⑸確証バイアス

 心の声なんて聞こえなくても、恐怖や悲哀に満ちたこの緊張感は肌で感じ取ることが出来る。


 酷い異臭の漂う下水道を抜けると、葵の言う通り銀行の地下と繋がっていた。扉には当然鍵が掛かっていたので、和輝は針金クリップを伸ばして解錠した。古いタイプの鍵だったので、然程時間は掛からなかった。


 臭気が衣服に染み込んでいるような気がして嗅いでみるが、既に嗅覚は麻痺しているので解らない。和輝は地下室を抜け、息を殺して階段を上る。空調やら配管から電工版が埃を被っている。古い白熱灯が細やかに室内を照らしているが、その構造を考えると、和輝は火災が心配になった。


 階段は如何やら、銀行の従業員専用のフロアに繋がっていたらしい。既に無人だったので、裏口から避難したのかも知れない。警察が此処まで侵入して来ていないことが気に掛った。突入の瞬間を待っているのだろうか。特殊部隊の到着を待っているとしたら、警察は端から犯人を射殺するつもりだ。


 和輝は唇を噛んだ。こんなところで死なせる為に、助けた訳じゃない。


 待合室に繋がる扉は鉄で出来ているが、鍵も掛かっていなかった。突発的な犯行の可能性が高いと聞いているから、シャッターが下ろされた時点で施錠にまで気が回らなかったのかも知れない。和輝は息を殺したまま、そっと扉を開けた。


 室内は息苦しくなる程の緊張に満ちている。カウンター手前には誰もいない。待合室では手足を拘束された銀行員と客が団子状に押し固められている。和輝は机の影に身を隠しながら、じりじりと犯人へ距離を詰めて行く。


 目的は捕縛ではなく、人質の救出だ。犯人はベンチに座り込み、項垂れている。眠っているのか、身動き一つしなかった。その隣で、倒れ込んでいる青年がいる。両手を後ろに拘束され、ネクタイで目隠しをされている。


 霖雨。

 咄嗟に呼び掛けそうになり、和輝は自分の口を押えた。


 間も無く特殊部隊が突入するのだろう。そうなれば、人質は助かっても、犯人は殺される。


 団子状に押し固まった人質の一人、銀行員だろう女性が此方を見た。目が合った瞬間、そのまま眼球が転げ落ちそうに見開かれ、声も無く救いを訴え掛ける。和輝は黙って頷いた。


 項垂れる犯人を見詰める。白髪の混じった男は、既に疲れ切った様子だった。唯一の武器である筈の拳銃は傍に投げ出されている。和輝は先程と同様に息を殺したまま人質の傍へ歩み寄り、彼等の拘束を解いてやる。口元に指を立てて無言を貫きながら、音を立てないようにして裏口へ逃がした。一人、また一人と細心の注意を払って逃がしてやる。犯人が何時銃口を向けて来ても良いように、臨戦態勢は解かない。


 霖雨を残した人質を解放したところで、和輝は立ち上がった。

 ベンチで項垂れ、人質が逃げ出したことにすら気付かない。眠っているのだろうか。


 動かない霖雨の傍へ歩み寄る。意識は無いようだった。蟀谷と頬に火傷があったので、使用した直後の銃口を押し当てられたか、銃弾が掠めたのかも知れない。男に気付かれないよう拳銃を遠ざけ、和輝は霖雨の拘束を解いた。


 両目を覆うネクタイを外してやると、閉ざされていた瞼が震えた。ゆっくりと現れた双眸に、和輝は詰めていた息を吐き出した。




「――和輝」

「うん。助けに来た」




 和輝が笑うと、霖雨は目を伏せた。


 様子はおかしいが、この場で追及するべきではない。和輝は霖雨をこの場から逃がそうと、裏口を指し示す。霖雨はそれに従って緩慢な動作で歩き出す。和輝は霖雨はそのままに、項垂れる男の前にしゃがみ込んだ。




