⑵心の声
退屈な平日を終えると、約束の日曜はすぐにやって来た。
利用者の少ない田舎の駅で、霖雨は携帯で時間を確かめる。件の少女が遣って来るまで、あと五分少々。ただの子守のつもりだったので、霖雨は特に気負うことも無くのんびりと佇んでいた。電車が到着した気配がして、顔を上げる。改札の向こうから、金髪を靡かせた少女が現れた。
世界的に名を知られる貿易会社の御令嬢だ。霖雨は背筋を伸ばした。
狂言誘拐を行った少女とは思えない清楚な姿に、駅員がぽーっと見惚れている。上向きの長い睫に彩られた瞳は緑柱石のように煌めいていた。
少女は、霖雨を認めると安心したように微笑んだ。
「お久しぶりです」
「ああ。元気そうだね」
海の街で生まれ育った少女らしく、肌は浅黒く焼けている。ターコイズブルーのワンピースが風を孕んで揺れた。ノースリーブのそれは一目で高価な品だと解るけれど、よく似合っている。
「今日は宜しくお願いします」
丁寧な挨拶に、霖雨は面食らった。お願いされる謂れも無いのだ。
「聞いているとは思うけど、俺はただの代打なんだ。簡単な道案内くらいしか出来ないけど」
「ヒーローのお兄ちゃんから、頼まれて断れなかったんですよね。ごめんなさい」
「いや……」
謝られる謂れも無い。
霖雨は言った。
「俺は慣れているから、構わないよ」
「優しいですね」
「ヒーローが、魔法使いなだけだよ」
あのヒーローに頼まれると、断れないのだ。まるで、それが許し難い害悪であるかのように断りの言葉を失くしてしまう。
そんなことを言うと、少女がころころと笑った。可憐な少女だった。霖雨とて一人の成人男子だが、流石に中学生程の少女に対して恋愛感情を抱きはしない。
「今日は何処へ行くんだい?」
「喫茶店へ行きたいんです」
喫茶店くらい、あの海の街にもあるだろう。そんなことを考えながら、脳裏には和輝のアルバイト先が浮かんでいる。
すると、少女はそれを見透かしたように言った。
「その喫茶店です」
「いいよ」
顔に出ていただろうか。
霖雨は肯定を示し、踵を返す。
公共機関の利用は好きではないので、霖雨は近くの駐輪場へ止めた愛車の元へ向かう。少女が可愛らしいサンダルの踵を鳴らしながら追い掛ける。
駐輪場の利用者は少ない。擦られることが心配だったので、霖雨の愛車は駐輪場の奥に停めていた。滑らかなシルバーボディを見ると、何となく誇らしい気持ちになる。母国の友人と同じ車種だった。
ゆっくりとバイクを駐輪場から出し、霖雨はエンジンを掛ける。拍動するように唸るバイクの後部座席を示し、霖雨は少女へ乗車を促した。ワンピースを着ていたので少し心配したが、少女はひらりと其処へ座った。
バイクは弾丸のように車道へ飛び出した。母国とは違う乾いた空気が頬を撫でる。降り注ぐ日光を反射しながら、霖雨は件の喫茶店を目指した。尤も、彼女の目的を知っていたなら、最寄り駅で待ち合わせるべきだった。
和輝の勤務する喫茶店は、今日も繁盛しているらしい。駅前という好立地で、店主の淹れるコーヒーは絶品だった。一見すると寂れた喫茶店だが、足を踏み入れると年季の入った高級感のようなものを感じさせる。入り口を潜ると、扉に下げられていたベルが小さく鳴った。ふと見上げると、金属製の風鈴だった。
「Hi,can I help you?」
輝くような笑顔で、ヒーローが出迎えてくれた。
