⑶百鬼夜行
数字の羅列を眺めている。
ぐるりと視界が揺らいだ気がした。疲れているのかも知れない。和輝は、頭痛を堪えるように蟀谷を押さえた。
再度、三つ折りの書類とにらめっこする為に目を見開くが、相変わらず視界はぼんやりとしていた。葵の眼病に誘発されたのかも知れないと、勝手なことを考える。しかし、目の前の書類は全ての可能性を冷酷無比に否定していた。
文章は捉え方次第だが、数字は嘘を吐かない。文章問題が苦手で、散々な結果を残して来た和輝は、母国で受けた試験問題を思い出して苦く思う。
行かなくては。
何かに急き立てられるように、和輝は立ち上がった。自室を閉ざすカーテンの隙間から、白い朝日が滲んでいる。何時の間にか夜は明けたらしい。ベッドから抜け出し、和輝はフローリングの床に足を下ろした。夏とは言え、朝方の冷気によって床はひんやりと冷たかった。錆び付いた思考回路が蘇ることを祈りながら、固く閉ざされた扉を押し開ける。
リビングには、明かりが灯っていた。霖雨が消し忘れたのだろうかと視線を巡らせた先、ソファに人影があった。入院している葵が此処にいる筈が無いので、必然的に人物は限られている。転寝でもしてしまったのだろうかと正面に回り込む。背後からでは見えなかったが、腕を組んだ霖雨は両目をしっかりと見開いていた。面食らった和輝は思わず一歩後ずさる。霖雨が、逃げ出そうとする腕を掴んだ。波止場で荒波に流されようとしている船を、錨が繋ぎ留める様に似ている。
逃げ場を失った和輝は、手を振り上げられたように身を竦ませた。けれど、衝撃が遣って来る筈も無く、霖雨は疲労を浮かべた面で言った。
「何処に行くんだ」
柔和な彼らしくない、詰問にも似た言葉だった。和輝は咄嗟に返答出来ない。
霖雨は和輝をじっと見詰めていた。何かを言わなくてはならないと口を開くが、真っ直ぐに見詰めて来る双眸に言葉が繋がらない。この場から逃れたい衝動に駆られた。和輝は奥歯を噛み締め、その目を見返した。
「行かなきゃならない場所がある」
質問の答えになっていない。和輝は口に出してから気付いたが、自分の現状を考えるとそれ以上の言葉は無かった。
霖雨は握り締めるように掴んだ腕は離さないまま、確固たる意思表示をする為に言った。
「俺も行く」
「駄目だ」
「如何して?」
「霖雨を、巻き込めない」
懇願するように、和輝は震える声を絞り出した。
それを例え霖雨が望まなくても、自分の都合の為に誰かを巻き込むことは我慢ならなかった。
霖雨は、氷のような無表情を綻ばせた。慈愛に満ちた微笑みは、そのまま全てを投げ出したいような、縋りたいような包容力に満ちている。
背中に圧し掛かっていた何かが、解け落ちてしまいそうだった。和輝は堪えるように拳を握る。霖雨の優しい微笑みに、和輝は母国の家族の温もりを思い出す。
けれど、必ず受け容れてくれると解っていて弱音を吐くのは、卑怯な気がした。責任を投げ出して、自分だけ逃避するなんて許される訳が無い。葵は、もっと苦しい思いをしている。そう考えると一言だって告げることは出来ず、和輝はただ、されるがままになる。霖雨は不敵に言った。
「巻き込んでみろよ」
「出来ない」
「泣き落としが効くと思っているなら、嘗められたものだな」
絆されても良いけれど、それは今じゃない。
霖雨が笑う。
「お前、追い込まれているだろう。嘘を吐く余裕も無いじゃないか」
「うん。だから、お願いしている」
「性質が悪いな」
嘘が吐けないと解っているからこその、泣き落としなのだ。和輝は口の端に苦笑を浮かべた。
けれど、霖雨は首を振った。
「お前はこの手を振り払えない。悪足掻きは止めて、さっさと観念しろ。時間の無駄だよ」