「Hello」




 和輝が声を掛けると、男の肩がびくりと震えた。

 焦点の定まらない目が和輝を映した。瞬時に状況を思い出したらしい男は、慌てて傍らの拳銃へ手を伸ばす。けれど、其処にあった拳銃は既に和輝が片付けてしまった。


 動揺する男を落ち着けるように、和輝は優しく語り掛ける。




「俺のことを、覚えていますか。昨日、駅でお会いしたのですが」

「あ、ああ……。覚えているよ」




 力無い声で、男が言った。既に抵抗の意思も見えず、丸腰でベンチに座っている。

 無力感と絶望に打ちひしがれるその様は、いっそ哀れだと思った。和輝は同情の念を禁じ得ない。




「如何してこんなことを?」




 問い掛ければ、男は顔を伏せた。何か、已むに已まれぬ事情があるのかも知れない。

 それでも、人の命を脅かす行為に賛同することは出来ない。この男は、恐らく霖雨に銃口を向け、その命を奪おうとしたのだ。




「もう、御終いだ。私の人生は、御終いなんだよ……」

「如何して? 何が貴方に拳銃を握らせたのですか?」




 否定する風でも無く、和輝はただ問い掛ける。男は導かれるように口を開いていた。




「昨日、痴漢の疑いを掛けられたことを会社に知られて、今朝、解雇されたんだ……」

「それは酷い。貴方は冤罪だった。誰にも責められる謂れは無い」

「だが、信用を失ってしまえばもう御終いなんだ!」




 頭を抱え、男が嘆いた。和輝は隣に座り、その肩を撫でてやる。


 痴漢は冤罪で、男の無実はあの場所で晴れた筈だった。けれど、そうでは無かったのだろうか。救ったと思ったのに、取り零してしまったのだろうか。ラベリング理論が、和輝の脳裏を掠める。この男は社会不適合者というラベルを張られ、社会から追放されてしまったのかも知れない。


 何でもかんでも救える訳じゃない。


 葵は、何度も言っていた。そんなことは解っている。解っていても、納得出来ないから最後まで抗うんじゃないか。




「私の娘は難病で入院しているんだ。治療には金が掛かる。仕事を解雇されている場合じゃない。私には金が要るんだ……」




 譫言のように繰り返す男に、和輝が言った。




「だから、銀行を襲ったのですか? 拳銃を持って?」




 男が一瞬、息を詰めた。責めるような物言いは男の勘に障るかも知れない。


 それでも、和輝は撤回しようとは思わなかった。


 霖雨の蟀谷の火傷と、頬の擦り傷は、この男に負わされた傷だ。この事態を引き起こしたのが和輝ならば、その責任は取らなければならない。

 力無く、男が答えた。




「そうだ。僕が、殺したんだ……?」

「殺した?」

「そうだ。君の、友達だったんだろう?」




 男の言っている意味が解らず、和輝は眉を寄せた。遣り取りを聞いていたらしい霖雨が、出口付近で足を止めて此方を見ている。




「俺の友達、死んでいないけど?」

「何だって?」

「だって、ほら」




 和輝は、怪訝そうに此方を見る霖雨を指差した。男は顔を上げ、まるで、信じられないものを見るかのような顔をした。


 大方、霖雨へ向けて発砲して、それが着弾したと互いに思い込んだのだろう。霖雨は銃弾が掠めて昏倒し、男は昏倒した霖雨を殺してしまったと思い込んだのだ。


 此処に葵がいれば、溜息の一つでも零したかも知れない。




「大丈夫。霖雨は生きている。――貴方は、誰も殺していない」




 男の両手が、ぶるりと震えた。恐怖ではなく、安堵だ。




「何度だって遣り直せる。大丈夫。明けない夜は無いんだよ」




 行こう。

 和輝は男の手を引き、立ち上がった。

 間も無く特殊部隊が突入する。男は何らかの罪には問われるだろうけれど、その両手は汚れていない。


 この手を掴んだからには、例え自分が転落したとしても離さない。建物の向こうで特殊部隊が突入する準備をしているようだった。この様子も防犯カメラには映っているだろう。葵は見ているだろうか。


 どちらにせよ、勝手に介入した自分は何かしらの注意は受ける筈だ。和輝は平謝りする為、首を回し柔軟を始めた。











 12.虹

 (5)確証バイアス









 裏口から脱出した和輝と霖雨は、犯人の男を連れて警察の元へ投降した。


 野次馬やマスコミが騒ぎ立てる中で、被害者の振りをして逃げ出したが、顔見知りになっているFBI捜査官からは逃れられなかった。


 真っ当な被害者である霖雨は兎も角として、下水道を利用して侵入した和輝の手口は悪質だと言われた。手引きをした誰かがいるだろうと問われたが、和輝は答えなかった。


 男を警察に引き渡し、和輝は霖雨を連れて野次馬の群れから離れた。


 和輝は隣を歩く霖雨を見遣る。昏倒していたせいなのか、何となく元気が無いようだった。蟀谷の火傷は軽度のものだが、早く手当てをしてやりたかった。葵は何処にいるのだろう。


