⑵戯歌
頼まれもしないのに、今朝も朝早くから和輝は病院へ出掛けて行った。
葵が入院してから三日間が経過している。間も無く大学院も夏季休暇に突入する為、霖雨はアルバイトのシフトをこれでもかと詰め込んでいた。ブラック企業に縁のある和輝に、夏季休暇なんて甘えたものが存在する筈も無い。霖雨は罪悪感から見舞いの交代を申し出たが、和輝は柔らかにそれを断った。
アルバイトを休んで見舞いに向かった和輝の為に、霖雨は彼の職場を覗くことにした。
駅前の喫茶店は、今日も繁盛しているらしい。あのヒーローがいる時に比べると聊か寂しいような気もしたが、正午を回らない時計を見れば、まだ賑わう時刻ではないのかも知れないと思い至った。ガラスの向こうで、店主が気付いて軽く会釈したので、霖雨もそれを返した。
このまま立ち去るのは印象に悪い気がして、霖雨は結局、ドアを潜った。
店主は仏頂面のまま、そっけなく一言だけ声を掛けた。霖雨は導かれるようにカウンター席に座り、絶品と謳われるドリップコーヒーを注文する。間も無く運ばれて来たそれに小さく感謝の言葉を告げ、そっと手を伸ばした。
「うちのチビは元気かい?」
「元気じゃない日なんて、ありませんよ」
「あれは、空元気だよ」
眉一つ動かさず、口髭を蓄えた店主が人形みたいに言った。霖雨は訳も無く「そうかも知れない」と肯定したくなった。
年の功は馬鹿に出来ない。付き合いは短くとも、何かを見通しているような気もする。
空元気なのか。何かあったのかも知れない。
霖雨は、自分が他人の言葉に影響を受け易い性質であると自覚している。それでも、言われてみるとそんな気もしてしまう。
「何かあったのかい?」
「いえ、あいつは本当に元気なんですが」
「じゃあ、身近な誰かに何かがあったんだろう」
人と接する機会が多い為なのか、店主が千里眼でも持っているように見通している。霖雨はコーヒーカップへ口を付け、言葉の先を曖昧に濁した。
口の中に広がる芳醇な豆の香りに、吐く必要も無い溜息が漏れた。
人間嘘発見器と呼ばれる和輝に、嘘は通用しない。だが、霖雨には彼の嘘が看破出来ない。信頼と実績を積み重ねて来たヒーロー像が、陽炎のように揺らいだ気がして、霖雨は口を開いていた。
「流石に、良い目をお持ちですね。俺には、あいつが嘘を吐いていても見抜けない」
和輝だけではなくて、葵も同様だ。同じ屋根の下で暮らしている彼等のことを、霖雨は何も知らない。
干渉されることを嫌う葵は兎も角として、単純を絵に描いたような和輝の思惑すら看破出来ないことに、霖雨はひっそりと落ち込んだ。店主はグラスをクロスで拭いながら、皺の刻み込まれた瞳を細めた。
「嘘吐きには二種類存在する。慢性的に嘘を吐くか、必要な嘘しか吐かないか」
「必要な嘘?」
「恐らく、あのチビは後者だろう。あいつが嘘を吐いているとしたら、必ず理由がある筈だ。隠し事は君に対する不信ではないよ。それはきっと、あいつなりの信頼なのだろう」
信頼しているから、嘘を吐く?
霖雨にはよく解らない。
涼やかにドアのベルが鳴った。見ればそれは金属製の風鈴だった。母国では、エアコン等という文明の利器が存在しなかった頃、聴覚や視覚で涼を取っていたという。風鈴に垂らされた帯には、毛筆のやたら力強い文字で『夏』と記されていた。達筆ではないが、見ていて気持ちの良い豪快さだ。
来客と殆ど同じタイミングで、店のバックヤードから従業員が顔を覗かせた。賑わう時間帯に差し掛かったのかも知れない。冷やかしに来た訳では無いので、霖雨はカウンターへ紙幣を一枚置いて席を立った。
店の外は、茹だるような熱波に襲われていた。霖雨は足元から昇る熱に汗を拭いながら、大学院へ戻った。
退屈な講義を上の空で聞き流し、貴重な授業料をふいにしながら霖雨は病院へと赴いていた。辺りは金色の光に包まれ、何処か非現実的だった。携帯電話に連絡は無い。目の見えない葵は別として、和輝からは一報あっても構わないのではないかと嘆く。
葵の病状の深刻さから考えると、入院する病院は規模が小さい。回復の見込みが無いから、大学病院を紹介されなかったのかと悲観的に思った。霖雨は沈黙を守っていた携帯電話を取り出して、和輝に向けて電話を掛けた。
数回のコールの後、向こうで応答があった。見舞いに行った筈の和輝が電話に出ることが、既に不可解だ。けれど、小さな通話機器の向こうで確かな質量を持って和輝は言った。
『今、葵のところにはいないんだ』
「何処にいるんだ?」
『ちょっと、野暮用。葵のこと、頼んだぞ』