「そっか……」
目を伏せ、和輝は一つの決意をする。
霖雨は、勘違いをしている。和輝は伸ばされた手を拒めない。掴んだら離せない。けれど、去る者を追う程、御人好しでは、無い。
ぐ、と身を乗り出すと、霖雨は驚いたように目を丸めた。和輝は勢いを殺さぬまま、大きく一歩を踏み出した。
驚き身を引いた霖雨に、和輝は肩口を強く当てた。頭上で息を呑む音が聞こえた。
「お前……」
「ごめん」
大きな黒目が明後日の方向へ飛んだ。瞼がシャッターのように落とされる様を見届け、和輝は霖雨の体をソファに倒した。意識を失った霖雨は、ぐったりとソファへ身を預け、ぴくりとも動かない。
「おやすみ。良い夢を」
目の下に隈を刻み込んだ霖雨は起き上がらない。和輝は、そっとリビングを後にした。
屋外は、既に灼熱の太陽が待ち構えていた。未だ準備運動に過ぎないのだろう。履き慣れたスニーカーで、和輝は割れたアスファルトを叩く。尻ポケットへ押し込んでいた書類の存在を確認し、小さく息を吐き出した。
書類は、和輝が内密に行った葵の精密検査の結果だった。
眼病の診断を下された葵は、確かに検査を受けた。和輝は、その結果に奇妙な違和感を覚えた。眼圧検査の結果は数字の羅列だ。嘘を隠せる場所がある筈も無い。ただ、それを宣告した医師の顔を、和輝はただ見ていた。
医師は嘘を吐いている。それだけが、和輝に解るただ一つの事実だった。
全ての真実を白昼の元に晒したいとは思わない。そんなものは独善だ。嘘は必要だから存在する。ならば、医師が個人の未来を踏み潰してまで吐かなければならなかった嘘とは何なのだろう。和輝は、知りたかった。
葵の血液を、内密に知り合いの病院で検査した。すると、血液中から通常ならば有り得ない薬物の反応があった。葵は眼病ではなく、外から齎された薬物の影響によって視力を一時的に失っている。和輝はそう結論付けた。
あの葵に一服盛るなんて離れ業、常人には不可能だ。警戒心の強い葵が、見知らぬ他人に与えられたものを口にするとも思えない。投与された経路は限られている。食事に何かが含まれているのならば、和輝と霖雨も同じ症状を起こす筈だった。けれど、視力を失ったのは葵ただ一人だ。彼だけがそれを口にする可能性がある場所は、一つしかなかった。
向かう先は、葵のアルバイト先だった。街の片隅で営業する小さなバーだ。常連客の収入だけで成り立っている個人経営のようなバーは、近隣の住民にすら存在を忘れられている。夜間でなければ営業されない店舗の前に立ち、和輝は小さく息を吸い込んだ。
猛獣の住む窖のようだ。何処かから巨獣の息遣いが聞こえる気がして、和輝は自然と身を固くする。
地下へ向かう階段は、擦れ違うことも出来ないくらいに狭かった。手摺すら存在しないアスファルトの壁へ手を這わせ、和輝は慎重に下って行く。
黒い鉄の扉には、準備中を知らせるプレートが下げられていた。営業時間ではない。和輝はポケットから針金クリップを取り出し、指先で伸ばす。鍵穴に差し込み、感触だけで解錠する。和輝は息を殺して扉を押し開けた。
目が闇に慣れたところで、店内を照らす蛍光灯の光に目が眩んだ。
「I am glad to see you!」
昔話みたいな嗄れ声が、和輝を出迎えた。
目を細め、和輝は白く歪む世界を凝視する。小さな舞台は、眩い程のスポットライトに照らされている。真夏だというのに、きっちりとスーツを着込んだ男が恭しく頭を下げた。真夏とは思えない程に、室内は冷え切っている。和輝の肌は薄く粟立った。
「We have been waiting.」
「What do you mean?」
和輝は低く問い掛ける。男は口元に微かな笑みを浮かべ、答えなかった。