 ぐるりと視線を巡らせていると、陽炎みたいな空気の揺れの向こうで、葵が立っていた。




「葵」




 呼び掛けると、葵は片手を挙げて応えた。


 幽霊みたいな存在感で、葵は音も無く隣に並んだ。今にも泣き出しそうな空の下で、行き交う人は早足だった。傘を持ち合わせていない和輝も道を急ぐべきではあるけれど、生気の無い霖雨のことを思うと歩調は幾らでも緩めてやりたかった。


 葵は不機嫌な顔で、口を尖らせて言った。




「このトラブルの遭遇率は異常だな。お祓いでもした方が良いんじゃないか」

「葵がお祓いを信じているとは思わなかった」

「信じるものは救われるというからな。受け止め方次第で、物事は好転する可能性がある」




 霖雨は何も言わなかった。そういう時もあるだろう。

 和輝は霖雨に代わって、葵の相手をしてやる。




「あの男の人も、お祓いした方が良いかもね」

「不幸は連鎖するからな」

「そうかなあ。幸せは続かないなんていうけど、不幸だって続かないよ。禍福は糾える縄の如しって言うじゃないか」




 葵は冷ややかに目を細めた。




「不幸は続くんだよ。坂道を転がり落ちるように、何処まで行っても底が見えない。不幸は連鎖する。歯止めを掛ける間も無い。それが始まりだと気付いた時には、もう遅い。何もかも失って、転落すると解っていても逃げ道も無い。そういう状況を、不幸と呼ぶんだよ」




 語り掛けるような葵に、和輝は黙って頷いた。


 解るよ。

 俺は、出口の無いトンネルを歩いたことがある。

 その言葉を呑み込んで、和輝は笑って見せた。


 帰る家があって、迎えてくれる誰かがいる。明日を思い描きながら迎える毎日が幸せであると、振り返る時には既に過ぎ去っているものだ。




「人は、目の前にある幸福に気付けない。だから、失くしてから後悔する」




 葵の目は、何処か遠くを見ていた。此処ではない遠くを見る葵の目には、届かない過去が映っているようだった。


 この言葉は、答えを求めていない。まるで自分に言い聞かせるみたいだった。だからこそ、和輝は言い返さなければならなかった。




「後悔している間は、まだ希望があるんだよ。過去でも未来でも、縋る先があるなら、まだ間に合う」




 胡乱に前方だけを睨んでいた霖雨が目を向けた。

 和輝は此処で言葉を紡がなければならない。そういう焦りを感じていた。




「失ったものは戻らないと、決め付けていないかい? 何時か取り戻せる日が来るかも知れない。取り戻せなくても、自分を許せる日が来るかも知れない。だから、顔を上げるんだよ」




 顔を上げた先に光が無くても、進む先が泥濘だとしても、この手が何も掴まないとしても。




「失っても失っても、希望はある。だから、前を向いて生きていかなければならないんだよ」




 どうか、この言葉が届けと祈るように。

 和輝が言うと、葵は興味も無さそうにそっぽを向いていた。そして、目を背けたまま葵が言う。




「確証バイアスだな」

「何?」

「仮説や信念を検証する際に、それを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視、または集めようとしない傾向のことだ」




 人は、信じたいものしか信じない。

 葵が吐き捨てた。


 和輝は目を伏せ、逡巡する。自分に葵を論破することは出来ない。それでも、彼の作る境界線は断崖絶壁で、覚悟無く飛び越えることは出来ない。自分は葵を、救いたいのだ。手を掴んだからには、転落したって離す訳にはいかない。