そんなことを言って、和輝は早々に電話を切った。
霖雨は、置いて行かれた迷子のような気持ちになる。通話を終えた携帯電話の電源を落とし、霖雨は病院の入り口を潜った。
葵のいる病室には、真っ赤な夕陽が差し込んでいた。部屋中が茜色に包まれ、このまま溶けてしまうような気さえした。茜色に染まったベッドで、上半身を起こしたままの葵が顔を向けた。両目は相変わらず、厚く包帯で巻かれている。
「何の用だよ」
霖雨が何も言わなくても、入室した時点で葵はその正体を察したらしい。
心眼というものがあるのなら、彼には視力等必要無いのかも知れない。目の前にいる葵からは失明に対する焦りや絶望を微塵も感じないので、霖雨は呑気に酷いことを思う。
傍に置かれたパイプ椅子は無人だった。霖雨は其処へ、静かに腰を下ろした。
「調子は如何だい」
「経過良好ならば、既に退院している」
皮肉を言ったつもりは無いけれど、葵にばっさりと言い捨てられる。流石に不謹慎だったかと霖雨は内心で反省した。
葵は表情を読ませない淡白な口調で言った。
「退屈で死にそうだ」
「ラジオでも流せば」
「ラジオは嫌いだ」
「じゃあ、音楽でも聞けば」
「音楽鑑賞は趣味じゃない。飽くまで読書のBGMだ」
提案する傍から否定されるので、霖雨は呆れた。
確かに、両目の視力を奪われた葵には退屈な日々なのだろう。普段は本の虫なので、手持無沙汰な様子は何か物足りなくて、からかう気も起きない。尤も、笑える状況でないのは事実だった。
「和輝は如何した?」
「朝に顔を出して、延々と一人で喋り倒したと思ったら、いきなり出掛けて行った」
「なんだ、そりゃ」
見舞いは任せろと言わんばかりに意気込んで行ったのに、無責任も甚だしいじゃないか。
不満に口を尖らせると、葵は囁くように言った。
「解り易いからな」
その意見には概ね同感だが、脈絡の無い会話に霖雨は首を傾げるばかりだった。
磁石の対極みたいに解り難い葵は、相変わらず感情を伺わせない無表情だった。人間嘘発見器と呼ばれる和輝には、自身のことを開示しない葵がどのように見えているのだろう。何時か、彼の親友だという青年が言っていた。和輝は巧みに嘘を吐くけれど、思考回路が単純なので解り易い。行動の予測が容易い馬鹿な男だった。
誰かが窮地に陥れば、自身の危険も顧みず助けに行く。周囲の人間に危険が及ばぬように嘘を吐くことはあっても、脅威が迫ればどういう行動に出るのかは火を見るよりも明らかだった。きっと、彼は全てを背負い通して消えるのだろう。そういう愚直なところが、親しみ易い彼の長所だと霖雨は思う。
「独善なんだよ」
侮蔑するように、嘆くように葵が言う。霖雨は肯定した。
「人間らしくて良いじゃないか。未だ、二十一歳だぞ。青くて、甘っちょろくて、年相応で可愛いじゃないか」
「行動が常軌を逸している。普通の人間がブレーキを踏むところで、アクセルを全開にするような人間だぞ。一般的には危険人物だ」
「そのアクセルが救いになる人間だって、いるさ」
葵が、息を吐き出すように笑った。
こんな風に、葵と穏やかな会話を交わすのも珍しい。
失明の危機が迫っているとは思えない。それが良いことなのか霖雨は解らないが、何処か安らかな葵が嬉しかった。
何時もアンテナを張り巡らせるみたいに、全身で周囲を警戒している葵だ。それが、視力を失った結果、壁を取っ払って、全てを丸投げするように無防備なのが意外だった。
空元気と称した喫茶店の店主が、霖雨の脳裏に過った。――ああ、確かに、そうだったのかも知れない。
此処のところ、和輝は何かがおかしい。勝てる筈が無いと解っているのに、葵の口喧嘩を買ってみたり、自分が頼まれた癖に少女の案内を丸投げしてみたり。何かが彼を急き立てているような気がした。
「医学が全てを救えるのなら、人は神になど祈らない」
切れ味の良いナイフでばっさりと切り落とすみたいに、葵が言った。
医療に従事する和輝に、聞かせて遣りたかった。ヒーローと呼ばれる彼が、実は不可能を幾つも抱える人間であることを霖雨は知っている。――あの猟奇的な連続殺人事件が、和輝に影響を与えているのかも知れない。
和輝に非が無くとも、John=Smithという男は彼をきっかけに連続殺人を犯した。結果として、何人もの子ども達の尊い命が奪われた。それでも、和輝は被害者だけでなく、殺人鬼すら救いたいと願ったのだ。
葵は、まるで他人事みたいに言う。
「病魔に侵された人間は、医者を妄信するという。其処にしか救いが無いと、自分に同情しているからな」
「でも、目に見えないものを信じろというのは、到底無理な話だと思わないか」