まるで世界が違うかのように、室内の気温は冷たい。重低音のようにエアコンの稼働する音がする。和輝は闇の中にぽつりと浮かぶ男を見詰める。
余裕の態度を崩さない男に、此方がペースを乱される訳にはいかない。和輝は母国の言葉で、問い掛けた。
「如何して、葵を狙う?」
男が、愉悦の笑みを浮かべた。白髪の混じる髪は、一部の隙も無いというようにきっちりと固められている。男が嘘を吐けば、和輝には解る。
「君には関係の無いことだった」
返された母国の言葉は、過去の形を取っている。和輝は身構えた。
周囲で、無数の気配が蠢いた。咄嗟に退路を確保しようと後ずさると、冷たい壁の感触が背中に当たった。
鉄の扉は固く閉ざされている。正面の男が笑みを深くし、獲物を前にした猛禽類に似た鋭い眼光を放つ。
「君を生かすべきか、殺すべきか、難しいところだ」
予備動作も無く、男の腕が懐から取り出された。鈍く黒光りする鉄の塊に、和輝は身を引く。
男の指は、引き金に掛けられている。その指先は容易く命を奪う。
――こんなもの、大嫌いだ。
人は科学技術で、人の命を奪うという行為を手元から遠ざけた。素手より刃を、刃よりも銃器を、銃器よりも爆弾を。今ではスイッチ一つで虐殺は可能となった。罪悪感なんて残さない為に技術は研ぎ澄まされる。だが、感情がいらないのならば、人間である必要は無い。
銃口は和輝の眉間に照準を合わせている。周囲で蠢く気配は、一様に殺気を滲ませていた。彼等は鉄砲玉と同じだ。放たれれば回収もされず、無くなれば補充されるただの頭数。其処に思考力は求められない。だから、何をするか解らない。
「D.C.に目を付けられているね。此処で君が死んだら、警察は其方を疑うだろう」
「遣って見ろ。俺は、首だけになっても、お前の喉笛に食らい付いてやる」
「それは是非、見てみたいね」
取り囲む気配が、じりじりと距離を詰める。和輝は身を低くした。
銃弾の軌道は殆ど直線だ。銃口から軌道を予測し、避けることは不可能ではない。銃口を真っ直ぐに見詰め、和輝はその瞬間に身構える。
人は死の瞬間に走馬燈を見ると言う。これまでの短い人生で、死を覚悟したことは一度も無い。もしも、その瞬間が如何足掻いても回避不能で、抗い難い現実だったとしても、穏やかな死に顔なんて残すつもりは微塵も無かった。この両目を見開いて遣る。それは、最期の瞬間まで、死ぬ気なんてこれっぽちも無いからだ。
風が林を吹き抜けるように、周囲を取り囲む気配が揺れる。銃口を見詰め、銃弾が放たれる瞬間を待つ。その瞬間、頭上より真っ白な煙が噴き出した。瞬く間に空間を埋め尽くす煙に、和輝は咄嗟に口元を腕で覆う。
スポットライトの当たる舞台の上で、何時の間にかガスマスクを装着した男がくぐもった声で言った。
「Good night! Mr.Hero!」
男の姿は煙の奥に消えて行く。焦点がぶれる中で、和輝は手を伸ばした。
指先が、虚空に爪を立てた。
13.春一番
(3)百鬼夜行
叩き付けられるようにして、霖雨は突然覚醒した。
周囲は薄闇が包んでいた。和輝が当身をして来た瞬間が、瞼の裏に焼き付いていた。あれからどのくらい眠っていたのだろう。鈍く痛む頭を押さえながら、霖雨は壁掛けの時計を見上げる。
午後五時二十分。半日以上眠っていたらしい。
既に人気の無くなった室内をぐるりと見渡し、霖雨は昏倒していたソファの上に深く腰掛けた。
腹の底から疲労感が込み上げて来て、深い溜息となって漏れた。
「あの馬鹿……」
あの和輝が、手荒な真似をするとは思わなかったのだ。見下ろす程に小さな青年を思い浮かべ、霖雨は苦く思う。身体能力はトップアスリート並の青年だ。霖雨を昏倒させるくらい、訳無いのだろう。完全に油断していた。