「疑うよりも、信じた方がいいじゃないか」

「何故?」

「俺は否定されるよりも、肯定して欲しい。自分がされて嫌なことを、他人にはしないものだよ」

「烏滸がましい考え方だな。自分と他人が同一の価値観で生きていると思うのか?」

「相手の立場になることを、思い遣りと言う。他者と共生する社会では、相手を思い遣らなければ生きていけないんだよ」

「腹立たしい程のきれいごとだね。お前は思い遣っているつもりでも、他人にとっては余計なお世話だ。共生とは、価値観を同一とする小規模の集団が無数に存在し、並行的に成り立っている状態だ。互いに非干渉という暗黙の掟に従うことで、社会は成り立っている」

「人間全体が、その小規模な集団の中で生きているんじゃないかな。人は無関心を貫いているんじゃなくて、互いに支え合っている。そう信じたいじゃないか」

「自分の思考の正しさを証明する為に、他者の思考は塗り替えるのかい? テロリストのようだね」




 葵が鼻を鳴らして、嗤った。

 和輝が黙ると、漸く顔を上げた。




「話が飛躍している。何の喧嘩なんだよ」

「喧嘩じゃないよ」




 霖雨が言えば、和輝と葵は声を揃えて返した。

 其処で話が終わるのかと思えば、葵は無表情に続けた。




「譲れないものがあれば、手段を尽くすのは当然のことだ。争いとは、そうして戦火を広げて行く。こいつは性善説を謳い、世論では性悪説が罷り通る。世界共通で思想の自由が認められている訳では無い。お前は一般人にとって弾圧の対象だ」

「人は虐げられれば従うと思うのか? 人は打たれた分だけ強くなる。鉄が鍛えられ刃になるように」

「打たれた分、人は発条のように反発する。結果、命は軽んじられる」

「命か矜持か天秤に掛けて、どちらか一方を選べる人間ばかりじゃない。俺は此処で、戦争の是非を問いたい訳じゃないんだよ」

「俺はその御英断を拝聴したいね。……善悪で括れることばかりじゃない。天秤に掛けられることばかりじゃない。酷く曖昧で、理想論者の言い訳みたいだな」




 霖雨は溜息を吐いた。


 この二人に言わせれば、これは喧嘩ではないらしい。けれど、傍から見ている霖雨にとっては犬猿の仲、水と油を思わせる間柄に等しかった。


 不貞腐れたような顔をして、和輝が言った。




「諦めないからな」

「何時でも、どうぞ」



 珍しく苛立ちを露にして、和輝が足音を鳴らして歩いて行く。


 恭しく挨拶をした葵に背を向け、和輝は先へ行ってしまった。取り残された霖雨ばかりが、これは喧嘩じゃないと思いつつも、浮足立つ。


 居心地の悪さを感じていると、葵が言った。




「あいつは、優しいねえ」




 遠い目をする葵が、和輝を肯定するのは珍しい。


 和輝は優しい。そんなこと、初めから解っていることだ。優しさと甘さを履き違えない強い人間だ。けれど、異常な自己犠牲主義によって人を救おうとする。彼が何時か命を落とすことを、知っている。


 だから、葵は警鐘を鳴らすのだ。歯に衣を着せぬ物言いをするのも、否定的な発言をするのも、葵なりの優しさなのかも知れない。霖雨は、そんなことを思った。


 目隠しをされ、世界が漆黒に包まれた時、霖雨の耳は周囲の雑音を具に拾い上げた。悲哀、憤怒、憎悪、悔恨。全てが混ざり合って真っ黒い影になったみたいだった。きっとあれが、ヒーローの見ている世界なのだと思った。




「葵も、優しいよ」




 霖雨が言うと、葵は不思議そうな顔をした。


 家へ向かって走り出しているだろう和輝を思い浮かべる。彼はきっと、葵を救いたいのだ。他人の心の声が聞こえるという少女すら読み取れなかった葵を、闇の中から救い出したいのだ。そんなこと、解り切ったことだった。それでも、葵がその手を掴まない理由を霖雨は知らない。知る術も、最早存在しないのかも知れない。


 泣き出しそうな空を眺めながら、葵が思い出したように言う。




「虹は七色に見えるというが、実際は六色だ。国や時代が違えば価値観も異なる」

「それでも、俺はお前等が優しくて不器用な人間に見えるよ」




 葵は、何も言わなかった。


 そういえば、和輝の持って帰って来たケーキを未だ食べていない。


 午後の授業も既に終わっている時刻だ。偶にはこんな日も良いのだろう。

 霖雨は不貞腐れたヒーローに向けて、ケーキを切り分けて置くようにメッセージを送信した。

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