「人は、信じたいものしか信じない」
確証バイアスだ。
霖雨は思った。
葵は、視力を失っているのが嘘のような余裕を滲ませて、高らかに言った。
「あの馬鹿を見張って置くと言い」
「何故?」
「後悔したくないなら」
何を後悔するというのだろうか。否、誰が後悔するというのだろう。
追及の言葉は、霖雨の喉の奥で霧散した。
13.春一番
(2)戯歌
午後十時を回っても、和輝からの連絡は無かった。何かの騒動に巻き込まれているのかも知れない。問題解決能力は折り紙付きだが、気掛かりだった。
見舞いを終え、細々とした用を済ませている間に時刻はすっかり遅くなってしまった。この計画性の無さが、トラブルメーカーたる由縁なのかも知れない。霖雨は自嘲する。
無人だろうと予想して帰宅すると、リビングに明かりが点いていた。
「何だ、起きていたのか」
霖雨が言うと、ソファに深く腰掛けていた和輝が口の端に苦笑を浮かべた。「おかえり」と穏やかな顔を取り繕ったのが、霖雨にはよく解った。
色男が台無しだなと、大きな双眸の下に薄っすらと隈を浮かべる和輝を見て笑う。
挨拶を返してソファに掛けると、和輝は読み掛けの本を脇へ遣った。電源の落とされたテレビのディスプレイに、並んで座る自分達の姿が映っていたので滑稽だった。
苦笑いを浮かべながら、和輝が言う。
「ちょっと、眠れなくて」
「それこそ、鬼の霍乱だよ」
悪戯っぽく霖雨は笑った。和輝はゆるりと肩を落とした。
テーブルに置いたマグカップを手に取り、和輝がことりと首を傾げる。年相応とは呼び難い幼さの滲む動作だった。マグカップにはコーヒーが半分程注がれ、既に冷めているようだった。嘗めるように啜る和輝に、霖雨は問い掛ける。
「葵のことが、心配かい?」
「うん」
「大丈夫って、言っていたじゃないか」
「うん――」
馬鹿だねえ。
霖雨は言って、さらりと頭を撫でた。柔らかな質感が指先に馴染んだ。
猫のように目を細めている和輝の両目が、急激に微睡んでいく。ふと目を向けた先に無数の医学書が積み上げられていたので、彼の眼の下に浮かぶ隈の理由を理解する。どれもこれも眼病に関するものだった。解り易い奴だ。
「大丈夫だなんて、自分に言い聞かせていただけだろう」
「うん」
「俺も葵も、始めから解っていたさ」
受容するように言うと、和輝は眩しそうに目を細めた。されるがままになっている和輝は、一言だって弱音を零しはしない。そういうところがいじらしく思えて、霖雨の中には彼を突き放すなんて選択肢すら存在していない。
「ここのところ、お前、変だったもんな」
「変だった?」
「うん。何て言うか、――空回っていたように思うよ」
批判的な色を孕ませず、霖雨は指摘した。
これは受け売りなのだろうか。自分が判断したことなのだろうか。霖雨には、もう解らない。
「葵に向かって、食って掛かっていただろう。口で勝てる筈が無いのに」
「悪かったね」
「俺だって、葵と論争したら言い負かされるよ。和輝が勝てる筈無いじゃないか」
それもそうだな。
和輝は言った。
銀行強盗に遭遇した霖雨を救出した後、和輝は葵と言い争いをしていた。否、葵にとっては言い争ったという感覚も無いかも知れない。和輝が一方的に突っ掛かって、言い返せなくていじけていただけだ。それを空回ると言うのだろう。
「葵の土俵に上がったお前が悪い」
「うん」
「それでも、譲れない理由があったんだろう?」
和輝の瞳が、酷く優しい色を帯びて揺れる。
風前の灯にも、闇夜の灯にも似ている。
和輝は降参を示すように肩を竦めた。和輝が曖昧に濁したので、霖雨は許容するように言った。
「もう、寝ろ。何も考えないで、ただ眠ることだけに集中すると良い。前に言っただろう。何も出来なくて良いって。俺達は、お前に何かをして欲しいとは思わない」
「うん」
だらりと項垂れる和輝の肩を、霖雨は優しく励ますように撫でた。
微睡んだ和輝の両目に、微かな膜が張ったような気がした。瞬きと同時に消え失せたそれは、霖雨の妄想なのかも知れない。
雨は泣く事の出来ない誰かの為に降り注ぐ。その涙の雨で、虹が架かったら良いね。
何時か、和輝の言っていたことを思い出して、霖雨の方が泣きたくなる。天を仰ぐ和輝が、何故か許しを乞う罪人のように見えたので、そのすべての罪を許して遣りたくなる。
急激に目頭に熱が集まって来たので、霖雨は誤魔化すように鼻を啜った。
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