件の青年はいない。携帯へ電話を掛けるが、電源が入っていないようだった。何処に消えたのか皆目見当も付かない。メディア機器に精通する葵ならば、その居所くらい調べられるのかも知れない。ただ、彼は現在、情報を選別する視力を失ってしまっている。
八方塞がりだ。頭を抱え、霖雨はぎゅっと目を閉じた。
葵の言葉が脳裏に蘇る。和輝を監視するように、頼まれたのだ。彼が何か不可解な行動を起こすことは解っていた。動機と結果は予想出来ても、行動そのものが理解出来ない。
仕方ないと、霖雨は立ち上がった。室内には物影が長く伸びている。ソファの影に隠れた医学書を一瞥し、霖雨は目を細める。どれもこれも、眼病に関する医学書だ。和輝は葵を、救いたかったのだ。
薬剤に関する資料があったので、霖雨は何気なくそれを手に取る。治療法を探していたのだろう。ぱらぱらと頁を捲っていると、分厚い専門書の中程に一枚の厚紙が挟まっていた。四葉のクローバーを押し花にした栞だった。
開かれた頁を見下ろす。記述されているのは、眼病の治療薬ではなかった。――一時的に視力を喪失させる経口薬だった。薬剤の影響によって房水の排出を阻害し、視神経を圧迫する。何処かで聞いたような言葉だ。
眼病ではないかも知れない。その可能性に、和輝は気付いた。その先の行動くらい、霖雨にだって予測出来る。
霖雨は家を飛び出した。玄関の傍に停めてある愛車に跨り、ヘルメットを装着する。鍵を差し込んでアクセルを回すと、バイクは運動直後のように激しく息衝いた。エンジンを温め、霖雨はバイクを発進させた。
向かう先は葵の入院する病院だった。緊急外来を受け入れているという指定病院だが、決して規模は大きくない。がらんとした駐車場の一角にバイクを停め、霖雨は病棟へ走る。面会時間は終了している為、見舞客の姿は既に無い。弾丸のように駆け抜ける霖雨に向けて、病院関係者が制止を訴える。こんなところで止まる訳にはいかない。霖雨はエレベータという手段を放棄し、非常階段を駆け上がった。
三階の角部屋、葵の病室に到着する。追い掛けて来る医師達を無視して、霖雨は扉を蹴破るようにして室内へ転がり込んだ。
ベッドの上、まるで幽霊のような葵が上半身を起こしていた。両目は包帯によって厚く覆われている。酷い物音にも騒ぎにも動揺せず、この室内だけが切り取られた異世界のように静寂だった。横顔をオレンジ色に染めた葵が首を回し、息も絶え絶えの霖雨に向き直る。このまま溶けて無くなってしまいそうな気が、した。
「――あいつのこと、見張って置けと言っただろう」
視力を失っているにも関わらず、全ての事情を理解しているように葵が言う。
霖雨は呼吸を整えながら、ごくりと唾を呑み下す。
「行先に心当たりは無いか」
「あいつは、如何やって消えた? 嘘を吐いて躱したか? それとも、手段を択ばなかったか?」
此方の質問に答える気は無いようで、葵が畳み掛けるように問い掛ける。霖雨は苦く思いながら、ぎゅっと目を閉じて答えた。
「手段を択ばなかった。嘘を吐く余裕も、無かったんだろう」
「そうか」
それだけ言って、葵は黙った。
霖雨は追及しようと口を開く。けれど、追い掛けて来ていた医師が霖雨の肩を強く掴んだ。激しい運動の後みたいに、顔色悪く脂汗を滲ませた眼鏡の医師が、高飛車な物言いで霖雨を咎めた。
面会時間は終了している。部外者は立ち入り禁止。院内を走ってはいけない。そんな解り切ったことを矢継ぎ早に言うので、霖雨は苛立った。規則は必要だが、必ずしも順守出来る訳じゃない。だから、例外という言葉があるのだ。
