⑶涙雨

 無関係の筈の少女の介入で、騒動は確実に悪化している。


 被害者らしき女性達を、男は口汚く罵り始めた。金切り声で言い返す女と、さめざめと泣く女。誰もが自分の主張は正しいと訴えている。裁判官の役目を任された駅員は辟易した様子で、繰り返し男を説得して示談へ持ち込もうとしている。


 けれど、他人の頭の中の声が聞こえるという少女は、被害女性へ疑問を呈す。




「何なんだ、一体……」




 霖雨は頭を抱え、蹲った。

 子どもの喧嘩みたいに言い争う集団は、枠の外から見れば滑稽だ。


 葵は、その様を無表情に見ながら言う。




「どんな崇高な目的があっても、幾ら正当な理由があっても、争いなんてものは結局、個人の意地の張り合いになるんだ」




 達観した物言いに、霖雨は頭を掻き毟る。


 今も世界の何処かで起こる戦争も、きっとそうなのだろう。現実逃避を始めた霖雨は思考の端でそんなことを思った。


 事態は悪化し、既に収集が付かなくなっている。兎に角、誰か一人でも冷静になって欲しい。戦争が意地の張り合いに帰結するのなら、それを押し留めるのは、きっと理性だけだ。霖雨には、その手立てが無い。葵は他人事と割り切っているから、まるで喜劇を見ているかのように、口元を愉悦に歪めている。


 介抱していた女が、突然ぐるりと霖雨へ振り向いた。厳密には、その後ろに隠れる少女を睨んでいる。




「大体、あんたが意味の解らないことを言うから――」




 飛び火した。否、これは飛び火なのだろうか。飛んで火に入る夏の虫という奴ではないか。


 霖雨は、自分の背後にすっかり隠れてしまった少女に代わって弁明する。彼等に落ち着いて欲しいと願いながら、霖雨自身、彼等の混乱に呑み込まれそうだった。野次馬も増え、まるで何か大きな事件でも起こったかのような事態だった。


 愉しそうに笑っていた葵は、この遣り取りに飽きたらしい。退屈そうな口ぶりで、言った。




「この状況を打開する方法が一つあるぞ」




 彼等には、葵が突然現れたかのように見えただろう。信じられないものを見るように目を丸め、技を披露する手品師の如く振舞う葵を凝視する。


 その時、改札の向こうから声がした。




「おーい、何やってんだ?」




 我らがヒーローが、大きく手を振っていた。


 駅員の立つ改札窓口を颯爽と抜け、和輝が遣って来る。彼を迎え入れるように野次馬は道を作った。まるでモーセの海割りだった。


 あっという間に騒ぎの中心まで遣って来た和輝は、小首を傾げて微笑んだ。




「ほら、ちゃんとケーキ、持って来てやったぞ」




 白い箱を掲げ、和輝が言った。

 張り詰めていた緊張の糸が、瞬時に緩んで行くのが解る。興奮していた演者達は、突然現れた小さな青年に目を向け、感嘆の息を漏らしながら理性を取り戻して行く。




「デウス・エクス・マキナだ」




 箱を受け取った葵が、皮肉っぽく言った。霖雨も概ね同感だった。

 呑気屋の彼にも、何か良くない事態であることは解るらしい。和輝は駅員へ向けて問い掛ける。




「お久しぶりです。如何したんですか?」




 知り合いだったらしい。そういえば、少し前まで和輝は駅で車両整備士の見習いとして就業していたのだった。


 駅員は、知り合いが現れたことで、それが光明だというように事の次第を告げた。無関係の第三者、それも一般人へ助けを求めるのは如何なものだろうか。だが、一瞬にして混乱を収めた青年に縋りたい気持ちは霖雨にも痛い程解る。