霖雨の来店に少しばかり驚いたようだったが、すぐに何事も無かったみたいに繕った。出来るウェイターみたいな身の熟しながら、制服らしい黒いエプロンが飯事のようで可笑しかった。
空席へ案内しながら、和輝が店主に何かを耳打ちする。
霖雨は促されたテーブル席で、端に置かれたメニューを開いた。少女へ見えるように提示しながら、覗き込む。
空腹を感じていた。この店のクラブハウスサンドが美味いことを知っているので、注文したいところだったが、少女に合わせるくらいの甲斐性は持ち合わせている。
冷水の入ったグラスを持って来た和輝が、注文を問う。席に着いてから未だ十数秒と経っていない。
「決まったら呼ぶよ」
「日が暮れる前には決めるんだぞ」
普段の優柔不断さを揶揄して、和輝が言った。余計なお世話だった。
改めてメニューに向き直ると、此方を見て少女が言った。
「私も、それが食べてみたいな」
「それって?」
「クラブハウスサンド」
口に出しただろうか。
霖雨は考えつつも、異論は無かったのでウェイターを呼んだ。すると、頼んでもいないアイスコーヒーを持って和輝が来た。
氷の入ったアイスコーヒーをコースターの上に並べ、和輝が注文を取る。真面目に働いていたことに驚くが、彼は中々に身辺騒がしいので、何処も長続きしない。
霖雨がクラブハウスサンドを注文すると、和輝はメモを取る。その時、少女が唐突に言った。
「――じゃあ、それもお願いします」
「食後?」
「はい」
二人の会話に、霖雨は驚いた。少女の指すものが何なのか、霖雨には解らない。けれど、会話は噛み合っている。
奇妙な心地だった。自分が聞き逃しているだけで、二人は何か話したのだろうか。
和輝は霖雨を見て、小首を傾げた。
「霖雨は?」
「何が?」
「今日はブルーベリーのタルトを焼いたんだ。美味く出来たから、如何?」
何時の間に、食後の話をしたのだろう。
和輝の作る料理は、デザートも含めて美味い。霖雨は甘いものが得意ではないので、少し躊躇った。すると、様子を察したらしい和輝がすかさず言った。
「砂糖は殆ど使ってないから、霖雨にもお勧めだけど」
「じゃあ、頼む」
「承りましたー」
冗談っぽく、和輝が言った。
先程の違和感は何だったのだろう。霖雨は眉を寄せる。カウンター越しに店主へ注文を伝えると、和輝は何故か戻って来て霖雨の隣に座った。
「お前、仕事中だろ」
「接客の一環です」
「いかがわしい店みたいな言い方をするなよ」
和輝が楽しそうに笑った。
霖雨の忠告を聞くこと無く、和輝は少女へ話し掛ける。
「この後は如何するの?」
「特に予定は無いの。――そんな子どもみたいなところは、好きじゃないわ」
「意外と楽しいよ」
「早く帰って来てって、釘を刺されているんでしょ?」
「そうなんだよ」
親しげな二人の会話に、ぼんやりと霖雨は耳を傾ける。
この二人の会話は、本当に噛み合っているのだろうか。霖雨は、まるで誰かと通話する二人の横で聞いている気分だった。狐に抓まれたような心地でいれば、和輝が説明した。
「タルトが美味く焼けたから、葵に写真を送ってやったんだよ。そうしたら、持って来いって言われたんだ」
嬉しそうな和輝を見ているのは、霖雨としても嬉しい。けれど、この二人の会話は何かがおかしい。何かが、足りない。
奇妙なものを感じていると、少女が訊いた。
「そんなに変だった?」
「顔に出ていた?」
「ううん。――聞こえたから」
何のことだ?
