⑷行為と責任

 財布の中が寂しくなっていたので、霖雨は銀行へ向かっていた。


 浪費した覚えが無いので聊か疑問だったが、過去を振り返ると細々とした出費が重なっていた。

 定期的に貯金をしている口座から、当面の生活費を引き落とす。口座の数字が減ると、トカゲが自分の尻尾を切って飢えを凌いでいるようで惨めな気持ちになった。


 家賃・光熱費の支払いが間近だったので、多めに引き落とした。満たされた財布を覗くと、自分が強くなったかのような錯覚を起こして、無駄な出費をしてしまいそうな気がした。


 財布が潤ったところで、霖雨は早々に銀行から退去する。過去の経験から、金のあるところには脅威が潜むことを知っている。被虐趣味は無いので、無用なトラブルに巻き込まれたくはなかった。


 平日の午前中、閑散とした店内だ。穏やかな日々を重ねる利用客は、皆揃って退屈そうな顔をしている。若者は刺激を求めるけれど、何事も無い日々が恵まれている証拠だと知っている。霖雨は人々の顔を見渡して、こっそりと微笑んだ。


 今日の講義は午後からだった。あの意地の悪い教授に御高説を賜らなければならないと思うとうんざりするが、就活が迫っている霖雨は、極力単位を落とす訳にはいかなかった。


 霖雨が自動ドアを潜ろうとした時、時化た顔をした一人の男と擦れ違った。

 見覚えがあった。昨日、痴漢冤罪を被った男だった。


 世間は広いようで狭い。何と無く目を伏せて、霖雨は歩調を早める。そのまま横を通り抜けようとして――突然、腕を掴まれた。


 ぎょっとして振り向くより前に、蟀谷に冷たい何かが当てられた。そのまま首に腕を回され、霖雨は拘束されていた。




「Freeze!」




 男に首を拘束されたまま、霖雨は声を上げることも出来なかった。


 頭上で耳を塞ぎたくなるような破裂音が響いた。湯が沸くようにして人々は立ち上がり、顔色を変えた。真っ青になった女性が悲鳴を上げる。熱湯のような混乱が迸った。


 一瞬にして打ち崩された日常に、人々が怯え慌てふためく。


 ショーウインドーのような入り口は、何の予備動作も無くシャッターが落とされた。頭上から男の舌打ちが聞こえた。


 現実味を帯びない状況で、霖雨はカウンターまで引き摺られた。霖雨の蟀谷に銃口を突き付けたまま、男はカウンター越しの銀行員へ早口に捲し立てる。


 金を要求している。


 抵抗どころか悲鳴すら上げられないまま、霖雨は自分が人質となっていることを理解した。


 店長らしき壮年の男が、額に脂汗を滲ませながら対応する。銃を持った男は切り口上で金だけを要求していた。


 こいつが如何なっても良いのか。

 男の声を頭上で聞きながら、銀行員が取引に応じる理由も無いと、霖雨は諦念を抱いていた。


 シャッターの向こうでサイレンが聞こえる。NY市警のお出ましだ。男が悪態吐く。


 ボストンバッグをカウンターへ投げ出し、男が唇をぶるぶると震わせていた。覆面すらしていないのに、銃を所持しているのは、計画的犯行であるのか、否か。自分の命が懸かっているとは思えぬ茶番のような遣り取りだった。霖雨の思考は現実から乖離している。


 銀行員は両手を上げて無抵抗を示しているが、警察への素早い通報と対応が、犯人を煽っている。威嚇の為の弾丸が天井へ撃ち放たれ、硝煙を滲ませる真っ黒い穴が空いた。


 犯人の指示に従い、銀行員はボストンバッグに札束を詰め込む。平日の昼間に大金が用意されているとは思えなかった。案の定、フィクションで見るよりも金額は明らかに少なかった。