緊急事態なんだと反論しようとした瞬間、霖雨の頬を湿った風が撫で付けた。反射的に目を向けた先、ベッドは蛻の殻になっていた。
「葵?」
窓が開け放たれ、夜風がレースのカーテンを揺らしている。遠く沈む夕陽が真っ白なベッドを照らしていた。
霖雨は肩を掴む医師を振り払い、窓辺に駆け寄った。見下ろす先、トラックが走り出しているのが見えた。コンテナを載せたトラックの背中に、人影が浮かぶ。
「葵!」
呼び掛けたところで、葵は振り返らない。医師達が驚愕に声を上げ、慌ててナースコールを鳴らす。
霖雨はその脇を擦り抜けた。
流石に身一つで三階から飛び降りるなんて真似は出来ないので、霖雨は階段を転げ落ちる勢いで駐車場へ戻った。まだエンジンは温まっている。アクセルを回し、バイクは急発進した。
和輝の行先に心当たりは無いが、葵の向かう先も検討が付かない。どちらが前かも解らない闇の中を進む心地で、霖雨はトラックの向かった方向を予測しながらバイクを走らせる。大型トラックだ。見付けられる可能性はある。コンテナに記されていた広告を思い出す。運送業者のトラックだった。ナンバープレートを見る余裕も無かったことを後悔した。尤も、ナンバープレートから行先を割り出している間に事は全て終わっているだろう。
界隈のアンダーグラウンドに精通している葵や、情報通の友人を持つ和輝とは訳が違う。霖雨には情報を得る術が無い。自分の無力さが歯痒い。
街中を駆け抜けるが、トラックは見付からない。見付けたと思ったら、別会社のトラックだった。霖雨は逸る心臓の鼓動を感じながら、バイクを路肩に停めた。
このまま蹲ってしまいたかった。何をした訳でも無いのに、掌にじわりと汗が滲んでいる。風の中を駆け抜けていたのに、頬からは汗の滴が滑り落ちた。
酷く怠い。思考回路が錆び付きそうだ。霖雨は目を閉じ、暗闇の中で情報を整理する。
ぽつりぽつりと単語が頭の中に浮かぶ。
きっかけは葵が視力を失ったことだった。和輝は頼まれてもいないのに見舞いへ行き、一方的に喋り倒した。此処数日の和輝も、葵も何かがおかしかった。異変に気付いていたのに、霖雨は何も出来なかった。否、何もしなかっただけなのかも知れない。
山積みにされた医学書。
四葉のクローバーの栞。
視力を失わせる経口薬。
――もしも、葵がその薬を盛られて視力を失っているとしたら、和輝は如何するだろう。
十中八九、その薬の効果を消し去る方法を探し、奔走する。
あの葵が、簡単に一服盛られるなんてことがあるのだろうか。有り得ないと否定する余裕も、霖雨には無い。その可能性に縋るしか方法は無い。底無し沼に嵌り込んだ時には、下手に足掻けば、より深みへ沈み込んでしまう。
仮に、葵が薬の効果で視力を失っているとしたら、その経路は何処だ。警戒心の強い葵は、最近は特に外食をしない。自宅の食事は和輝が賄っている。其処に薬が混入されていたのなら、霖雨にも同様の症状が出なければおかしい。葵だけが薬を呑む可能性のある場所、つまり、自分達三人の行動が重ならない場所だ。霖雨と葵は異なる大学院へ通っている。だが、葵が大学院でその薬を呑む可能性があるか。違う、其処じゃない。もっと単純に、それを口にせざるを得ない場所。
点在する言葉が、ふつりと糸で繋がったような気がした。
「――ああ、そうか」
アルバイト先――、葵は何処かのバーでアルバイトをしていると聞いたことがある。
其処がどのような店なのかは知らないが、飲食店ならば、従業員である葵が何かを口にする可能性は高い。思考回路が単純な和輝も其処へ行き着いた。そして、乗り込んだ。きっと葵は、それに気付いたのだろう。