霖雨が問い掛けるより早く、席を立った和輝がカウンターへクラブハウスサンドを取りに行った。
大きな平皿に並べられたクラブハウスサンドは食欲をそそる。霖雨が疑問を呑み込み、それに手を伸ばそうとすると、和輝が言った。
「声が聞こえるらしいよ」
「声?」
「他人の頭の中の声が、この子には聞こえるらしいよ」
霖雨は、伸ばし掛けた手を引っ込めた。
12.虹
(2)心の声
和輝のバイトが夕方には終わるということだったので、霖雨は少女を連れて当て所無く街を彷徨うこととなった。
目的地が無いというのは気楽なようでいて、実際はかなりの重圧でもある。少女は不満なんて言わないし、霖雨とて責められる謂れは無いけれど、これでいいのだろうかと不安になる。
結局、駅前をぐるりと歩いて元の喫茶店へ戻って来た。少女は何も言わず、興味深げに周囲を観察しているようだった。霖雨は数時間でどっと疲れが背中に伸し掛かったような気がして、溜息を零した。
喫茶店は相変わらず繁盛しているらしい。和輝がウェイターとして活き活きと働いているのがガラスの向こうに見える。客達と笑顔で接している姿も様になっているので、彼は愛されているのだろうなと誇らしく思った。
ふと目を向けた先で、見間違いかと思う程に希薄な人影が見えた。霖雨はこの現象に慣れている。
「葵」
呼び掛ければ、幽霊のような青年が此方を見てうんざりと溜息を吐いた。
少女と連れ立っている姿を見て、何を不審に思ったのか葵が言った。
「買春は犯罪行為だぞ」
「なんてことを言うんだ」
本気で言っているのか、冗談なのか解らない。葵は真顔だった。
少女は葵を見ると、驚いたように目を丸め、すぐに反らした。葵も一瞥しただけで、声を掛けようとはしない。
霖雨としては、状況に困っているので葵の登場は有難かった。続かない会話も葵なら埋めてくれる。
「何でこんなところにいるんだよ」
「クソガキに用があっただけだ」
面倒臭そうに、葵は携帯電話を突き付けた。掌大のディスプレイには、流行の喫茶店で売っているような可愛らしいタルトが映っている。霖雨はそれに見覚えがあった。――というよりも、先程食べたばかりだった。
「さっき、いきなり写真を送り付けて来たんだよ。美味く出来たとか言ってるから、持って帰って来いって送ったんだ。そうしたら、取りに来いってさ」
「ああ、急いだ方がいいよ。かなり人気あるみたいだし」
「取って置けって言ったから、多分大丈夫」
酷い言い草だ。けれど、美味く出来たと自慢した方にも問題があると思う。
葵は件の喫茶店を覗き込み、目を細めた。
「繁盛してるな。呼び出そう」
電話を掛け始めた葵は、それが中々繋がらないのか苛立ったように貧乏揺すりをする。就業中で今も接客している和輝が、電話に出られる筈も無い。だが、葵は自分が優先だと、まるで王様みたいな物言いをする。
結局、葵は通話を諦めたようだった。忌々しそうに舌打ちし、胡乱な目が霖雨を捉える。
透明人間みたいな希薄な存在感は、今も周囲の人間には知覚されていない。まるで此処には誰もいないかのように、取るに足らない路傍の石であるように、誰も葵を振り返ることは無い。人に注目されて喜ぶ性分ではないだろうけれど、雑踏の中で消えてしまう葵に、何故だか悲しくなってしまう。
葵は、言った。
「俺の代わりに取って来てくれよ」
「うーん」
霖雨としては、そのくらいのことは構わなかった。ただ、自分の後ろに隠れてしまった少女が、まるで怯えるように葵をあからさまに避けるので、行動は躊躇われた。葵は、一切気にしていない。彼にとっては、この少女は正しく路傍の石に過ぎないのだろう。
その時、利用客も疎らな駅の構内から、女の金切り声が聞こえた。
弾かれるようにして霖雨はその方向を見た。通行人も何事かと足を止め、好奇の目を向ける。
改札の奥で、若い駅員が狼狽しているのが見えた。その正面には、顔を真っ赤にした壮年の男が何かを捲し立てている。少し離れたところで若い女性が、その友人だろう女に抱かれながらさめざめと涙を落としていた。
何が起こったのだろう。
介入する気は無いけれど、関心は惹かれてしまう。野次馬根性なんてものは皆無なので、霖雨は遠目に様子を窺うだけだ。必要以上のトラブルにはもう巻き込まれたくない。
「痴漢だって」
「あの男、開き直っちゃってるわよ」
「可哀想」
「大丈夫かな」
「警察を呼ぶんじゃない」
「関わりたくないなあ」