 和輝は「ふうん」と呑気に相槌を打ちながら、それぞれの顔を見遣る。

 堪え切れなかったように、男が訴えた。




「私は何もしていない! 其処の女が出鱈目を言っているんだ!」




 堪らず女も言い返す。




「私はこの子が痴漢されているところを見たのよ! 犯人の顔だって解っているわ! 其処の男よ!」




 そうでしょう、と涙を流す被害女性へ問い掛ける。

 駅員が額を押さえ、溜息を零す。和輝は、女性の顔をじっと見詰めた。真ん丸の瞳は、天上から下界を見下ろすかのように映っている。和輝は無表情のままに言った。




「冤罪じゃないかな」




 ぴしりと、空気が凍り付いたような気がした。


 葵が喉を鳴らすような乾いた笑いを漏らしながら、悠々と凍結する様を見て嗤っている。幽霊のような存在感を大いに発揮してこの状況を楽しんでいるのだ。中々の冷血漢だろう。


 膠着した状況で、欠片も動揺すること無く和輝は続ける。




「本当に痴漢されているところを見たんですか? 犯人はこの人でしたか? ――痴漢なんて、いたんですか?」




 畳み掛けるようにして、和輝が問い掛ける。一切の迷いを打ち消した真っ直ぐな眼差しだった。

 狼狽する女が何かを言うより早く、和輝は言った。




「俺には人の嘘が解る」




 ああ、そうだ。彼の親友も、そんなことを言っていた。

 和輝は、人間嘘発見器なのだ。それが理由で傷付いて来たことも、霖雨は聞いている。


 何時の間にか葵はタブレットを取り出して、それを突き付けた。外国語の羅列は眩暈がするけれど、見逃す訳にはいかなかった。




「あんた等、同じようなことを何回も遣ってるみたいじゃないか。虚偽申告って言うんだぜ」




 ディスプレイに表示されているのは、彼女達の被害に応じた多額の示談金の記録だった。

 数十件に上る被害の記録に、霖雨はうんざりする。その被害が事実ならば、公共機関の利用は見直すべきではないのだろうか。被害が事実であっても無くても、自衛すら行わなかった彼女等にも問題があるように思う。




「痴漢の虚偽申告で示談金を巻き上げるなんて、まるで当たり屋みたいだな。こういう犯罪は、如何したって男が不利になる。お前等は示談金を巻き上げて満足かも知れないが、男はそうもいかないんだぞ。長期拘留、社会的信用の喪失、多額の示談金……。社会復帰は困難だ。他人の人生に罅入れて、自分等はホストクラブで豪遊かい? 良い御身分じゃないか」




 知った口ぶりで葵が言う。その情報には確証が無い。


 痴漢冤罪で、容疑者が圧倒的に不利であることは事実だ。被害者は物的証拠を持たず、被害を受けたという申告をする。容疑者が悪魔の証明をしない限り、被害者の訴えのみで有罪が確定してしまうのだ。剰え、其処に目撃者がいたとなればもう冤罪は不可能だった。


 痴漢は女の敵だなんて言うけれど、痴漢冤罪は男の敵だ。自分の性別が後者である為か、霖雨は如何しても其方の立場になってしまう。


 どちらにも物的証拠は無い。機械仕掛けの神とやらは、この事態をどのように収集するのだろう。


 和輝は足音も無く女性の傍へ歩み寄る。性犯罪に巻き込まれたというのに、女達はその青年の相貌に見惚れている。和輝は、囁くように言った。




「どんなことも、退き時が肝心だ。貴方達がそれでも被害を訴えるというのなら、俺は反論材料を列挙して見せる。悪魔の証明でも何でも、遣ってやろうじゃないか」




 その目に揺らぐことの無い確かな意思が宿っている。徹底抗戦は彼の得意分野だ。恐らくきっと、その言葉の通りにどんな手段を講じたとしても証明して見せるのだろう。


 女は後退り、何かを耳打ちし合う。そして、ころりと掌を返した。


 被害の引き下げだ。納得行かないような顔付をしてはいるけれど、流石にこれ以上は分が悪いと踏んだのだろう。女は狡賢い生き物だ。終わったことは水に流すと、あくまで自分達は被害者であることを訴えながら、示談金を巻き上げる事無く、その場を早々に退出した。