必要の無い嘘を吐かない和輝は、薬剤の影響で視力を失っている可能性があることを、葵には言わなかった。けれど、葵はその嘘から行動の先を予測して、病院から消えたのだ。
可能性を見出したところで、霖雨にはその場所が解らない。町中を走る大型トラックすら見付けられない霖雨にとって、その場所を目指すのは、砂漠で一本の針を探すような心地だった。それでも、ノーヒントで其処へ行き着いただろう和輝を思えば手を拱いている必要は無い。きっと彼は、何処かにヒントを落としている。
透明人間と呼ばれる程に存在感の希薄な神木葵のアルバイト先は、何処にあるのだろう。一緒に暮らしていても、その生活が謎に包まれている葵だ。霖雨は再度、バイクへ跨った。
夕闇に染まる町は、昼間の姿とは異なり怪しげな雰囲気を醸し出す。長閑な田舎は、一転して無秩序なアンダーグラウンドの世界へ変貌している。逢魔が時だ。辻を駆ける魔物は、どのような姿をしているのだろう。バイクを飛ばしながら、霖雨はそんなことを思った。
自宅の前にバイクを停め、霖雨は玄関のドアを潜った。出た時と寸分違わぬ姿を保つリビングを抜け、霖雨は同居人――和輝の自室の扉を開けた。
カーテンの閉められた部屋は真っ暗だった。電灯を点け、片隅に置かれた棚へ向かう。チームメイトだろう少年達と笑い合う和輝の写真があった。その栄光を称える賞状の類が一切無いというのが、何となく彼らしいと思った。過去の栄光に縋る人間では無い。それでも、思い出を大切にしている。
今と殆ど変わらぬ無垢な笑顔を浮かべる和輝の隣には、彼の幼馴染の姿があった。白崎匠という、猫のような丸い目をした少年だ。写真の傍にアドレス帳が置かれている。この際、プライバシー等と拘っていられなかった。レトロなアドレス帳を捲り、さ行から彼の名前を探す。存在しない。霖雨はそのまま、た行の頁を捲った。ひらがなで、『たくみ』という名前と番号が記されていた。和輝にとって、この幼馴染は『白崎匠』ではなくて、ただの『たくみ』なのだろう。その粗雑さこそが信頼の証のような気がした。
国際電話を掛ける。数回のコールの後、電話は繋がった。
『もしもし』
聞き覚えのある声に、霖雨は急くように口を開いた。
「常盤霖雨です。覚えていますか」
『お久しぶりです。和輝に何かありました?』
話が早い。霖雨は言った。
「あいつの居場所を知りませんか。電話が繋がらないんです」
異国にいる彼にぶつける質問ではない。だが、霖雨には確信があった。
携帯電話を持っているのに、アドレス帳に番号を書き写している和輝。まめな性格ではないので、理由がある筈だった。――これはあくまで霖雨の予想だが、和輝は携帯電話を重要視していない。そして、彼のことを良く知る幼馴染ならば、それも解っている筈だ。和輝が携帯電話を持たないまま消息を絶った時を、想定しているだろう。
電話の向こう、少しの沈黙を挟んで白崎匠が言った。
『其処から、遠く離れてはいないみたいですよ』
「何処ですか」
『今から住所を言うので、メモして下さいね』
台本を読み上げるように、白崎匠が言う。その場所を何故彼が知っているのか、霖雨には解らない。直前に連絡を取り合っていたのか、発信機でも付けていたのか。疑問には思うが、今はそれを訊く時ではない。
伝えられた住所は、繁華街の裏通りにあるビルの地下だった。光明が見えた気がして、霖雨は言った。
「ありがとうございます」
『いいえ。あいつのこと、頼みます』
短く伝えられた言葉には、鉛のような重い響きがあった。霖雨はそれを受け止めるように返事をする。
「当然です」
通話は終わっている。
霖雨は顔を上げ、駆け出した。
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