勝手なことを口々に囁く通行人は、耳を欹てながらも見ない振りをする。
関わりたくないのなら、言葉になんてしなければいいのに、と霖雨は気分が悪くなる。誰かを悪人に祭り上げ、それを糾弾することで周囲との一体感を深めているのだ。愚かな民衆だ。
霖雨は目を背け、正面で興味も無いように携帯を操作する葵に言った。
「もう少ししたら、バイトも上がりの時間だって言っていたぞ。店に入るのが面倒なら、待っていればいいじゃないか」
「待つのも面倒なんだよ」
自分勝手なことを言って、葵が鼻を鳴らす。
葵は甘党だ。訳の解らない罵倒を生産する彼の脳みそは、常人とは異なる容量で回転しているのだろう。偏食で小食の癖に、甘いものには目が無い。それを解っていて、和輝は彼を戸外へ引き摺り出す為に写真を送ったのかも知れない。
「最低!」
女が叫んだ。霖雨は、空気を震わす耳障りな声に片目を閉じた。
駅員が示談を勧めたらしい。男はそれを突っ撥ねる。女が怯え涙を流す。
霖雨は成人男性ながら、痴漢の被害に遭ったことが何度もある。被害を訴えたところで、同情は得られても不快な過去は消えないのだ。ならば、余計なトラブルに発展せぬように沈黙を守ることが、霖雨にとっては最良の判断だった。
被害者だなんてレッテル、霖雨には必要無かった。だが、沈黙は肯定と一緒だと、ヒーローは言った。
この恥晒しのような状況が最良だとは、如何しても霖雨には思えない。何事も無かったかのように繕ってしまえばいいのに、と霖雨は思った。
霖雨の後ろで、身を隠していた少女が囁くように言った。
「あの人、おかしいよ」
それが誰を指しているのか解らない霖雨は、後ろに隠れた少女に視線を送った。少女は、今も公害のような騒ぎの中心を見ている。
「泣いているのに、嗤っているもの」
何のことだろう。
霖雨には解らない。
けれど、察しの良い葵は何か勘付いたようだった。騒ぎを見遣る葵の目がすっと鋭くなる。
そのまま真っ直ぐに改札へ向かって歩き出したものだから、霖雨は驚いた。彼は悪戯に事態を引っ掻き回すことに喜びを感じる人間ではないと思っていた。極力関わらないようにする、その為の希薄な存在感なのだと思っていた。
自動改札に片手を突き、葵はアクション映画みたいにそれを乗り越えた。降り立った足音は構内に響いたけれど、それでも目を向ける者はいない。霖雨は慌てて後を追った。
流石に葵のような身の熟しは出来ないので、窓口で我関せずと無関係を装う駅員に声を掛けて入れて貰った。
葵は、何時の間にか騒ぎの傍で、裁判官のように腕を組んで話を聞いている。霖雨は人込みを押し退けて葵の元へ向かった。
其処で漸く彼等は驚き目を丸めた。
「何なんだ、君達は!」
駅員が声を荒げるが、彼等に葵は認知されていないらしかった。問い詰められたところで、霖雨にだって何なのか解らない。問題解決能力が無いのなら素通りしろと、葵は以前言っていた。これは素通りしなかった自分が悪いのだろうか。
答えられず、霖雨はしどろもどろに弁解しながら通行人の群れに紛れようとする。けれど、その時、少女が鋭く言った。
「如何して貴方は、喜んでいるの?」
少女は、涙を頬に張り付ける女に言った。
言葉の意味を正しく理解した者はいなかっただろう。ぴたりと時計すら動きを止めたような気がした。
女が唇を震わせながら言った。
「何のこと……?」
「だって、貴方、泣きながら『上手くいった』って思っているじゃない」
事情を知らない者ならば、疑問符を浮かべて当然だった。霖雨も、其方側に紛れたかった。
少女には人の頭の中の声が聞こえる。恐らくきっと、彼女には、被害女性の声が聞こえるのだ。それならば、その女の涙は偽りなのだろうか。頬を紅潮させて喚く壮年の男が真実だと?
霖雨には解らない。傍で聞いているだけの葵が、怪訝に眉を寄せている。興味はあっても、積極的に介入しようとは思わないらしかった。
男が声を上げた。
「濡れ衣だ!」
「まだ、そんなことを!」
間髪入れず、介抱する女が訴える。
霖雨は、彼等を極力刺激しないように注意しながら葵の傍へ向かった。葵は、存在感が無いのを良いことに腕を組んで遣り取りを堂々と見守っている。
「論理パズルみたいだな」
完全に他人事を決め込んだ葵が、呑気に言った。
お前が首を突っ込んだんだろう。
霖雨は、頭を抱えた。
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