木葵は惹き付ける。
異常者に付け回され、葵は唯一の肉親である兄へ助けを求めた。――結果、兄は惨殺された。
「溺れる者が必死に間違ったものを掴んだとして、誰にそれを責められる」
絞り出すようにして、和輝は訴えた。
人は信じたいものしか信じない。
和輝は、葵を信じたかった。人の命を奪っても、眉一つ動かさない葵を、和輝は信じたい。ただのエゴなのかも知れない。和輝には解らない。けれど、解らないままでも構わないと思った。
全ての真実が目に見える訳じゃない。目に見えるものが全てとは思わない。正しいか間違っているか、それを行動する為の判断基準にすることはもう、辞めたのだ。自分が如何したいのか。他人に言われて揺らぐ程度の思いを、覚悟とは言わない。
葵が手を伸ばした時から、和輝の覚悟は決まっている。
彼が異常者でも、サイコパスでも、殺人鬼でも、悪魔でも構わなかった。
男が目を細め、訝しむように問い掛ける。
「彼が恐ろしいと思わないのかい?」
「人間なんて、誰にだって裏と表がある。自分が相手の全てを知っているなんて思わない」
「きれいごとだね」
それでも。
和輝は振り絞るように訴えた。
「葵は、言い訳をしなかったぞ」
脳裏に、皮肉っぽく笑う葵の姿が浮かぶ。それが嘘でも真でも、構わなかった。
「自分のしていることが間違っていると解っていて、それでも正解を択べなくて、今もずっと苦しんでいる。他人のせいになんて、しなかった。苦しんで選んだ未来が望んだ結果を伴わなくても、皆がそれを否定しても、葵は文句なんて言わなかった」
和輝は掌を握り締めた。爪先が皮膚を破き、出血する。汗と血液で湿った掌を解かず、和輝は急き立てられるように口を開く。
「だから、俺は何度だって言ってやる。それで良いよって受け入れてやる。間違ったものを掴んで、苦しくて逃げ出したい時には必ず傍にいて、その手を引いてやる。俺は葵の、友達だから」
君は馬鹿だねえ。救いようの無い馬鹿だ。
侮蔑するように吐き捨てて、男は懐に手を伸ばした。取り出された鉄の塊に、和輝は奥歯を噛み締める。
自由を奪われた状態で、銃弾を避けられるとは思わない。それでも、眼を反らすつもりは微塵も無かった。
指先に力が籠められる刹那、乾いたノックの音が転がった。男は引き金に指を掛けたまま、忌々しそうに舌打ちを漏らした。蝶番が軋み、扉が開く。銃口から視線を反らさない和輝は気付かなかった。
男が驚いたように目を丸めた。
「如何してお前が此処にいるんだ」
銃口は和輝の眉間から離れ、扉の向こうへ移動した。
置いて来た筈の、聞き覚えのある声がした。
「そいつの相棒に、頼まれたからね」
霖雨は、微笑んだ。その手には拳銃が握られている。
和輝は反射的に扉の奥へ目を向けていた。声の主、霖雨が其処に立っている。
「霖雨」
呼ばれても、霖雨は微動だにしなかった。銃を突き付け合う二人は、一触即発の状態だった。間に挟まれた和輝は瞠目し、抵抗の手段すら持っていない。
男が顔を歪めた。その瞬間、銃口が火を噴いた。霖雨は身を低くしてそれを躱す。銃弾が壁に跳ね、鋭い音を立てる。殆ど同時に霖雨は引き金を引いている。
銃弾は男に当たらなかった。転げるようにして躱した霖雨は、すぐに立ち上がれない。銃口を突き付けて男が笑う。――刹那、その視界の隅で影が躍った。
コンクリートを蹴った和輝は、宙に浮かんでいる。霖雨の銃弾は、拘束を解く為に放たれていた。上半身を捻り、全身の力を込めて右足を振り抜いた。強烈な蹴りが男の側頭部を捉えていた。
男の体がゴムボールみたいに弾け飛んだ。勢いを殺し切れなかった和輝が地面へ倒れ込む。すかさず、体勢を立て直した霖雨は男へ銃口を突き付けた。
霖雨は警戒を解かず、男を見下ろしている。和輝は起き上がり、霖雨の隣に並んだ。
「形勢逆転だな」
「それは、如何かな」
壁に手を這わせ、男が嗤う。開け放たれた扉の向こう、新手が銃を構えていた。
追い込まれているのはどちらなのだろう。膠着状態に、霖雨の顎先から冷や汗が落ちる。和輝は背後の男に視線を向けた。
鈍色の光が、和輝の目に映った。
「やあ、盛り上がっているね」
空気が揺れる。蜃気楼だ。和輝は、蛍光灯の光に滲む影を呆然と見詰めた。
刃を携えた神木葵が、其処に立っている。銃口を持つ男の首筋に刃を突き付け、葵は微笑んでいた。その双眸は相変わらず包帯に覆われているのに、普段と変わらぬ態で葵は言う。