 12.虹

 (3)涙雨









 ぽつりと、雨が落ちた。


 ああ、とうとう降って来たか。

 鉛色の雲を見上げながら、霖雨はプラットホームのベンチに背を預けた。


 和輝は、持ち帰ったケーキのお供にコーヒーを淹れる為、葵に引き摺られて行った。ホールケーキを持ち帰ったと言うから、きっと霖雨が帰宅すれば切り分けられたそれが提供されるのだろう。


 被疑者であった男性は涙ながらに頭を下げ、妻子が待つという家へ帰って行った。野次馬は蜘蛛の子を散らすようにして解散し、駅は普段の静けさを取り戻している。


 葵は、デウス・エクス・マキナだと言った。機械仕掛けの神が投じた一石に因って事態は収拾し、悲劇は喜劇として幕を閉じた。きっと、これ以上無いハッピーエンドだったのだろう。


 電車の到着を待つプラットホームは閑散としている。傍らには他人の頭の中の声が聞こえるという少女がいた。少女は何も言わず、ただ線路をぼんやりと見詰めているようだった。


 他人の頭の中の声。それを恐ろしいと思う人もいるのだろう。けれど、霖雨はただ静かに同情する。


 海の街で貧しく育った少女だ。母を失い、唯一の肉親である兄と慎ましく生きて来た。しかし、突然現れた使者によって生活は一変し、世界的な大会社の令嬢として祭り上げられたのだ。兄は御曹司として社会的地位を獲得したが、己の意地も矜持も殴り捨て、妹の生活を守る為に人身御供となった。人が変わったように忙殺される兄の心を試そうと、少女は狂言誘拐を謀った。


 他人の頭の中の声が聞こえるのなら、彼女には兄の本心だって解っていただろう。そんな奇妙な能力が無くとも、血の繋がった兄妹だ。何を疑うことがある?


 それでも、試さずにはいられなかったのか。霖雨は、そんなことを思った。

 少女が言った。




「お兄ちゃんは、ずっと必死だったから」




 霖雨の声にしなかった言葉が解ったのだろう。少女は囁くような小さな声で告げる。




「忙しい毎日に押し潰されて、自分も私も頭の中からどんどん消えて行きそうだった。私は地位も名誉もいらないから、ただ、あの街で静かに暮らしていきたかった」




 降り注ぐ雨に掻き消されそうな声だ。霖雨は細やかな相槌を打つ。




「栄えた街じゃなかったけど、住んでいる人は皆優しくて、正直だった。私は、それで良かった」




 霖雨は目を閉ざし、少女の声に耳を傾ける。


 他人の本心なんて、知るべきではない。例え、それが肉親であっても、誤魔化せない本音なんて解らなくて良い。


 もしも、其処に自分を否定する言葉の一つでも見付けてしまったら、何処にも逃げ場なんてものは無い。疑心暗鬼だなんて簡単に口に出来るけれど、それは本当は、想像する以上に恐ろしいことなのではないかと霖雨は思う。


 耳を塞いだって、彼等の声は聞こえてしまう。目を瞑ったって本音が透けてしまう。


 もしも。

 もしも、彼等――和輝と葵が、ほんの僅かでも自分を軽んじ否定する言葉を浮かべていたら、霖雨は其処にいられただろうか。


 葵は、口が悪い。相手を思い遣ることをしない。けれど、上っ面の媚び諂うような言葉をぶつけては来ない。彼は何時でも本心で接して来る。それが葵なりの、誠実さなのかも知れない。


 人の嘘が解ってしまうというヒーローに対する、葵なりの優しさなのかもしれない。


 突然、知らぬ世界へ放り込まれた少女には、下世話な他人の本音が聞こえたことだろう。そして、信じるものすら解らなくて、唯一の肉親の姿さえ見えなくなってしまった少女が、己の兄を試すような真似をしたところで、誰が責められるのだろうか。