 客はカウンターの前に集められ、団子状に固められた。全員で飛び掛かれば、一発逆転も有り得るのに、と霖雨は卑屈になる。


 群れから離れた迷子みたいに、霖雨だけが銃口を押し付けられて脅迫材料に祭り上げられている。霖雨を助けようと、その身を危険に晒す者がいる筈も無い。


 自分は、何時もそうだった。貧乏籤を引き易い。磁石みたいに不幸を自ら引き寄せてしまう。


 シャッターの向こうから、交渉人が投降を呼び掛けている。冷静なその声もBGMに過ぎないようで、男は最早、耳を傾けようともしない。


 ライオンに囲まれた人間が、猟銃を手放すだろうか。

 霖雨はそんなことを思う。


 男は首にぶら下げていたネクタイを片手で外した。拘束に使うものと思っていると、ネクタイは蛇の如く霖雨の頭部へ巻き付いた。視界は漆黒に包まれた。


 興奮した男の声、銀行員の怯え、客の動揺。空気が震え、霖雨の鼓膜を揺らす。


 ふとした瞬間に、霖雨の思考は過去へ回帰しそうになる。フラッシュバックだ。幼少時の凄惨な記憶が、まるで昨日のことのように瞼の裏に蘇る。


 手首を何かで拘束され、待合室のベンチだろう場所に座らされる。視界を奪われた霖雨には、全て予測でしかない。


 銀行員と男の遣り取りが遠くで聞こえる。けれど、蟀谷には火を噴いた銃口が添えられている。弾丸を撃ち放った銃口が突き付けられている為なのか、焼けるように熱かった。

 頬を伝った冷や汗が、首筋を滑る。


 Oh,my God.

 そんな声が何処かで聞こえる。息も絶え絶えな呻き声だった。


 誰かの声が反響し、頭の中に木霊する。恐怖、悲哀、虚無。縋るような祈りの言葉が聞こえる。真っ暗な世界で、霖雨は自分が独り取り残されているような孤独感に陥った。身体が自分の意思を裏切って恐怖に震え、喉は渇き声一つ出ない。


 銃口が何処にあるのか、自分が存在しているのか、霖雨は疑心暗鬼に囚われる。世界がぐるりと一転したような気がした。このまま奈落の底まで転がり落ちてしまうのではないかと思った。




「Help me」




 声がした。小さな子どもの声だった。

 少女のような気がする。保護者の傍で、命を脅かす悪意に怯えている。それが救いの言葉であるように、取り憑かれたように何度も何度も繰り返す。




「Is there someone to help me」




 少女の声なのか、霖雨の独白なのか判別が付かない。


 誰か助けてくれ。


 祈りなのか、嘆きなのか。恐怖に震える声が何処かから絶えず聞こえている。闇の中で聞こえる声はきっと、誰かの魂の叫びだった。姿形の見えない神への祈り、生命を脅かす者への憤怒、恐怖。人々の感情が闇の中で重なって歪んでいく。霖雨は、人の心が聞こえる少女を思い起こしていた。


 目を閉じても見えるもの、耳を塞いでも聞こえるもの。――気が狂いそうだった。


 視界は覆われていても、耳は開いている。より鮮明に音を拾い上げ、霖雨は頭を掻き毟りたいような衝動に駆られた。けれど、その両手も拘束されている。


 誰か助けて。

 誰か助けて。

 誰か助けて。

 武器を捨てろ。

 投降しろ。

 大人しくしろ。

 金を出せ。

 バッグを寄越せ。

 こいつが如何なっても良いのか。

 誰か助けて。

 誰か助けて。

 誰か助けて。





「――Shut up!」




 霖雨は叫んでいた。途端、室内は水を打ったように静かになった。


 蟀谷に銃口が押し当てられ、撃鉄を起こす気配がした。










 12.虹

 (4)行為と責任










「お前、人の嘘が解るって言っていただろう」




 吐き捨てるように、葵が言った。和輝は自分よりも上にある胡乱な眼差しを受け、困ったように眉を寄せる。


 駅前は野次馬で溢れている。銀行強盗が立て籠もっているらしい。和輝が懇意にしている警察関係者に呼び出されたのは、事件発生から一時間程経った後だった。


 霖雨が人質に取られていると聞いた時は、何かの冗談かと思った。不運な男ではあるが、まさか此処まで犯罪に巻き込まれ易いとは思わなかったのだ。


 野次馬の群れから離れ、葵は路上で煙草を吸っている。和輝は緊迫する状況で、交渉人の遣り取りを遠くで聞くしかない。


 葵の文句を受け止め、和輝は答える。




「嘘じゃなかったよ」

「じゃあ、あそこで銃を持って立て籠もっているのは誰だ」




 シャッターの下ろされた銀行を指差し、葵が言った。


 昨日、痴漢で訴えられた男が、今日になって銀行強盗を引き起こしている。和輝には俄かに信じ難いが、目の前で起こっている事態から逃避したところで現実が変わる訳でも無い。和輝は弁解するように返す。