銃を構えた男が振り向き、その指先を引いた。発砲音。葵は、首を傾けそれを躱した。
銃弾が掠め、両目を覆う包帯を引き裂く。葵は煩わしそうに包帯を振り払い、予備動作無くナイフを下ろした。
銃を構えていた男の手首が、豆腐か何かのようにすとんと切り落とされた。手首から先は地面に落下し、血液が迸る。男が悲鳴を上げ、血の噴き出す傷口を押さえ込む。葵は退屈そうにそれを見ていた。
「視力の無い生活も、新鮮で面白かったよ。ただ、長居したくは無いね。本が読めないと、退屈だから」
廊下を鮮血で染め、返り血を浴びながら葵は無表情だった。
和輝も霖雨も、動けなかった。目の前の現実に思考が追い付かない。葵は傷口を押さえる男の、もう一方の手首を切り落とした。其処に骨や筋肉なんて存在しないように、呆気無く切り離される。
両手首を失った男が蹲り、悲鳴を上げる。葵は無表情を崩さない。
「明るいところでは、見えないものがある」
刃を振り翳し、葵が言った。
「暗闇だ」
死刑宣告のようだった。感情を含ませない氷のような声だった。
霖雨が何かを言うより早く、その脇を和輝が駆けた。葵は駆けて来る小さな姿を視界の端に見付け、僅かに照準を反らした。
男の心臓を狙った刃は反らされ、その頸動脈を切り裂いた。
血が噴き出し、廊下に血溜まりを作る。男はもう悲鳴すら上げず、その中に崩れ落ちた。
「救急車だ!」
和輝は濡れることも構わず、男の傷口を押さえた。
13.春一番
(4)希望の残照
サイレンを鳴らした救急車が滑り込む。全身を真っ赤に染めた和輝が、泣き出しそうに救急隊員へ訴えている。
両手首を失い、頸動脈を切り裂かれた男が助かる見込みは万に一つも無かった。多量出血のショック症状が出ている。それでも、和輝は縋るように搬送される男の処置を止めなかった。
スーツを纏った男はFBI捜査官によって連行されている。霖雨は、珍しく取り乱している和輝を背後から羽交い絞めにした。血塗れの和輝を、衆目に晒したくなかった。
毛布を手渡され、霖雨は和輝を包み込む。救急車が走り出し、取り残された和輝はその場に崩れ落ちた。
強く握り締められた掌に爪が食い込み、出血している。霖雨は握られた拳を包み込むようにして、その手を取った。
「もういい」
押し留めるようにして、霖雨が言った。和輝は首を振った。
「駄目だ、駄目なんだ」
人を救いたいと願う彼の胸中を思い、霖雨は心臓が軋むように痛んだ。
和輝は、葵を守りたかったのだ。彼の手を汚させたくなかった。その為に、自身の危険も顧みず悪の元へ出向いた。
全ての結末を予測していて、それを回避する為に最善を尽くした結果が、最悪の結末にしかならなかったのだとしたら、こんなにも虚しいことは無いだろう。
霖雨は、絞り出すように否定の言葉を繰り返す和輝に掛ける言葉が思い付かない。けれど、葵を責めることも出来ず、結局はその背中を撫でるだけだ。
返り血を浴びた葵は、やはり無表情だった。薬剤の影響が切れたのか、視力を取り戻したらしい。感情を読ませない冷たい眼差しで、和輝を見下ろしている。
「これが、現実だよ」
君の住んでいるフィクションの世界とは、違うんだよ。
幼い子へ言い聞かせるように、葵が酷く優しく言った。
「二兎を追う者は一兎をも得ずと言うだろう。何でもかんでも救えると思ったなら、大間違いだ」
「何でも救えるとは、思っていない」
目を伏せた和輝が言った。
「たった一つを守ることすら困難だ。俺は、今まで沢山のものを失って、救えなくて、此処まで来た」
ゆっくりと上げられた瞳が、透明な光を放って揺れる。
それでも、諦められないから苦しいのだ。
和輝の言葉は声にならなかった。霖雨は、糸が切れるように意識を失った和輝を支えた。
弛緩した体を背負い、霖雨はゆっくりと立ち上がる。人形のような無表情で、葵は黙っていた。
霖雨は、意識の無いヒーローに代わって問い掛けた。
「眼病ではないと、何時から気付いていた?」
「其処の馬鹿が、姿を消したと聞いた時だ。それまでは、眼病だと思っていた」
嘘くさい程の綺麗な微笑みを浮かべ、葵が言った。
和輝が消えなければ、葵は何者かの悪意になんて気付かなかった。眼病と思い込んで、やがて薬剤の効果は消え、不思議なことがあるものだと完結したのかも知れない。和輝が敵の本拠地へ乗り込まなければ、葵はその手を汚すことも無かった。