 兄は妹の為に身を粉にして働いている。けれど、妹はそんなものを望んではいない。ただ、状況は二人の兄妹の願いを押し潰すように変わってしまった。




「貴方は、優しい人ね」




 少女が言った。霖雨は目を開け、其方を見た。

 貴方、と呼ばれて、名乗っていなかったことに気付く。そして、霖雨も少女の名前を知らなかった。




「俺の名前は、常盤霖雨って言うんだ」

「霖雨?」

「うん。霖雨っていうのは、雨の名前なんだよ。何日も降り続く雨のことだ」

「雨……」




 線路を見詰めていた少女は顔を上げ、鉛色の空から降り注ぐ滴を見詰めていた。日に焼けた少女の横顔が、それ以上に幼く見えた。自分の半分程しか生きていない少女を、霖雨は見遣った。


 素敵な名前ね。少女が微笑んだ。




「雨なんて名前だから、陰気な性格になったのかも知れない」




 冗談っぽく言えば、少女が息を逃がすように笑った。


 名が体を表すなんて言うくらいだから、性格にも多少影響はある筈だ。霖雨は、自分と同じく雨の名を持つ親友を思い出す。通り雨の名を持つ彼は、その名の如く激しい気性をしていた。


 現実逃避紛いのことを考えていれば、少女は慰めるように言った。




「雨なんて、素敵な名前だと思うよ」

「そうかな」




 それが社交辞令だとしても、霖雨は安堵する。


 ぽつりぽつりと降り注ぐ雨は、霖雨でも驟雨でもない。言うなれば、これは涙雨なのだろう。


 列車到着時刻はもう間も無くだ。少女はこの地を去り、また疑心暗鬼の世界へ戻っていく。見送りにすら来なかったヒーローを思い返し、薄情な奴だなと思った。何か一言くらい声を掛けて行ったって良いだろう。


 したり顔のヒーローが思い浮かんで、霖雨は苦笑した。口先だけで罵ってみても、如何したって憎めない。そういう勝手なところが、彼を人間足らしめているのだ。


 すると、その声が聞こえたらしく少女が言った。




「ヒーローのお兄ちゃんは、本当に格好良いね」

「ああ。あいつは最高に格好良い男だよ」




 きっと、どんな逆境も乗り越え、自身の糧に出来る。そういう人間だ。




「あの人、頭の中の声が全部口に出てるんだもん。私が先読みしても、全然気にしないんだよ?」

「そういう奴だよ。隠し事には、向かない性格だ」




 それを聞いて、安堵している自分は何なのだろう。解っていたことなのに、彼が正直に生きていてくれることが、こんなにも嬉しかった。


 和輝は嘘を見破ることが出来る。けれど、もしも彼が嘘を吐いていたとしても、霖雨にはそれが解らない。何を信じたら良いのかも解らないこの世界で、彼だけが質量を持って其処に存在しているような気がしていた。




「貴方が、羨ましいよ」




 少女が、言った。霖雨は目を瞬かせた。




「心の底から信じられる誰かが一人でもいれば、きっと救われる」




 その意味が、霖雨には解る。


 誰か一人でいい。

 心の底から信じられて、絶対に裏切らない、裏切れない人間がいれば、それだけで救われる。




「私にも、そんな友達が出来るかなあ」




 雨雲を見遣る少女の碧眼に、薄く水の膜が張っていた。けれど、その瞳から滴が零れることは無い。


 自分の為に意地も矜持も捨てて守ってくれる大切な肉親がいる。富も地位も持ち、多くの人が望むものを与えられ、それ以上に何を求めたら良いのだろう。虻蜂取らずというくらいだから、強欲は身を亡ぼすのだ。


 けれど、それでも願うことは止められない。他の誰が羨むものであっても、自分が望んだものでなければ満たされない。




「きっと、出来るさ」




 何の確証が無くても、願うことは止められない。


 少女の横で、同じく空を見上げている。ぽつりぽつりと降り注ぐ涙雨。雨は、泣けない誰かの代わりに降り注ぐという。ならば、きっとこの雨は彼女の為に降り注いでいるのではないだろうか。