「俺は預言者じゃないからね、未来のことまでは解らないよ」

「お前があの男を逃がした結果が、この人命に関わる事件だとは思わないか?」

「そんなの、予測出来ないだろ」




 和輝としては、自分の行動に何の後悔も無い。けれど、葵が責めるような物言いをするので、反省する間も無く言い返していた。


 全ての物質の力学的状態と力を知ることが出来、尚且つ、それ等を解析出来るだけの知性が存在するならば、不確実なことは無くなり、未来も過去と同様に全て見通すことが出来る。フランスの数学者、Pierre=Simon Laplaceの言葉だ。葵が御丁寧に説明してくれたので、和輝は溜息を吐きたくなった。


 煙草の先から柔らかな煙が昇る。葵が言った。




「責任能力の有無を問うている」

「無い」

「無責任だな」

「責任は取るよ」




 和輝は屈伸した。


 銀行の状況を冷静に見渡す。拳銃を所持した単独犯で、突発的な犯行である可能性が高い。出入り口は銀行側の警備によってシャッターが下ろされている。周囲はNY市警によって包囲され、逃げ道は無い。


 野次馬犇めく界隈を突破する為に身を低くしたところで、葵に首根っこを掴まれた。




「馬鹿な真似は止めろ」

「お前が責任を取れって言ったんだろ」

「誰もそんなことは言っていない」




 呆れたように、葵は溜息を吐いた。


 和輝は、その双眸をじっと見詰める。呆れているが、突き放してはいない。其処に虚偽があれば、和輝には解る。如何してそう思うのか、和輝には解らない。人の本性を暴こうとは思わないが、和輝には昔から、人の嘘が判った。


 人の心なんて、覗くものじゃない。

 和輝はそう思っている。


 和輝は母国にいた頃、硬式野球をしていた。団体競技の代表格だ。チームプレーを謳われ、青春という明るい反面で、歪で後ろ暗い人間関係の闇が潜んでいることも知っている。期待を込めた応援の裏で、失墜を望む仲間の声を知っている。慰め励ます傍らで、不幸を嗤う様を見て来た。


 だから、和輝は思ったのだ。人を疑うことは容易い。自分は人を信じよう。――自分さえ信じていれば、裏切られたなんて思考に至る筈も無い。


 葵は煙草を踏み消し、吸い殻を拾った。携帯灰皿を取り出し、丁寧に片付ける。




「あの時、助けるべきじゃなかったかもな」




 葵がそんなことを言うので、和輝は問い掛けた。




「何で? 俺は、同じ場面に何百回立ち会っても、同じことをしたよ」

「そして、こうして銀行強盗が起こるんだな」

「その先は、俺が筋書を書くよ」




 引っ張られた襟元を正し、和輝は銀行を見据える。

 葵は眉を寄せ、大した自信だな、と侮蔑するように言った。


 その時、膠着状態にあった銀行から銃声が鳴り響いた。肩を跳ねさせ怯える野次馬の後ろで、和輝と葵は弾かれたように音の方向へ目を向ける。動揺の滲む周囲で、緊迫した空気が罅割れる。


 こんなところで、訳の解らない論争をしている時間は無い。

 顔付きを変えた和輝に、葵が口角を釣り上げて問い掛ける。




「それで、ヒーローとしては如何するんだ?」

「事態の収束は警察の仕事だろ。俺は知りたい」

「何を?」

「自分の行為と結果?」

「はいはい」




 目的を持って歩き出した和輝を追い掛け、葵は足を踏み出す。野次馬の中に隠れてしまいそうな低身長のヒーローと、存在感の希薄な透明人間だ。二人はするりと姿を消した。


 騒ぎの中心では、鬼気迫る形相で交渉人が会話を試みている。傍で聞く様子では、店内で何か動きがあったようだ。


 同居人の無事を祈りながら、和輝は遣り取りに耳を澄ませる。警察からの一方的な語り掛けだけで、犯人からの声は何一つ聞こえない。これで三発の銃弾が放たれた。威嚇射撃を三発も行う理由は無い。犯人にとっても不測の事態が起こり、止むを得ず発砲したのかも知れない。和輝はそんなことを思った。