けれど、霖雨はそれ以上の最悪の結末を理解している。葵を狙った者が、一時的な視力の喪失で満足する筈も無い。薬物を服用させた後、彼等は葵に対して何か行動を起こしただろう。それは、命に関わる凶悪な計画的犯罪だったかも知れない。
犠牲を払いながら、和輝は最悪の結末だけは回避したのだ。霖雨はそう信じたい。
葵も、きっとそれは解っているだろう。再び無表情に戻った葵は、頬にこびり付く返り血を拭った。
霖雨は微笑んだ。血腥い状況で、笑える場面ではないけれど、最悪の結末を回避したヒーローを称賛するように言った。
「そろそろ、覚悟を決めると良い」
「何のことだ?」
「前に、不幸は連鎖すると言っていただろう。だけど、冬来たりなば春遠からじと言うくらいだ。お前の長い冬はもう、終わる時が近い」
「……意味が解らないな」
くるりと踵を返し、葵は歩き出す。霖雨は小さな青年を背負い直して、その後を追った。
怪我一つ無い霖雨等は、パトカーに乗ってN.Y.P.D.へ運ばれた。通い慣れてしまった建物の中、擦れ違う警察関係者が怪訝そうに見ている。意識を失っている和輝を署員の仮眠室のベッドへ寝かせ、霖雨は強張った肩を解すように関節を回した。
「シャワーを浴びたい」
呑気に葵が言う。霖雨が呆れていると、乾いたノックの音がして、扉が開いた。
何度も世話になっているFBI捜査官は、霖雨達の姿を認めると大きく溜息を零した。血塗れの和輝と葵を見ても、驚かなかった。流石に気の毒になって、霖雨は謝罪の意を込めて小さく会釈した。
誠意は伝わらなかったらしい。捜査官は、葵をじっと見詰めた。
「如何して、ナイフを持っていたんだ?」
「貴方なら、危険があると解っているのに、丸腰で敵の本拠地に乗り込みますか?」
質問を質問で返され、捜査官が眉を寄せる。
「其処の彼は、丸腰だったみたいだけど」
「こいつは頭がおかしい」
おどけて肩を竦め、葵は言った。
事実、霖雨すら銃を所持していたくらいだ。殺意は無くとも、身を守る為に武装するのは間違っていない。
捜査官が言った。
「男は武器を所持していたし、地下からは麻薬が発見された。正当防衛は成立するだろう」
「そうですか。ーーああ、怖かった」
微塵もそんなことは思っていないように、葵は笑みを浮かべた。
捜査官が訝しげに目を細めるが、葵は態度を変えなかった。
「あの男」
捜査官が、感情を読ませぬ淡々とした口調で言った。
血塗れの惨状が蘇る。返り血を浴びた葵だけではなく、無傷である筈の和輝すら真っ赤に染まっていた。血溜まりに横たわる名も知らぬ犯罪者の一人が霖雨の瞼の裏に鮮烈に残っていた。
その先が予測出来るような気がして、霖雨は目を伏せる。――けれど、捜査官は不敵に笑った。
「助かったよ」
「――何?」
葵らしくも無い間抜けな声だった。捜査官はしてやったりと口角を釣り上げている。
霖雨にも、俄かに信じ難い言葉だった。両手首を切り落とされ、頸動脈を切り裂かれたのだ。廊下を染めた血液の量を考えると、あの男が助かる見込みは無かった筈だ。
だが、捜査官は余裕の笑みを崩さない。
「応急処置が良かったようだ。救急隊員が手放しに称賛していたよ」
霖雨は、静かに目を向けた。
視線の先、葵は目を丸めて言葉を失っている。こんな葵は、初めて見た。
彼は、誰も殺していない。その手は汚れていない。
見事だ。
霖雨は、腹を抱えて笑いたくなった。
「通報も早かったから、切断された手首も縫合されるだろう。リハビリは必要だが、両手は元に戻る」
「そんな、馬鹿な」
葵が声を漏らす。捜査官は笑っていた。
風船が萎むように、葵が肩を落とした。目は真ん丸に見開かれて、何時もの減らず口すら叩けない。霖雨は堪え切れず、噴き出すようにして笑ってしまった。
「逃げ道はもう、塞がれているんじゃないか?」
腹の底から可笑しさが込み上げて来る。捜査官は笑みを浮かべ、それを肯定しているようだった。
憮然とした調子の葵だけが取り残されている。けれど、意識を失っている筈の和輝の指先が、葵の服の裾を掴んでいた。それは呼び掛けるようであり、縋るようであり、――これ以上の転落を防ぐように、繋ぎ留めているようでもあった。
「馬鹿馬鹿しい話だ」
言いながら、葵もその手を振り払わない。
それが不貞腐れた子どものように見えて、霖雨はついに腹を抱えて笑った。
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