 プラットホームへ電車が滑り込む。立ち上がった少女は、導かれるようにして車内へ向かった。霖雨も同じく立ち上がり、見送る為に傍まで歩いて行く。


 少女が思い出したように言った。




「ヒーローのお兄ちゃんと一緒に帰った人も、お友達?」

「そうだよ。性格は偏っているが、悪い奴じゃない」

「海に一緒に来ていたね。透明人間のお兄ちゃん」




 少女が、困ったように言った。つんと上を向いた睫の下で、碧眼が怯えるように震えている。




「透明人間のお兄ちゃんの頭の中で、沢山の声がしたよ。混ざり合っていて、何を言っているのか解らなかった。まるで、真っ黒い影みたいだった」

「――うん」




 葵が、自分の全てを開示していないことくらい、解っている。彼が抱えるものを全て理解出来るとも思っていない。


 言葉や感情として表出されないそれ等はきっと、葵の中に淀のように降り積もって行くのだろう。昇華されることも無く、誰かに打ち明けられることも無く。


 彼女には、葵の頭の中の声がどのように聞こえたのだろう。霖雨は自分に聞こえない声へ耳を澄ませるように、静かに瞬きをした。




「泣きたくても泣けない人間がいるんだよ」




 きっと、君と同じように。

 霖雨が呟くように言うと、振り向いた少女が微笑んだ。今にも消えてしまいそうに儚い微笑みだった。


 潤んだ瞳から、一筋の滴が落ちた。頬を伝った滴は顎へ到達し、音も無く落下し、消えて行った。まるで、其処には何も無かったかのように。


 泣くことすら出来ない人間がいる。霖雨は、透明人間とヒーローの二人を思い浮かべた。

 目の前の少女は如何だろう。彼女はきっと、泣けない人間ではない。彼女の涙を受け止めてくれる人がいる。




「泣ける時には泣いていた方が良い。いざ泣こうと思うと、泣けないことってあるからね」




 扉が閉じる。透明な硝子の向こう、涙を零した少女が、動き出す。霖雨はそれを、見送った。


 人々の去った後のプラットホームで、霖雨はその波から逃れるようにしてゆっくりと歩き出した。彼女の名前を、結局聞けなかった。そんなことをぼんやりと思う。


 彼女が涙を零したように、彼等も、思うように泣ける時が来たら良い。

 それを切に願った。


 改札を抜けると、安っぽい傘を差した和輝が待っていた。傍らには退屈そうな葵が、口を尖らせて立っている。


 迎えに来たって、彼等と一緒に帰ることは出来ないのだ。霖雨は駐輪場へ停めたままの愛車を思い浮かべる。レインコートが常備されている筈だった。


 けれど、和輝は霖雨を見付けると蕩けるように笑った。




「泣いたかい?」

「馬鹿なこと言うなよ」

「そっか。でも、何だか泣きたそうな顔をしているから」




 人の嘘が解るというヒーローは、困ったように言った。彼の前で隠し事は出来ないのだろう。隠さなければいけないことも、霖雨には無いけれど。


 葵は顔を上げ、降り注ぐ雨を見詰めている。

 傾いた傘から落ちた一粒の滴が、葵の頬を滑る。それが涙のように見えて、霖雨は胸が軋むように痛んだ。


 頭の中で沢山の声が混ざり合って、真っ黒い影のようだった。少女の言葉を思い出し、霖雨は悔しくなる。自分は、彼等の為に何をしてやれるのだろう。


 助けの手を求めない彼等を、如何したら救えるのだろう。


 和輝が言った。




「雨は泣けない誰かの代わりに降り注ぐんだよ」

「雨は大気中の水蒸気だ」

「風情が無いねえ」




 呆れたような顔で、和輝が言った。


 ふっと顔を上げ、太陽の拝めない空を見詰める。その目は何処か遠く、或いは戻れない過去を見ているようだった。




「――でも、その涙の雨で、虹が架かったら良いね」




 そんなことを言って和輝が微笑むので、霖雨は泣きそうになった。

 茶化す和輝を放逐しながら、霖雨は傘へ強引に割り込む。葵が文句を言うので、放って置いた。


 明日は晴れるといいなあ。部屋干しは嫌だなあ。和輝が言った。




「きっと晴れるよ」




 何の確証も無いけれど、霖雨は答えた。和輝が満足そうに笑ったので、霖雨はそれで良いと思った。


 それが良いと、思った。

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