「状況が解らない」

「警察も同じ気持ちだろ」




 葵が言った。シャッターが下ろされ、店内の様子は伺えない。

 遠くで、突入部隊を乗せた大型車両が走って来るのが見えた。強行突破まで時間が無い。和輝は拳を握った。




「時間が無いな。中の状況を見ることって出来ないかな」

「一般人なので、無理です」

「一般人じゃないから、平気平気」




 からりと笑えば、葵が盛大に溜息を吐いた。

 タブレットを操作した葵が、ディスプレイを突き付ける。荒い画像には、何処かの待合室の様子が映っていた。




「銀行の待合室に設置されている監視カメラ映像だな。警察が見ているのを、ハッキングした」

「葵は、戦隊ヒーローで言うならブルーだな」

「何のことだ?」

「俺は赤が良い」




 霖雨は、ピンクかな。

 和輝はぽつりと呟いて、画面を凝視する。待合室には、銀行員のいるカウンターも映っていた。

 数人の利用客はカウンター前に団子状に押し固められている。ベンチに一人、誰かが倒れている。


 霖雨だった。両手を後ろに拘束され、ネクタイで目隠しをされている。


 趣味が悪い、と葵が言った。

 意味はよく解らなかったが、銀行強盗が良い趣味とも思えなかったので、和輝は黙って頷いた。そんなことよりも、ベンチに倒れたまま身動きをしない霖雨のことが気に掛る。周囲に血液が飛び散った形跡も見られないので、先程聞こえたのは威嚇射撃だったのだろうかと和輝は判断に悩む。それとも、カメラには見えないだけで誰かが狙撃されたのだろうか。




「突破しよう」




 殺傷能力の高い銃器を所持している犯人は、何か不測の事態にあって興奮している。更なる銃弾が放たれる可能性は高い。

 和輝が言うと、葵はうんざりした顔を隠しもせずタブレットを鞄の中に押し込んだ。




「警察の包囲網を潜って、シャッターの下ろされた銀行を突破するのか? 特殊部隊に任せて置けよ」

「何となくなんだけど」




 和輝は顔を上げ、銀行を見詰めた。沈黙を続ける建物は、外敵を拒むようにシャッターが下ろされ、警察すら容易に介入出来ない状態になっている。籠城を決め込んだ犯人の顔が、和輝の脳裏に浮かぶ。


 冴えない男だった。痴漢の容疑を掛けられて、冷静な弁解も出来ず、感情のままに口を開いて状況を悪化させていた。手の平を返した女達に文句の一つも言わず、ただただ頭を下げて退去した男。




「あの人、悪い人じゃないような気がするんだ」

「ふうん」




 興味も無さそうに相槌を打って、葵は踵を返した。和輝は黙ってその後を追った。


 人込みから離れた路地裏で、葵は足を止めた。人々の喧騒が遠くで聞こえている。薄暗い路地裏は湿っぽく、壁は不潔感を漂わす落書きでびっしりと埋められている。壁を伝う何かの配管を視線で追い掛けつつ、和輝も倣って足を止める。


 振り返った葵は、その場にしゃがみ込んだ。足元には丸い鉄の蓋があった。




「下水道?」

「二十六年前に区画整理が行われ、下水道と銀行の地下は地図上で衝突している。新しい地図には、下水道は迂回したように描かれているが、余分な空間を切り開く程の予算は無かった筈だ」

「じゃあ、下水道と銀行の地下が繋がっている可能性があるってことだね」

「そう。――じゃあ、行ってらっしゃい」




 ひらりと葵が手を振った。和輝は笑顔を返し、重いマンホールの蓋を開けた。


 鼻を突く異臭が吹き上がり、和輝は咄嗟に口元を覆った。葵は臭気の届かぬ場所まで避難し、壁に寄り掛かって此方を見下ろしている。


 錆びた足場がコンクリートの壁に突き刺さっている。和輝は静かに足を下ろした。




「行って来ます」




 アスファルトを掴んだ手を放し、和輝は下水道の底へ飛び降りた。

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